国産初のガラス電極式pHメータ完成と計測器専業への転換
輸入品しかないpH計を、湿度の高い日本で使えるものにできるか
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- 概要
- 1950年、堀場無線研究所が国産初のガラス電極式pHメータを完成させ、輸入品に頼っていた酸・アルカリ度の測定器を国産で供給する道を開いた判断。断念した電解コンデンサ事業に代わる主力製品を得て、以後の計測器専業への転換点となった。
- 背景
- 当時のpHメータは高価な輸入品しかなく、湿度の高い日本では絶縁不良で精度が保てなかった。コンデンサ製造の工程管理で自作のpHメータを使っていた堀場雅夫氏は、その商品化に活路を求め、京都大学の研究陣と組んで国産化に挑んだ。
- 内容
- 軍放出のエーコン管を初段に用い、京大の協力を得てガラス電極と増幅器を改良し、1950年3月に国産初の実用形pHメータを完成させた。関東電化や東洋紡などへ第1号機を納入し、大阪の北浜製作所を代理店に工業用pH計の販売を広げた。
- 含意
- 液体を測るpHメータに続いて赤外線ガス分析計を第2の柱に据え、センサーは自社開発、周辺は外部に委ねる分業を確立した。この特化が1959年の日立製作所との対等な提携を呼び込み、計測専業として大手と伍する基盤を築いた。
一製品の国産化が決めた進路
この判断の意味は、断念した事業の穴を埋める代替品を得たことにとどまらない。輸入品しかなかったpH計を、湿度の高い日本で使えるものへ作り替えた技術が、その後の会社の進路を決めた。センサーは自社で開発し周辺は外部に委ねるという分業は、pHメータの開発でつかんだ手応えから生まれ、赤外線分析計へ、やがて自動車排ガス測定装置へと受け継がれていったとみることができる。
一つの製品の国産化が、赤外線分析計という第2の柱を呼び、大手電機との対等な提携を呼び込んだ。輸入代替という当時の課題が、独自の測定技術を磨く動機として働いた点にこの時期の特色がうかがえる。何を自社で持ち、何を外に委ねるかという線引きは、後年の連続買収による事業拡大に至るまで、堀場の経営に繰り返し現れる問いとなった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
輸入品しかなかったpH計
電解コンデンサの製造工程では、電解液のpHや導電率、水分を測るために自作のpHメータを使っていた。事業化を断念した堀場雅夫氏は、次にこのpHメータそのものの商品化に熱中した。当時のpHメータは輸入品しかなく、高価なうえに湿度の高い日本で使うには品質が満足のいくものではなかった。安定して精度のよい独自の製品を作れないか、という苦心が研究を後押しした[1]。
折しも1950年6月に始まった朝鮮動乱の特需で、化学工場をはじめ各種の工場が活発化し、酸とアルカリ度を測るpHメータの必要性が高まっていた。研究室で使う道具から、工場の製造現場で使う計器へと、pH計の用途が変わろうとしていた。断念した電解コンデンサ事業の穴を埋めなければならないという焦りも、開発を急がせた[2]。
京都大学の研究陣との共同開発
堀場無線研究所は京大研究所の延長のような場であり、堀場雅夫氏を中心に研究者たちがpHメータの国産化へ若い力を注いだ。軍放出のレーダーに使うエーコン管という高性能真空管を、pHメータの初段に用いる着想も雅夫氏によるものであった。京都大学工学研究所の太助教授と、三菱化成工業の岸本長彦氏という協力者にも恵まれた[3]。
ガラス電極の理論と技術は、京都大学岡田研究室からの導入であった。高湿度の日本では、ガラス電極と増幅器の電気絶縁性、ガラス電極の長寿命化、増幅器の安定化が最重点の課題となった。雅夫氏はみずから増幅器の研究に没頭し、梅雨期のような高湿度下でも絶縁性が劣化しないpHメータの完成に至った。電気・機械・物理・化学の知識を組み合わせなければ作れないセンサーの開発が、研究の中心にあった[4]。
決断
国産初のガラス電極pHメータ
1950年3月、協力者に恵まれ、日夜を継いだ研究が実って、国産初のガラス電極式pHメータが完成した。第1号機は「HORIBA RADIO LABORATORY」の頭文字を採ってRDの商標で販売した。この商標は株式会社設立から15周年にあたる1968年に新しい商標へ改まるまで使われた。第1号の納入先は関東電化の渋川工場、別府化学、東洋紡の大山工場などであった。雅夫氏はこの1号機を自ら納入するため夜行列車に乗り込んだ[5]。
完成した第1号機はN形と呼ばれ、起電力の差だけを見るものであった。その後の改良はめざましく、メータ直読形のM形、木箱式のH形と改良品が相次いで市場に出た。1951年には大阪の北浜製作所を販売代理店として本格的な販売を始めた。北浜製作所の青井捨三氏は関西に販売網を持つ理化学機器の専門商社の主で、商売を知らない雅夫氏はあらゆる面で師事した[6]。
工業用pH計への展開
1952年には工業用pH計へと機種を広げ、北浜製作所を通じた販売攻勢を強めた。工業用pH計は長時間の連続測定に耐える必要があり、電源や真空管、パッキングの改良が急がれた。堀場の工業用pH計はその技術の高さが評価され、初年度の販売額は月間100万円を超えた。研究室用から工業用へという市場の変化とともに、堀場無線研究所は経営体質の見直しを迫られていた[7]。
増幅器の絶縁性改良が進むと、pHメータは国産に限るという定評が広がり、外国製品はほとんど輸入されなくなった。合成化学肥料や合成繊維の工場が増えるなか、研究用・工業プロセス用のpHメータは化学・食品・合成繊維の各工業の発展とともに需要を伸ばした。輸入依存を国産で置き換えた製品が、研究所を企業へと押し上げる主力へ育っていった[8]。
結果
計測専業の確立と日立製作所との提携
pHメータで得た測定技術を土台に、堀場は液体分析に続く第2の柱として赤外線ガス分析計を育てた。赤外線用の合成単結晶を1955年から自製し、その単結晶を内蔵した赤外線分析計を1957年に販売した。液体や気体の中の物質を探し量るセンサーは自社で開発し、制御など周辺の部分は他社製を組み込むという分業で、独自性の高い製品を生み出した。プリズム用の単結晶を輸入に頼っていた日立製作所などへ、堀場は安価な国産単結晶を供給した[9]。
1959年、堀場雅夫氏は社外重役の強い反対を押し切って日立製作所との技術・業務提携を決断した。計測器以外の技術と販売を日立に委ね、本業の計測技術への研究投資に集中する狙いであった。中小企業が生き残る道は専門分野への特化にあるという分業論が、その根拠にあった。企業規模では比較にならない両社が、技術力では対等に交渉し、連名ブランドは「日立-堀場」に決まった。pHメータの国産化で確立した技術への特化が、大手電機との対等な提携を引き寄せた[10]。
- おもしろおかしく25年(堀場製作所, 1978年1月)