山之内製薬アイルランドへの生産拠点設置と、欧州の生産販売網の自前構築

技術を売って他社の販売網に載せるか、自社の名で売るか——欧州市場への出方

時期 1991年4月
意思決定者(推定) 森岡茂夫 山之内製薬 社長
論点 海外市場への出方と生産拠点
概要
1986年4月にアイルランドへ山之内アイルランドCo., Ltd.を設立し、1991年4月に欧州の生産販売網が完成したと報じられるまで、生産から販売までを自前で築いた経営判断。国内の製薬メーカーとして初の海外生産拠点にあたる。
背景
日本の製薬業は新薬の輸入販売と特許の導入で育ち、山之内製薬も米ロシュ社・西独ベーリンガー社との提携で新薬を出してきた。自社創製のガスターも欧米では技術輸出にとどまり、現地に自社の名は残らなかった。
内容
アイルランドに生産拠点を置き、欧州各国の販売までを含む網を5年かけて整えた。日経ビジネスは1991年4月8日号で「欧州の生産販売網が完成」「新薬テコに、攻勢強める」と報じている。
含意
1997年にはアイルランドでもガスターを生産し、主要5品目で年商1600億円を計上した。1998年には「海外展開では業界のパイオニア」と評され、国内の薬価引き下げで大手8社の国内売上が減った期に、輸出が増収を支えた。
筆者の見解

売る薬より先に、売る場所を用意した

ガスターを米メルク社へ渡したのと同じ時期に、山之内製薬はアイルランドに工場を建てている。売れる薬が一品しかない会社が、その一品を海外では他社に預けながら、欧州には自前の生産と販売を敷いた。順序としては、売り場のほうが品揃えより先に立っている。森岡茂夫社長が「国内だけでなく、海外でも、新薬を切れ目なく発売できるようにしたい」と述べたのは網の完成した翌年であり、売る仕組みを先に用意してから中身を埋める考え方であったとみることができる。

網がすぐに利益を生んだと示す数字は、手元に残っていない。完成を報じた1991年の記事は本文が失われ、当時どれだけの販売会社を置き、どれだけ売ったのかは辿れない。欧州で品目が並んだ確かな記録は、ガスターに続いてハルナールが進んだと書かれた1998年まで下る。アイルランドの設立からは12年である。国内の薬価が下がり、輸出だけが増収を支えた期にようやく効いた点を見れば、拠点を先に置く判断が報われるまでには、それだけの時間がかかったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

技術を買う側として結ばれてきた海外との関係

日本の製薬業は、薬種問屋から出た会社が海外の新薬を輸入して売り、特許を買って国産化するという経路をたどってきた。山之内製薬もその道筋の上にあり、1950年に米ロシュ社と提携してスルファ剤サイアジンを、1954年8月には西独ベーリンガー社と提携して抗生物質パラキシンを発売している。パラキシンは、米パークデヴィス社と組んだ三共のクロロマイセチンとの間で特許係争になった。海外との関係は、技術を買う側として、また相手の特許に縛られる側として結ばれていた[1][2]

1985年に自社で創製したH2ブロッカーのガスターを米メルク社へ技術輸出したときも、欧米で薬を売るのは相手の営業であり、山之内製薬の名は現地に残らなかった。収益の構造も一方に寄っていた。1989年の時点で、病院・開業医向けの医療用医薬品が売上の99%を占め、厚生省の認可手続きや臨床試験の進み方によって新薬の出る年と出ない年ができ、売上の振れが大きくなっていた。一品の当たり外れが会社全体の業績を左右する形であった[3][4]

決断

アイルランドに生産拠点を置く

1986年4月、山之内製薬はアイルランドに山之内アイルランドCo., Ltd.を設立した。有価証券報告書の沿革では、焼津工場・高萩工場・西根工場という国内の設備が並ぶ列に、この海外の一行が挟まっている。国内の製薬メーカーが海外に生産拠点を置いた例はこれが初めてで、週刊東洋経済はのちに「86年アイルランドに国内メーカー初の海外生産拠点を設立するなど、海外展開では業界のパイオニアだ」と書いている。ガスターを発売した翌年にあたる[5][6]

海外に自前の生産拠点を構えるのは、山之内製薬にとって二度目にあたる。日華事変のあと、奉天に満洲山之内製薬、上海に上海山之内製薬を設立して現地生産を始め、北京・マニラ・広東・シンガポール・台北には営業所を開設していた。ただし1955年に編まれた同社の記録では、戦後の記述が福岡支店・札幌支店の開設から始まり、外地の拠点は一つも現れない。40年余りを隔てて選ばれた先は、承認制度も医師の処方習慣も国ごとに異なる欧州であった[7]

導出ではなく、自社の名で売る網へ

1991年4月8日号の日経ビジネスは、「山之内製薬。欧州の生産販売網が完成 新薬テコに、攻勢強める[8]」という見出しを掲げている。アイルランドへの設立から5年で、生産と販売の両方を含む網が欧州に整ったと報じられ、次は新薬を軸に攻勢を強めると伝えられた。記事の本文は残っておらず、置いた販売会社の数も、売上の規模も辿れない。それでも、網が完成した時点が1991年4月であったこと、その先が新薬に置かれていたことは、この見出しから読み取れる。

何のための網であったかは、翌年の社長の言葉に表れている。森岡茂夫社長は1992年3月の日経産業新聞で「国内だけでなく、海外でも、新薬を切れ目なく発売できるようにしたい」と述べた。同じ紙面でガスターについては「いい薬だという自負はあったが、これほど育つとは思わなかった」とも語っている。一品がどこまで育つかは読み切れない。読み切れないからこそ、次の薬を続けて出せる売り場を先に持っておく必要があった、とみられる[9]

結果

アイルランドが作った主力品と、続いた新薬

アイルランドの拠点は、実際に主力品を作った。1997年4月の週刊東洋経済は「山之内製薬も発売年次こそ古いが、アイルランドでも生産する胃炎・潰瘍剤ガスターを中心に主要五品目で年商一六〇〇億円を計上」と書いている。同じ記事によれば、1996年3月期の一人当たり売上高は山之内製薬の7462万円が大手8社の首位で、最下位の田辺製薬3897万円のほぼ倍にあたる。一人当たり経常利益も1530万円で首位を占めた[10][11]

1998年1月、週刊東洋経済は同社を「海外展開では業界のパイオニア」と位置づけ、「抗潰瘍剤ガスターに続き、排尿障害改善剤ハルナールの欧州展開も順調に進んでいる」と伝えた。欧州で売る品目は、一つから二つへ移っている。森岡茂夫社長が1992年に語った「切れ目なく」が、欧州では品目の入れ替わりとして現れた。連結の売上高は1992年3月期の3575億円から1998年3月期の4774億円へ、経常利益は676億円から1004億円へ増えている[12][13]

国内の薬価が下がった期に効いた海外

この体制の意味は、1990年代の終わりに国内側の事情から鮮明になった。厚生省は4200億円にのぼる医療費削減策を進め、1998年4月にも薬価の大幅引き下げが予定されていた。1997年9月中間期の大手8社の総売上は1兆2690億円で、前年同期比189億円の増収であったが、内訳を見ると輸出が332億円増え、輸出を除いた国内は1997年4月の薬価改定が響いて減収であった。国内で減った分を、海外で埋めた半期であった[14]

同じ記事は「2000年までのスパンで考えると、海外でどれだけ売り上げを伸ばせるかが重要なファクターとなる」と述べ、海外販売に実績のある武田薬品工業・三共・山之内製薬の3社が「断然有利だ」と書いた。アイルランドへ工場を置いてから12年、欧州の網が完成してから7年が経っている。1986年の判断が薬価の引き下げまで見越したものであったかは、残された資料からは分からない。ただ、値段を国が決める国内市場の外側に売り場を持っていたことは、この時期の数字に表れている[15]

出典・参考
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「山之内製薬」
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「医薬品 概説」
  • アステラス製薬 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1985年12月19日号「特集・医薬品市場」
  • 日経産業新聞 1989年4月14日
  • 日経ビジネス 1991年4月8日号「山之内製薬。欧州の生産販売網が完成 新薬テコに、攻勢強める」
  • 日経産業新聞 1992年3月3日「医薬・バイオこれに賭ける」
  • 週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編すらできない今の医薬品業界 業界に合併ムードは漂うが」
  • 週刊東洋経済 1998年1月3日号「特集 2000年に勝つ会社、負ける会社/医薬品 海外販売で格差が鮮明化」
  • 山之内製薬 会社年鑑(連結業績)

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