クボタ純国産トラクタT15形の発売と、耕うん機から完成機体系への農業機械の組み替え
発動機の延長で足りるのか、完成機へ移すのか——農業基本法が開いた機械化需要への応え方
- 概要
- 1960年、久保田鉄工が15馬力の純国産トラクタT15形を発売し、耕うん機と農用発動機の延長にあった農業機械事業を、乗用トラクタ・バインダー・田植機という完成機の体系へ組み替えた経営判断。1961年の農業基本法と構造改善事業が押し上げた機械化需要を受け、1969年の宇都宮工場までに量産の体制を整えた。
- 背景
- 戦後の生産復興を支えたのは鋳鉄管と農用発動機であったが、鋳鉄管は上水道の公共投資に、発動機と耕うん機は農村の景気に収益を握られていた。耕うん機は1963年に全国の普及台数が200万台に達し、600万戸弱の農家に3戸あたり1台まで行き渡って、普及の一巡が見え始めていた。
- 内容
- 1960年に畑作用のT15形、1962年に水田用の15馬力機を出してトラクタの本格生産に入り、1966年秋に自動結束式三条刈バインダーHC75形、1968年に「ばらまき育苗」方式の土付苗田植機SP形を送り出した。全国約2,000軒の特約店の技術者に技術講習を課し、売った後の修理まで抱える体制も敷いた。
- 含意
- 1967年度に年間売上高が初めて1,000億円を超え、農業機械の出荷高は1969年度に700億円を突破した。直後の減反政策で耕うん機とバインダーの出荷は落ち込んだが、トラクタの需要は伸び続け、1974年には国内の注文に追われて米国からの引き合いを満たしきれない状態にあった。
飽和を認めながら台数を積み増した
1963年の耕うん機の普及台数は200万台、農家は600万戸弱で、3戸あたり1台まで行き渡っていた。この数字を需要の飽和と読めば、農業機械は縮小へ向かう部門でしかなかった。久保田鉄工が選んだのは、その普及台数と2,000軒の特約店網を土台に、乗用トラクタ・バインダー・田植機という別の製品体系を積み増す道であった。農業基本法と構造改善事業が乗用トラクタやコンバインの導入を押し上げると読めたことが、踏み切りを可能にしたとみられる。
ただ、開発の記録は失敗の連なりでもあった。刈倒形のHA形は集結束の労力で市場に受け入れられず、集束形のHB形は倒伏した稲を刈れずに終わっている。田植機に至るまでには明治以来の試作の蓄積が要り、量産の体制が整った1969年の翌年から農機需要は減反で縮んだ。完成機へ移した選択が最も大きく報われたのは、月産1万台を求めた国内の水田だけではなく、25〜30馬力機を欲した米国の需要であった。製品を替える判断の答えが、狙った市場の外で出ることもあるといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
鋳鉄管と発動機で果たした戦後復興
久保田鉄工の戦後の生産復興を支えたのは、発動機と鋳鉄管の二部門であった。農用発動機は戦時中に農機具統制会社の統制下で生産を絞られていたが、終戦後は食糧難と農地改革による自作農の創設が農村の購買力を押し上げ、需要が一気に戻った。1947年5月には堺工場の設備を活かして耕うん機の製造にも入っている。ただし当時の発動機は灌漑・脱穀・籾摺りといった定置作業に据えて使うもので、田畑を走る完成機はまだ少なかった[1][2]。
二本の柱は、いずれも他者の事情に収益を握られていた。鋳鉄管は上水道の敷設予算に連動し、農用発動機と耕うん機は農村の景気と米価に左右された。しかも耕うん機は1963年に全国の普及台数が200万台に達し、600万戸弱の農家に3戸あたり1台まで行き渡っていた。広慶太郎専務は、農業機械は普及台数が飽和点に達して今後の需要増加は望めないのではないかという質問をたびたび受けると、証券アナリスト向けの講演で明かしている[3][4]。
農業基本法が開いた機械化需要
もう一つの流れは政策の側から来た。1961年6月に農業基本法が制定され、翌年からは構造改善事業が始まる。大区画の圃場整備をはじめとする土地基盤整備に加え、乗用トラクタやコンバインなどの高性能農業機械の導入、ライスセンターや大型温室の建設が相次ぎ、農機産業は農業近代化の推進役として脚光を浴びた。社史はこの波を、業界再編や技術革新を含めて従来の事業パターンを大幅に変える契機とも記している[5]。
需要の側でも変化が観測されていた。1960年12月の『ダイヤモンド』は、技術革新の波が農村にも波及して農業を機械化しようとする意欲にきわめて強いものが感じられると書き、耕うん機の大手メーカーが増産体制をとってもなお注文に追いつけない様子を伝えている。農村人口の都市への流出が労働力不足を生んだことも重なり、広専務は年7〜10%程度の需要増は統計資料の分析から望めると述べていた[6][7]。
決断
手で押す耕うん機から、乗る耕うん機へ
久保田鉄工が純国産トラクタを世に出したのは1960年で、第一号は15馬力・畑作用のT15形であった。当時のトラクタは輸入品が占め、その大半は40馬力以上の大型機で、使用地は北海道に偏っていた。広専務は、大型機は日本の農業に合わず、もっと小型の乗る耕うん機的なトラクターが要望されていると語り、12馬力から27馬力の畑作用・水田用を手がけた理由をそこに置いた。1962年には水田用の15馬力機を出し、トラクタの本格生産に入った[8][9]。
製品を替える判断には、売った後の体制が伴った。農村では機械の操作や修理の知識が乏しく、アフターサービスが農村に機械を売る絶対条件になるとみて、全国約2,000軒の特約店の技術者を定期的に本社へ招き、技術講習を受けさせた。1966年に出した13馬力の小型軽量機は湿田性能が高く評価され、翌1967年には5,900台という当時としては画期的な量産台数を記録している。耕うん機の普及台数の40%、農用エンジンの50%を占めていた販売網が、そのまま完成機の受け皿になった[10][11]。
田植と刈取という最後の難所
稲作でもっとも労働力が集中し、機械化が望まれていた作業は田植と刈取であった。刈取機の研究は1950年代初頭にさかのぼる。1958年に刈倒形のHA形を完成させたものの刈り取り後の集結束に労力がかかって市場に受け入れられず、1961年の集束形HB形は農林省のパイロットファーム事業に導入指定を受けて550台を売ったが、倒伏した稲を刈る性能がなく失敗に終わっている。自動結束式三条刈バインダーHC75形の発売は1966年秋であった[12]。
田植機は明治期から発明家が挑んで実用に至らなかった機械で、苗の育成という栽培方式の研究と切り離せない難しさがあった。久保田鉄工は1963年から本格開発に入り、苗取りに問題の残る根洗苗方式ではなく、育苗箱を用いた「ばらまき育苗」による土付苗田植機に全力を投じて1968年にSP形を発売した。コンバインも1968年から自脱形の乗用機を相次いで開発し、1969年5月には宇都宮工場を新設して田植機とバインダーの量産体制を整えた[13][14]。
結果
農機が牽引する会社へ
体系が揃うと、数字が動いた。1967年度は4月期475億円、10月期549億円で年間売上高が初めて1,000億円を超え、広専務はこれを久保田鉄工にとって初めての記録と述べている。売上構成はパイプ部門37%、農業機械部門28%、鋳物部門と一般機械部門が各17〜18%で、農機の全国シェアは27%に達してトップメーカーの地位にあった。農業機械の出荷高は、バインダーの好調に支えられて1969年度に700億円を突破した[15][16]。
好調はすぐに折り返した。米の在庫が積み上がり、1969年と1970年の米価すえ置きに続いて1971年度から本格的な生産調整が始まると、農家は買い控えに転じる。耕うん機の全国出荷台数は1969年の37.8万台から1971年に26.8万台へ落ち、バインダーも1970年の31.4万台をピークに二年続けて減った。それでもトラクタの需要は伸び、1974年には月産7,000台でも足りず、国内の注文に追われて25〜30馬力機を求める米国の引き合いを満たしきれない状態にあった[17][18]。
- 久保田鉄工八十年の歩み(久保田鉄工株式会社編, 1970年)
- 証券アナリストジャーナル 1964年第2巻第5号「久保田鉄工の近況について」(広慶太郎)
- 証券アナリストジャーナル 1968年第6巻第3号「久保田鉄工の現状と将来」(広慶太郎)
- 証券アナリストジャーナル 1974年第12巻第10号「久保田鉄工」(廣慶太郎)
- ダイヤモンド 1960年12月5日号「発展期を迎えた農機具業界」
- クボタ 有価証券報告書【沿革】
- 久保田鉄工 会社年鑑(単独業績・1967年4月期)