藤沢薬品工業 の歴史

更新: Author:

創業 1894年
創業者 藤沢友吉
創業地 大阪市
創業
1894年1月、藤沢友吉が大阪・道修町2丁目に薬種商『藤沢友吉商店』を創業し、蜂蜜と蜜蝋、粗製樟脳を仕入れて商った。薬そのものではなく薬の材料を扱う店である。1899年に大阪・天満橋へ樟脳の精製工場を建てて自ら作る側へ移り、1904年に東京支店、翌年に天六工場を置いた。1930年12月、資本金315万円で株式会社藤沢友吉商店を設立する。創業から36年を経ての法人化だが、商号には薬種商の屋号がなお残った。これを藤沢薬品工業へ改めたのは1943年で、明治期から使ってきた富士山印を正式な社章に採ったのもこのときである。1949年に上場した。
決断
品目を広げるのをやめ、抗生物質1本の伸びに構成を委ねた。1961年3月期はビタミン剤・ホルモン剤28.7%、神経系薬剤23.6%、抗生物質・化学療法剤23.5%と薬効が散っていた。これを変えたのは1971年8月発売のセファメジンで、発売年度の37億円が1976年度には年商300億円を超える。主力の薬効を抗生物質と神経系へ絞り込み、1977年3月期には抗生物質40.9%と神経系25.7%の2区分で66.6%を占めた。分散を捨てる決断があったのではなく、一つの製品が10年で伸びた結果として構成のほうが寄った。1985年5月にはトイレ用芳香剤ピコレットなど家庭用品20品目をライオンへ譲渡し、医療用医薬品だけを見る会社になっている。
現況
藤沢薬品工業という会社は現在なく、製品と海外拠点だけが残った。海外の販売網は少額の出資から比率を上げる方式で作り、1988年にクリンゲファルマを74%まで、1990年に米ライフォメッドの買収手続きを終えてフジサワUSAを設けた。だが買収前にFDAへ出した承認申請データの虚偽が1991年12月に発覚し、生産と新規の承認申請が2年止まる。1998年3月には米国の後発医薬品事業を売却して新薬子会社へ集約した。2005年4月1日、山之内製薬を存続会社とする合併でアステラス製薬が発足し、法人格は消滅した。プログラフとプロトピックは統合後の主力として売られ続け、米国とドイツの拠点も従業員もそのまま引き継がれている。
競合
同じ道修町から出ながら、規模で武田薬品工業に並ぶことはできなかった。1977年3月期に経常利益191億円で武田の168億円を上回ったが、それは売上高経常利益率18.9%という一点の話で、売上高では武田を100として34.8にとどまる。2000年9月中間期の連結海外売上高比率36%は国内勢では高い水準にあった。それでも連結売上高は約3,000億円で国内7番手であり、米国で自前の販売が成り立ったのは、移植医だけを回れば足りるプログラフという特殊な薬だったからである。三共と第一製薬が持株会社の下で一つになったのと同じ年に、単独で規模を作る道は終わった。
藤沢薬品工業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1957年3月期1985年3月期

創業ストーリー 藤沢友吉商店 ── 道修町の薬種商から製薬会社へ、そして上場まで (1894年〜)

藤沢友吉商店 ── 道修町の薬種商から製薬会社へ、そして上場まで

蜂蜜と粗製樟脳から始まった道修町の薬種商

1894年1月、初代藤沢友吉は大阪・道修町2丁目に薬種商[1]『藤沢友吉商店』を開いた。扱ったのは蜂蜜と蜜蝋、それに粗製樟脳の仕入れと販売である[2]。道修町は江戸期に問屋仲間が特権的な地位を認められて以来の薬種問屋街で、武田・塩野義・田辺といった後の大手はいずれもこの町から出ている。『会社銀行八十年史』は『今日の代表的製薬会社たる武田、塩野義、田辺等の諸会社、東京本町、大阪道修町の二大市場の基礎はすでに、この時代から固められてきた』[引用元]と書いた。藤沢友吉商店の創業は、その系譜の末に連なる。

もっとも、薬種商であることと製薬会社であることは、当時まだ別だった。明治期の日本では本格的な製薬事業がほとんど起こらず、国内で作られていたのは薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ程度にとどまる。[3]実態を支えていたのは、輸入薬を仕入れて売る問屋の商いである。日露戦争後になって、輸入薬品を扱っていた武田長兵衛・田辺五兵衛・塩野義三郎[4]らが小工場で薬品を精製し、自家の商標をつけて売り始めた。商人が製薬業を兼ねる道が開いたのは、この時期にあたる。藤沢友吉商店が扱った蜂蜜・蜜蝋・粗製樟脳も、薬そのものではなく薬の材料である。出発点は製薬ではなく、あくまで薬種の商いだった。

藤沢の場合、その移行は1899年に始まる。粗製樟脳を仕入れて売るだけでなく自ら精製するため、大阪・天満橋4丁目に工場を建てた。[5]1904年には東京支店を置き、大阪・天神橋筋におよそ1万3000平方メートルの用地を取得して[6]、翌年に天六工場を完成させている。『会社銀行八十年史』は1904年の工場建設を『近代的メーカーとしての地歩を確立した』[引用元]転機と記した。なお『会社銀行八十年史』は、この工場の所在を大阪市北区浮田町と記す。樟脳は硝化綿とともにセルロイドの主原料でもあり、需要の裾野が広い品目だった。創業から10年で、販売の東京進出と生産設備の拡張が同時に進んだ。

第一次大戦の輸入途絶が生んだブルトーゼとサントニン

藤沢が自社品を持つきっかけは戦争だった。当時の日本の医薬品市場は、バディッシュ・バイエル・ヘキストといったドイツのIG組合[7]が押さえており、日本企業が技術を導入しようとしても国際的な独占組織に拒まれた。1914年に第一次大戦が始まってドイツからの輸入が止まると、医薬品は一斉に品不足に陥る。政府は1915年6月に『染料医薬品製造奨励法』を公布し[8]、条件を満たす会社に10年間、年8分の配当を保証すると約束した。国産化への圧力と補助が同時にかかった。もっとも、技術の壁は高い。日本企業が先進国から技術を導入しようとすれば国際的な独占組織に拒まれ、製品を作れてもダンピングにさらされる恐れが強かった。

藤沢もこの波のなかで新製剤の開発に向かい、1917年に補血強壮剤ブルトーゼを、1919年に回虫駆除剤サントニンを発売した[9]。『企業の歴史 明治百年』は『以後ブルトーゼとサントニンは藤沢を発展させる強力な武器となった』[引用元]と記す。1925年には海人草から有効成分を抽出する工業化に成功し[10]、回虫駆除剤マクニンを送り出している。輸入代替として始まった自社品が、以後の販売を支える柱になった。ブルトーゼは補血強壮剤、サントニンとマクニンは回虫駆除剤で、薬効は重なっていない。単品に依存せず複数の柱を並べる構えは、このときすでに現れている。

販路は国内にとどまらない。1921年には京城と上海へ支店・出張所[11]を設けている。1926年に大阪市東淀川区加島町で新工場の建設へ着手し、天六工場の手狭を解消する大阪工場が1930年5月に完成した。その落成の年に、懸案だった株式組織が実現する。1930年12月、資本金315万円で株式会社藤沢友吉商店を設立した[12]。加島町の工場は、以後この会社の本工場として動く。創業から36年を経ての法人化であり、個人商店の経営から近代会社の体裁へ移った。ただし商号は『藤沢友吉商店』のままで、薬種商の屋号をそのまま残している。

大陸の足場を失った敗戦と、社名の切り替え

1921年に置いた京城と上海の拠点が、その先行例にあたる。1938年以降、藤沢は満州・朝鮮・中国に関係会社を相次いで設立した。国内でも1943年から1944年にかけて、京都・三国・帝塚山・石切・信太山・尼ケ崎の各工場を合併・買収・増設している。[13]政府の大陸政策と医薬品の国産化運動が結びついた時期で、大陸へ出ること自体は当時の産業政策に沿った選択だった。大陸に置いた関係会社は現地生産と販売の拠点で、国内工場の増設と一体で動いている。資本金も1944年に333万5000円、次いで351万円[14]、385万円と刻むように増えている。

1943年、商号を藤沢薬品工業に変更した。明治期から登録商標として持っていた富士山印を、このとき正式な社章に採用している。[15]『企業の歴史 明治百年』は『富士山印は藤沢の藤に相通ずるものがあり、かつ世界的に有名な霊峰富士の如く薬品市場に君臨し伸展することを表徴したもの』[引用元]と説明する。商標そのものは明治期から使われており、社名の変更に社章の制定が続いた。薬種商の屋号を残した『藤沢友吉商店』から、製薬企業を名乗る『藤沢薬品工業』への切り替えであり、呼称を医家向け医薬中心という事業の実態に合わせるものだった。

敗戦は、その拡大の前提を一挙に消した。海外に持っていた足場をすべて失った同社は、1945年12月に600万円へ増資し[16]、残る国内地盤の強化へ切り替える。1946年に福岡支店、1947年に札幌支店と京都研究所を開設した。同じ1946年に特別経理会社の指定を受け、1948年には認可条件を実行して3600万円へ増資し、指定を離脱している[17]。京都研究所を戦後すぐに置いたのは、輸入にも大陸生産にも頼れないなかで自社開発に活路を求めたためであろう。大陸に依存した成長の道筋は断たれ、国内市場での再出発が始まった。

抗生物質で「盟主武田を抜く」 ── 品目分散から主力集中への転換

工場閉鎖と技術導入で組み直した戦後の製品構成

戦後の再出発は、規模の縮小から始まった。薬業界の不況に対処するため、藤沢は三国・石切・信太山・尼ケ崎の各工場を閉鎖して生産を集中し、1950年5月に機構改革を断行する。[18]戦中に買い集めた工場群を、数年で手放したことになる。当時の資金繰りは楽ではなく、1950年ごろは銀行の支援でようやく倒産を免れる状態にあったと、のちに早川三郎社長が語っている。[19]閉鎖したのは、1943年から1944年にかけて合併・買収・増設したばかりの工場である。戦中の拡大を、戦後に自ら巻き戻す作業だった。ここを底に、生産と販売は急速に回復した。

回復を後押ししたのは抗生物質だった。ペニシリンの製造には1948年ごろ82社が進出[20]して競い合い、1955年時点では約20社にまで減っている。1954年の抗生物質製剤の生産金額は128億円で、医薬品総生産額の17%を占めた[21]。ただし日本の製薬業が取った経路は、自前の創薬ではない。『会社銀行八十年史』は『海外からの新薬輸入販売、技術特許を買つての国産化』[引用元]と要約し、その結果として特許係争が絶えないことも指摘している。藤沢が山之内とともに西独ベーリンガー社と提携したパラキシンも[22]、三共のクロロマイセチンとの係争の当事者だった。

藤沢もこの経路を歩んだ。1953年2月に9000万円、同年12月に1億8000万円へ倍額増資[23]して設備を強化し、スイスのガイギー社との技術契約を正式に結んだ。提携品のロイマチス治療剤イルガピリンは1952年から発売しており、高級サルファ剤イルガフェンとともに主力に据えている。1955年にはスウェーデンのアストラ社との提携品キシロカインを発売した。一方で1954年には、自社開発の新抗生物質トリコマイシンを送り出している。[24]1955年3月期の売上高は11億円[25]だった。ガイギー、カルロ・エルバ、アストラと、提携先は欧州各社に及ぶ。導入品と自社品を並走させる構えが、この時期に固まった。

    • [18]1950年5月 三国・石切・信太山・尼ケ崎の各工場を閉鎖し機構改革を断行
    • [23]1953年2月に9000万円、同年12月に1億8000万円へ増資しガイギー社と技術契約を締結
    • [24]1954年 自社開発の新抗生物質トリコマイシンを開発、1955年にアストラ社提携品キシロカインを発売
    • [25]1955年3月期の売上高は11億円
  • 日経ビジネス 1977年11月7日号
    • [19]1950年ごろは銀行の支援で倒産を免れる状態にあったと早川三郎社長が後年語った
    • [20]ペニシリン製造に1948年ごろ82社が進出し、1955年時点で約20社に減少
    • [21]1954年の抗生物質製剤生産金額は128億円で医薬品総生産額の17%
    • [22]山之内・藤沢の西独ベーリンガー社提携品パラキシンが三共のクロロマイセチンと特許係争になった

1961年の売上構成が示す品目分散と、銀行が握った資本

1950年代後半から1960年代にかけて、藤沢は品目を広げた。1956年に三洋化学を吸収合併して名古屋工場とし[26]、1958年にはチオクト酸を日本で初めて治療薬として開発、1961年にこれとビタミンBを結合した新製剤ノイビタを創製する。[27]同じ1961年、食品の酸化防止剤エルビットの工業化に日本で初めて成功して非医薬品部門へ進出し、本社ビルも完成[28]した。エルビットは食品向けであり、医薬の外へ出た最初の製品だった。設備投資では1962年の総合製剤工場、1964年の中央研究所と中央倉庫、1966年の富士工場[29]が続く。

    • [26]1956年 三洋化学を吸収合併して名古屋工場とする
    • [27]1958年 チオクト酸を日本で初めて治療薬として開発、1961年にノイビタを創製
    • [28]1961年 エルビットの工業化に日本で初めて成功し非医薬品部門へ進出、本社ビル完成
    • [29]1962年 総合製剤工場、1964年 中央研究所と中央倉庫、1966年 富士工場

その姿は数字にも出ている。1961年3月期・半期の事業別売上をみると、ビタミン[30]剤・ホルモン剤が7億2612万円で28.7%、神経系薬剤が5億9649万円で23.6%、抗生物質・化学療法剤が5億9443万円で23.5%を占めた。この3区分だけで全体の4分の3を超える。残りは他社商品12.4%、自社製品その他5.7%、消化器系薬剤3.2%、循環器・呼吸器系薬剤2.9%と細かく分かれていた。特定の薬効に寄りかからない構成である。のちに主力となる抗生物質は、この時点ではまだ3番手で、全体の4分の1に届いていない。

  • 株式会社年鑑 昭和37年版
    • [30]1961年3月期・半期の事業別売上構成(ビタミン剤・ホルモン剤28.7%/神経系薬剤23.6%/抗生物質・化学療法剤23.5%/他社商品12.4%/自社製品その他5.7%/消化器系3.2%/循環器・呼吸器系2.9%)

1968年時点の年間売上高は220億円、利益は14億5000万円[31]で、5年前のおよそ3倍になった。販売高の6%以上を研究開発に投入し[32]、直近5年に発売した製品が売上に占める比率は常に40%以上を保っている。イルガピリン、キシロカイン、ケミセチン、トリコマイシンなど主要10品目群で全売上高の66%を占め、8割以上が医家向けだった。一方、資本の側は銀行が握る。1961年3月期の大株主は大和銀行5.5%、東海銀行5.0[33]%、安田信託銀行5.0%と並び、藤沢友吉は3.4%、内柴信吉が3.3%にとどまる。1975年3月期には三和銀行と東海銀行が各9.36[34]%、日本生命保険が7.91%を持ち、創業家は上位10位から外れた。

    • [31]1968年時点の年間売上高220億円・利益14億5000万円で5年前の約3倍
    • [32]販売高の6%以上を研究開発に投入、新製品比率は常に40%以上、主要品目群で全売上高の66%、8割以上が医家向け
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
    • [33]1961年3月期の大株主は大和銀行5.5%・東海銀行5.0%・安田信託銀行5.0%、藤沢友吉3.4%・内柴信吉3.3%
  • 日本企業要覧 1975年版
    • [34]1975年3月期の大株主は三和銀行・東海銀行が各9.36%、日本生命保険7.91%。創業家は上位10位に入らない
    • [26]1956年 三洋化学を吸収合併して名古屋工場とする
    • [27]1958年 チオクト酸を日本で初めて治療薬として開発、1961年にノイビタを創製
    • [28]1961年 エルビットの工業化に日本で初めて成功し非医薬品部門へ進出、本社ビル完成
    • [29]1962年 総合製剤工場、1964年 中央研究所と中央倉庫、1966年 富士工場
    • [31]1968年時点の年間売上高220億円・利益14億5000万円で5年前の約3倍
    • [32]販売高の6%以上を研究開発に投入、新製品比率は常に40%以上、主要品目群で全売上高の66%、8割以上が医家向け
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
    • [30]1961年3月期・半期の事業別売上構成(ビタミン剤・ホルモン剤28.7%/神経系薬剤23.6%/抗生物質・化学療法剤23.5%/他社商品12.4%/自社製品その他5.7%/消化器系3.2%/循環器・呼吸器系2.9%)
    • [33]1961年3月期の大株主は大和銀行5.5%・東海銀行5.0%・安田信託銀行5.0%、藤沢友吉3.4%・内柴信吉3.3%
  • 日本企業要覧 1975年版
    • [34]1975年3月期の大株主は三和銀行・東海銀行が各9.36%、日本生命保険7.91%。創業家は上位10位に入らない

セファメジンが変えた売上構成と、1977年3月期の逆転

1971年8月、藤沢は抗生物質セファメジンを発売した。発売年度に37億円を売り上げ、1976年度には年商300億円を超える。1977年当時の月商は27億円に達し、ライセンス輸出は60カ国に及んだ。[35]1961年3月期に全体の23.5%だった抗生物質・化学療法剤は、1977年3月期には薬効分類別で40.9%を占める。神経系薬剤の25.7%と合わせれば、この2区分だけで66.6%になる。[36]発売から5年で年商が8倍を超えた計算になる。10品目を並べて売上の66%を得ていた会社が、2つの薬効群に寄る構成へ変わった。

  • 日経ビジネス 1977年11月7日号
    • [35]1971年8月 抗生物質セファメジンを発売。発売年度37億円、1976年度に年商300億円超、最盛期の月商27億円、ライセンス輸出60カ国
  • 日経ビジネス 1977年11月7日号/株式会社年鑑 昭和37年版
    • [36]1977年3月期の薬効分類別構成は抗生物質40.9%・神経系薬剤25.7%で合計66.6%

1977年3月期、藤沢の経常利益は191億円となり、武田薬品工業の168億円を上回った。売上高は1013億円で、5年前と比べれば売上高は2.4倍、経常利益は2.8倍になっている。[37]日経ビジネスはこれを『“盟主”武田抜いた下剋上経営』[引用元]と書いた。ただし逆転したのは経常利益に限られる。売上高では武田を100として34.8にとどまり[38]、規模の差は3倍近く開いたままだった。売上高経常利益率は18.9%で、規模の劣勢を利益率が埋めていた。首位に立ったという表現は、利益の一項目についてのみ正しい。

  • 日経ビジネス 1977年11月7日号
    • [37]1977年3月期の経常利益191億円が武田薬品工業の168億円を上回った。売上高1013億円、5年前比で売上高2.4倍・経常利益2.8倍
    • [38]売上高では武田を100として34.8にとどまる

それでも、この一件が業界に残したものは小さくない。開発力があれば下位の会社が上位を制しうるという見方を、序列の固まっていた医薬品業界に持ち込んだ。1978年1月、早川三郎前社長の後任として藤澤友吉郎が社長に就任した。創業者の孫にあたり、1953年に東北大学理学部を卒業して入社、東京支社長・常務・副社長を経ての49歳での就任だった。[39]もっとも、セファメジンの成功は次の課題も残した。ライセンス供与で終わらせるかぎり、海外で生まれる利益の大半は供与先に残る。この反省が、次の20年の海外展開の出発点になる。

  • 日経ビジネス 1979年3月26日号
    • [39]1978年1月 早川三郎前社長の後任として藤澤友吉郎が49歳で社長に就任。創業者の孫、1953年東北大学理学部卒
  • 日経ビジネス 1977年11月7日号
    • [35]1971年8月 抗生物質セファメジンを発売。発売年度37億円、1976年度に年商300億円超、最盛期の月商27億円、ライセンス輸出60カ国
    • [37]1977年3月期の経常利益191億円が武田薬品工業の168億円を上回った。売上高1013億円、5年前比で売上高2.4倍・経常利益2.8倍
    • [38]売上高では武田を100として34.8にとどまる
  • 日経ビジネス 1977年11月7日号/株式会社年鑑 昭和37年版
    • [36]1977年3月期の薬効分類別構成は抗生物質40.9%・神経系薬剤25.7%で合計66.6%
  • 日経ビジネス 1979年3月26日号
    • [39]1978年1月 早川三郎前社長の後任として藤澤友吉郎が49歳で社長に就任。創業者の孫、1953年東北大学理学部卒

世界3極体制と米国後発医薬品の躓き ── 段階的M&Aが残したもの

合弁への出資と家庭用品の切り離しが同時に進んだ1980年代前半

1981年、藤沢は米スミスクラインと折半出資で販売会社フジサワスミスクラインを設立した[40]。セファメジンをライセンス供与で終わらせた反省から、自社の販売網を作りに行ったものである。持分はそれぞれ50%で、経営も費用も折半である。合弁で相手のノウハウを借りながら、ゼロから網を敷く方式だった。しかし日本から持ち込んで製品化できたのは1品目にとどまり、赤字が続く。1983年には西独の中堅メーカー、クリンゲファルマに28%を出資した[41]。米国と欧州に同時に足を掛けたものの、どちらもまだ小さな持分にすぎない。

  • 日経ビジネス 2001年2月12日号
    • [40]1981年 米スミスクラインと折半出資でフジサワスミスクラインを設立。製品化できたのは1品目にとどまり赤字が続いた
    • [41]1983年 西独クリンゲファルマに28%を出資

同じ時期、国内では薬価の引き下げが続いていた。営業利益はピーク時のおよそ半分に落ちている。1985年5月、藤沢はトイレ用芳香剤ピコレットなど家庭用品事業の約20品目[42]をライオンへ譲渡した。1984年度の売上は37億円、譲渡額は業界推定で10億円前後にすぎない[43]。譲渡したのは商標を含む諸権利で、生産は下請け10社近くが引き続き担い、家庭用品部の社員は全員が社内の他部門へ移った。3月初めの接触から2カ月余りで最終合意に達している。短期間で話がまとまったのは、譲渡の対象が工場でも人員でもなく商標を含む諸権利に限られていたためであろう。

  • 日経ビジネス 1985年9月16日号
    • [42]1985年5月 トイレ用芳香剤ピコレットなど家庭用品事業の約20品目をライオンへ譲渡
    • [43]1984年度売上37億円・譲渡額10億円前後(業界推定)。薬価引き下げで営業利益はピーク時の約半分

1961年に食品の酸化防止剤エルビットで非医薬品部門[44]へ出てから24年、藤沢は医薬の外へ広げた事業を手放した。低収益の部門を切り離し、医療用医薬品へ資源を集めるためである。もっとも、譲渡額10億円という規模からすれば、得られた現金が海外投資の原資になるわけではない。この売却の意味は金額ではなく、経営が見るべき対象を医療用医薬品に絞ったことにある。以後、藤沢の投資は医療用医薬品と、それを売るための海外拠点にだけ向かう。同じ年の11月、藤沢は米国の後発医薬品メーカー、ライフォメッドに22.5%を資本参加した[45]

  • 日経ビジネス 2001年2月12日号
    • [40]1981年 米スミスクラインと折半出資でフジサワスミスクラインを設立。製品化できたのは1品目にとどまり赤字が続いた
    • [41]1983年 西独クリンゲファルマに28%を出資
    • [45]1985年11月 米ライフォメッドに22.5%を資本参加
  • 日経ビジネス 1985年9月16日号
    • [42]1985年5月 トイレ用芳香剤ピコレットなど家庭用品事業の約20品目をライオンへ譲渡
    • [43]1984年度売上37億円・譲渡額10億円前後(業界推定)。薬価引き下げで営業利益はピーク時の約半分
    • [44]1961年 エルビットの工業化で非医薬品部門へ進出

出資を積み増して組み上げた日米欧の3極体制

海外は、少しずつ買い足して広げた。ライフォメッドへの出資比率はのちに30%まで引き上げている。後発品メーカーを選んだのは、新薬メーカーの買収では投資額が大きすぎるという判断からである。[46]1988年4月には、クリンゲファルマの出資比率を74%へ引き上げて経営権を取得し[47]、欧州での基盤を確保した。少額の出資から入り、様子を見ながら比率を上げて子会社化する。1985年の22.5%、その後の30%、1988年の74%と、比率だけを並べれば緩やかな階段である。日経ビジネスはこの手法を『段階的M&Aで世界3極体制』と呼んだ。

  • 日経ビジネス 2001年2月12日号
    • [46]ライフォメッドへの出資比率はのちに30%まで引き上げられた。新薬メーカーの買収は投資額が大きすぎるという判断が選定理由
  • 日経ビジネス 1988年6月13日号
    • [47]1988年4月 クリンゲファルマの出資比率を74%へ引き上げ経営権を取得

藤沢は1990年4月にライフォメッドの買収手続きを完了し、既存の新薬会社と統合してフジサワUSAを設立する[48]。組織と製品を一度に手に入れ、米国の販売網を仕上げる構想である。フジサワUSAは、新薬と後発品を併せ持つ会社になった。

  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [48]1990年4月 買収手続きを完了し既存の新薬会社と統合してフジサワUSAを設立

この判断は、当時の条件のもとでは筋が通っている。日本の製薬会社が米国で自社販売するには相応の営業組織が要り、一から作れば10年はかかる。買えば数年で済む。後発品メーカーを対象にしたのも、新薬メーカーの価格からすれば手が届く範囲だったためである。1981年のフジサワスミスクラインで[49]、合弁だけでは製品が流れないことも確かめていた。医薬品は効能の情報提供を含む販売活動そのものが収益の源泉で、主要国に子会社を持って自社販売できるかどうかが差になる。週刊東洋経済が後年そう書いたとおり、販売網を持つこと自体に価値があった。誤算は構想ではなく、買った会社の中身にあった。

  • 日経ビジネス 2001年2月12日号
    • [49]1981年のフジサワスミスクラインでは日本から持ち込んで製品化できたのは1品目にとどまった
  • 日経ビジネス 2001年2月12日号
    • [46]ライフォメッドへの出資比率はのちに30%まで引き上げられた。新薬メーカーの買収は投資額が大きすぎるという判断が選定理由
    • [49]1981年のフジサワスミスクラインでは日本から持ち込んで製品化できたのは1品目にとどまった
  • 日経ビジネス 1988年6月13日号
    • [47]1988年4月 クリンゲファルマの出資比率を74%へ引き上げ経営権を取得
  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [48]1990年4月 買収手続きを完了し既存の新薬会社と統合してフジサワUSAを設立

虚偽データの発覚から上場来初の最終赤字まで

1991年12月、買収前のライフォメッド時代にFDAへ提出していた承認申請データの虚偽が発覚した。対象は利尿剤フロセマイドを含む約10品目に及ぶ。販売中止にとどまらず、生産工程と新規の承認申請が2年にわたって止まった。工程不良による回収と合わせた損害は2000万ドルに上る。[50]買収時の調査が経営状態にとどまり、当局への申請データまで検証していなかったことが露呈した。発覚したのは買収の手続きを終えてから1年8カ月後である。

  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [50]1991年12月 買収前のライフォメッドがFDAへ提出した承認申請データの虚偽が発覚。約10品目が対象、生産工程と新規承認申請が2年停止、損害2000万ドル

1992年6月、藤山朗が社長に就任し、翌年1月に計30人を米国へ派遣して立て直しに着手する。派遣した部隊は約2年を要し、1994年8月にFDAの承認申請保留措置が解除された。[51]その間に業績は崩れる。米国の主力オーファンドラッグ『ペンタム』が優先権の期限切れで前年度のおよそ3分の1に落ち、不正事件の処理費用が重なった。1993年3月期、藤沢は連結で初めての赤字に転落する見通しとなった。[52]FDAの措置が解けるまでの2年、米国事業は新規の承認申請を出せないまま推移した。当時の常務は、入社して以来34年、単体でも連結でも赤字を経験したことがないと語っていた。

  • 日経ビジネス 2001年2月12日号
    • [51]1992年6月 藤山朗が社長に就任、翌年1月に計30人を米国へ派遣。1994年8月にFDAの承認申請保留措置が解除
  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [52]1993年3月期に連結で初の赤字に転落する見通し。ペンタムが優先権の期限切れで前年度の約3分の1に落ち込んだ
  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [50]1991年12月 買収前のライフォメッドがFDAへ提出した承認申請データの虚偽が発覚。約10品目が対象、生産工程と新規承認申請が2年停止、損害2000万ドル
    • [52]1993年3月期に連結で初の赤字に転落する見通し。ペンタムが優先権の期限切れで前年度の約3分の1に落ち込んだ
  • 日経ビジネス 2001年2月12日号
    • [51]1992年6月 藤山朗が社長に就任、翌年1月に計30人を米国へ派遣。1994年8月にFDAの承認申請保留措置が解除

プログラフと新薬中心への再編 ── 自前の海外販売網と合併による幕引き

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

藤沢薬品工業の沿革1894〜2005年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1894〜1949年藤沢友吉商店 ── 道修町の薬種商から製薬会社へ、そして上場まで初代藤沢友吉が大阪・道修町に薬種商「藤沢友吉商店」を創始
仕入販売から製造へ移行★★
補血強壮剤ブルトーゼを発売
回虫駆除剤サントニンを発売
回虫駆除剤「マクニン」を発売
藤沢友吉商店を設立
満州・朝鮮・中国に関係会社を相次いで設立
商号を藤沢薬品工業に変更
敗戦により満州・朝鮮・中国の事業基盤を一挙に失う★★
株式を上場
1950〜1980年抗生物質で「盟主武田を抜く」 ── 品目分散から主力集中への転換三国・石切・信太山・尼ケ崎の各工場を閉鎖
スイスのガイギーと技術契約を締結
水虫・帯下の治療に用いる新抗生物質トリコマイシンを開発
三洋化学を吸収合併
チオクト酸を日本で初めて治療薬として開発
食品の酸化防止剤エルビットの工業化に日本で初めて成功
非医薬品事業に参入★★
中央研究所と中央倉庫が完成
抗生物質セファメジンを発売★★
抗生物質セファメジンへの集中と、主力薬効の抗生物質・神経系への絞り込み

1971年8月に発売した抗生物質セファメジンを軸に薬効構成を組み替え、1977年3月期に経常利益191億円で武田薬品工業の168億円を上回った一連の経営判断。同期の売上高は1013億円で、5年前と比べて売上高2.4倍、経常利益2.8倍に伸びた。

詳細を読む
★★★
藤澤友吉郎氏が社長に就任
1981〜1998年世界3極体制と米国後発医薬品の躓き ── 段階的M&Aが残したものスミスクラインと折半出資で販売会社フジサワスミスクラインを設立
西独の中堅メーカー、クリンゲファルマに28%を出資
トイレ用芳香剤ピコレットなど家庭用品20品目のライオンへの譲渡

1985年5月2日、藤沢薬品工業がトイレ用芳香剤『ピコレット』など家庭用品約20品目をライオンへ譲渡することで最終合意した経営判断。1984年度の売上高37億円の部門で、譲渡額は業界関係者の推定で10億円前後とされた。売買したのは商標を含む諸権利で、生産は10社近い下請けメーカーがそのまま担い、家庭用品部の社員は全員が社内の他部門へ移った。

詳細を読む
★★★
後発医薬品メーカー、ライフォメッドに22.5%を資本参加
クリンゲファルマの出資比率を74%に引き上げ経営権を取得
既存の新薬会社と統合しフジサワUSAを設立
買収前のライフォメッド時代にFDAへ提出した承認申請データの虚偽が発覚★★
1993年3月期に連結で初の赤字に転落★★
免疫抑制剤プログラフを日本で発売★★
米国後発医薬品事業の売却と、新薬子会社への集約

1998年3月期、藤沢薬品工業が米国の後発医薬品事業の売却を決め、米国事業を新設の新薬子会社へ集約した経営判断。米国再編成に伴う特別損失460億円を計上し、1949年の上場以来はじめての最終赤字370億円を出した。買収を主導した創業家出身の藤澤友吉郎会長は引責辞任した。

詳細を読む
★★★
1998〜2005年プログラフと新薬中心への再編 ── 自前の海外販売網と合併による幕引き2000年9月中間決算で連結海外売上高比率が36%に到達
山之内製薬との合併を決定
山之内製薬と藤沢薬品工業の合併によるアステラス製薬の誕生(2005年成立)

2005年4月、山之内製薬と藤沢薬品工業が合併し、新社名アステラス製薬として発足した案件。武田薬品に次ぐ国内第2位の製薬企業が誕生した。

詳細を読む
★★★
出典・参考

免責事項およびポリシー