{"title":"田辺製薬の歴史概略","sections":[{"start_year":1678,"end_year":1932,"main_title":"たなべや薬 ── 大坂の薬種商が、薬を作る側に回るまで","subsections":[{"title":"創業年が二つある ── 有報の1678年と、八十年史の1720年ごろ","text":"田辺製薬が最後に出した有価証券報告書は、沿革の一行目を延宝6年から書き起こしている。1678年、田邊屋五兵衞が大坂・土佐堀に「たなべや薬」の看板を掲げた、という一行である。ところが1955年に刊行された『会社銀行八十年史』は、同じ会社の始まりを「享保年間（西暦一七二〇年ごろ）に現社長（第十四代）田辺五兵衞氏の祖先が大阪の地に薬種商を営んだ」と書いている。両者には40年あまりの開きがある。会社が自ら記した最後の公式記録は1678年を採り、戦後まもない時期の第三者の記述は1720年ごろを採った。どちらが正しいかを本稿で決める材料は無い。ただし2001年に大正製薬との経営統合が破談したとき、週刊東洋経済は破談の背景として「創業は一六七八年で、大阪の製薬会社では名門とされる」と書いた。1678年という数字は、遅くとも2000年代には社外でも通用する自己紹介になっていた。\n\n出発点が薬種商であったことは、両方の記録が一致している。田辺屋五兵衞の名で薬種問屋を営み、寛政年間に店舗を道修町へ移した。道修町は江戸期に幕府から薬種取引の特権を認められた問屋街で、武田・塩野義・田辺という後年の大手はいずれもこの数百メートルの町から出ている。明治の中ごろに日本でも西洋医学が広まると、田辺五兵衞商店は海外の医薬品を輸入して紹介する仕事に力を入れた。つまり19世紀の終わりまで、この会社は薬を作る会社ではなく、薬を運んで売る会社だった。『会社銀行八十年史』は輸入紹介の記述に続けて「その後さらに進んで医薬品の国内生産に発展し」と一行だけ書いている。輸入商と製薬会社を分ける境目は、この一行の前後にある。","references":[{"title":"有価証券報告書（田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品「田辺製薬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"輸入が止まって、薬を作る側に回った15年","text":"転換を起こしたのは自社の計画ではなく、戦争による供給の断絶だった。1914年に第一次世界大戦が始まると海外薬品の輸入が途絶え、輸入して売るという商いが成り立たなくなる。田辺五兵衞商店は国内製造の本格化を決め、1916年5月に大阪市北区へ本庄工場を建設して各種薬品の国産化に乗り出した。ここで会社の性格が変わっている。ただし工場の所在地については記録が割れており、有価証券報告書は大阪市北区、『会社銀行八十年史』は大阪市東淀川区と記す。区の境界が動いた可能性もあるが、確認できていない。\n\n製造業への移行は、工場を一つ建てて終わる話ではない。大戦の終結による反動と関東大震災を経た1925年8月、山口県小野田市に小野田工場を建設してサリチル酸の生産を始めた。サリチル酸は解熱鎮痛薬の原料にあたる基礎化学品で、ここで製剤だけでなく原薬まで自前で作る段階に進んだ。さらに1931年、本庄工場内に研究所を設けて薬品の改良と新薬の合成に着手した。製剤の工場、原薬の工場、研究所という三つが15年のあいだに揃っている。輸入商から製薬会社への転換は、この三段を踏んでようやく形になった。本庄工場の建設から数えて15年が経っている。","references":[{"title":"有価証券報告書（田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品「田辺製薬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1933,"end_year":1959,"main_title":"田邊製薬株式会社 ── 法人化から焼失、そして上場","subsections":[{"title":"個人商店をやめ、社名から「屋号」が消えるまで","text":"1933年12月、個人組織の田邊五兵衞商店を資本金415万円の株式会社へ改組した。以後の増資は工場の拡張と結びついている。1935年に460万円、1936年に500万円、1937年に550万円と続けて資本金を積み増し、東京・世田谷に研究所を新設した。1938年には大阪の加島町へ本格的な工場を建て、生産をここに集めている。有価証券報告書は加島工場の建設を1939年7月と記し、『会社銀行八十年史』は昭和13年すなわち1938年と書く。1年のずれがあるが、いずれにせよ1930年代後半に生産の中心が加島へ移った点は変わらない。翌1939年には東京・日本橋本町に出張所を開き、関東の販路を取りにいった。\n\n1941年、第十四代田辺五兵衞が社長に就いた。屋号を名乗る個人商店から株式会社へ移ったあとも、社長の名は初代からの襲名で通している。社名のほうが先に変わった。1943年8月、商号を田邊製薬株式会社と改め、社章の五輪マークを制定している。屋号「田邊屋」に由来する家名を残しつつ、業種を名乗る社名へ切り替えた形にあたる。翌1944年には企業整備によって国産製薬研究所と日本注射薬品工業を買収し、それぞれ京都工場・柏原工場とした。戦時の統制下では、買収は自社の意思だけで起きるものではない。","references":[{"title":"有価証券報告書（田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品「田辺製薬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"焼けた工場を畳み、生産を加島へ一つに寄せた","text":"1945年の戦災で中津工場は全焼して放棄され、加島・本庄の両工場も三割を焼き、本社社屋と大阪研究所も焼失した。生産設備と本社と研究所を同時に失った状態から復旧が始まる。本社工場内に大阪研究所を建て直すところから手をつけ、1947年には本社の新社屋が竣工した。1946年には特別経理会社の指定を受け、1948年9月に再建整備計画が認可されて資本金を3000万円へ増額し、11月に指定を解除された。法人改組時の415万円と比べれば7倍を超える増資にあたる。財務の整理が済んだところで販売網の再建に入り、同じ1948年に東京・福岡へ支店を置いている。\n\n復旧と同時に進めたのが工場の整理だった。1948年に京都工場を閉じて加島へ移し、1949年には十三工場と柏原工場も閉鎖して生産を加島に集中させた。戦時中に買収で増えた拠点を、戦後に自ら畳んでいる。同じ1949年5月、田辺製薬の株式は東京・大阪の両証券取引所に上場した。資本金は1950年に6000万円、1951年に1億5000万円、1953年に2億3900万円、1954年8月に4億4760万円へと積み上がり、1949年に名古屋、1951年に札幌、1954年に仙台と広島へ出張所を開いて、販売網は全国へ広がった。\n\n1953年、米チャールス・ファイザー社との同額共同出資でファイザー田辺を設立し、抗生物質テラマイシンの生産を引き受けた。当時の主製品はニッパス、テラマイシン、ベナ・ネストン、ナイプレン、ロメジン、ラボナールと多岐にわたり、1955年4月期の売上高は15億6000万円だった。自社で合成する製品と、外資と組んで国内生産する製品を並べる形が、この時点ですでに現れている。テラマイシンは自社で合成した製品ではなく、ファイザーの技術による製品にあたる。半世紀後に外資からの買収候補と見なされる会社が、戦後の再建期には外資と折半出資で組む側にいた。","references":[{"title":"有価証券報告書（田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品「田辺製薬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1960,"end_year":1996,"main_title":"海外拠点と、研究者の社長 ── 薬価に削られる本業","subsections":[{"title":"売る拠点から研究する拠点へ、海外の置き方が変わった","text":"1960年1月に埼玉県戸田市へ東京工場と東京研究所を建て、1962年9月には台湾に台湾田辺製薬を設立して海外での生産・販売を始めた。以後の海外展開は、その置き方が10年ごとに変わっている。1970年にサンディエゴのタナベU.S.A.社とインドネシア・バンドンのタナベ・アバディ社、1972年にブリュッセルのタナベ ヨーロッパ社と、1970年代前半に米欧亜へ販売の足場を並べた。1987年に台湾で二社目となる台田薬品を設けたのは、最初の台湾拠点から25年が経った時点にあたる。1993年には天津田辺製薬を置いて中国に入っている。\n\n拠点の性格が変わったのは1990年である。同年11月、サンディエゴにタナベ リサーチ ラボラトリーズU.S.A.社を設立した。1970年に同じサンディエゴへ置いたのは販売の会社で、20年後に同じ都市へ置いたのは研究の会社にあたる。国内では逆に工場を減らしている。1958年に本庄工場、1994年12月に東京工場を閉じ、1997年4月に立石製薬を吸収合併して得た立石工場も1999年6月には閉鎖した。作る場所を国内で絞り、研究の場所を米国に増やす。1990年代の田辺製薬が拠点に対して取った態度は、この二つの向きで説明できる。","references":[{"title":"有価証券報告書（田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1992年7月6日号「編集長インタビュー 千畑一郎氏［田辺製薬社長］薬価の引き下げもう限界 苦境打開は国際的な新薬で」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年8月30日号「［ひと］田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"「値段が下がり続けているのは日本だけです」","text":"1989年6月、千畑一郎が社長に就いた。1926年に大阪府で生まれ、1948年に京都大学農学部を卒業して同年4月に入社した研究畑の人物で、酵素工学や固定化生体触媒の研究で受賞歴を持ち、1959年には「アミノ酸の酵素的分割」の研究で京都大学から農学博士号を受けている。研究者が社長になる会社であったことは、この時期の製品の顔ぶれとも合う。心臓薬ヘルベッサーは世界に名が通り、田中登志於が開発に携わった高血圧治療剤タナトリルと胃潰瘍治療剤ガストロームが主力に並んだ。1991年に発売した疲労回復用カプセル剤ナンパオは、薬効成分を持つ天然素材のみを配合した薬局向け製品として日本で初めて認可され、年商15億円まで育った。\n\n研究の成果を出しても、値段は会社が決められない。医療機関向け医薬品の公定価格である薬価は2年に一度引き下げられ、1992年4月の改定では業界平均の下げ幅が8.1%に達した。田辺製薬は下げ率の大きかった抗生物質の比重が低く5.9%にとどまったが、既存薬の利益が減る点は変わらない。千畑は同年のインタビューで「この10年間で平均的な薬価は50%以下になっています。一方、米国や英国では2倍以上になっている」と述べ、フランスも国が値決めに関与しながらインフレ率に応じた値上げは認めていると比べたうえで、「値段が下がり続けているのは日本だけです」と言い切った。そして「製薬会社は研究開発がストップしたら、もう先はないのです」と続けている。\n\n薬価が下がる仕組みには、メーカーの外側にもう一段の構造があった。医療機関の経営は年間1兆3000億円といわれる薬価差益に依存し、政府が薬価差益の解消を目指して薬価を引き下げるたびに、医療機関はそれを上回る値引きをメーカーへ要求する。千畑はこれを「アリ地獄」と呼んだ。田辺製薬は1991年11月ごろから卸への仕切価格を全国統一とし、医療機関との価格交渉をすべて卸が行う形に改め、値引補償という名でメーカーが卸のマージンを補填する慣行を廃止した。過度な値引きに応じれば卸が損をする建て付けに変え、薬価基準の算定方式が市場実勢を反映しやすくなったことも重なって、値引きは減る方向へ向かった。値決めの権限を取り戻せない以上、取引の経路を変えるほかに打つ手が無かったと見るのが妥当であろう。","references":[{"title":"有価証券報告書（田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1992年7月6日号「編集長インタビュー 千畑一郎氏［田辺製薬社長］薬価の引き下げもう限界 苦境打開は国際的な新薬で」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年8月30日号「［ひと］田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1997,"end_year":2007,"main_title":"三年で総仕上げ ── 非常事態宣言から統合まで","subsections":[{"title":"「七〇年近くかけてやってきた体質強化を、この三年で総仕上げする」","text":"1997年6月、田中登志於が社長に就いた。1935年に福井県で生まれ、1959年3月に京都大学農学部を卒業して同月に入社し、1990年に開発統括センター所長、1991年に取締役、1994年に常務、1995年に専務を経ての就任である。前任の千畑と同じく京大農学部から入った研究・開発畑にあたる。就任から2か月後の取材で、田中は環境を「強烈に厳しい」と表し、「この一年の変化は過去一〇年の変化に匹敵する。七〇年近くかけてやってきた体質強化を、この三年で総仕上げすることが迫られている」と述べた。1933年の法人改組から数えて64年、創業から数えれば319年の会社が、残された時間を三年と見積もった。\n\n危機感は田辺製薬だけのものではなかった。厚生省は医療費を抑えるため1996年と1997年に2年続けて薬価を引き下げ、藤沢薬品工業を含む大手にも1998年3月期に減収を見込む会社が並んだ。1997年9月にはサラリーマンの薬剤費自己負担が2割へ引き上げられ、高額な薬の投与を拒む患者が医療現場に現れている。1998年4月には3年連続となる引き下げが約10%の幅で予想され、80社近くが林立する新薬業界は遠くない将来に半分以下へ淘汰されるという見方も出ていた。医療機関向け医薬品が売上の7割を占める田辺製薬は、手を打たなければ翌期も減収に追い込まれる位置にいた。\n\n1998年1月、田中は全社員に向けて「非常事態」を宣言し、3月末までに構造改革委員会を発足させて研究開発の期間短縮と営業・間接部門の効率化に入る方針を示した。買収への構えも公にしている。「外資に買収されたらイヤだ、なんてとんでもない間違い。存在意義もなく自立もできない会社など、外資は目もくれませんよ」。買われないことではなく、買いたいと思われる会社であることを生き残りの条件に置いた発言にあたる。この一手は、三年後に大正製薬との統合が持ち上がったときの田辺側の立ち位置を先に説明している。","references":[{"title":"有価証券報告書（田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出）【沿革】【主要な経営指標等の推移】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年8月30日号「［ひと］田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1998年2月2日号「新社長登場 田中登志於氏［田辺製薬］薬価下げ、「非常事態」宣言し社内に布石」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年10月6日号「医薬品業界 製薬再編の第一幕 大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年12月15日号「製薬業界 主導権争いで溝深め 大正・田辺が婚約解消」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年9月7日号「トップの履歴書 田辺製薬社長 葉山夏樹 仕組みの普遍化へ改革の旗振る」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"大正製薬との統合発表と、二か月半での白紙撤回","text":"2001年9月、大正製薬と田辺製薬は共同持株会社「大正田辺ファルマグループ」を2002年4月に設立して経営統合すると発表した。株式移転比率は大正1に対して田辺0.55、統合後の連結売上高は4600億円で、武田薬品工業・三共に次ぎ山之内製薬と並ぶ規模になる計算である。2002年10月をめどに医療用医薬品を田辺へ、大衆薬とドリンク剤を大正へ寄せる設計だった。売上高は大正の2700億円が田辺の1900億円を上回るが、大正の7割はリポビタンDに代表されるドリンク剤と大衆薬で、医療用は700億円強にとどまる。田辺の医療用1500億円と足せば医療用の規模が一気に増える。相互に欠けたものを補う組み合わせに見えた。\n\n相手が大正であったことは、業界にはやや意外に受け止められた。田辺は医療用医薬品で単独の生き残りが難しいと見られ、有力な販売網に着目する外資系メーカーから買収の最右翼候補と目されていたからである。海外企業の軍門に下るよりは、発言権を確保しながら医療用の規模を広げられる相手のほうが望ましい。田辺側の計算はそう説明できる。ただし市場の反応は鈍く、発表後の両社の株価は下がった。統合しても国内系の医療用で7〜8位に上がるにすぎず、新薬候補の数が双方とも十分でないため「シナジー効果が小さい」とアナリストは見た。「グローバル企業としての競争に耐えるには、規模の拡大が必須」という大正製薬社長・上原明の言葉に対して、増える規模がそれほど大きくないという指摘にあたる。\n\n12月3日、両社は統合の白紙撤回を発表した。会見に出た大正製薬の大平明副社長と田辺製薬の葉山夏樹副社長は「持株会社の位置づけ、機能の違いについて考え方の違いがあった。人事や年金を含めた企業風土の違いも早期には詰められなかった」と説明したが、決裂の最大の要因は秘密保持契約を理由に最後まで明かさなかった。株式移転比率0.55は事実上の大正による田辺買収にあたるのに対し、医療用では「主導権はこちらが握る」という意識が田辺側にあった。新会社の利益はリポビタンDを軸とする大衆薬部門から出て、それを研究開発費のかさむ医療用へ回す設計になる。その利益配分と主導権をめぐって溝が埋まらなかった。医療用で相手の2倍の売上を持ちながら資本では買われる側に置かれるという、事業の重みと資本の重みのねじれである。同じねじれを抱えた統合は、どちらの経営陣であっても同じところで詰まったであろう。","references":[{"title":"有価証券報告書（田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出）【沿革】【主要な経営指標等の推移】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年8月30日号「［ひと］田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1998年2月2日号「新社長登場 田中登志於氏［田辺製薬］薬価下げ、「非常事態」宣言し社内に布石」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年10月6日号「医薬品業界 製薬再編の第一幕 大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年12月15日号「製薬業界 主導権争いで溝深め 大正・田辺が婚約解消」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年9月7日号「トップの履歴書 田辺製薬社長 葉山夏樹 仕組みの普遍化へ改革の旗振る」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"制度を組み替えたのち、三菱ウェルファーマとの統合で幕","text":"2002年6月、葉山夏樹が社長に就いた。1939年に長野県で生まれ、1962年に富山大学経済学部を出て入社した営業畑の人物で、副社長として大正製薬との統合にかかわっている。破談について葉山は「両社が固有の制度を持つなかで難しかった」と振り返り、そのうえで「方向は間違っていない。この先もいろいろな対応はありうる」と述べた。会社の仕組みを普遍化して再構築する必要があるとして、確定拠出型年金と職種別賃金体系の導入に着手している。制度の違いで統合が流れた会社が、次の統合に備えて制度そのものを組み替えにかかったと読める。\n\n最後の6年間の数字は、成長ではなく耐久を示している。連結売上高は2002年3月期の1897億円から2004年3月期に1736億円まで落ち、2007年3月期に1775億円へ戻した。5年かけて売上は減っている。一方で経常利益は322億円から323億円とほぼ横ばいを保ち、親会社株主に帰属する当期純利益は125億円から202億円へ増えた。動物薬事業を2002年11月に大日本製薬へ譲渡し、2005年10月には小野田工場を会社分割して山口田辺製薬とするなど、事業と拠点の切り出しも進めている。売上を伸ばせない環境で利益を守る経営としては成功しているが、規模の問題は何ひとつ解けていない。\n\n2007年4月、田辺製薬は三菱ウェルファーマとの合併契約書を締結した。相手は吉富製薬・ミドリ十字・三菱化学の医薬事業・東京田辺製薬という四つの流れが2001年に合わさってできた会社で、三菱ケミカルホールディングスの傘下にある。石油化学の利益変動を医薬品の拡大で補うという親会社側の狙いに、単独では規模が足りない田辺側の事情が噛み合った。同年10月、合併により田辺三菱製薬が発足し、田辺製薬は1949年5月から58年続いた上場を終えた。大坂・土佐堀に「たなべや薬」の看板が掛かってから329年、株式会社になってから74年である。田中登志於が1997年に語った「目をつけられる会社であること」は達成された。ただし目をつけたのは外資ではなく、同じ道修町の系譜を持たない三菱の資本だった。","references":[{"title":"有価証券報告書（田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出）【沿革】【主要な経営指標等の推移】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年8月30日号「［ひと］田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1998年2月2日号「新社長登場 田中登志於氏［田辺製薬］薬価下げ、「非常事態」宣言し社内に布石」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年10月6日号「医薬品業界 製薬再編の第一幕 大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年12月15日号「製薬業界 主導権争いで溝深め 大正・田辺が婚約解消」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年9月7日号「トップの履歴書 田辺製薬社長 葉山夏樹 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