マレーシア多結晶シリコン事業からの完全撤退 ── 減損を確定し韓国OCIへ全株譲渡

太陽電池グレードの海外大型投資をどう畳んだか——減損後の工場を持ち続けるか、損失を確定して手放すか

更新:

時期 2016年3月
意思決定者 横田浩 トクヤマ 社長
論点 多結晶シリコンの海外事業と巨額損失の処理
概要
2017年5月、トクヤマがマレーシアの多結晶シリコン製造販売会社Tokuyama Malaysia Sdn. Bhd.の全株式を韓国OCIへ譲渡し、太陽電池グレード多結晶シリコン事業から完全撤退した経営判断である。前年の2016年3月期に純損失1006億円・特別損失1257億円という経営史最大級の赤字で全面減損を確定させ、横田浩社長の再建体制のもとで損失を確定して手放す道を選んだ。
背景
リーマンショック後の太陽光発電ブームと多結晶シリコンの世界的な品不足を見込み、2009年8月に安価な電力と土地を求めてマレーシアへ大型投資に踏み込んだ。戦後初の純損失を計上した2009年3月期の翌年に、汎用の太陽電池グレードを主戦場として過去に例のない規模の海外投資へ向かった点が論点であった。
内容
建設遅延と中国勢の供給過剰で太陽電池向け市況が崩壊し、2013年3月期以降3期連続の赤字に陥った。同じ多結晶シリコンでも汎用太陽電池向けは捨て先端半導体向けは残す用途別の取捨を経て、2017年5月に韓国OCIへ全株を譲渡し、2009年の構想そのものを清算した。
含意
撤退後は化成品・セメントの伝統事業と、電子先端材料・ライフサイエンスの成長事業という2軸へ再編した。減損の陰で先端半導体向けシリコンと歯科材料が温存され再建を支えており、汎用で規模を追う路線と先端で用途を絞る路線の分岐が損益を分けたとみられる。
筆者の見解

賭けの清算が残したもの

この判断の中心にあるのは、減損後に残った工場を持ち続けるか、損失を確定して手放すかという分岐であった。太陽光発電の需要が膨らみ、多結晶シリコンが利益率50%超の高収益素材だった時期の強気が、中国勢の大量参入と価格崩壊という下振れへの備えを欠いたまま、史上最大級の海外投資へと会社を運んだ。一度立ち上がった装置は簡単に止められず、市況の前提が消えたあとも損失は積み上がっていく。そのなかで2009年の構想そのものを否定し、太陽電池グレードの市場から降りた点に、この撤退の重さがうかがえる。

もっとも、マレーシアの10年が残したものは損失だけではなかった。巨額の減損の陰で、先端半導体向けシリコンと歯科材料という別の種が枯れずに残り、再建期の主役として保全された。同じ多結晶シリコンでも、汎用で規模を追うのか、先端で用途を絞るのか——路線の選び方が損益を分けた事実が、撤退後のポートフォリオ転換の出発点になっている。装置産業がコモディティ市況とどう距離を取るのかという問いは、化成品・セメントを今なお抱える同社にとって、なお開かれたままであるとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

太陽光発電ブームと数少ない国産サプライヤー

リーマンショック後、環境政策を追い風に太陽光発電が世界へ広がり、その原料である多結晶シリコンは品不足に陥っていた。ドイツが高額の買い取り制度を導入したのを口火に、同様の制度が約20カ国へ波及し、太陽電池の需要が一気に膨らんだ時期であった。国内では石油危機以降に川上分野からの撤退が相次いでいたなかで、自家発電を持つトクヤマは三菱マテリアル・大阪チタニウムと並ぶ数少ない国産の多結晶シリコンメーカーとして残っていた[1][2]

多結晶シリコンは高純度が求められるハイテク素材の筆頭格で、世界同時不況下でも需給が締まり、利益率50%超という高収益を誇っていた。しかしトクヤマのシェアはかつての世界2位から5位へ下落し、要求品質が半導体用より低い太陽電池用の需要が急増するなかで、技術力に劣る新興メーカーが中国で乱立して需給緩和の圧力が増していた。目前に迫る行き詰まりを打破するための一大決心が、大規模なマレーシアへの進出であった[3][4]

戦後初の赤字の翌年に踏み込んだ大型投資

拡大へ向かう直前に、会社は初めての躓きを経験していた。リーマンショックの直撃を受けた2009年3月期、トクヤマは56億円の純損失を計上した。堅実経営と評されてきた同社にとって戦後初の純損失であり、新規事業群の収益化が伝統事業の市況変動を吸収できる水準にまだ達していない事実を露呈した数字でもあった。装置産業としての性格を脱しきれないまま、社内には多結晶シリコンの増強とコモディティ事業の合理化という2つの方向感が同居していた[5]

その戦後初の赤字の翌年にあたる2009年8月、同社はボルネオ島北部のマレーシア・サラワク州に多結晶シリコンの製造販売会社Tokuyama Malaysia Sdn. Bhd.を設立した。安価な電力とコスト優位の土地を呼び水に、徳山工場で培った精製技術ごと海外へ展開し、世界需要の拡大に合わせて供給量を倍増させる構想であった。同社が8月にマレーシアで2013年春の商業運転開始を発表したこの計画は、地味で堅実と評された会社が乾坤一擲の賭けに挑む一手であり、先端半導体グレードではなく汎用の太陽電池グレードを主戦場に選んだ点が、のちの損失規模を左右する選択になっている[6][7]

決断

市況崩壊と3期連続の巨額赤字

計画は最初から狂い続けた。建設遅延と試運転トラブルでフル稼働が遠のくあいだに、太陽電池向け多結晶シリコン市況は中国勢の供給過剰で急落し、想定した価格の前提が崩れた。立ち上げの時期が市況のピークと重なり、供給過剰のただ中に製品を投入する最悪の巡り合わせになった。2013年3月期には特別損失323億円を計上して純損失379億円となり、設備の減損処理に踏み込まざるを得なくなった。戦後初の赤字からわずか4年で、過去に類のない規模の損失が表面化した[8]

損失は1度では止まらなかった。Tokuyama Malaysia の帳簿価額は2011年3月の173億円から2014年3月の2012億円へ積み上がり、2016年3月には91億円まで一気に切り下がった。2015年3月期に純損失653億円、2016年3月期にはついに純損失1006億円・特別損失1257億円を計上し、累計の減損処理は同社経営史で最大級の規模に達した。3期連続の赤字は単年の市況悪化ではなく、太陽電池向け市場が事実上崩壊するという、事業そのものの前提が消えた構造要因によるものであった[9][10]

損失を確定して手放すという選択

赤字が続くさなかの2014年6月、幸後和壽から横田浩へ社長交代が行われ、再建期のトップが立った。ピーク時に連結売上高3000億円規模の会社が単年で1000億円超の赤字を出す損失は、自己資本比率と有利子負債比率の両面で同社を資本構成の観点からも危機的な状態へ追い込んでいた。コーポレートガバナンス上も看過できない規模であり、この事業をどう畳むかが再建の中心命題になっていた[11][12]

装置産業において、減損後に残った工場をそのまま持ち続けるか、損失を確定して手放すかは経営判断の分岐点になる。同社はまず同じ多結晶シリコンでも汎用の太陽電池向けは捨て、先端半導体向けは残すという用途別の取捨を進めた。そのうえで2017年5月、Tokuyama Malaysia の全株式を韓国OCIへ譲渡し、マレーシア多結晶シリコン事業から完全撤退した。譲渡先のOCIは太陽電池向けシリコン市況の回復に賭けていたが、同社は海外生産で太陽電池グレードを供給するという2009年の構想そのものを否定し、同じ市場から降りる判断を下した[13][14]

結果

2軸への再編と、減損の陰で温存された種

撤退後の事業構造は、化成品・セメントの伝統事業と、電子先端材料・ライフサイエンスの成長事業という2軸へ整理し直された。2018年7月には徳山海陸運送を買収して物流のインソース化を進める一方、研究開発投資はマレーシアで失った10年を取り戻すように先端半導体向けと歯科向けへ集中した。太陽電池グレードで規模を追う延長線を断ち切り、用途を絞った高付加価値領域へ資源を寄せる形が、再建の骨格になっていた[15]

巨額の減損処理の陰で、同じ多結晶シリコンの先端半導体向け事業や歯科材料は事業として育ち続けていた。徳山の先端半導体向けラインは中国勢の価格攻勢の外に置かれ、歯科用コンポジットレジンのオムニクロマは2013年の発売後に米国でシェアを伸ばしていた。1988年の5カ年計画で蒔いた種が経営危機のさなかにも枯れずに残った事実が、後の再建を支えた条件になっている。もしこの時期に成長分野の事業基盤まで解体していれば、2010年代以降の成長ドライバは失われていたとみられる[16]

ポートフォリオ転換という再建の総括

再建を主導した横田浩社長は、危機後の針路を、成長分野への構造転換に定めた。「電子・健康・環境の3分野を成長ドライバーに、ポートフォリオの転換を図る」[17]と語り、コモディティ市況に翻弄されてきた事業構成から、用途を絞った成長事業へ主力を移す方針を明確にした。マレーシアで確定させた損失は、その転換を後戻りできないものにする代償でもあった。

転換の到達点として、同社は成長事業の連結売上高比率を2026年3月期に50%超へ引き上げる目標を掲げた。汎用グレードで数量を追い、市況の波にそのまま損益を委ねる経営から、先端用途に資源を集中して価格決定力を保つ経営へ移す方針を数値で示した。マレーシアの10年は、その方針転換に踏み切る動機を会社へ突きつけた出来事であったといえる[18]

出典・参考