人海警備から機械警備へ——日本初のオンライン安全システム「SPアラーム」

需要が人手の限界を超えたとき、飯田亮 氏はなぜ「無人警備以外の注文をとるな」と号令したか

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時期 1966年6月
意思決定者 飯田亮 氏 社長
論点 警備事業の収益モデル(人海警備か機械警備か)
概要
1966年6月、日本警備保障(現セコム)が日本初のオンライン安全システム「SPアラーム」を発売し、警備員を常駐・巡回させる人手警備から、センサーと通信回線で異常を検知する機械警備へ主力を移した経営判断。契約が積み上がるほど利益が残るストック型の収益構造を、警備業で初めて成立させた。
背景
1964年の東京オリンピックなどで警備需要が広がり、1965年末には法人からの「警戒」注文が殺到した。しかし人手警備は契約が増えるほど警備員を増やさねばならず、人件費が売上に比例して膨らむ。人の採用が需要の伸びに追いつかなければ成長が頭打ちになる構造にあった。
内容
1966年に機械化システムSPアラームを開発したものの、「機械でどろぼうを発見できるか」という疑念が根強く、1969年でも無人化警備は売上の0.5%にとどまった。飯田亮 氏は1969年に「今後は無人警備以外の注文をとるな」と号令し、人手警備の新規受注を断つ方針を打ち出した。
含意
号令の後、無人化警備は1972年に全売上の55%、1973年に60%近くへ急速に広がった。センサーや警報機を売り切らずレンタルとする収益構造は、契約が続くかぎり利用料がストックとして積み上がり、後年のセコムの収益の柱となった。人手に依存しない成長を設計する発想は、家庭向け警備から今日のAI警備まで引き継がれている。
筆者の見解

人手に依存しない収益構造という賭け

この決断の核心は、現に売れている人手警備をあえて断ち、当時ほとんど売れていなかった機械警備へ主力を移した点にある。オリンピック後の警戒注文は殺到しており、そのまま警備員を増やせば売上は伸びた。飯田 氏はその道を断ち、開発から3年で売上の0.5%しかない無人化警備に会社の将来を賭けた。人を増やすほど費用が膨らむ構造から、契約が積み上がるほど利益が残る構造へ——収益の作り方そのものを組み替える選択であったとみられる。

もっとも、この転換が容易だったわけではない。府中3億円事件のような逆風、機械への顧客の不信、慣れた商品を売りたがる営業現場と、越えるべき壁は多かった。それでも人手に依存しない収益構造を選んだ判断は、その後のセコムの骨格として残った。契約を積み上げてストック収益を厚くし、その資金で新領域へ挑むという型は、家庭向け警備から医療・保険、そして今日のAIやドローンによる省人化まで引き継がれている。人手不足が深刻さを増す時代に、機械が人をどこまで補えるかという問いを、この決断は早くから経営の中心に据えていたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

人海警備の構造的な限界

1964年の東京オリンピックなどで警備の需要は広がり、1965年末には法人からの「警戒」注文が殺到した。設立当初はわずか5人ほどで始まった会社も、需要の拡大に応じて人員を増やし、警備の機械化に踏み出す1966年末には約790人を数えるまでになっていた。しかし警備員を現場に常駐・巡回させる人手警備は、契約が増えるほど人員も増やさねばならず、人件費が売上に比例して膨らむ。当時の日本では警備は人海作戦によるものという通念が根強く、人の採用が需要の伸びに追いつかなければ、成長はやがて頭打ちになる構造にあった。飯田亮 氏は、人手に頼るかぎり広がる需要に応えきれないとみていた[1][2][3]

飯田 氏はこの課題への回答として、1966年6月に日本初のオンライン安全システム「SPアラーム」を開発・発売した。契約先に置いたセンサーが盗難や火災などの異常を検知し、専用電話回線を通じて監視センターへ機械的に通報し、駆けつけ要員が現場へ向かう仕組みで、警備員の常駐を必要としない無人化警備であった。人を配置し続ける巡回警備と異なり、センサーと通信網への初期投資を終えれば、契約が増えても人員が比例して膨らまない。人手の制約を前提に成長を設計できる仕組みとして機械警備を据えた[4][5]

決断

「今後は無人警備以外の注文をとるな」

もっとも、機械警備はすぐには受け入れられなかった。「機械でどろぼうを発見できるだろうか」という疑念が顧客に根強く、開発から3年を経た1969年になっても、無人化警備は売上のわずか0.5%にとどまっていた。営業担当者は、説明に手間のかかる新しい商品より、慣れた人手警備を売りたがった。飯田 氏は1969年、「今後は無人警備以外の注文をとるな」[7]と社内へ号令し、人手警備の新規受注をあえて断つ思い切った方針を打ち出した[6]

号令の前後には逆風もあった。1968年12月に東京府中で現金輸送車から3億円が奪われる事件が起き、無人の機械警備では犯行を防げないという批判が一部から出た。それでも飯田 氏は機械警備への確信を崩さず、一般の防犯・防災という分野に徹することが社会の需要を広くつかみ、会社を大きく発展させることにつながるとみていた。労使紛争や学園紛争の警備は受けないという方針と対をなす、機械警備一本への集中であった。1972年には大会社・大工場向けに人と機械を並用した大規模警備システムも投入し、機械警備を軸に品ぞろえを広げた。無人化のシステムは飯田 氏自身が作り出し、営業でも先頭に立ち、社内の管理運営も率いた[8][9][10]

結果

レンタル制が生んだストック収益

号令の効果は数字に表れた。1969年に売上の0.5%だった無人化警備は、1972年12月期に全売上の55%、1973年には60%近くへ急速に広がった。人手警備を軸にした会社は、機械警備を主力とする会社へ姿を変えた。売上高は創業から10年で約82億円、人員は5,500人規模へ達し、人件費の上昇が続く環境のなかで、機械化が同社を大きく伸ばした。巡回警備で膨らむ人件費を抑えつつ契約数を伸ばせる構造が、成長の下支えとなった。1974年時点では全国250カ所に警報基地を構え、従業員3,300人、年間売上110億円・経常利益11億円の規模へと伸び、年30%を超える成長を続けた[11][12]

機械警備が生んだのは、収益の作り方そのものの転換でもあった。飯田 氏は後年、機械化してからも保証金とレンタル制を採り、キャッシュフローを生み出す仕組みを作ってきたと振り返っている。センサーや警報機を売り切らず数年契約のレンタルとしたため、契約が続くかぎり利用料がストックとして積み上がる。この構造は長く収益の柱となり、1991年3月期には機械化セキュリティー事業が売上の7割近くを占めた。1975年3月には世界初のコンピュータ安全システムを確立し、機械警備の管理と精度をさらに高めた[13][14][15]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1973年8月6日号「安心産業夢見る草分けガードマン」(日経マグロウヒル社)
  • 読売新聞(1965年12月23日)
  • 読売新聞(1969年4月8日)
  • 週刊東洋経済 2002年1月19日号「不屈の経営者21人の神髄 キャッシュフロー経営を徹底追求 セコム 飯田亮取締役最高顧問」
  • 日経ビジネス 1992年2月24日号「セコム『本業』と会長への依存に決別 専任役員決め新規事業加速」
  • セコム 有価証券報告書 第63期(2025年3月期)【沿革】(当時社名 日本警備保障)