クボタクボタトラクターCorp.の設立と、水田向け小型トラクタによる北米・欧州市場への進出
減反で縮む国内をどう埋めるか——廣慶太郎社長が「既存路線を捨てる」と語った先の市場
- 概要
- 1972年9月、久保田鉄工が米国にクボタトラクターCorp.を設立し、日本の水田向けに作った25〜30馬力の小型・中型トラクタを北米へ持ち出した経営判断。廣慶太郎社長の主導で、1974年3月にはフランスにも販売会社を設けて西欧に広げ、輸出を軸とする国際戦略へ移った。
- 背景
- 米の過剰在庫を背景に1971年度から本格化した生産調整で農機需要が縮み、脱農機という言葉が出るほどの不振が業界を覆っていた。一方の輸出は1964年時点で売上高の4〜5%、1968年でも5%程度にとどまり、仕向地も東南アジアに限られる長年の弱点であった。
- 内容
- 米国で主に生産されていた60〜100馬力の大型機を避け、25〜30馬力の小型・中型機で参入した。増える注文に応えるため1975年8月にトラクタ専門の筑波工場を新設し、先進国には完成品を、発展途上国には現地法人と技術提携を組み合わせる売り分けを敷いた。
- 含意
- 1976年11月にニューヨーク証券取引所へ上場した。米国のトラクター事業は参入から30年を経て年間約9万台を売る大黒柱に育ち、2016年には畑作用の大型機M7でディアに挑む「オレンジ対グリーン」の競争へ踏み込んだ。小型で正面衝突を避けた進出が、後に正面の競争へ変わった。
事業を増やさずに市場を替えた
廣慶太郎社長は多角経営そのものに疑問を持っていた。高度成長期は何をやっても需要がついてきたが、低成長になればそれが重荷になるとして、張り過ぎた枝と茂り過ぎた葉は切らなくてはならないと語り、トップの一番大事な仕事は成長性を見きわめて切る時期の判断を誤らないことだとも述べている。そう考える社長が減反と石油危機に向き合って選んだのは、新しい事業を足すことではなく、水田向けに作った小型トラクタを別の国の別の用途に当てる道であった。
ただ、その道が最初から見えていたわけではない。輸出は1964年から10年にわたって売上高の5%前後に張り付き、仕向地は東南アジアに限られ、需要はあっても代金を払えない相手が多かった。それが動いたのは、25〜30馬力という馬力帯が米国では大型機の主流の外にあり、正面から競わずに入れたからだとみられる。ディアと同じ畑作用の大型機で競うまでには、さらに40年を要した。弱点だった輸出が大黒柱に変わる過程は、製品を替えずに市場を替えるという地味な積み上げでできていたといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
減反が突きつけた国内の頭打ち
1969年と1970年の米価すえ置きに続き、1971年度から本格的な米の生産調整が始まると、農家は農機の購買を控えた。農機業界には再編と整理の嵐が吹き、一部には脱農機という言葉さえ現れ、倒産するメーカーも出た。廣慶太郎社長は、この減反と米価抑制の政策によって1970年までは非常に苦しい思いをしたと、証券アナリスト向けの講演で率直に振り返っている。祖業の鋳鉄管が公共投資に握られていることも変わらなかった[1][2]。
それでも廣社長は農機を手放す考えを取らなかった。農業就業人口は1965年度の878万人・総就業人口の17.4%から1971年度には16%程度へ落ち、西ドイツやアメリカは既に10%を割っていた。日本も1970年代には10%を割り、末期には5%を割る可能性があるとみて、省力機械の需要はいっそう強まると読んだ。脱農機を考えず、むしろ成長産業としての在り方を考えていると講演で言い切っている[3]。
輸出は最大のウイーク・ポイントであった
海外へ出る素地は薄かった。1964年の講演で広慶太郎専務は、輸出を最大のウイーク・ポイントと呼び、実績は売上高の4〜5%程度で、少なくとも10%までは伸ばしたいと述べている。主力の輸出品である農業機械と鋳鉄管は性質上、仕向地が東南アジアに限られ、これら後進国には需要があっても金がないため、賠償や経済協力という形の輸出に限られていた。1968年時点でも輸出は売上高の5%程度で、目標の10%は遠かった[4][5]。
1973年秋の石油危機は、その足場をさらに揺らした。物価が上がり、公共料金も資材も値上がりする一方で販売価格は簡単に上げられない。廣社長は、朝鮮動乱以降の高度成長路線をここで修正しなければならないことだけは間違いないと語り、従来の路線や行き方に反省が求められているとしたうえで、石油危機はその意味では良いショックだったのかもしれないと述べた。既存路線を捨ててこそ危機を克服できるという言葉が、その年の誌面に残っている[6]。
決断
水田向け小型機を先進国へ持ち出す
1972年9月、久保田鉄工は米国にクボタトラクターCorp.を設立し、北米でのトラクタ販売の体制を整えた。持ち出したのは日本の水田と畑を想定して作った25〜30馬力の小型・中型機である。米国で主に生産されていたのは60〜100馬力の大型機で、廣社長は大型は北海道だけ、本土では11馬力から27〜30馬力、中心は16〜17馬力と述べて、今後もその馬力帯を伸ばす方針を示した。大型機の主流と競う位置には立たなかった[7][8]。
廣社長は、この転換を国内需要の穴埋めとしてはっきり語った。農業機械の将来の問題として海外進出を考えなくてはならないとし、既にアメリカが主要な市場で、アメリカとフランスに販売会社を持ち、フランスを中心に西欧諸国への基盤を固めたいと述べている。国内の需要の端境期を外国の需要でどうカバーするか、いつか来る国内需要の頭打ちをそこで吸収したいとして、本格的に国際戦略へ取り組む必要を認めた。1974年3月にはフランスに販売会社を設けている[9][10]。
供給の裏づけと、先進国・途上国の売り分け
決めたのは販路だけではなかった。1974年当時のトラクタは月産7,000台でも足りず、早急に月産1万台へ引き上げなくてはならない状態で、国内の需要に追われて外国の注文を満たせずにいた。そこでトラクタの専門工場を茨城の筑波に建てる計画を立て、1975年8月に農業用トラクタの専門量産工場として筑波工場を新設した。多角化を増やすのではなく、主力製品の生産能力を積む形で海外の需要に応えた[11][12]。
相手国によって出方も分けた。先進国向けなら完成品を持ち込んでも十分太刀打ちできるとみる一方、発展途上国では現地法人を作って現地の労働力を吸収し、技術提携を結んで部品供給から漸次現地生産へ移す道を採った。1974年時点で台湾・ブラジル・インドネシア・マレーシア・イランに工場を持ち、南ベトナムとビルマは技術提携、フィリピンは販売提携である。廣社長は対日感情への配慮にも触れ、合弁と技術提携によるギブ・アンド・テイクで進めたいと語った[13]。
結果
大黒柱になった米国のトラクター
進出から4年後の1976年11月、久保田鉄工はニューヨーク証券取引所に株式を上場した。米国での事業は伸び続け、2004年12月の日経産業新聞は、国内では公共事業に依存した鋼管関連などが伸び悩むのを尻目に米国のトラクター市場へ攻勢をかけていると書き、参入から30年を超えて年間約9万台を販売する米国のトラクター事業を文字通りの大黒柱と評している。輸出は売上高の5%という水準を遠く離れた[14][15]。
小型で避けた正面衝突は、40年を経て正面の競争に変わった。2016年、クボタは北米で畑作用の大型農機M7を投入し、緑色のトラクターで親しまれた米農機最大手のディアに挑む。オレンジ色に塗装した製品を売るクボタとディアの対決は、当時の紙面で「オレンジ対グリーン」の戦いと呼ばれた。国内の農機市場に不透明感が漂うからこそ緑の巨人に負けられないという言い方は、廣社長が減反のなかで海外へ出た理由をそのまま繰り返している[16]。
- 証券アナリストジャーナル 1964年第2巻第5号「久保田鉄工の近況について」(広慶太郎)
- 証券アナリストジャーナル 1968年第6巻第3号「久保田鉄工の現状と将来」(広慶太郎)
- 証券アナリストジャーナル 1972年第10巻第10号「久保田鉄工」(廣慶太郎)
- 証券アナリストジャーナル 1974年第12巻第10号「久保田鉄工」(廣慶太郎)
- 日経ビジネス 1974年3月4日号「広慶太郎久保田鉄工社長 既存路線捨ててこそ“危機”克服」
- 日経産業新聞 2004年12月9日「米トラクター市場攻めるクボタ」
- 日経産業新聞 2016年11月16日「クボタ、米に大型畑作農機」
- 久保田鉄工八十年の歩み(久保田鉄工株式会社編, 1970年)
- クボタ 有価証券報告書【沿革】
- 久保田鉄工 会社年鑑(単独業績・1972年4月期)