重要な意思決定
1989

リュープリンを発売

背景

米国市場への自社展開を阻む構造的制約

1980年代半ば、日本の製薬企業は研究力の向上にもかかわらず、欧米市場で自社販売網を構築する段階には至っていなかった。新薬はライセンス供与による技術輸出にとどまり、販売や承認プロセスは欧米企業に依存する構造が続いていた。

武田薬品は1985年に米アボット社との合弁で米国現地法人を設立したが、当初は有力な自社開発品を欠き競争の激しい米国市場で業績は伸び悩んだ。研究力は蓄積されつつあったが、それを事業成果へ転換する道筋は定まっていなかった。

決断

抗生物質の開発中止とリュープリンへの経営資源集中

米国現地法人の責任者であった武田國男は、限られた開発資源を分散させる限り米国市場での生存は困難であると判断した。当時主流であった抗生物質分野は競争が激しく後発で勝ち切る余地は小さいと見極め、開発中止という痛みを伴う決断を下した。

その上でがん治療薬として開発が進んでいた「リュープリン」に経営資源を集中させた。投与回数を抑えた改良型製剤として投入することで臨床現場での差別化を図り、規制対応から販売までを自社で担う体制を整えた。撤退覚悟の集中投資であった。

結果

グローバル売上1000億円超を達成し自社展開モデルを実証

1989年に米国で発売されたリュープリンは、投与回数の少なさを背景に米国市場で急速に売上を拡大した。FY1995時点で国内217億円、米国638億円、欧州ほか153億円の売上を計上し、グローバルで1000億円を超える大型医薬品に到達した。

リュープリンは日本発の創薬を自社販売網で世界市場に展開するモデルを初めて実証した製品となった。この成功は武田薬品のその後の海外投資判断の基準となり、武田國男が後年社長として推進する「選択と集中」路線の原型を形成した。