藤沢薬品工業米国後発医薬品事業の売却と、新薬子会社への集約
黒字化の一歩手前で畳むか、抱えたまま待つか——1070億円の買収から8年目の決着
- 概要
- 1998年3月期、藤沢薬品工業が米国の後発医薬品事業の売却を決め、米国事業を新設の新薬子会社へ集約した経営判断。米国再編成に伴う特別損失460億円を計上し、1949年の上場以来はじめての最終赤字370億円を出した。買収を主導した創業家出身の藤澤友吉郎会長は引責辞任した。
- 背景
- 藤沢は1989年10月、米国の後発医薬品メーカー、ライフォメッドの買収で合意した。金額は1070億円で、当時の年商のおよそ半分にあたる。1990年4月に手続きを終えてフジサワUSAを設立したが、翌年12月に買収前の承認申請データの虚偽が発覚し、生産工程と新規の承認申請が2年止まった。
- 内容
- 後発品事業は黒字化の見通しが立たず、主眼である新薬との相乗効果も見込めないとして売却した。赤字は積立金の取り崩しで処理して翌期に持ち越さず、配当は継続している。売却後の米国は、免疫抑制剤プログラフと軟膏剤プロトピックに絞る新薬子会社へ改められた。
- 含意
- 当初掲げた1994年度の米国売上6億ドルに対し、1997年度の実績は約3億ドルにとどまった。品ぞろえの広さで全米の販売網を支える構想は成立せず、代わりに米国事業を支えたのは、移植医だけを訪ねれば足りる一つの薬だった。
買えなかったもの
1070億円で手に入ったのは後発品の品ぞろえと全米の販売網であって、それを動かす人ではなかった。後発品の商売を自社が知らないために買収先の選定は米銀へ委ね、経営状態は慎重に調べても、FDAへの申請データの中身までは見ていない。堀口勝弘常務経営企画室長が不正を調べることは考えもしなかったと語ったのは、買った事業の作法を社内の誰も知らなかったことの言い換えでもあったとみられる。段階的に出資を積み増した慎重さと、一度に全部を買った大胆さが、同じ相手に対して噛み合わなかった。
ただ、売却は事業が上向いた後に決まっている。安達洽平取締役経理部長が語ったとおり、フジサワUSAは1997年度に営業黒字へ届き、翌年度の最終黒字化まで見えていた。黒字化を待って抱え続ける道もあったなかで、藤沢は本体に余力があるうちに新薬へ資源を寄せた。残ったのがプログラフという一つの薬と、米国の制度を知る人材だけだったとすれば、1070億円は高くついた勘定になる。ただし、その二つがなければ、切り離した後の米国事業の立て直しも成り立たなかったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
合弁の限界と、1070億円の全部買収
藤沢薬品工業が米国に足場を得たのは1985年11月の後発医薬品メーカー、ライフォメッドへの22.5%の資本参加で、1988年4月に西独クリンゲファルマを74%まで買い増したことで日米欧の3極が揃った。1989年10月、藤沢はそのライフォメッドを買収することで合意する。金額は1070億円、当時の年商のおよそ半分にあたる。合弁を足掛かりに進出するのが通例だった製薬業界で、いきなり全部を買いに出た点が異例だった[1]。
1990年4月に手続きを終え、既存の新薬会社フジサワ・ファーマシューティカル・カンパニーと合併させてフジサワUSAが発足した。新薬と特許切れ医薬品の両部門を抱える会社である。後発品メーカーを選んだのは、全米の販売網を維持するには一定の商品数が要るという計算からだった。堀口勝弘常務経営企画室長は、ライフォメッドの買収話を「その点で我々にとってありがたい話」と振り返っている[2][3]。
申請データの虚偽と、初の連結赤字
買収の手続きを終えて1年8カ月後の1991年12月、ライフォメッド時代にFDAへ提出していた承認申請データの虚偽が明るみに出た。対象は利尿剤フロセマイドを含む約10品目で、販売中止にとどまらず、生産工程と新規の承認申請が2年にわたって止まった。工程不良による回収と合わせた損害は2000万ドルに上る。買収先の選定は、後発品のノウハウを自社で持たないために米銀へ頼らざるをえなかった[4][5]。
不正の処理費用に、米国の主力オーファンドラッグ「ペンタム」の失速が重なった。優先権の期限が切れて他社の類似品が市場に流れ込み、売上高は前年度のおよそ3分の1へ落ちた。1993年3月期、藤沢は連結で40億円の最終赤字に転じる見通しとなる。堀口常務は入社以来34年間、単体でも連結でも赤字を経験したことがないと述べ、社内の動揺を隠さなかった。1992年6月に社長へ就いた藤山朗は、翌年、研究所や工場から人材を集めた部隊を米国へ送り込んだ[6][7][8]。
決断
黒字化の一歩手前での売却
1998年3月期、藤沢は米国の後発医薬品事業を売却すると決めた。黒字化の見通しが立たず、主眼である新薬との相乗効果も期待できないという判断である。米国再編成に伴う特別損失460億円を計上し、1949年の上場以来はじめての最終赤字370億円を出した。赤字は積立金の取り崩しで処理して翌期に持ち越さず、配当は継続している。買収の合意から8年での撤退だった[9]。
畳んだ時期は、事業が底を打った後だった。安達洽平取締役経理部長は、フジサワUSAが独自新薬の免疫抑制剤プログラフの好調で後発品の赤字を相殺し、「97年度に営業黒字、98年度は最終黒字化」までこぎつけていたと語っている。それでも売却へ動いたのは、国内の医療用医薬品市場が医療改革の逆風下にあり、抜本的な薬価制度の見直しも控えていたためである。当初掲げた1994年度の米国売上6億ドルに対し、1997年度の実績は約3億ドルにとどまった[10][11]。
創業家会長の退場と、新薬への絞り込み
1070億円の買収は、創業家出身の藤澤友吉郎会長が陣頭指揮を執った。業界関係者の間では「創業家会長の肝入りだけに、撤退の断が下しにくいのでは」ともささやかれていたと週刊東洋経済は伝えている。売却の決定を受け、創業者の孫にあたる藤澤会長は引責辞任した。買収を主導した当人が退くことで、10年に及んだ米国での拡大に区切りが付いた[12][13]。
売却後の米国は、新設する新薬子会社に集約された。プログラフに加え、1999年に米国で申請する同成分の軟膏剤プロトピックなど、藤沢が国際戦略品と位置づける製品に絞り込む構えである。両製品の全世界売上を、当時の210億円から2003年に1000億円へ引き上げる目標を掲げた。品ぞろえの広さで全米の販売網を支える構想を捨て、少数の新薬で稼ぐ体制へ組み替えた判断であった[14]。
結果
販売網の代わりに残ったもの
後発品を切り離した米国事業は、その後プログラフの販売拠点として立て直された。週刊東洋経済は1998年末の特集で、藤沢を「不採算の後発品事業を切り離しプログラフの販売拠点として立て直した」会社に挙げている。免疫抑制剤の販売は移植手術を行う医師をカバーすれば足り、藤沢が置いた人員は米国で数十人、欧州の各国では数人にとどまった。広い販売網を必要としない薬が、1070億円では作れなかった収益を生んだ[15][16]。
10年で得たものについて、安達取締役経理部長は「米国の法制、会計、税制やFDAとの関係等のノウハウ、そして米国で人材教育できたこと」を挙げた。米国法人の再建にあたり1999年6月に社長へ就いた青木初夫も、のちに米国事業を立て直したことで生産・管理・企画のあらゆる部門に米国を理解した人材が育ったと語っている。一方で日経ビジネスは、企業買収に資金を投じながら人材を投入してこなかったことが誤算を招いたと書いた[17][18]。
- 週刊東洋経済 1998年4月11日号「[フラッシュ]藤沢薬品工業 上場来初の最終赤字転落 1000億円で買収した米国後発医薬品事業を売却、新薬中心に再編成へ」
- 日経ビジネス 1992年12月14日号「堀口勝弘氏[藤沢薬品工業常務経営企画室長]新薬落ち込みに不正事件 米子会社不振で連結赤字」
- 日経ビジネス 2001年2月12日号「藤沢薬品工業 「失敗を良い薬に」収穫期迎える海外拠点」
- 週刊東洋経済 1998年12月26日号「[特集]2002年に勝ち残る会社の条件 医薬品 カギ握る海外展開、研究開発力」