1914年に始まった第一次世界大戦で、日本の医薬品市場はドイツからの供給を絶たれた[1]。当時の日本の製薬業は、江戸期からの薬種問屋が輸入販売から製造へ手を伸ばした段階にあり、明治末に国内生産できていたのは薄荷脳、ヨードカリ、ガレヌス製剤、ヂアスターゼ程度にすぎなかった。[2]染料・医薬品はドイツのバディッシュ、バイエル、ヘキストによる国際的な独占組織が日本市場を支配しており、日本企業が技術導入を求めても拒まれ、製品を作り出せてもダンピングにさらされる状況にあった。政府は1914年に化学工業調査会を、続いて臨時薬業調査会を設けて振興策を諮問し、その答申にもとづいて1915年6月に染料医薬品製造奨励法を公布した。[3]一定の条件に適合する会社へ10年間、年8分の配当を政府が保証するという内容である。
とりわけ切実だったのが梅毒治療剤サルバルサンである。エールリヒとハタが創製したこの砒素製剤は輸入に全面的に依存しており、供給が途絶えれば代替がなかった。1915年7月、薬学博士の慶松勝左衛門氏がその製造に成功[4]する。同年10月1日、この工業化を目的として匿名組合アーセミン商会が創立された[5]。社名は砒素(arsenic)に由来する。国産駆梅剤『ネオ・ネオアーセミン』を主体に、医薬品の製造販売を始めた。この匿名組合が第一製薬の出発点である。[6]翌1916年12月31日には合資会社へ改組した。
1918年1月31日、医薬品および工業薬品の製造販売を目的として資本金50万円の第一製薬株式会社が設立された[7]。経営陣は合資会社アーセミン商会と同一で、新会社が合資会社の事業を継承し、アーセミン商会は解散した。本社を東京・日本橋に、工場を本所に置き、初代社長には柴田清之助氏が選ばれている[8]。翌1919年4月には津村重舎氏が2代目社長に就いた。なお第一製薬の設立年には二通りの記載がある。社史『四十年史』が創業期を1915年10月1日から1918年1月31日までとし、第二部『建設期』の冒頭に『第一製薬株式会社の発足』を置くのに対し、『会社銀行八十年史』の企業項目は設立を『大正4年10月1日』[引用元]と記す。[9]後者はアーセミン商会の創立日を会社の設立日として扱ったものであり、法人としての第一製薬株式会社が設立されたのは1918年1月31日である。本稿では創業1915年、法人設立1918年として書き分ける。
設立後の3年間で、第一製薬は駆梅剤の系列を買い集めている。1920年7月に丹波敬三郎博士が完成した駆梅剤を持つ匿名組合国産製薬所の事業を継承し、同年9[10]月には役員が発起人となって資本金150万円の第二製薬を創立、即日これを吸収合併して資本金を200万円へ引き上げた。合併を目的とした会社を作って直ちに吸収する手順を踏んでいる。同時に、サルバルサン剤の主要原料を自給し販売する目的で工業薬品[11]にも手を広げ、抜染剤アルバライト、漂白剤ハイドロサルハイトの製造に着手した。1922年12月には大阪支店を設けている。
1923年9月の関東大震災で、本社と工場はいずれも全焼[12]した。第一製薬は同年11月に半額減資を行って損害を補填し、ただちに復興へ着手する。京都に分工場を開設してまずサルバルサン剤の操業を始め、同年12月には本社事務所が完成、1924年7月には柳島工場も再開した。社史『四十年史』が第二部『建設期』を1918年1月31日から1923年12[13]月15日までと区切り、その第二章に『関東大震災と減資』を置いているのは、震災と減資をもって建設期の終わりと見ていたためである。設立からわずか5年で生産設備を失い、減資によって資本を半分に削ってから再出発する。この経験が、以後の設備投資の進め方を決めたのであろう。第一製薬はこののち、東京の一箇所に生産を集めず、柳島・亀戸・船堀・平井と工場を分けて置き、大阪府高槻にも拠点を構えている。
創業から震災までの8年で、第一製薬の輪郭は定まった。梅毒治療剤の国産化という一点から始まり、駆梅剤の同業を買い集め、原料を自給するために工業薬品へ広げ、大阪に支店を置いて販路を作る。同時期の製薬業界を見ると、大阪の武田長兵衛氏・田辺五兵衛氏・塩野義三郎氏は江戸期からの薬種問屋が輸入薬品の精製から製造業へ移った系譜にあり、[14]三共の創立者塩原又策氏は横浜で羽二重の売り込みから薬品の輸入販売へ移り、高峰譲吉氏と鈴木梅太郎氏の発明の工業化を軸に製薬業へ進んだ。[15]第一製薬はどちらの道も通っていない。輸入が止まったという事態そのものが会社を作り、慶松勝左衛門氏の合成の成功が最初の製品をもたらした。問屋の商いでも発明家の起業でもなく、供給の空白が創業の動機だった。
震災からの復興を終えた第一製薬は、製品の幅を駆梅剤の外へ広げた。1929年4月に操業を始めた亀戸工場では工業薬品のアルバライトとハイドロサルハイトを作り、続いてビタミン剤アベリーB、催眠剤バルビタール、皮膚病治療剤スカボールを生産している[16]。同年6月には日本橋江戸橋の現在地に本社社屋が竣工した。1933年12月に完成した高槻工場へ京都分工場の設備一切[17]を移してサルバルサン剤の主体を移し、この工場からは葡萄糖と同注射液、アンチピリン、アミノピリン、ミグレニンが供給された。資本金は1934年6月に300万円へ増額され[18]、生産増大に備えて江戸川区に船堀工場を新設、1938年8月に亀戸から工業薬品を移すとともに飲料用・醸造用・揉草用の各種乳酸を加えて操業に入った。
この拡張は第一製薬だけの動きではない。1930年以降、政府の大陸政策と結びついて医薬品の国産化運動が盛んになり、1936年ごろには医薬品の生産量が以前の輸入量をはるかに上回り、輸出[19]にも回った。1941年には企業数が大小合わせて3000余、製造品目は1万5000[20]余に達している。『会社銀行八十年史』の医薬品概説は、大正から昭和にかけて大阪の武田・塩野義・田辺、東京の三共が過去の資本蓄積と技術の近代化によって飛躍を遂げ、その間に『山之内、第一製薬等をはじめ新進諸会社の基礎が確立された』[引用元]と記した。[21]江戸期からの薬種問屋を出自とする老舗と、大戦の輸入途絶を機に興った新興会社という二つの系譜が、この時期に並び立った。
1941年4月に津村重舎社長が死去し、池田文次専務[22]が社業を統理した。同年9月に資本金を450万円へ増額して高槻・船堀両工場の設備を拡充、1942年10月には平井工場を新設するためさらに600万円へ増資し、同工場は1943年4月に操業を始めている。この間に大陸へも進出し、奉天支店のほか要地に7つの出張所を設けた[23]。1944年4月には藤井化学工業の事業を継承するとともに船堀工場の設備拡大のため資本金を1000万円とし、翌5月に池田氏が3代目社長へ就いた[24]。設立時の50万円から20倍である。四十年史は第四部を『戦時期』(1937年7月7日〜1945年8月15日)とし、日華事変期・太平洋戦争期・戦災と疎開の3章に分けている。この間の増資と工場新設は、いずれも軍需の増産要請に応じたものであった。[25]
1945年3月の空襲で、本社と柳島・亀戸の両工場は大半が焼け、平井工場も半焼した[26]。大阪支店は6月に全焼に近い被害を受けている。震災から21年半で、第一製薬は二度目の生産基盤の喪失を経験した。ただし前回と違い、すべてを失ったわけではない。船堀・高槻の両工場が無事だったため生産は続き、新潟県に疎開した五泉工場は敗戦の翌月から2、3種の医薬品を作り始めている。[27]復旧は焼け残りと疎開先から始まった。半焼の平井工場を直ちに補修して鎮痛剤ピラビタール、催眠剤バルビタール、胃腸造影剤バリアンの製造を再開し、柳島工場も間もなく再開してスルファミン剤テラポール、結核治療剤パスナールと各種乳酸を作った。全焼した亀戸工場は仕事を平井・船堀・[28]五泉の3工場へ移して閉鎖している。工場を分散して置いていたことが、二度目の焼失を全損にしなかった。
戦後の第一製薬は特別経理会社の指定を受け、再建計画の認可条件を満たすため1948年8月に資本金を2000万円へ増資して指定を離脱[29]した。この間の1947年3月に池田社長が死去し、同年5月に篠田淳三常務[30]が4代目社長へ就いている。ここから資本金の増額が続く。1949年7月に運転資金の充実と海外輸出に備えて6000万円、同年12月には新潟の五泉工場を東京[31]の工場へ引き揚げて疎開で分散した生産を戻した。1951年6月には柳島工場隣接地の製剤工場新設と設備近代化のため1億2000万円、1952年10月に新製品の生産設備資金として2億4000万円。3年3か月で4倍である。四十年史は第五部『戦後期』を、占領下の応急復興・生産の再開・販路の整備・戦後の事業経過とその発展の4章に分けている。復旧は設備、生産、販路の順に進んだ。
1955年時点の第一製薬は、大阪・福岡・札幌の3支店と5つの出張所、台北の連絡所を持っていた。工場は東京に3か所と大阪府高槻に1か所、研究所は柳島工場の構内に置かれている。同業他社に先んじてスルファ剤のテラポールとダイアジン、ルチン剤ルチノンを完成させ[32]、当時の新薬として結核治療薬ネオ・イスコチンを製品化した。創業以来この会社が世に出した医薬品は110余種にのぼり、1955年3月期の売上高は14億円[33]だった。戦前から実績のあるテラジアンの輸出も活発で、向かった先は東南アジア・米国・欧州である。
ただし戦後の製薬業界を作り変えたのは、ペニシリンをはじめとする抗生物質だった。市販が始まったのは1946年6月で、1948年ごろまでに82社が製造[34]へ乗り出して競い、1955年には約20社まで減っている。1954年の抗生物質製剤の生産額は128億円、医薬品総生産額の17%を占めた。武田など製薬専業者に加えて三菱化成・三井化学・日本化薬・保土谷化学といった化学会社、科研や明治製菓・明治乳業・雪印乳業[35]といった他業界からも参入があり、従来の製薬企業は大きな刺激を受けた。ペニシリンに続いてストレプトマイシン、オーレオマイシン、クロラムフェニコール、テラマイシン、ザルコマイシンが輸入[36]され、順次国産化された。第一製薬が主力に据えたスルファ剤と結核薬は、この抗生物質の系譜には入らない。1948年8月の2000万円から4年で資本金は12倍になったが、業界の伸びはよそで起きていた。
製薬業界では研究部門に近い人間ほど、オリジナルの新薬を開発しないと一人前の会社でないという考えが根強い。ただし当時の日本の製薬業は、海外から新薬を輸入販売し、技術特許を買って国産化するという経路をたどっており、各種の特許係争が起きやすい構造にあった。1955年時点でも、三共が米パーク・デヴィス社と提携するクロロマイセチンに対して山之内・藤沢が西独ベーリンガー社と組んだパラキシンをぶつけ、スルファイソオキサゾールをめぐって米ホフマン・ラ・ロッシュ社と三共が争っている[37]。自社で創るか、他社から導入するか。この二つの道はどの製薬会社の前にもあり、第一製薬は前者を選び続けた。
方針が変わったのは1974年である。理由は製品の空白にある。製薬業では新薬が一発当たれば一品目で年商1000億円も可能な一方、競合品の発売や特許切れに伴う後発品の参入があれば売り上げは急減する。当時北陸地区の営業統括責任者だった森田清氏——のちの社長——は、この時期を『売れ筋製品さえあれば、とひしひしと感じた』[引用元]と振り返っている。自社創薬を看板に掲げながら、実際に業績を持たせたのが導入品だったという経験が、以後の第一製薬の製品調達を二本立てにした。
自社創薬の系列はほかにもあった。だが重い下痢と骨髄機能抑制の副作用があり、臨床試験では全体の4.4%にあたる55人の死亡例で薬との因果関係を否定できなかった。承認には、十分な措置ができる医療施設と経験を持つ医師のもとでのみ投与できるという制限が付いた。第一製薬は『安全性に注意を払ってきたから、市販後三年で五四三〇床(ヤクルト販売分も含む)しか使用されていない。年商も二億円程度』[引用元]と説明している。効きめの鋭さと副作用の重さが裏表になっている薬を、どこまで広げるか。抗菌剤とは別の難しさがあった。
薬価引き下げと後発品の低価格攻勢で市場成長率は2%まで鈍化し、アナリストは『国内でしか臨床試験を実施できない会社や、国際的に通用しない薬しか開発できない会社は再編の対象になる』[引用元]と見ていた。ただし再編は下位から起こるものと考えられており、大手8社に再編の気運は薄かった。第一製薬の永迫弘幸常務も『医家向け大手が大衆薬大手を吸収合併するなら可能性はあるだろうが、それ以外はシナジー効果が薄いのでは』[引用元]と語っている。この判断は当時の条件では筋が通っている。第一製薬は収益力で上位3社に迫り、クラビットという世界に通用する自社創薬を持っていた。合併で得られるものより、統合作業に要する労力のほうが大きいと踏んだ。
同じ年、第一製薬は別の評価では業界の先頭に立っていた。発表資料の充実が理由であり、のちに『第一の現会長が刷新したディスクローズ体制は現在の製薬業界の雛形』[引用元]とまで書かれた。1987年に武田薬品の医薬品売上高3965億円と世界首位の米メルク6114億円との差は1.5倍だったが、この10年で世界5強と日本5強の差は1桁に開いた。グラクソ・ウエルカム、ノバルティス、ブリストル・マイヤーズ・スクイブはいずれも合併で生まれた会社である。
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|---|---|---|---|---|
| 1915〜1923年輸入途絶が生んだ会社——アーセミン商会から第一製薬へ | 匿名組合アーセミン商会の創立とサルバルサンの国産化、第一製薬株式会社への改組 1915年、第一次大戦でドイツからの医薬品輸入が途絶えるなか、薬学博士の慶松勝左衛門氏が製造に成功した梅毒治療剤サルバルサンの工業化を目的として、匿名組合アーセミン商会を創立した経営判断。3年後の1918年1月に資本金50万円の第一製薬株式会社へ改組した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 初代社長に柴田清之助氏が就任 | ★ | |||
| 第一製薬を設立 | ★ | |||
| 津村重舎が2代目社長に就任 | ★ | |||
| 関東大震災で本社・工場が全焼 | ★ | |||
| 震災損害の補填のため半額減資を行い、同時に京都分工場を新設 | ★★ | |||
| 1923〜1945年有機合成薬品への拡張と戦時統制下の増産 | 工業薬品アルバライト・ハイドロサルハイトを生産 | ★ | ||
| 池田文次が3代目社長に就任 | ★ | |||
| 戦災で本社と柳島・亀戸両工場が全焼、平井工場も半焼 | ★★ | |||
| 1945〜1997年戦後の再建から、世界に届く抗菌剤を持つまで | 篠田淳三が4代目社長に就任 | ★ | ||
| 柳島工場隣接地に製剤工場を新設 | ★ | |||
| 資本金を1億2000万円へ増資 | ★ | |||
| 新製品の生産設備資金として資本金を2億4000万円へ増資 | ★ | |||
| 結核治療薬ネオ・イスコチンを完成 | ★★ | |||
| 完成医薬品は110余種 | ★ | |||
| 高脂血症治療薬を発売 | ★ | |||
| 鈴木正氏が取締役経営企画担当に就任 | ★ | |||
| 他社開発新薬の導入方針を提示 | ★★ | |||
| サノフィから導入した脳梗塞治療薬パナルジンを発売 | ★ | |||
| 自社開発の合成抗菌剤タリビッドを発売 | ★★ | |||
| 自社開発の合成抗菌剤クラビットの発売と、輸出による海外売上の拡大 1993年、第一製薬が自社開発の合成抗菌剤クラビット(一般名レボフロキサシン)を発売し、1986年発売のタリビッドと合わせた抗菌剤2品を輸出の柱に据えた経営判断。格段に広い適応症と副作用の少なさによって、世界規模のヒットとなった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| ヤクルト本社と共同開発した抗がん剤トポテシンが承認 | ★ | |||
| 1998〜2005年3位を目指した7年と、単独で残る道の限界 | 10年間の長期ビジョン「グローバル・テン」を発表 | ★ | ||
| 森田清氏が社長に就任 | ★ | |||
| 国内3位以内を目標に設定 | ★ | |||
| 営業所を108から71へ削減 | ★★ | |||
| サントリー医薬品事業部門の分社化と共同出資会社・第一サントリーファーマの設立 2002年7月30日、第一製薬とサントリーは、サントリーの医薬品事業部門を分社化したうえで共同出資の新会社を12月末に設立することで合意したと発表した。出資比率は第一製薬66%、サントリー34%で、サントリーの医薬品部門から約300人が移籍した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 三共と第一製薬の経営統合と第一三共の誕生(2005年成立) 2005年9月、三共と第一製薬が共同株式移転で持株会社『第一三共』を設立し、2007年4月に両社を吸収合併して事業会社へ移行した、製薬大型再編の代表例である。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(第一製薬)