武田薬品工業 の歴史

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創業 1781年
創業者 武田長兵衛
創業地 大阪府大阪市中央区道修町
創業
1781年6月、初代武田長兵衛氏が大坂道修町で仲間株を譲り受け、屋号「近江屋長兵衛」として和漢薬の仲買を始めた。当主が代々「武田長兵衛」を襲名し、屋号に信用を蓄えて次代へ渡す慣行を敷いた。1722年に幕府が定めた検査制度のもと、株仲間が薬の真贋鑑定と流通を握る商圏に、自家製造を持たない仲買として加わっている。1871年5月に洋薬の輸入買付を始めたが、輸入薬は価格が高く贋造薬も横行したため、1895年に大阪府下中津の内林製薬所を専属工場とした。1915年10月に武田製薬所を創設して製造と研究を分け、1925年1月、武田長兵衛商店と武田製薬が合併して資本金530万円の株式会社武田長兵衛商店が発足した。
決断
自前で新薬を出せない不足は、そのつど買収で埋めてきた。1968年の武田は製薬・医薬品販売・食品・化学品・農薬の各事業部を敷き、ビタミン剤だけで医薬品売上の4割以上を占めていた。1993年に社長となった武田國男氏は食品・化学品・農薬などの非医薬事業を順次譲渡し、身軽にした経営資源を医療用医薬品へ集中させる。米国では2008年にアボットとのTAP合弁を解消してミレニアムを買収し、2011年にはスイスのナイコメッドを約1兆1000億円で取得して進出国を28から70超へ広げた。実質無借金だった財務はここで変わり、有利子負債は2011年3月期末の13億円から翌期末の5428億円へ増えた。2014年6月には英グラクソ・スミスクライン出身のクリストフ・ウェバー氏を社長に迎え、創業家と生え抜きで継いできた経営を外部の手へ委ねている。
現況
総資産15兆5000億円のうち、5兆8000億円は買収で生じたのれんである。2019年1月に希少疾患と血漿分画製剤に強いシャイアーを約6兆8000億円で買収し、売上収益3兆円規模で世界の上位10社へ入った。有利子負債はFY17の9857億円からFY18に約5兆7500億円へ膨らみ、その圧縮のため2021年3月にアリナミンを含む大衆薬事業をブラックストーンへ譲渡した。2026年3月期は売上収益4兆5057億円に対し、研究開発費と製品に係る無形資産の償却を含む営業費用が前期より約2900億円増え、営業利益は62億円、純損益は1524億円の損失となった。有利子負債はなお4兆8818億円ある。買収で得た規模が、そのまま毎期の償却と利払いとして損益を圧迫している。
競合
国内最大でありながら、比べる相手はもう国内にいない。2026年3月期の売上収益4兆5057億円のうち米国が2兆1648億円で48%を占め、日本は4331億円にすぎない。国内2位級の第一三共の売上収益2兆1230億円と比べても倍の規模で、国内の順位を争う位置にはない。ただし世界の大手と並べると、第一三共が自社で創ったエンハーツのような自社創製の主力品を欠き、規模はシャイアーから引き継いだ希少疾患と血漿分画製剤に依存する。同じ特許切れの穴を第一三共が自前の技術で埋めたのに対し、武田は買収で埋めた。競争優位の源泉を社内の研究ではなく買収の資金力に置いたことが、現在の負債と償却の構造を決めた。

創業ストーリー 道修町の薬種仲買から、輸入途絶が促した自社製造へ (1781年〜)

株仲間が束ねた信用と、洋薬へ広げた四代長兵衛

1722年、徳川吉宗は各地から産出する和薬を江戸・大阪・京都・堺などの問屋組合を通じ、組合の検査のもとで売買させる制度を定め[1]、問屋に特権的な地位を認めた[2]。大阪道修町二丁目に薬種仲間が形成されたのもこの年[3]で、初代武田長兵衛氏が仲間株を譲り受けて独立営業を始めた[4]のは、それから60年後の1781年6月である[5]。屋号は『近江屋長兵衛』、店は道修町堺筋に構え[6]、和漢薬の取扱いを業として発足した。文化年間には道修町の中橋筋角屋敷を買い求めて移り[7]、この場所が後の本社所在地となる。創業から明治に至るまでは代々父祖の業を継ぎ、和漢薬の販売に従事した[8]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
    • [1]1722年 徳川吉宗が和薬の売買を問屋組合の検査下に置く
    • [2]問屋の特権的地位の公認
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [3]1722年 道修町二丁目に薬種仲間が形成
    • [4]初代武田長兵衛氏 仲間株を譲り受けて独立営業
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1781年6月 創業、薬種商を開業
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [6]屋号 近江屋長兵衛/道修町堺筋で和漢薬を扱う
    • [7]文化年間 中橋筋角屋敷へ移転(現本社所在地)
    • [8]創業から明治まで和漢薬の販売に従事

明治に入って若くして家業を継いだ四代長兵衛氏は、節約に努めて取扱薬品を吟味し[9]、品質の優れた洋薬の輸入を図った。1871年5月には洋薬の輸入買付を開始し[10]、和漢薬の仲買に輸入商としての機能を重ねた。1894年には初めて店内に外国部を設け[11]、ヨードカリ・ブロムカリ・重曹・苛性ソーダなどの輸入[12]にあたっている。ただし輸入薬品は価格が高く、贋造薬も横行した[13]ため、四代長兵衛氏は自家製造を計画した。1895年、大阪府下中津の内林製薬所を専属工場として[14]医薬品の製造と研究に乗り出す。もっとも当時はなお微々たる家内工業の域にとどまった[15]。武田姓を名乗るようになったのも四代目[16]のときである。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [9]四代長兵衛氏 若くして家業を継ぎ節約に努める
    • [11]1894年 店内に外国部を設置
    • [12]外国部の取扱品 ヨードカリ・ブロムカリ・重曹・苛性ソーダ
    • [14]1895年 大阪府下中津の内林製薬所を専属工場化
    • [15]当時はなお家内工業の域
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1871年5月 洋薬の輸入買付を開始
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [13]輸入薬品の高価格と贋造薬の横行が自家製造の動機
    • [16]武田姓を名乗ったのは四代目から
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
    • [1]1722年 徳川吉宗が和薬の売買を問屋組合の検査下に置く
    • [2]問屋の特権的地位の公認
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [3]1722年 道修町二丁目に薬種仲間が形成
    • [4]初代武田長兵衛氏 仲間株を譲り受けて独立営業
    • [13]輸入薬品の高価格と贋造薬の横行が自家製造の動機
    • [16]武田姓を名乗ったのは四代目から
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1781年6月 創業、薬種商を開業
    • [10]1871年5月 洋薬の輸入買付を開始
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [6]屋号 近江屋長兵衛/道修町堺筋で和漢薬を扱う
    • [7]文化年間 中橋筋角屋敷へ移転(現本社所在地)
    • [8]創業から明治まで和漢薬の販売に従事
    • [9]四代長兵衛氏 若くして家業を継ぎ節約に努める
    • [11]1894年 店内に外国部を設置
    • [12]外国部の取扱品 ヨードカリ・ブロムカリ・重曹・苛性ソーダ
    • [14]1895年 大阪府下中津の内林製薬所を専属工場化
    • [15]当時はなお家内工業の域

五代長兵衛が据えた製造と研究

1904年に五代長兵衛氏が家業を継ぐ[17]と、製造と販売の双方へ一段と力を入れた。1909年には従来輸入以外になかった次硝酸蒼塩などの蒼塩製剤の製造に成功[18]し、あわせて約20種の局方医薬品の製造を始めた[19]。1908年には武田薬品試験部と研究部を設け[20]、これが後の研究所の母体となった。五代長兵衛氏が掲げたのは、製薬事業の拡充、生産研究、独創新薬の開発、そして全国各地の問屋と結ぶ販売網の確立[21]という四つの構想である。地方特約店に呼びかけた『サギウロコ会』を組織して[22]流通を束ね、1915年から1918年にかけては現在の大阪工場となる大規模工場を建設[23]した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [17]1904年 五代長兵衛氏が家業を継ぐ
    • [18]1909年 次硝酸蒼塩ほか蒼塩製剤の製造に成功
    • [19]約20種の局方医薬品の製造を開始
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [20]1908年 武田薬品試験部・研究部を設置(研究所の母体)
    • [21]五代長兵衛氏の四つの構想
    • [22]地方特約店による「サギウロコ会」の組織
    • [23]1915〜1918年 大規模工場を建設(現大阪工場)

大戦前の日本では本格的な製薬事業がほとんど起こらず[24]、明治末期に国内で生産されていたのは薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ程度にとどまり[25]、古来の伝統を経て輸入商へ発展した薬種問屋の商業活動のほうが盛んだった[26]。1914年に欧州で大戦が起こると輸入薬品の供給が杜絶し[27]、薬品市場は大きな混乱に陥る。洋薬の輸入を柱に据えていた武田は事業の前提を失い、内林工場を補強する[28]とともに、同年8月に市外中津町へ武田薬品試験所を設けた[29]。研究を指導したのは、五代長兵衛氏の実弟にあたる武田二郎氏である[30]。同じ1914年8月には武田研究部も置かれた[31]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
    • [24]明治期に本格的な製薬事業はほとんど起こらず
    • [25]明治末期の国内生産品 薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ
    • [26]輸入商へ発展した薬種問屋の商業活動が盛ん
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [27]1914年 欧州大戦で輸入薬品の供給が杜絶、薬品市場が混乱
    • [28]内林工場の補強
    • [29]1914年8月 市外中津町に武田薬品試験所を設置
    • [30]武田二郎氏(五代長兵衛氏の実弟)が研究を指導
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1914年8月 武田研究部を設置
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [17]1904年 五代長兵衛氏が家業を継ぐ
    • [18]1909年 次硝酸蒼塩ほか蒼塩製剤の製造に成功
    • [19]約20種の局方医薬品の製造を開始
    • [27]1914年 欧州大戦で輸入薬品の供給が杜絶、薬品市場が混乱
    • [28]内林工場の補強
    • [29]1914年8月 市外中津町に武田薬品試験所を設置
    • [30]武田二郎氏(五代長兵衛氏の実弟)が研究を指導
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [20]1908年 武田薬品試験部・研究部を設置(研究所の母体)
    • [21]五代長兵衛氏の四つの構想
    • [22]地方特約店による「サギウロコ会」の組織
    • [23]1915〜1918年 大規模工場を建設(現大阪工場)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
    • [24]明治期に本格的な製薬事業はほとんど起こらず
    • [25]明治末期の国内生産品 薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ
    • [26]輸入商へ発展した薬種問屋の商業活動が盛ん
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1914年8月 武田研究部を設置

自社製造への転換と株式会社への移行

1915年10月、武田は市外神津村に武田製薬所を創設[32]した。現在の大阪工場が建つ場所[33]で、ここで医薬品の研究・製造・試験にあたった。1918年にはこれら製造部門と研究部門を分離独立させ、資本金100万円の武田製薬株式会社を設立[34]している。当時製造に成功した薬品は約30種に及び[35]、業界で払底していた医薬品の補充にあてられた。1921年8月には大五製薬合資会社を[36]、1922年6月には武田化学薬品株式会社を設けた[37]。前者は1946年6月に日本製薬株式会社へ、後者は1947年10月に和光純薬工業株式会社へ[38]社名を変えた。

  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1915年10月 武田製薬所を開設(現大阪工場)
    • [36]1921年8月 大五製薬合資会社を設立
    • [37]1922年6月 武田化学薬品株式会社を設立
    • [38]1946年6月 日本製薬へ社名変更/1947年10月 和光純薬工業へ社名変更
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [33]神津村=現在の大阪工場所在地
    • [34]1918年 製造・研究部門を分離独立、資本金100万円の武田製薬を設立
    • [35]製造に成功した薬品 約30種

大戦が終わって欧州からの輸入が再開すると、品質と採算の両面で輸入品に対抗できない薬品が現れ、一部は製造中止や規模の縮小を迫られた[39]。1925年1月、武田長兵衛商店と、先に分離していた武田製薬とが合併し、資本金530万円で[40]株式会社武田長兵衛商店が設立された[41]。設立日は1月29日[42]で、製造と販売の両部門を持つ法人組織となる[43]。商標として1898年に登録されていたウロコの標章[44]は、魚鱗をかたどり、樹木と同じく年輪を描いて年々大きく丈夫になるという縁起[45]に由来する。この標章は1943年に社名を武田薬品工業へ改めた際、社章として定められた[46]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [39]大戦後の輸入再開で品質・採算に耐えぬ薬品が製造中止・規模縮小
    • [40]1925年1月 武田長兵衛商店と武田製薬が合併、資本金530万円
    • [43]製造と販売の両部門を持つ法人組織
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1925年1月 株式会社武田長兵衛商店を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [42]設立日 1925年1月29日
    • [44]1898年 ウロコの標章を商標登録
    • [45]ウロコ=魚鱗、年輪を描いて大きくなる縁起に由来
    • [46]1943年 社名変更と同時に社章として制定
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1915年10月 武田製薬所を開設(現大阪工場)
    • [36]1921年8月 大五製薬合資会社を設立
    • [37]1922年6月 武田化学薬品株式会社を設立
    • [38]1946年6月 日本製薬へ社名変更/1947年10月 和光純薬工業へ社名変更
    • [41]1925年1月 株式会社武田長兵衛商店を設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [33]神津村=現在の大阪工場所在地
    • [34]1918年 製造・研究部門を分離独立、資本金100万円の武田製薬を設立
    • [35]製造に成功した薬品 約30種
    • [39]大戦後の輸入再開で品質・採算に耐えぬ薬品が製造中止・規模縮小
    • [40]1925年1月 武田長兵衛商店と武田製薬が合併、資本金530万円
    • [43]製造と販売の両部門を持つ法人組織
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [42]設立日 1925年1月29日
    • [44]1898年 ウロコの標章を商標登録
    • [45]ウロコ=魚鱗、年輪を描いて大きくなる縁起に由来
    • [46]1943年 社名変更と同時に社章として制定

研究所の整備と、大陸・南方への出張所網

昭和に入ると、武田は研究所の人材養成と設備の充実、付属図書館の整備[47]を進め、あわせて大阪工場の近代化に取り組んだ[48]。新薬では強力メタボリンなどビタミン剤の合成に成功[49]し、スルファミン剤といった化学療法剤の製造にも着手[50]した。1934年の経済恐慌では業界も相当の影響[51]を受けた。販売の拡張にも力を注いだ結果、経営規模は次第に大きくなり、この間に海外へも進出してアジア各地に農園・出張所・駐在所を設けた[52]。1927年の台湾嘉義と1929年の沖縄の薬草園開設[53]を皮切りに、1934年から1938年にかけては奉天・台北・大連・上海・京城・天津・広東・バンコック・ボンベイなどへ出張所を開いた[54]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [47]昭和期 研究所の人材養成・設備充実・付属図書館の整備
    • [48]大阪工場の近代化
    • [49]強力メタボリンなどビタミン剤の合成に成功
    • [50]スルファミン剤など化学療法剤の製造に着手
    • [51]1934年 経済恐慌の影響下でも堅実経営で社礎を固める
    • [52]アジア各地に農園・出張所・駐在所を設置
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [53]1927年 台湾嘉義/1929年 沖縄に薬草園を開設
    • [54]1934〜1938年 奉天・台北・大連・上海・京城・天津・広東・バンコック・ボンベイに出張所

国産医薬品の創製に向けた研究は、1937年のビタミンC、1938年のB1、1942年のKの合成[55]という成果に結びついた。1940年には五代長兵衛氏が武田家の『規』を定め[56]『公に向ひ国に奉ずるを第一義とすること』[引用元]を筆頭に五箇条[57]を掲げている。1943年8月、社名を武田薬品工業へ改める[58]とともに武田鋭太郎氏が社長に就き、六代目を襲名[59]した。前社長の五代長兵衛氏は和敬と改名して相談役に退いた[60]。翌1944年7月には東京の小西薬品とラヂウム製薬を吸収合併[61]し、これが後の東京支店と東京工場の基礎となった[62]。資本金は同月3,570万円となった[63]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [55]1937年ビタミンC・1938年B1・1942年Kの合成に成功
    • [56]1940年 五代長兵衛氏が武田家の『規』を制定
    • [57]『規』第一条「公に向ひ国に奉ずるを第一義とすること」
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [58]1943年8月 武田薬品工業へ社名変更
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [59]1943年8月 武田鋭太郎氏が社長就任、六代武田長兵衛を襲名
    • [60]五代長兵衛氏は和敬と改名し相談役へ
    • [61]1944年7月 小西薬品・ラヂウム製薬を吸収合併
    • [62]合併が東京支店・東京工場の基礎に
    • [63]1944年7月 資本金3,570万円
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [47]昭和期 研究所の人材養成・設備充実・付属図書館の整備
    • [48]大阪工場の近代化
    • [49]強力メタボリンなどビタミン剤の合成に成功
    • [50]スルファミン剤など化学療法剤の製造に着手
    • [51]1934年 経済恐慌の影響下でも堅実経営で社礎を固める
    • [52]アジア各地に農園・出張所・駐在所を設置
    • [59]1943年8月 武田鋭太郎氏が社長就任、六代武田長兵衛を襲名
    • [60]五代長兵衛氏は和敬と改名し相談役へ
    • [61]1944年7月 小西薬品・ラヂウム製薬を吸収合併
    • [62]合併が東京支店・東京工場の基礎に
    • [63]1944年7月 資本金3,570万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [53]1927年 台湾嘉義/1929年 沖縄に薬草園を開設
    • [54]1934〜1938年 奉天・台北・大連・上海・京城・天津・広東・バンコック・ボンベイに出張所
    • [55]1937年ビタミンC・1938年B1・1942年Kの合成に成功
    • [56]1940年 五代長兵衛氏が武田家の『規』を制定
    • [57]『規』第一条「公に向ひ国に奉ずるを第一義とすること」
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [58]1943年8月 武田薬品工業へ社名変更

戦後復興と株式上場

戦後の混乱期にも武田は生産設備が無事だったため、所持していた原料と入手できる限りの原料で[64]ビタミンB剤・C剤・ブドウ糖注射薬などを生産[65]した。製剤を闇販売に回さず正規のルートで一般へ供給し[66]、この方針が世の信用を高めている。1946年5月には山口県の旧海軍光工廠跡を取得し[67]、細菌製剤を主とする光工場の建設に着手した[68]。北海道には札幌工場を新設[69]した。工場は大阪・神奈川・猪名川・東京・光・札幌の六つとなり、その生産高は全国生産高の11〜12%[70]に達する。販売網も広がり、東京・札幌・福岡の三支店に名古屋・広島・仙台の出張所を加え、特約店は1,700軒[71]を数えた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [64]戦後 生産設備が無事で原料の範囲で生産を継続
    • [65]生産品目 ビタミンB剤・C剤・ブドウ糖注射薬
    • [66]闇販売に回さず正規ルートで供給し信用を高める
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [67]1946年5月 旧海軍光工廠跡を取得し光工場を建設
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [68]光工場は細菌製剤を主とする
    • [69]北海道に札幌工場を新設
    • [70]六工場体制/生産高は全国生産高の11〜12%
    • [71]三支店・三出張所/特約店1,700軒

1949年5月、武田は東京証券取引所と大阪証券取引所へ株式を上場[72]した。技術面でも成果が続き、1952年12月にはビタミンKの製造法が世界的に優れたものとして米国サイアナミッド社へ貸与[73]された。1953年には研究陣が『サントニン合成法』を発見[74]している。世界の化学界で最難関とされていた合成[75]にあたる。資本金は戦後数次の増額を経て1953年6月に14億円、1954年6月に21億円[76]となり、1955年3月期の総売上高は66億3,000万円に達した[77]。原料の確保では福知山に大試験農場を開いた[78]

  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [72]1949年5月 東京・大阪両証券取引所へ株式を上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [73]1952年12月 ビタミンK製造法を米国サイアナミッド社へ技術貸与
    • [74]1953年 研究陣が「サントニン合成法」を発見
    • [75]サントニン合成は世界の化学界で最難関とされた
    • [76]資本金 1953年6月14億円/1954年6月21億円
    • [77]1955年3月期 総売上高66億3,000万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [78]福知山に大試験農場を開設
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [64]戦後 生産設備が無事で原料の範囲で生産を継続
    • [65]生産品目 ビタミンB剤・C剤・ブドウ糖注射薬
    • [66]闇販売に回さず正規ルートで供給し信用を高める
    • [78]福知山に大試験農場を開設
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [67]1946年5月 旧海軍光工廠跡を取得し光工場を建設
    • [72]1949年5月 東京・大阪両証券取引所へ株式を上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [68]光工場は細菌製剤を主とする
    • [69]北海道に札幌工場を新設
    • [70]六工場体制/生産高は全国生産高の11〜12%
    • [71]三支店・三出張所/特約店1,700軒
    • [73]1952年12月 ビタミンK製造法を米国サイアナミッド社へ技術貸与
    • [74]1953年 研究陣が「サントニン合成法」を発見
    • [75]サントニン合成は世界の化学界で最難関とされた
    • [76]資本金 1953年6月14億円/1954年6月21億円
    • [77]1955年3月期 総売上高66億3,000万円

アリナミンと、多角化が広げた事業構成

1954年3月、武田はビタミンB1誘導体を有効成分とする大衆薬『アリナミン』を発売した。ビタミン剤は戦後の武田を支える柱となり、1968年の時点で売上高の27%ほどを占めている[79]。医薬品全体では売上の65%にあたり、そのうちビタミン剤が40%以上[80]を占めた。主力のビタミン剤は日本の生産高のおよそ4割に達する[81]。医薬品以外では、全国の米穀店を販売網とする『プラッシー』や複合調味料『いの一番』[82]を擁する食品部門が伸び、1968年には全体の17%を占めた[83]。1962年8月には台湾へ台湾武田Ltd.を設けている[84]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [79]1968年 ビタミン剤が売上高の約27%
    • [80]1968年 医薬品が売上の65%、うちビタミン剤が40%以上
    • [81]ビタミン剤は国内生産高の約4割
    • [82]食品部門の主力 プラッシー・いの一番
    • [83]1968年 食品部門が全体の17%
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [84]1962年8月 台湾武田Ltd.を設立

1968年の武田は、製薬・医薬品販売・食品・化学品・農薬・外国の各事業部と研究開発部制[85]を敷き、年間売上高は1,200億円に達した[86]。資本金は150億円、従業員は1万1,611名[87]を数える。工場は光のほか清水・高砂・湘南・徳山に置かれ[88]、各工場が所属事業部に応じて連係した。関係会社には吉富製薬・大五栄養化学・日本レダリー・和光純薬工業・武田食品工業などが並ぶ[89]。医薬品に関連する食品や化粧品、農薬へ進出を重ねた[90]結果、武田は医薬品を中核に置きながら食品・化学品・農薬を抱える会社となった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [85]1968年 製薬・医薬品販売・食品・化学品・農薬・外国の事業部制と研究開発部制
    • [86]1968年 年間売上高1,200億円
    • [87]1968年 資本金150億円・従業員11,611名
    • [88]工場 光・清水・高砂・湘南・徳山
    • [89]関係会社 吉富製薬・大五栄養化学・日本レダリー・和光純薬工業・武田食品工業ほか
    • [90]医薬品関連の食品・化粧品・農薬へ進出

1959年、武田は腸内殺菌薬として使われていたキノホルム製剤の販売を始めた。1960年代に入ると、下痢の治療後に視覚障害や歩行障害を伴う神経症状が各地で報告され、のちにスモンと呼ばれる薬害が社会問題となる。国は1970年にキノホルム製剤の販売を中止させ、1970年代半ばには全国で集団訴訟が起こされた。武田は1977年から和解と補償に備えて訴訟引当金の計上を始めており、その負担は長く残った。連結貸借対照表には『スモン訴訟填補引当金』の科目が置かれ、2010年3月期で27億7,900万円、2013年3月期でも23億8,600万円[91]が計上されている。

  • 武田薬品工業 有価証券報告書(連結貸借対照表)
    • [91]スモン訴訟填補引当金 2010年3月期27億7,900万円/2013年3月期23億8,600万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [79]1968年 ビタミン剤が売上高の約27%
    • [80]1968年 医薬品が売上の65%、うちビタミン剤が40%以上
    • [81]ビタミン剤は国内生産高の約4割
    • [82]食品部門の主力 プラッシー・いの一番
    • [83]1968年 食品部門が全体の17%
    • [85]1968年 製薬・医薬品販売・食品・化学品・農薬・外国の事業部制と研究開発部制
    • [86]1968年 年間売上高1,200億円
    • [87]1968年 資本金150億円・従業員11,611名
    • [88]工場 光・清水・高砂・湘南・徳山
    • [89]関係会社 吉富製薬・大五栄養化学・日本レダリー・和光純薬工業・武田食品工業ほか
    • [90]医薬品関連の食品・化粧品・農薬へ進出
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [84]1962年8月 台湾武田Ltd.を設立
  • 武田薬品工業 有価証券報告書(連結貸借対照表)
    • [91]スモン訴訟填補引当金 2010年3月期27億7,900万円/2013年3月期23億8,600万円

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武田薬品工業の沿革1781〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1781〜1925年道修町の薬種仲買から、輸入途絶が促した自社製造へ武田薬品工業創業——道修町の薬種仲買から自社製造の製薬企業へ

1781年6月、初代武田長兵衛氏が大阪・道修町で『近江屋長兵衛』を屋号として和漢薬種商を開いた。幕府公認の株仲間が薬の集散を握る道修町で、自家製造を持たず仕入と転売の差益で立つ仲買業として発足し、当主が『武田長兵衛』を襲名する慣行で信用を継いだ。1871年に4代目が洋薬輸入へ広げ、第一次大戦の輸入途絶を機に1915年武田製薬所で自社製造へ転じ、1925年に株式会社武田長兵衛商店、1943年に武田薬品工業へ改称、1949年に東京・大阪両取引所へ上場した。

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★★★
洋薬の輸入買付を開始★★
医薬品の製造に参入★★
五代武田長兵衛氏が家業を継承
武田研究部を設置
武田製薬所を新設★★
武田製薬を設立★★
大五製薬を設立
武田化学薬品を設立
武田製薬と合併し武田長兵衛商店を設立★★
1926〜1975年戦時下の拡張と、ビタミン剤が築いた収益基盤海外出張所の開設を開始
ビタミンB1の合成に成功★★
武田長兵衛武田薬品工業に商号変更★★
武田長兵衛小西薬品・ラヂウム製薬を吸収合併
武田長兵衛光工場を新設
武田長兵衛東京・大阪の各証券取引所に上場
武田長兵衛総合ビタミン剤「パンビタン」を発売★★
武田長兵衛大衆薬「アリナミン」を発売★★
武田長兵衛キノホルム製剤の販売を開始★★
武田長兵衛事業部制を導入
武田長兵衛台湾武田Ltd.を設立
武田長兵衛年間売上高が1200億円に到達
武田長兵衛行政の指示によりキノホルム製剤が販売中止★★
小西新兵衛スモン訴訟填補引当金の計上を開始★★
小西新兵衛医薬品の販売を開始
倉林育四郎前立腺がん治療薬「リュープロン」を発売★★
倉林育四郎アボット・ラボラトリーズとの合弁でTAPファーマシューティカルズを設立★★
森田桂消化性潰瘍薬ランソプラゾールを発売★★
森田桂タケダ・アメリカを設立
武田國男非医薬事業を切り、医療用医薬品に絞った武田國男氏の選択と集中

1993年に社長へ就いた武田國男氏が、食品・化学品・農薬・ビタミン・動物用医薬品といった非医薬事業を1990年代から2000年代にかけて順次売却し、経営資源を医療用医薬品へ集中させた判断。人員削減とカンパニー制で身軽にし、高配当と国際化を掲げた。

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★★★
武田國男経営幹部に成果重視の人事評価・報酬制度を導入
武田國男中期経営計画「95/00」を開始★★
武田國男医療用医薬品以外の5事業にカンパニー制を導入★★
武田國男武田ファーマシューティカルズ・アメリカを設立★★
武田國男修正中期経営計画で4つの数値目標を設定★★
武田國男糖尿病治療薬「アクトス」を発売★★
武田國男ROE12%を達成★★
2003〜2026年買収で得た規模と、創薬力の再建という課題長谷川閑史長谷川閑史氏が社長に就任★★
長谷川閑史日本エンバイロケミカルズの株式を大阪ガスケミカルに譲渡★★
長谷川閑史TAPファーマシューティカルズを完全子会社化★★
長谷川閑史北米処方薬事業の本格化——TAP合弁の解消とミレニアム買収

2008年、武田薬品工業が長谷川閑史社長の下で、米アボットとのTAP合弁を解消してTAPを完全子会社化し、同じ年に米バイオ医薬品企業ミレニアム・ファーマシューティカルズを約88億ドルで買収して、北米の処方薬事業を自前で握った経営判断。がん治療薬ベルケイドを軸にオンコロジー領域へ本格参入した。

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★★★
長谷川閑史湘南研究所を開設★★
長谷川閑史ナイコメッドの約1.1兆円買収による欧州・新興国販売網の一括取得

2011年、武田薬品工業は長谷川閑史社長の主導で、欧州と新興国に販売網を持つスイスのナイコメッドを96億ユーロ(約1兆1,000億円)で買収した。主力薬の特許切れを控え、自前で販売網を築く時間を買収で短縮し、進出国を28から70超へ広げた経営判断。対価は現金のみで、実質無借金だった財務に約6,000億円の借入を加えた。

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★★★
長谷川閑史有利子負債が5428億円に増加
クリストフウェバークリストフ・ウェバー氏が社長に就任★★
クリストフウェバー外国人CEOクリストフ・ウェバー氏の招聘とグローバル経営体制への転換

2014年6月、武田薬品工業は長谷川閑史社長と取締役会のもとで、英グラクソ・スミスクライン出身のクリストフ・ウェバー氏を代表取締役社長に招き(2015年4月にCEO就任)、創業家・日本人中心の経営から外国人トップによるグローバル経営体制へ転換した経営判断。

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クリストフウェバー日本の長期収載品事業を会社分割により分離★★
クリストフウェバー公開買付けによりアリアド・ファーマシューティカルズを子会社化★★
クリストフウェバー和光純薬工業の株式を富士フイルムに譲渡★★
クリストフウェバー湘南ヘルスイノベーションパークを開設
クリストフウェバー武田グローバル本社を開設
クリストフウェバーニューヨーク証券取引所に米国預託証券を上場
クリストフウェバー自前創薬の限界を越えるための約6兆8000億円のシャイアー買収

2018年5月に武田薬品工業がアイルランドのシャイアーへ約460億ポンド(公表時の円換算で約6兆8000億円)の買収を申し出て、2019年1月に完了した経営判断。クリストフ・ウェバー社長CEOが主導し、希少疾患・血漿分画製剤・消化器・神経の重点領域を一括で取得した、日本企業として過去最大級のクロスボーダーM&Aである。

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クリストフウェバー有利子負債が5兆7510億円に増加
クリストフウェバー連結売上収益が3兆2912億円に増加★★
クリストフウェバー大衆薬事業のブラックストーンへの売却

2020年8月、武田薬品工業がビタミン剤アリナミンなどの一般用医薬品(大衆薬)を手がける完全子会社、武田コンシューマーヘルスケアを、米ブラックストーンが運用するファンドへ企業価値2,420億円で売却すると発表し、2021年3月31日に譲渡を完了した判断。ウェバー社長のもとで進めた資産売却戦略の一つにあたる。

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クリストフウェバー年間1400億円をかけた構造改革を発表★★
クリストフウェバー武田テバファーマの株式をTevaに譲渡★★
クリストフウェバー純損失1524億円を計上★★
クリストフウェバージュリー・キム氏がCEOに就任予定
出典・参考
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
  • 武田薬品工業 有価証券報告書(連結貸借対照表)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)

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