三共タカヂアスターゼの試売を引き受け、薬種問屋によらずに新薬業を興した判断

横浜の絹物商が、なぜ道修町の暖簾を持たないまま製薬会社になれたのか

時期 1899年
意思決定者(推定) 塩原又策 三共商店 専担(のち三共株式会社 専務、1929年から社長)
論点 薬種問屋の系譜を持たない者が、輸入代理店にとどまるか、自ら薬を作る会社になるか
概要
1899年、横浜で絹物業を営んでいた塩原又策は、在米の高峰譲吉からタカヂアスターゼの試売を委嘱され、西村庄太郎・福井源次郎と資本金3000円の匿名組合を組んで三共商店を起こした。江戸時代以来の薬種問屋から出るのではなく、一人の科学者の発明品一つを足場に新薬業へ入るという創業判断であった。
背景
明治期の日本では本格的な製薬事業がほとんど起こらず、国内生産されたのは薄荷脳、ヨードカリ、ガレヌス製剤、ヂアスターゼ程度にすぎない。薬の世界で盛んだったのは、古来の伝統を経て輸入商に発展した薬種問屋の商業活動であり、武田、田辺、塩野義といった大阪道修町の問屋仲間が製薬業を兼ねはじめていた。
内容
商号は三人共同にちなんで三共商店とし、塩原が専担となって米国からタカヂアスターゼを輸入し発売した。1902年には高峰の斡旋で米国パーク・デイビス社の日本代理店となり、1905年には日本橋箱崎町に製薬工場を開いて自家生産に着手している。輸入代理店の収益の上に、自家生産を積み重ねる形をとった。
含意
1907年に資本金50万円の合資会社、1913年3月に株式会社へ改組し、初代社長には高峰譲吉を擁した。以後の三共は高峰と鈴木梅太郎の発明の工業化を軸に据え、パーク・デイビス社との関係は戦後まで続いて、1949年のクロロマイセチン導入が戦後の再建を支えた。
筆者の見解

筆者見解

暖簾を持たずに始めたことは、弱みであると同時に選択の自由でもあったとみられる。道修町の問屋であれば、既存の取引先と扱い品目に縛られ、一発明品へ全部を寄せる賭けは通りにくい。塩原には守るべき販路がなく、失うものも小さかった。ただし、その自由は一人の科学者への依存と裏表であった。高峰譲吉が発明を他へ渡していれば、三共商店は成り立たない。この危うさを、塩原は代理店契約と自家生産工場という二つの実体で埋めた。

発明者を初代社長に据えた配置も、同じ危うさの処理として読める。在米の高峰は日々の経営を執らず、社業の一切は専務の塩原が掌握した。それでも社長の座を高峰に渡したことで、発明と会社の結びつきは制度として固定される。三共がのちに合成樹脂、農薬、パン用イーストへ広げても、会社の骨格が高峰と鈴木梅太郎の発明の工業化にあり続けたのは、この創業期の配置が長く効いたためであろう。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

製薬業が存在しなかった国の薬の売り方

明治時代の日本には、本格的な製薬事業がほとんど起こっていなかった。明治末期に国内生産された薬といえば薄荷脳、ヨードカリ、ガレヌス製剤、ヂアスターゼ程度にすぎない[1]。代わって盛んだったのは、古来の伝統を経て輸入商に発展した薬種問屋の商業活動である。1722年に徳川吉宗が各地の和薬類を問屋組合の検査のもとで売買させ、問屋の特権的地位を認めて以来、東京本町と大阪道修町の二大市場が薬の流通を握ってきた。武田、塩野義、田辺といった今日の代表的製薬会社の基礎も、この時代から固められている[2]。問屋制商業資本の支配下で家内工業的に薬を作るという伝統が、明治に入っても抜け切っていなかった。

道修町の暖簾を持たない者の参入

日露戦争後、大阪の問屋仲間でとりわけ伸びたのは輸入薬品を扱う武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎らであった。彼らは小工場で薬品を精製し、自家の商標をつけて売り出して、商人から製薬業兼業への道を歩んでいる[3]。売る力を先に持ち、作る力を後から足した経路である。塩原又策の出発点はこれと逆を向いていた。横浜で羽二重の売り込みをしていた人物が薬品に手を伸ばし、輸入・販売業へ移ったのが始まりで、薬種商としての暖簾も、既存の販路も持たない[4]。扱う品の値打ちがそのまま会社の値打ちになる立場にあった。

決断

発明品一つを足場にした創業

1899年、塩原又策は在米の高峰譲吉から、博士の発見にかかるタカヂアスターゼの試売を委嘱された。塩原は西村庄太郎、福井源次郎とはかり、匿名組織をもって資本金3000円で商いを起こす。商号は三人共同にちなんで三共商店とし、塩原が専担となって米国からタカヂアスターゼの輸入発売を始めた[5]。これが三共の発祥であり、同時に日本における新薬業の始まりでもあった[6]。問屋の系譜も、扱う品目の広がりもない。一人の科学者が見つけた消化酵素剤ただ一品に、三人の出資と全部の労力を寄せた形である。

代理店の上に自家生産を積んだ

一手販売権だけでは、扱う薬の生殺与奪を相手方が握る。塩原はこの弱みを二段構えで埋めた。1902年、店舗を日本橋南茅場町へ移すとともに、高峰の斡旋によって米国パーク・デイビス社の日本代理店となった[7]。タカヂアスターゼの製剤元と直につながり、供給の安定を得たのが一段目である。1905年には日本橋箱崎町に製薬工場を開設し、初めて自家生産に着手した[8]。輸入品を売る商店から、薬を自ら作る会社へ移ったのが二段目にあたる。代理店の看板を下ろさずに自家生産を重ねたので、収益源は二つになった。

結果

14年で匿名組合から株式会社へ

事業は順調に伸びた。1907年には塩原夫妻の出資により資本金50万円の三共合資会社へ改組し、箱崎工場が手狭になると北品川に品川工場を開設して店舗も日本橋室町へ移している[9]。1913年3月、本事業の確立を期して財界、医界、薬業界から株主を迎え、株式会社へ改組した。初代社長には在米の高峰譲吉を擁し、塩原は専務となって社業の一切を掌握指揮している[10]。創業時の資本金3000円は、14年で合資会社の50万円を経て株式会社の規模へ達した。発明者を社長の座に据えたことは、この会社が誰の何によって立っているかを外部へ示す配置でもあった。

研究者の発明を工業化する会社になった

創業判断は品目の性格を長く規定した。三共はその後、高峰譲吉と鈴木梅太郎の発明した薬品の工業化を軸に据える。タカヂアスターゼは帝国発明協会賞を、止血剤アドレナリン、ビタミンB1製剤オリザニン、河豚毒素テトロドトキシンはいずれも学士院賞を受けた[11]。持田製薬の持田信夫社長は1974年、大正初期の日本にまだ本格的な製薬工場がなかったと振り返り、例外として「三共製薬(現在の三共)が…オリザニン、アドレナリンを製造していた」とだけ挙げている[12]。同業他社は三共を、輸入品を運ぶ商人ではなく日本の研究者の発明を製品にする会社として見ていた。

代理店関係が半世紀後の再建を支えた

1902年に結んだパーク・デイビス社との関係は、その後も切れなかった。第二次大戦の敗戦で三共は品川工場の大半と在外資産のすべてを失い、戦後の悪条件が重なって一時は苦境に立つ[14]。そこへ1949年か1950年、パーク・デイビス社が抗生物質クロロマイセチンを三共へライセンスした。後年に同社を傘下へ収めたワーナー・ランバートの経営陣は、証券アナリストとの質疑でこの供与を振り返り、「それで三共が立ち直ったという経緯がある」と述べている[13]。創業時に選んだ相手との関係が、半世紀を経て会社の再建に効いた。

出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医藥品 三共」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医藥品 概説」
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「化学-製薬に近代化の波」
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻3号「持田製薬」
  • 証券アナリストジャーナル 1984年22巻4号「ワーナー・ランバート」
  • 三共六十年史(三共株式会社、1960年)

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