山之内製薬自社創製のH2ブロッカー「ガスター」の発売と、米メルク社への技術輸出
導入した特許で稼ぐか、自社で創った化合物を格上へ渡すか——「世界150位」と書かれた中堅企業の選択
- 概要
- 1985年、山之内製薬が自社で創製したH2ブロッカーの消化性潰瘍薬ガスターを発売し、あわせて米メルク社へ技術輸出した経営判断。森岡茂夫社長のもとで、導入した特許で稼ぐ会社から、自社の化合物を海外へ渡す会社へ立場を移した。
- 背景
- 戦後の山之内製薬は米ロシュ社・西独ベーリンガー社から導入した薬で伸び、三共とは特許を争ってもいた。1980年代、H2ブロッカーの登場で消化性潰瘍の治療の主役が手術から薬へ移り、この市場を素通りできなくなった。
- 内容
- 先行品タガメットの特許を読むところから開発を始め、効果に対する副作用の割合が低い第二世代として1985年に発売。自前の欧米販売網を持たないまま、万有製薬を買収して日本にも進出していた米メルク社へ導出した。
- 含意
- 「世界150位」と書かれた中堅企業が、格上の多国籍企業へ薬を渡す側に回った。ガスターは1996年3月期に主要5品目で年商1600億円を支える柱となる一方、1999年にはPPI剤へ主軸が移り、頂点にいた期間は14年で区切られた。
格下と書かれた側が、格上へ薬を渡した
1954年に西独ベーリンガー社から導入したパラキシンは、三共が米パークデヴィス社から導入したクロロマイセチンと特許を争った。争っていた二社のどちらも、化合物そのものは海外の提携先から受け取っている。その30年後、山之内製薬は自社で創った化合物を米メルク社へ渡す側に回った。「資本力、技術力、過去の実績など何をとっても格下」と書かれた相手に、売る権利を与えたことになる。導入で伸びた会社が、導入という型そのものを裏返した一件とみることができる。
ただ、ガスターは先行品の特許を読んでから作られた第二世代であり、当時から「モノマネ商品」の評がついていた。独創の一撃で世界に出たわけではない。頂点にいられた期間も、PPI剤へ主軸が移るまでの14年に区切られる。森岡茂夫社長自身、7年後に「これほど育つとは思わなかった」と語っており、育ち方を読み切って導出したわけでもなかった。それでも、次に要るものは「新薬を切れ目なく発売できる」体制だと同じ場で述べた点に、一度の当たりを続く仕組みへ変えようとする意識がうかがえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
導入した特許で伸びた会社
戦後の山之内製薬が伸びた道筋は、当時の日本の製薬業に共通するものであった。会社銀行八十年史は「薬種問屋的形態から発達したわが国製薬業は、海外からの新薬輸入販売、技術特許を買つての国産化という経路をとつている」と書いている。山之内製薬も1950年に米ロシュ社と提携してスルファ剤サイアジンを、1954年8月には西独ベーリンガー社と提携して抗生物質パラキシンを発売した。化合物は提携先が持ち、国産化と販売を日本側が担う分業である[1][2]。
この経路は係争も呼んだ。パラキシンは、米パークデヴィス社と提携する三共のクロロマイセチンと同じ抗生物質であり、両社は特許をめぐって争った。八十年史は「各種の特許係争が起りがちである」と、この構図を業界全体の性格として記している。導入する側にいる限り、何を売るかも、どこで売るかも、化合物を持ってくる相手との契約が決める。1955年6月期の総売上高は8億5600万円で、規模の面でも先発の大手には遠かった[3][4]。
H2ブロッカーという新しい機序
1980年代、消化性潰瘍の治療の主役は手術から薬へ移った。それまでの薬は「分泌された胃酸を中和する」ものであった。これに対し英スミスクライン社のタガメットは「H2受容体と呼ばれる胃壁の胃酸分泌部分にフタをしてしまう仕組み」で、酸そのものを出させない。効かせる相手が、分泌されたあとの酸から、酸を出す胃壁の側へ移ったことになる[5]。
医療現場の受け止め方は、新薬の常識を超えていた。日経ビジネスは「世界中の医者の熱狂的な反響はもはや伝説的」と書き、「それまでのどんな治療方法よりも治癒率が高いため、薬を飲むだけで治ってしまい、消化器外科医が失業するという話すらあった」と伝えている。胃を切らずに治る薬が世界の医療機関に行き渡る以上、日本の製薬各社にとってこの分野は、導入するにせよ自ら創るにせよ、素通りできない市場となった[6]。
決断
先行品の特許から出発した自社創製
山之内製薬のガスターは、先行品の特許を読むところから始まった仕事であった。日経ビジネスは「タガメットの特許を見てから」と書き、「モノマネ商品」という同時代の評も併せて載せている。後発であることを、同社も市場も隠していない。ただし、出来上がった薬には先行品と違う点があった。「効果に対する副作用の割合が低い」ことであり、この第二世代のH2ブロッカーを、山之内製薬は1985年に発売した[7]。
導入品との最大の違いは、権利の所在にあった。ロシュ社やベーリンガー社から導入した薬で稼ぐ限り、利益の一部は特許料として提携先へ渡り、売れる地域も契約が決める。自社で創った化合物であれば、その制約は消える。三共とパラキシンの特許を争ってから30年、山之内製薬は、化合物を持ってくる相手に条件を決められる立場から外れた。後発の第二世代という位置づけは変わらないが、権利の側では初めて自社の名で立っていた[8]。
米メルク社への導出
1985年、山之内製薬はガスターを米メルク社へ導出した。メルクは「かつて山之内のライバルであった万有製薬を買収し、日本市場にも進出しているこの巨大企業」であり、日経ビジネスは山之内製薬を「資本力、技術力、過去の実績など何をとっても格下とみられる」側と書いている。誌面はこの取引を「"世界150位"の中堅企業、山之内が技術輸出をおこなったわけだ」とまとめた[9]。
導出は、格の差を認めたうえでの選択であった。相手の販売網に乗せれば、発売の時期も普及の速さも相手の力に委ねることになる。それでも、世界有数の製薬会社が自社の化合物を買うという事実そのものが、薬の値打ちを外から証明した。森岡茂夫社長はガスターを「世界に通用する一流の商品」と語っている。導入する側から導出する側へ、山之内製薬の立場はここで入れ替わった[10]。
結果
予想を超えた育ち方
ガスターは、経営者の見立てを超えて伸びた。発売から7年後の1992年3月、森岡茂夫社長は「いい薬だという自負はあったが、これほど育つとは思わなかった」と述べ、結果は「神のみぞ知る」と続けている。同じ紙面で語ったのは、次の目標であった。「国内だけでなく、海外でも、新薬を切れ目なく発売できるようにしたい」。一品の当たりを、続けて出す体制の話へ移している[11]。
収益の効率にも表れた。1996年3月期の一人当たり経常利益は1530万円で、三共の1272万円、第一製薬の1107万円を上回り、大手8社の首位に立っている。藤沢薬品は412万円、田辺製薬は210万円で、山之内製薬の7分の1以下にとどまった。週刊東洋経済は同社を「胃炎・潰瘍剤ガスターを中心に主要五品目で年商一六〇〇億円を計上」と書いている。規模ではなく効率で頂点にいた会社であった[12][13]。
頂点の期間を区切ったPPI剤
この地位は、薬の世代交代とともに動いた。1999年8月の週刊東洋経済は「これまで、国内の消化性潰瘍薬市場は、山之内製薬『ガスター』を頂点とする『H2ブロッカー』剤が主流だった。が、欧米ではピロリ除菌需要もあり、効き目が強いPPI剤に主軸が移っている」と伝えた。胃潰瘍の原因がヘリコバクター・ピロリ菌にあると分かり、抗生物質で菌を除く治療が広まれば、酸を抑え続ける薬の位置は下がる[14]。
消化性潰瘍薬は「国内では抗ガン剤さえ上回る三〇〇〇億円市場」であり、ガスターはその頂点を発売から14年占めたことになる。タガメットの特許から出発した薬が、今度は次の機序に追い越される側へ回った。1985年に自社で創った薬を世に出した判断の値打ちは、ガスター一品の寿命ではなく、次の化合物を自前で出せる会社になったかどうかで測られることになる[15]。
- 日経ビジネス 1985年12月19日号「特集・医薬品市場」
- 日経産業新聞 1992年3月3日「医薬・バイオこれに賭ける」
- 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史 24 医薬品「山之内製薬」/同 概説
- 週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編すらできない今の医薬品業界 業界に合併ムードは漂うが」
- 週刊東洋経済 1999年8月14日号「細菌胃潰瘍よサヨウナラ!?「ピロリ」除菌法上陸で3000億円市場激震」