三共青かびの一株から18年かけてメバロチンを世に出した判断

導入品で戦後を立て直した会社が、なぜ一品への依存と引き換えに自社創薬へ移ったのか

時期 1989年
意思決定者(推定) 三共 経営陣 医薬事業本体
論点 導入品と農薬を並べた総合会社であり続けるか、自社創製の一品に収益を集めるか
概要
1973年、三共醗酵研究所は青かびの一種がコレステロール合成阻害物質を生むことを発見した。研究着手から18年を経た1989年、三共はHMG-CoA還元酵素阻害剤、いわゆるスタチンの高脂血症治療薬メバロチンを発売した。外国製剤のライセンスと農薬・食品を並べてきた会社が、自社で創った一品に収益の大半を集める判断であった。
背景
戦後の三共は米パーク・デイビス社から導入したクロロマイセチンで立ち直り、その後も抗生物質、ビタミン剤、農薬を並べる総合会社として推移した。1961年3月期の売上構成は抗生物質製剤および生物学的製剤29.2%、ビタミン剤20.8%、農薬18.0%で、単独で会社を支える製品はない。1976年3月期には経常利益が前期の71億円から36億円へ半減している。
内容
三共はスタチンという新しい作用機序の薬を自社で創製し、1989年に発売した。発売後4年で売上高1000億円を超え、社内でメバロチンボーナスが出るほどの規模に育った。1993年度決算では、売上首位の武田薬品工業の経常利益を三共が上回っている。1990年代半ばにはメバロチン1品目で1335億円を稼ぎ、主要5品目2255億円の6割弱を占めた。
含意
一品への集中は特許の期限を会社の期限に変えた。2000年に米ファイザーがリピトールを日本で発売し、2002年に国内特許が失効、2004年度には国内売上高が19%減となってシェア首位を明け渡す。2006年4月に迫った米国特許失効を前に、三共は第一製薬との経営統合へ踏み切った。
筆者の見解

筆者見解

18年を投じた自社創薬という判断そのものは、当時の三共にとって合理的であった。導入品と農薬を並べる総合会社のままでは、1970年代半ばに露呈した利益率の弱さを直せない。誤算があったとすれば、メバロチンが想定を超えて売れたことのほうだったとみられる。一品で総売上の4割を稼ぐ状態は、社内の資源配分も研究の優先順位もその一品に引き寄せる。第二の柱を作る時間は、成功の大きさに比例して短くなった。

2005年の統合は、経営の失敗の帰結としてだけでは読み切れない。スタチンという系列を世に出した会社が、自ら生んだ市場で米ファイザーに首位を奪われ、特許という制度上の期限に追われた。同じ構造は、単一の大型薬に依存する製薬会社であれば誰の身にも起こる。三共が特異だったのは依存の深さであって、依存そのものではなかった。メバロチンは統合後の第一三共に引き継がれ、2005年11月には日本人約8000人を対象とした市販後調査の結果が米国心臓協会で発表された。

なお本稿は、統合そのものの経緯と条件を扱っていない。三共と第一製薬がどのような交渉を経て株式移転を選んだかは、統合後企業である第一三共の判断として別に記録されている。ここで示したのは、その統合を選ばざるをえない位置まで三共を運んだのが、16年前に自ら世に出した一品であったという因果である。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

単独で会社を支える製品がなかった

戦後の三共は、自社で創った薬で立ち直ったのではない。1949年か1950年に米パーク・デイビス社から導入した抗生物質クロロマイセチンが再建を支えたことは、後年に同社を傘下へ収めたワーナー・ランバートの経営陣も認めている[1]。以後の品揃えも広かった。1961年3月期上半期の売上構成は抗生物質製剤および生物学的製剤29.2%、ビタミン剤20.8%、農薬18.0%、神経系に作用する薬剤9.4%で、単独で会社を支える製品はない[2]。医薬品のほかに農薬、食品、化粧品を並べた総合会社であった。

1970年代半ばに利益だけが落ちた

品揃えの広さは業績の安定を保証しなかった。単体売上高は1971年3月期の580億円から1975年3月期の876億円まで順調に伸びたが、経常利益は1975年3月期の71億円から翌1976年3月期に36億円へ半減した[3]。1977年3月期も33億円にとどまり、売上高が898億円へ伸びるあいだ利益だけが戻らない。回復は1978年3月期の売上高1128億円、経常利益49億円からで、1980年3月期には売上高1599億円、経常利益130億円に達した[4]。1975年に社長へ就いた河村喜典の在任は、この落ち込みから戻る時期に重なる。売る品目を増やすやり方では、利益率を守り切れないことが数字に出ていた。

決断

青かびの発見から18年を投じた

1973年、三共醗酵研究所は青かびの一種がコレステロール合成阻害物質を生むことを見つけた[5]。研究の着手から発売までには18年を要している。コレステロールの合成に必要なHMG-CoA還元酵素を阻害するという作用機序は当時どこにも実用例がなく、俗にスタチンと呼ばれる薬の系列は三共の手で世に出た。導入品を売る会社にとって、成果の出ない期間を18年にわたって抱えることは、それ自体が判断であった。1970年代半ばに経常利益が半減した時期も、この研究は続いている。1989年、三共は高脂血症治療薬メバロチンを発売した。

総合会社から一品が支える会社へ変えた

発売後の伸び方は、それまでの製品と違った。画期的な作用と効果が評価され、発売から4年で売上高1000億円の大台に乗り、1990年代にはメバロチンボーナスが出るほどの規模に育った[6]。1993年度決算では、売上首位の武田薬品工業の経常利益を三共が上回っている[7]。1990年代半ばにはメバロチン1品目で1335億円を稼ぎ、主要5品目の合計2255億円の6割弱を占めた[8]。国内単品で年商1000億円を超える薬はほかに存在しない[9]。三共の高収益経営を、事実上この一品が支える構造になった。

結果

世界6位の大型薬になり、再編を遠ざけた

メバロチンは世界で6位に入る大型薬まで伸びた[10]。1997年時点の三共は、武田薬品、山之内製薬と並んで海外販売に実績を持つ国内トップ3の一角にあり、大手8社のなかでも一人当たり経常利益1272万円は山之内製薬に次ぐ水準にある[11]。この余裕が、当時の業界再編から三共を遠ざけた。吉富製薬とミドリ十字の合併が業界に波紋を投げたとき、三共の河辺進副社長は「大手はどこも各疾病の薬を持っている。合併しても人員淘汰に苦労するだけ」と語り、同社の課題は国内再編ではなく米国での販売網構築にあるとした[12]。自社創薬で稼げるあいだ、規模を買う必要はなかった。

特許の期限が会社の期限になった

2000年、米ファイザーがコレステロール低下効果のより高いリピトールを日本で発売する。2002年にメバロチンの国内特許が失効して同一成分の後発医薬品が現れ、メバロチンの国内売上高は2003年度に8%減、2004年度に19%減となって、高脂血症治療薬のシェア首位をリピトールに明け渡した[13]。それでもメバロチンの粗利益は国内と輸出を合わせて1300億円あり、2005年3月期連結粗利益の3分の1を占めている[14]。退潮してなお、この一品が会社の3分の1を担っていた。

米国特許切れが統合の引き金になった

決定的だったのは輸出のほうであった。2006年4月には米国でもメバロチンの特許が失効する。後発品のシェアが5割を超える米国では切り替わりが速い。日興シティグループ証券の山口秀丸は、2005年3月期の会社営業利益850億円のうち8割を占める輸出利益が吹き飛びかねないと見た[15]。統合に踏み切った最大の理由は米国特許切れへの危機感だとしている。血圧降下剤オルメテックは2005年度に世界売上高約883億円へ倍増する見込みで、2000億円製品への育成を狙ってはいたものの、メバロチンの穴を埋めるには育ち切っていない[16]。2005年9月、三共は第一製薬と株式移転で統合し、上場を廃止した。

出典・参考
  • 週刊東洋経済 2006年2月4日号「夢よもう一度 三共『メバロチン』再生計画」
  • 週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編すらできない今の医薬品業界」
  • 週刊東洋経済 1998年1月3日号「医薬品 海外販売で格差が鮮明化」
  • 証券アナリストジャーナル 1984年22巻4号「ワーナー・ランバート」
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「化学-環境保護対応に課題」
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
  • 会社年鑑(1976年版・1986年版)

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