田辺製薬 の歴史

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創業 1678年
創業者 田邊屋五兵衞
創業地 大阪市
創業
1678年、田邊屋五兵衞が大坂・土佐堀で『たなべや薬』の看板を掲げた。享保年間の1720年ごろに薬種商を営んだとする別の記録もあり、創業年は二つ残る。寛政年間には道修町へ店を移して田辺五兵衞商店と称し、明治の中ごろからは海外の医薬品を輸入して紹介する商いに力を入れた。薬を作る側へ移らせたのは自社の計画ではない。1914年に欧州大戦が起きて海外薬品の輸入が途絶え、輸入して売る商いが成り立たなくなったため、1916年5月に大阪市北区へ本庄工場を建てて国産化に着手した。1925年8月には山口県小野田市にサリチル酸の工場を持ち、1931年には本庄工場内へ研究所を置く。個人組織を株式会社へ改組したのは1933年12月、社名を田邊製薬としたのは1943年8月である。
決断
事業の向きを変えたのは、いつも社外から来た断絶だった。1914年の輸入途絶が薬種商を製造業へ移し、戦後は1949年5月の東京・大阪への上場と海外拠点の設置が規模を広げる。1953年には米チャールス・ファイザーとの同額出資でファイザー田辺を設立し、抗生物質テラマイシンを国内で生産した。心臓病薬ヘルベッサーは101カ国で売れ、輸出比率19%は業界で最も高い。ところが2年に一度の薬価改定は、売上の7割を占める医療用医薬品の価格を毎回引き下げていく。1996年から3年続いた改定を前に、1998年1月、田中登志於社長は全社員へ「非常事態」を宣言し、構造改革委員会を設けた。開発期間の短縮と間接部門の効率化に入ったが、値段を自社で決められないという前提までは動かせなかった。
現況
最後の6年、売上は減り続けたのに利益は落ちなかった。連結売上高は2002年3月期の1897億円から2004年3月期に1736億円まで縮み、2007年3月期でも1775億円にとどまる。一方で経常利益は322億円から323億円と横ばいを保ち、当期純利益は125億円から202億円へ増えた。2001年9月に大正製薬との共同持株会社を二か月半で白紙に戻したあとの6年は、抱えた事業を外へ出す期間になっている。2002年2月に430人が希望退職へ応募し、同年11月に動物薬事業を大日本製薬へ譲渡、2005年10月には小野田工場を会社分割して山口田辺製薬とした。2007年10月、三菱ウェルファーマとの合併で田辺三菱製薬が発足し、1949年5月から58年続いた上場が終わる。
競合
医療用で相手の2倍を売りながら、資本では0.55と値付けされた。2001年9月に合意した大正製薬との共同持株会社は、株式移転比率が大正1に対し田辺0.55で、全社の売上高も大正2700億円が田辺1900億円を上回る。ただし医療用医薬品に限れば田辺1500億円に対し大正は700億円強にとどまり、利益は大衆薬の側から出て医療用へ向かう設計だった。その4年後には山之内製薬と藤沢薬品工業が重ならない領域を持ち寄って合併し三共と第一製薬が持株会社を先に置いて統合する。対等をうたって主導権を争った田辺製薬が6年後に選んだ相手は、三菱ケミカルホールディングスを親会社に持つ三菱ウェルファーマである。規模の順位を争う場所から降り、資本の下で役割を決めてもらう側へ回ったことが、329年続いた商いの終わり方を決めた。
田辺製薬:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1978年4月期2007年3月期

創業ストーリー 道修町の薬種商が、薬を作る会社になるまで (1678年〜)

道修町の薬種商が、薬を作る会社になるまで

創業年が二つある薬種商と、道修町への移転

創業年には二つの記録が残り、一つは延宝6年、すなわち1678年に田邊屋五兵衞が大坂・土佐堀へ『たなべや薬』の看板を掲げた[1]とするもの、もう一つは享保年間の1720年ごろに第十四代田辺五兵衞氏の祖先が大坂の地で薬種商を営んだ[2]とするものである。二つの年には40年あまりの開きがあるが、出発点が薬種商であった点は変わらず、以後は薬種問屋の田辺屋五兵衞として続き、寛政年間には店舗を道修町へ移して田辺五兵衞商店と称した[3]。明治の中ごろに日本でも西洋医学が盛んになると、海外の優秀な医薬品を輸入して紹介する仕事に力を入れ、そこからさらに進んで医薬品の国内生産へ移った[4]

  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [1]延宝6年(1678年)田邊屋五兵衛、大阪土佐堀に「たなべや薬」を看板に創業
    • [2]享保年間(1720年ごろ)第十四代田辺五兵衞氏の祖先が大阪で薬種商を営んだのが濫觴
    • [3]薬種問屋 田辺屋五兵衞として栄え、寛政年間に店舗を道修町へ移し田辺五兵衞商店として営む
    • [4]明治中ごろの西洋医学の隆盛にともなう海外の優秀な医薬品の輸入紹介と国内生産への発展

薬を売る商いから作る商いへ移らせたのは自社の計画ではなく供給の断絶で、1914年に欧州大戦が起きて海外薬品の輸入が杜絶し、輸入して売るという商いが成り立たなくなった[5]。そこで国内製造の本格化を決め、1916年5月に大阪市北区へ本庄工場を建て、各種薬品の国産化に乗り出した[6]。工場の所在地の記録は大阪市北区と大阪市東淀川区に分かれる[7]。大戦の終結にともなう反動と関東大震災による不況を経た1925年8月には、山口県小野田市へサリチル酸とその誘導体の製造工場を持った[8]。1931年には本庄工場内に研究所を置き、薬品の改良と新薬の合成に着手した[9]

    • [5]大正3年 欧州大戦の勃発により海外薬品の輸入が杜絶したため国内製造を本格化
    • [7]本庄工場の所在地を大阪市東淀川区とする記録
    • [8]大正14年 山口県小野田市にサリチル酸とその誘導体の製造工場を設置
    • [9]昭和6年 本庄工場内に研究所を設置し薬品の改良および新薬の合成を実施
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [6]大正5年5月 大阪市北区に本庄工場を建設し各種薬品の国産化体制に乗り出す
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [1]延宝6年(1678年)田邊屋五兵衛、大阪土佐堀に「たなべや薬」を看板に創業
    • [6]大正5年5月 大阪市北区に本庄工場を建設し各種薬品の国産化体制に乗り出す
    • [2]享保年間(1720年ごろ)第十四代田辺五兵衞氏の祖先が大阪で薬種商を営んだのが濫觴
    • [3]薬種問屋 田辺屋五兵衞として栄え、寛政年間に店舗を道修町へ移し田辺五兵衞商店として営む
    • [4]明治中ごろの西洋医学の隆盛にともなう海外の優秀な医薬品の輸入紹介と国内生産への発展
    • [5]大正3年 欧州大戦の勃発により海外薬品の輸入が杜絶したため国内製造を本格化
    • [7]本庄工場の所在地を大阪市東淀川区とする記録
    • [8]大正14年 山口県小野田市にサリチル酸とその誘導体の製造工場を設置
    • [9]昭和6年 本庄工場内に研究所を設置し薬品の改良および新薬の合成を実施

株式会社への改組と、戦時下に増えた工場

1933年12月、個人組織の田邊五兵衞商店を資本金415万円の株式会社へ改組した[10]。以後の増資は工場の拡張と結びつき、1935年に資本金を460万円、1936年に500万円、1937年に550万円と積み増して工場を広げ、東京世田谷には研究所を新設した[11]。1938年から1939年にかけては大阪の加島に本格的な工場を建て[12]、生産をここに集めた[13]。翌1939年、東京日本橋本町に東京出張所を開いて関東方面の販路開拓に当たり[14]、1940年には加島工場内へ大阪研究所を新築して本庄工場内の研究所を移した[15]。1941年には大阪市内に13工場と中津工場を新設している[16]

  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [10]昭和8年12月 個人組織の田邊五兵衛商店を株式会社に改組(資本金415万円)
    • [12]昭和14年7月 大阪市淀川区加島に加島工場(現在の大阪工場)を建設
    • [11]昭和10年460万円・11年500万円・12年550万円へ増資し東京世田谷に研究所を新設
    • [13]昭和13年 大阪東淀川加島町に本格的工場を建設し生産力を集中
    • [14]昭和14年 東京日本橋本町に東京出張所を開設し関東方面の販路開拓に当たる
    • [15]昭和15年 加島工場内に大阪研究所を新築し本庄工場内の研究所を移転
    • [16]昭和16年 大阪市内に十三・中津の両工場を新設

1941年、第十四代田辺五兵衞氏が社長に就いた[17]。株式会社へ改組したのちも社長の名は初代からの襲名で通したが、社名のほうが先に変わり、1943年8月には屋号に由来する家名を残したまま社名を田邊製薬株式会社と改め[18]、あわせて社章の五輪マークを制定した[19]。翌1944年には企業整備によって国産製薬研究所と日本注射薬品工業を買収し、前者を京都工場、後者を柏原工場とした[20]。1945年の戦災で中津工場は全焼して放棄し、加島・本庄の両工場も3割を焼失、まもなく本社社屋と大阪研究所も焼けて[21]、生産設備と本社と研究所を同時に失った。

    • [17]昭和16年 第十四代田辺五兵衞氏が社長に就任
    • [19]昭和18年 社章の五輪マークを制定し以後製品の商標として使用
    • [20]昭和19年 企業整備により国産製薬研究所および日本注射薬品工業を買収し京都工場・柏原工場とする
    • [21]昭和20年 戦災で中津工場が全焼、加島・本庄両工場も3割を焼失、本社社屋と大阪研究所も焼失
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [18]昭和18年8月 社名を田邊製薬株式会社と改称
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [10]昭和8年12月 個人組織の田邊五兵衛商店を株式会社に改組(資本金415万円)
    • [12]昭和14年7月 大阪市淀川区加島に加島工場(現在の大阪工場)を建設
    • [18]昭和18年8月 社名を田邊製薬株式会社と改称
    • [11]昭和10年460万円・11年500万円・12年550万円へ増資し東京世田谷に研究所を新設
    • [13]昭和13年 大阪東淀川加島町に本格的工場を建設し生産力を集中
    • [14]昭和14年 東京日本橋本町に東京出張所を開設し関東方面の販路開拓に当たる
    • [15]昭和15年 加島工場内に大阪研究所を新築し本庄工場内の研究所を移転
    • [16]昭和16年 大阪市内に十三・中津の両工場を新設
    • [17]昭和16年 第十四代田辺五兵衞氏が社長に就任
    • [19]昭和18年 社章の五輪マークを制定し以後製品の商標として使用
    • [20]昭和19年 企業整備により国産製薬研究所および日本注射薬品工業を買収し京都工場・柏原工場とする
    • [21]昭和20年 戦災で中津工場が全焼、加島・本庄両工場も3割を焼失、本社社屋と大阪研究所も焼失

戦後の再建と上場、海外子会社、そしてスモン

特別経理会社の指定から、東京・大阪への上場まで

復旧は本社工場内に大阪研究所を建て直すところから始め、1947年には本社の新社屋が竣工した[22]。財務の整理も並行し、1946年に特別経理会社の指定を受けたのち、1948年9月に再建整備計画の申請が認可されて資本金を法人改組時の415万円から3000万円へ増額し、11月に指定を解除された[23]。整理を終えた同じ1948年には東京と福岡へ支店を置いて販売網の拡充を図り[24]、あわせて経営の合理化として京都工場を閉鎖して加島工場へ移し、1949年には13工場と柏原工場も閉めて生産力を加島工場に集中させた[25]

    • [22]昭和20年代 本社工場内に大阪研究所を再建し生産力の回復に努める・昭和22年 本社新社屋竣工
    • [23]昭和21年 特別経理会社の指定・昭和23年9月 再建整備計画認可により資本金3000万円へ増額・11月 指定解除
    • [24]昭和23年 東京・福岡に支店を設置し販売網を拡充、京都工場を閉鎖し加島工場へ移転
    • [25]昭和24年 13工場および柏原工場を閉鎖し生産力を加島工場へ集中

1949年5月、田辺製薬の株式は東京・大阪の両証券取引所に上場した[26]。資本金はその後も積み上がり、1950年に6000万円、1951年に1億5000万円、1953年に2億3900万円、1954年8月には4億4760万円となった[27]。販売網も戦前からの東京・福岡に加え、1949年に名古屋、1951年に札幌、1954年には仙台と広島へ出張所を開いて全国に及んだ[28]。本社は大阪市東区道修町3の21に置いたままで[29]、薬種問屋として店を構えた町から動かなかった。1955年時点の事業は医薬品と工業薬品の二つで、社長の座は第十四代田辺五兵衞氏が続けていた[30]

  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [26]昭和24年5月 当社株式を東京・大阪両証券取引所に上場
    • [27]資本金は昭和25年6000万円、26年1億5000万円、28年2億3900万円、29年8月4億4760万円
    • [28]昭和24年名古屋、26年札幌、29年仙台・広島に出張所を開設し販売網が全国的に拡大
    • [29]本社所在地 大阪市東区道修町3の21
    • [30]昭和30年時点 事業=医薬品・工業薬品、社長=田辺五兵衞
    • [22]昭和20年代 本社工場内に大阪研究所を再建し生産力の回復に努める・昭和22年 本社新社屋竣工
    • [23]昭和21年 特別経理会社の指定・昭和23年9月 再建整備計画認可により資本金3000万円へ増額・11月 指定解除
    • [24]昭和23年 東京・福岡に支店を設置し販売網を拡充、京都工場を閉鎖し加島工場へ移転
    • [25]昭和24年 13工場および柏原工場を閉鎖し生産力を加島工場へ集中
    • [27]資本金は昭和25年6000万円、26年1億5000万円、28年2億3900万円、29年8月4億4760万円
    • [28]昭和24年名古屋、26年札幌、29年仙台・広島に出張所を開設し販売網が全国的に拡大
    • [29]本社所在地 大阪市東区道修町3の21
    • [30]昭和30年時点 事業=医薬品・工業薬品、社長=田辺五兵衞
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [26]昭和24年5月 当社株式を東京・大阪両証券取引所に上場

ファイザー田辺と栄研化学、そして海外に並べた拠点

1953年、米チャールス・ファイザー社との同額共同出資でファイザー田辺を設立し、抗生物質テラマイシンをそこで生産した[31]。当時の主製品はニッパス、テラマイシン、ベナ・ネストン、ネストンパール、ナイプレン、ロメジン、ラボナールと多岐にわたり、1955年4月期の売上高は15億6000万円だった[32]。組んだ相手は外資だけではなく、1943年2月には臓器系医薬品の全国販売にあたる栄研化学と販売契約を結んで自社の販売力と卸問屋の流通網を使わせ[33]、同年5月には第三者割当増資を引き受けて資本参加し、戦後の一時期を除いて子会社として抱えた[34]

    • [31]昭和28年 米国チャールスファイザー社との同額共同出資でファイザー田辺を設立しテラマイシンを生産
    • [32]主製品はニッパス・テラマイシン・ベナネストン・ネストンパール・ナイプレン・ロメジン・ラボナール等、昭和30年4月期売上高15億6000万円
    • [33]昭和18年2月 栄研化学が臓器系医薬品の全国販売にあたり田辺製薬と販売契約を締結し、田辺製薬の販売力および流通網(卸問屋)を利用
    • [34]昭和18年5月 第三者割当増資により田辺製薬が資本参加、戦後の一時期を除き栄研化学は田辺製薬の子会社

国産化のために建てた本庄工場は[35]1958年5月に閉鎖し、1960年1月には埼玉県戸田市へ東京工場と東京研究所を建てて[36]、研究の拠点を大阪と東京の二つにした。1962年9月、台湾に台湾田辺製薬股份有限公司を設立し、海外での生産・販売に乗り出した[37]。以後の拠点は10年足らずのあいだに集まり、1970年1月に米カリフォルニア州サンディエゴへタナベU.S.A.社[38]、同年7月にインドネシア・バンドンへタナベ・アバディ社[39]、1972年12月にベルギー・ブリュッセルへタナベ ヨーロッパ社を設立して、米欧亜に足場を並べた[40]。1987年7月には台湾で二社目となる台田薬品股份有限公司を設けており[41]、最初の台湾拠点から25年が経っていた。

  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [35]昭和33年5月 本庄工場を閉鎖
    • [36]昭和35年1月 埼玉県戸田市に東京工場・東京研究所を建設
    • [37]昭和37年9月 台湾に台湾田辺製薬股份有限公司を設立、海外での生産・販売に乗り出す
    • [38]昭和45年1月 アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴにタナベU.S.A.社を設立
    • [39]昭和45年7月 インドネシア・バンドンにタナベ・アバディ社を設立
    • [40]昭和47年12月 ベルギー・ブリュッセルにタナベ ヨーロッパ社を設立
    • [41]昭和62年7月 台湾に台田薬品股份有限公司を設立
    • [31]昭和28年 米国チャールスファイザー社との同額共同出資でファイザー田辺を設立しテラマイシンを生産
    • [32]主製品はニッパス・テラマイシン・ベナネストン・ネストンパール・ナイプレン・ロメジン・ラボナール等、昭和30年4月期売上高15億6000万円
    • [33]昭和18年2月 栄研化学が臓器系医薬品の全国販売にあたり田辺製薬と販売契約を締結し、田辺製薬の販売力および流通網(卸問屋)を利用
    • [34]昭和18年5月 第三者割当増資により田辺製薬が資本参加、戦後の一時期を除き栄研化学は田辺製薬の子会社
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [35]昭和33年5月 本庄工場を閉鎖
    • [36]昭和35年1月 埼玉県戸田市に東京工場・東京研究所を建設
    • [37]昭和37年9月 台湾に台湾田辺製薬股份有限公司を設立、海外での生産・販売に乗り出す
    • [38]昭和45年1月 アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴにタナベU.S.A.社を設立
    • [39]昭和45年7月 インドネシア・バンドンにタナベ・アバディ社を設立
    • [40]昭和47年12月 ベルギー・ブリュッセルにタナベ ヨーロッパ社を設立
    • [41]昭和62年7月 台湾に台田薬品股份有限公司を設立

スモン ── 「キノホルム原因説」の撤回と和解

1979年3月、平林忠雄社長が肺炎で急逝し、その遺志により松原一郎氏が専務・上格常務7人を跳び越して社長へ昇格した[42]。1916年10月に島根県で生まれ、1939年に京城薬学専門学校を卒業して入社し、1951年5月から田辺製薬労働組合の組合長を20年務め、1971年12月に調査広報室主任調査員、1972年8月に総務室付室長、1974年5月に総務室長、1975年7月に取締役、1977年7月に総務担当の常務を経ての就任である[43]。本人は『自分の能力では無理だとも思ったが、経営に空白は許されないと考え引き受けた。難しい時期だけに若さを見込まれたんでしょう』[引用元]と語った。

  • 日経ビジネス 1979年5月21日号
    • [42]肺炎で急逝した平林忠雄前社長の遺志により並み居る先輩を跳び越して社長へ昇格
    • [43]松原一郎氏 大正5年10月11日島根県生まれ、昭和14年京城薬学専門学校卒業後に入社、26年5月組合長、46年12月調査広報室主任調査員、47年8月総務室付室長、49年5月総務室長、50年7月取締役、52年7月常務、54年3月社長就任

就任時に最大の課題であったのがスモン問題である[44]。キノホルムによる薬害をめぐり、田辺製薬はかたくななまでに同社だけが『キノホルム原因説』を否定し続けてきたが、1979年までに事実上これを撤回し、和解するなどの新路線を打ち出した[45]。松原氏は組合長の時代に独自の調査を踏まえてスモン問題で会社側に近い立場をとり、上部組織の合化労連と対立して硬骨漢ぶりを発揮した経緯を持つ[46]。20年におよぶ組合長の経験は社長としては異色の経歴にあたり[47]、原因説の否定から和解へ切り替えた田辺製薬を、その経歴の持ち主が率いた。

  • 日経ビジネス 1979年5月21日号
    • [44]最大の課題であったスモン問題
    • [45]同社だけがかたくななまでに「キノホルム原因説」を否定し続けたが、事実上これを撤回し和解するなど新路線を打ち出した
    • [46]松原一郎氏は組合長時代に独自の調査のうえスモン問題で会社側に近い立場をとり、上部組織の合化労連と対立した
    • [47]労働組合の組合長を20年間務めた、社長としては異色の経歴

松原氏は救済と収益を並べて語り、『会社が倒れてしまってはなにもならない。患者救済を進めるためにも収益向上を図らねば』[引用元]と述べた。製薬業界には健康保険法の改正や薬価の大幅引き下げなど難問も多かった[48]が、『研究開発が実ってきて優秀な新製品が出てきており、心配はない。外国にもどんどん出していきますよ』[引用元]と自信をみせている。社内の運営では『会社が決めたことは経営協議会の場で組合にも詳しく説明して、全社一丸となって経営を前進させていく』[引用元]方針を掲げ、最も重視するものとしてチームワークを挙げた。

  • 日経ビジネス 1979年5月21日号
    • [48]製薬業界には健康保険法の改正や薬価の大幅引き下げなど難問が多かった
  • 日経ビジネス 1979年5月21日号
    • [42]肺炎で急逝した平林忠雄前社長の遺志により並み居る先輩を跳び越して社長へ昇格
    • [43]松原一郎氏 大正5年10月11日島根県生まれ、昭和14年京城薬学専門学校卒業後に入社、26年5月組合長、46年12月調査広報室主任調査員、47年8月総務室付室長、49年5月総務室長、50年7月取締役、52年7月常務、54年3月社長就任
    • [44]最大の課題であったスモン問題
    • [45]同社だけがかたくななまでに「キノホルム原因説」を否定し続けたが、事実上これを撤回し和解するなど新路線を打ち出した
    • [46]松原一郎氏は組合長時代に独自の調査のうえスモン問題で会社側に近い立場をとり、上部組織の合化労連と対立した
    • [47]労働組合の組合長を20年間務めた、社長としては異色の経歴
    • [48]製薬業界には健康保険法の改正や薬価の大幅引き下げなど難問が多かった

ヘルベッサーと薬価 ── 大手八社最下位からの非常事態宣言

「値段が下がり続けているのは日本だけです」

1989年6月に社長へ就いた千畑一郎氏は、1926年8月に大阪府で生まれ、1948年3月に京都大学農学部を卒業して同年4月に入社し、1981年7月に取締役となった[49]研究畑の人物である。酵素工学や固定化生体触媒の研究で多くの受賞歴を持ち、1959年9月には『アミノ酸の酵素的分割』の研究で京都大学から農学博士号[50]を受けている。就任から3年後の取材では『私の嫌いな言葉はYKK』[引用元]と語った。Yは薬害、Kは薬づけと薬九層倍[51]を指す。患者をよく診て能書きを守れば薬害はあり得ず、巨額の研究開発費を考えれば薬九層倍も今や死語で、問題は薬づけにある[52]という説明である。『私たちは捨てられるために薬を作っているのではない』[引用元]とも述べ、研究開発については『製薬会社は研究開発がストップしたら、もう先はないのです』[引用元]と語った。

  • 日経ビジネス 1992年7月6日号
    • [49]千畑一郎氏 1926年8月大阪府生まれ、48年3月京都大学農学部卒業・4月田辺製薬入社、81年7月取締役、89年6月社長就任
    • [50]千畑一郎氏は酵素工学・固定化生体触媒などの研究で多くの受賞歴を持ち、59年9月に「アミノ酸の酵素的分割」の研究で京大から農学博士号
    • [51]YKKの内訳 Yは薬害、Kは薬づけと薬九層倍
    • [52]千畑一郎氏 患者を診て能書きを守れば薬害はあり得ず、薬九層倍は死語で、問題は薬づけにあるとの説明

当時の看板は心臓病薬ヘルベッサーで、海外からも評価されて101カ国で販売され、輸出比率は19%と業界で最も高かった[53]が、米国企業の平均40%、欧州企業の80%と比べれば低い水準にとどまる[54]。欧米の大手10社と日本の大手10社を並べると売上高で5〜6倍、利益率でも欧米の20%に対し日本は平均10%の開き[55]があった。新薬の開発は10年と100億円といわれた時代から『15年、200億円』[引用元]の時代に入り、国内市場だけでは投資費用の回収が難しくなった[56]。日本企業の研究開発費は営業利益の1.3倍に膨らみ、欧米企業が日本企業の6倍の研究費を使いながら営業利益の6割に収めている[57]のとは開きがある。千畑氏は病気の発症メカニズムを先に解明して見合う化合物を探す方向を掲げ、1989年に基礎生物研究所を設けて免疫と神経関係の研究に入り、1991年1月には米国にも免疫とアレルギー関係の基礎研究所を置いた[58]

  • 日経ビジネス 1992年7月6日号
    • [53]ヘルベッサーは心臓病薬として海外からも評価され101カ国で販売、輸出比率19%は業界トップ
    • [54]海外大手の輸出比率は米国企業で平均40%、欧州企業で80%
    • [55]欧米の大手10社と日本の大手10社の比較では売上高が日本の5〜6倍、利益率は日本企業平均10%に対し欧米企業20%
    • [56]新薬開発は10年・100億円の時代から15年・200億円の時代へ入り国内市場だけでは投資回収が困難
    • [57]日本企業の研究開発費は営業利益の1.3倍、欧米企業は6倍の研究費を使いつつ営業利益の6割に収まる
    • [58]3年前に基礎生物研究所を設立し免疫と神経関係の研究を実施、前年1月に米国へ免疫・アレルギー関係の基礎研究所を設置

医療機関向け医薬品の公定価格である薬価は2年に一度引き下げられ、1992年4月の改定では業界平均の下げ幅が8.1%に達し、下げ率の大きかった抗生物質の比重が低い田辺製薬は5.9%にとどまった[59]が、既存薬の利益がその分減るため業績に与える影響は小さくない[60]。この10年間で平均的な薬価は50%以下になり、米国や英国では2倍以上になっている[61]と千畑氏は述べ、『値段が下がり続けているのは日本だけです』[引用元]と言い切った。医療機関の経営は年間1兆3000億円といわれる薬価差益に依存し[62]、政府が差益の解消を目指して薬価を引き下げるたびに、医療機関はそれを上回る値引きを要求する。千畑氏はこれを『アリ地獄[63]』と呼び、1991年11月ごろから卸への仕切価格を全国統一とし、医療機関との価格交渉をすべて卸が行う形に改めて、値引補償という名でメーカーが卸のマージンを補填する慣行を廃止した[64]

  • 日経ビジネス 1992年7月6日号
    • [59]1992年4月の薬価改定は業界平均8.1%の引き下げ、田辺製薬は抗生物質の比重が低く5.9%
    • [60]既存薬の利益がその分減るため業績に与える影響は決して小さくない
    • [61]千畑一郎氏 10年で平均薬価は50%以下、米英では2倍以上との発言
    • [62]医療機関の経営は年間1兆3000億円といわれる薬価差益に大きく依存
    • [63]千畑一郎氏 薬価引き下げと値引き要求の循環をアリ地獄と表現
    • [64]1991年11月ごろから卸への仕切価格を全国統一し価格交渉を卸へ一本化、値引補償によるマージン補填を廃止
  • 日経ビジネス 1992年7月6日号
    • [49]千畑一郎氏 1926年8月大阪府生まれ、48年3月京都大学農学部卒業・4月田辺製薬入社、81年7月取締役、89年6月社長就任
    • [50]千畑一郎氏は酵素工学・固定化生体触媒などの研究で多くの受賞歴を持ち、59年9月に「アミノ酸の酵素的分割」の研究で京大から農学博士号
    • [51]YKKの内訳 Yは薬害、Kは薬づけと薬九層倍
    • [52]千畑一郎氏 患者を診て能書きを守れば薬害はあり得ず、薬九層倍は死語で、問題は薬づけにあるとの説明
    • [53]ヘルベッサーは心臓病薬として海外からも評価され101カ国で販売、輸出比率19%は業界トップ
    • [54]海外大手の輸出比率は米国企業で平均40%、欧州企業で80%
    • [55]欧米の大手10社と日本の大手10社の比較では売上高が日本の5〜6倍、利益率は日本企業平均10%に対し欧米企業20%
    • [56]新薬開発は10年・100億円の時代から15年・200億円の時代へ入り国内市場だけでは投資回収が困難
    • [57]日本企業の研究開発費は営業利益の1.3倍、欧米企業は6倍の研究費を使いつつ営業利益の6割に収まる
    • [58]3年前に基礎生物研究所を設立し免疫と神経関係の研究を実施、前年1月に米国へ免疫・アレルギー関係の基礎研究所を設置
    • [59]1992年4月の薬価改定は業界平均8.1%の引き下げ、田辺製薬は抗生物質の比重が低く5.9%
    • [60]既存薬の利益がその分減るため業績に与える影響は決して小さくない
    • [61]千畑一郎氏 10年で平均薬価は50%以下、米英では2倍以上との発言
    • [62]医療機関の経営は年間1兆3000億円といわれる薬価差益に大きく依存
    • [63]千畑一郎氏 薬価引き下げと値引き要求の循環をアリ地獄と表現
    • [64]1991年11月ごろから卸への仕切価格を全国統一し価格交渉を卸へ一本化、値引補償によるマージン補填を廃止

大手八社で最下位の収益力と、「非常事態」宣言

1997年6月に社長へ就いた田中登志於氏は、1935年6月に福井県で生まれ、1959年3月に京都大学農学部を卒業して同月に入社し、1990年に開発統括センター所長、1991年に取締役、1994年に常務、1995年に専務を経ての就任である[65]。自ら開発を手がけた製品には1991年発売の疲労回復用カプセル剤ナンパオ[66]がある。薬効成分を持つ天然素材のみを配合した薬局向けの薬として日本で初めての製品となり[67]、厚生省の認可に時間がかかって一時は発売が難しいとみられたが、田中氏自身が厚生省と原料の供給元である中国の企業を飛び回り、年間15億円を売り上げる製品に育てた[68]

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号
    • [65]田中登志於氏 1935年6月2日福井県生まれ、59年3月京都大学農学部卒業・同月田辺製薬入社、90年開発統括センター所長、91年取締役、94年常務、95年専務、97年6月社長就任
    • [66]田中登志於氏は59年の入社以来ほぼ一貫して研究開発畑を歩み、自ら開発した91年発売の疲労回復用カプセル剤ナンパオを持つ
    • [67]ナンパオは薬効成分を持つ天然素材のみを配合した薬局向けの薬として日本初の製品
    • [68]厚生省の認可に時間がかかり一時は発売困難とみられたが、田中登志於氏が厚生省と中国の原料供給元を飛び回り年間15億円を売り上げるまでに成長

就任から2か月後の取材で、田中氏は『この一年の変化は過去一〇年の変化に匹敵する。七〇年近くかけてやってきた体質強化を、この三年で総仕上げすることが迫られている』[引用元]と述べた。厚生省は医療費を抑えるため1996年と1997年に2年続けて薬価を引き下げ、1998年4月には3年連続となる引き下げが約10%の幅で予想された[69]。医療機関向け薬品が売上の7割を占める田辺製薬は、このまま何も手を打たなければ翌期も減収に追い込まれる[70]位置にいた。1998年1月、田中氏は全社員に向けて『非常事態』を宣言し、3月末までに構造改革委員会を発足させて研究開発の期間短縮と営業・間接部門の効率化に入る方針を示した[71]

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号
    • [69]厚生省は1996年と1997年の2年連続で薬価を引き下げ、98年4月には3年連続で約10%の引き下げが予想された
    • [70]医療機関向け薬品が売上の7割を占め、手を打たなければ翌期も減収に追い込まれる位置にあった
    • [71]1998年1月に全社員へ「非常事態」を宣言し、3月末までに構造改革委員会を発足させ研究開発の期間短縮と営業・間接部門の効率化を進める方針
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号
    • [65]田中登志於氏 1935年6月2日福井県生まれ、59年3月京都大学農学部卒業・同月田辺製薬入社、90年開発統括センター所長、91年取締役、94年常務、95年専務、97年6月社長就任
    • [66]田中登志於氏は59年の入社以来ほぼ一貫して研究開発畑を歩み、自ら開発した91年発売の疲労回復用カプセル剤ナンパオを持つ
    • [67]ナンパオは薬効成分を持つ天然素材のみを配合した薬局向けの薬として日本初の製品
    • [68]厚生省の認可に時間がかかり一時は発売困難とみられたが、田中登志於氏が厚生省と中国の原料供給元を飛び回り年間15億円を売り上げるまでに成長
    • [69]厚生省は1996年と1997年の2年連続で薬価を引き下げ、98年4月には3年連続で約10%の引き下げが予想された
    • [70]医療機関向け薬品が売上の7割を占め、手を打たなければ翌期も減収に追い込まれる位置にあった
    • [71]1998年1月に全社員へ「非常事態」を宣言し、3月末までに構造改革委員会を発足させ研究開発の期間短縮と営業・間接部門の効率化を進める方針

国内の工場を減らし、中国と米国に拠点を置いた

国内では工場を減らし、1994年12月に東京工場を閉じ[72]、1997年4月には東京都葛飾区の立石製薬を吸収合併して立石工場とした[73]が、その立石工場そのものも二年後に閉鎖している[74]。海外では逆に拠点が増え、1993年10月に中国・天津市へ天津田辺製薬有限公司を設立し[75]、2000年12月には米ニュージャージー州ハッケンサックにタナベ ホールディング アメリカ社を置いた[76]。1990年11月にサンディエゴへ設立したタナベ リサーチ ラボラトリーズU.S.A.社[77]は、1970年に同じ都市へ置いたタナベU.S.A.社が販売の会社であったのに対し、研究の会社にあたる。

  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [72]平成6年12月 東京工場を閉鎖
    • [73]平成9年4月 東京都葛飾区の立石製薬株式会社を吸収合併し立石工場とする
    • [74]平成11年6月 立石工場を閉鎖
    • [75]平成5年10月 中国・天津市に天津田辺製薬有限公司を設立
    • [76]平成12年12月 アメリカ・ニュージャージー州ハッケンサックにタナベ ホールディング アメリカ社を設立
    • [77]平成2年11月 アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴにタナベ リサーチ ラボラトリーズU.S.A.社を設立
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [72]平成6年12月 東京工場を閉鎖
    • [73]平成9年4月 東京都葛飾区の立石製薬株式会社を吸収合併し立石工場とする
    • [74]平成11年6月 立石工場を閉鎖
    • [75]平成5年10月 中国・天津市に天津田辺製薬有限公司を設立
    • [76]平成12年12月 アメリカ・ニュージャージー州ハッケンサックにタナベ ホールディング アメリカ社を設立
    • [77]平成2年11月 アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴにタナベ リサーチ ラボラトリーズU.S.A.社を設立

大正製薬との破談と、三菱ウェルファーマとの合併

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田辺製薬の沿革1678〜2007年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1678〜1945年道修町の薬種商が、薬を作る会社になるまで田邊屋五兵衞、大坂・土佐堀に「たなべや薬」を看板に創業
田辺五兵衞商店として薬種問屋を開業
各種薬品の国産化に着手★★
サリチル酸の生産を開始
個人組織の田邊五兵衞商店を株式会社に改組
第十四代田辺五兵衞氏が社長に就任
田邊製薬に商号変更
戦災で中津工場が全焼し加島・本庄両工場も3割を焼失★★
1946〜1988年戦後の再建と上場、海外子会社、そしてスモン特別経理会社の指定を受ける(1948年9月に再建整備計画が認可され、11月に指定解除)★★
東京・大阪両証券取引所に株式を上場
チャールス・ファイザーとの折半出資でファイザー田辺を設立★★
「テラマイシン」を生産
本庄工場を閉鎖
東京工場・東京研究所を新設
台湾田辺製薬股份有限公司を設立
カリフォルニア州サンディエゴにタナベU.S.A.社を設立
インドネシア・バンドンにタナベ・アバディ社(のちタナベ インドネシア社)を設立
ベルギー・ブリュッセルにタナベ ヨーロッパ社を設立
台田薬品股份有限公司を設立
1989〜2000年ヘルベッサーと薬価 ── 大手八社最下位からの非常事態宣言千畑一郎氏が社長に就任
卸への仕切価格を全国統一★★
東京工場を閉鎖
立石製薬を吸収合併
田中登志於氏が社長に就任
全社員への「非常事態」宣言と構造改革委員会の設置

1998年1月、田辺製薬の田中登志於社長は全社員に向けて『非常事態』を宣言し、3月末までに構造改革委員会を発足させて研究開発の期間短縮と営業・間接部門の効率化に入る方針を示した。就任から7か月での宣言であった。

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★★★
2001〜2007年大正製薬との破談と、三菱ウェルファーマとの合併大正製薬との共同持株会社設立の合意と、二か月半での白紙撤回

2001年9月、田辺製薬は大正製薬と共同持株会社『大正田辺ファルマグループ』を2002年4月に設立して経営統合すると発表した。統合後の連結売上高は4600億円となり、武田薬品工業・三共に次ぐ規模になる計画であった。ところが同年12月3日、両社は統合の白紙撤回を発表する。合意から二か月半での解消であった。

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★★★
葉山夏樹氏が社長に就任
動物薬事業を大日本製薬に営業譲渡
三菱ウェルファーマとの合併により田辺三菱製薬が発足★★
出典・参考

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