1962年7月7日、飯田亮氏と戸田壽一氏は日本警備保障株式会社を東京に設立した[1]。資本金600万円、社員5名の陣容で、飯田氏は29歳だった[2]。当時の日本では治安の維持を警察が無償で担う通念が根強く[3]、企業が代金を払って安全を買うという発想は浸透していない。飯田氏は赤坂の酒問屋『岡永』の三男[4]で、家業では代金の回収が長期にわたる。前金で対価を受け取れる業態を条件に独立先を探し[5]、欧米で既に機能していた民間警備に行き着いた[6]。飯田氏は独立の動機を『わたしが日本警備保障を設立した動機は、何も高邁なものはなく、何が何でも独立したいというガムシャラな独立心からである』[引用元]と振り返っている。創業初年度は法人顧客の開拓が難航し[7]、売上はごく小さい水準にとどまった。
1964年10月の東京オリンピックで、日本警備保障は選手村などの警備を単独で担い[8]、創業から2年で国家的行事の警備を任された。請け負える民間警備会社がほかにほとんど存在しなかった[9]事情も、単独受注の背景にあった。日本の警備業は同社が1962年に創業したことに始まり、東京オリンピックによって業界は一挙に拡大している[10]。1965年末には法人からの『警戒』注文が殺到[11]した。ところが警備員を常駐・巡回させる人手警備は、契約が増えるほど警備員を増やさねばならず[12]、人件費が売上に比例して膨らむ。1966年末の人員は約790人[13]まで増えており、採用が需要の伸びに追いつかなければ成長が頭打ちになる構造を抱えていた。
1966年6月、日本警備保障は日本初のオンラインによる安全システム『SPアラーム』を開発・発売した[14]。センサーが異常を検知し、専用電話回線で監視センターへ通報し[15]、駆けつけ要員が現場へ向かう仕組みで、警備は契約先に社員を常駐させる方式と機械的に監視する無人化警備とに分かれた。学校・銀行・店舗など夜間の無人時間が長い施設が初期の顧客となった[16]。
1968年12月に東京府中で3億円事件が起きる[17]と、機械では犯行を防げないという批判が向けられた。飯田氏はむしろ機械警備への確信を強め、1969年に『今後は無人警備以外の注文をとるな』[引用元]と社内へ指示した。人手警備の新規受注を断つ号令であり、当時の無人化警備はまだ売上の0.5%[18]にすぎない。号令の後、無人化警備は1972年に全売上の55%、1973年には60%近くへ広がった[19]。1972年からは大会社・大工場向けに人と機械を併用した大規模警備システムも投入している[20]。創業10年で売上は約82億円、人員は5,500人規模[21]に達した。
1972年12月、株式の額面金額を変更するため、日本警備保障はエスピーアラームシステムズを形式上の存続会社として合併した[22]。登記上の設立年月日が1923年4月4日と記される[23]のはこの合併によるもので、実質上の存続会社である日本警備保障の設立は1962年7月7日にあたる。1974年6月、同社は東京証券取引所市場第二部に上場した[24]。上場した年、全国250カ所に警報基地を持ち、従業員3,300人、年間売上110億円・経常利益11億円[25]を計上し、年30%を超える成長率を保った。
1975年3月、日本警備保障は世界初のコンピュータ安全システムCSSを確立した[26]。1977年7月、日本警備保障は東京電力・関西電力・中部電力との合弁で、原子力防護の専門会社である日本原子力防護システムを設立し[27]、警備の対象を民間施設の外へも広げた。同年10月には安全機器を自社で生産するセコム工業を設立している[28]。機械化セキュリティーの機器は売り切らず、5年契約のレンタルで貸し出す形をとり[29]、契約が続くかぎり利用料が積み上がる。
1978年1月、日本警備保障は台湾のタイワンセコム社と業務提携を結び[30]、海外での事業に着手した。同年5月には東京証券取引所市場第一部に指定され[31]、創業から16年で一部上場に到達している。1981年3月には韓国三星グループとの合弁で韓国安全システムを設立した[32]。同社はのちにエスワンと改称している[33]。1987年9月にタイでタイセコムピタキイ社を[34]、1991年4月に英国でセコムキャロル社を設立し[35]、1992年12月には中国での持株会社である西科姆(中国)有限公司を設けた[36]。
国内では警備業そのものが産業として立ち上がりつつあり、1980年代の後半には日本の警備会社が約4,000社を数えた[37]。そのうち売上高100億円を超えるのは日本警備保障と綜合警備保障の2社だけ[38]で、事業者の数は多くとも規模を持つ会社はごくわずかという分布だった。綜合警備保障は1988年から通信衛星を利用した警備[39]に入っている。機械警備は異常があれば現場へ急行するパトロール隊を配置する必要があり[40]、全国で維持できるのは大手業者に限られた。1997年時点でセコムは警備業界の売上高の1割にあたる2千億円を占め、従業員1万人[41]を擁している。
1981年1月、日本警備保障はわが国初の家庭用安全システム『マイアラーム』を開発・発売した[42]。法人の施設に続いて個人の住宅へ売り先を広げたものの、1988年に東京・自由が丘へ開いたホームセキュリティのアンテナショップ[43]では、セキュリティ商品を求めて店に足を運ぶ客は皆無だった[44]。電話で営業をしても主婦の多くが『セコム』の名を知らず、消費者金融会社と混同されることが珍しくない[45]。契約数が延べ5万件に達するまでには、事業開始から13年[46]の歳月を要している。
家庭向けの市場が細かった時期にも撤退せず、他社が本格的に参入するまでの約20年間[47]、同社はこの分野でほぼ単独の事業者として営業を続けた。その結果、2000年代の初めには家庭向け警備で8割のシェアを占め、事業所向けの機械警備でも6割[48]を握る。新規契約数は2000年代初頭で年間3万5,000件[49]に達した。創業者の飯田亮氏がまとめた『セコム憲法』の第4条は、社会の変化に先駆けてサービスを準備する責任[50]を掲げ、最初の段階では社会習慣に馴染まず相当な障害が予想されるが、それゆえに選択する価値がある[51]と記した。
1983年12月、日本警備保障はセコムへ社名を変更した[52]。社内には猛反対があったものの、飯田氏は警備業にとどまらず、安全・安心で快適・便利に暮らせる社会をつくる社会システム産業への転身を掲げ、反対を押し切った。1986年12月には人工知能などの基盤技術を研究するセコムIS研究所を設立している[53]。1989年には米国の在宅医療会社HMSSを買収し[54]、在宅輸液療法の技術を取り込んだ。1991年3月期の売上高は1,335億円で、その74%近くを機械化セキュリティー事業が占めている[55]。
1991年6月、セコムは無菌調剤室を備えた調剤薬局を開設し[56]、在宅医療サービスの一つとして自宅で点滴治療を受ける患者への薬剤供給を始めた。あわせて訪問看護サービスの提供にも入っている[57]。無菌調剤薬局で栄養剤を調製し、24時間の体制で訪問看護にあたる[58]仕組みで、1989年に買収したHMSSの在宅輸液療法の技術がここで生きた。ただし医療法は病院を開く主体を非営利に限り、企業の医療参入を認めていない[59]。医療の周辺分野であっても、民間企業の参入には拒絶反応に近いものがあった[60]。セコムが在宅医療に投じた金額はこの時点で約3億円[61]にとどまる。
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|---|---|---|---|---|
| 1962〜1977年「安全はタダ」の国に警備を売り、人手から機械へ切り替える | セコム創業——巡回ガードマンから日本初のオンライン警備「SPアラーム」へ 1962年7月7日、東京都渋谷区桜丘町25番地で、酒問屋『岡永』三男の29歳・飯田亮氏と学習院時代の友人・戸田壽一氏が、資本金600万円・社員5名で日本警備保障株式会社を発足させた。『安全はタダ』とされた日本に民間警備という業態を持ち込み、1964年の東京オリンピック選手村警備の単独受注で信用を得て、1966年に日本初のオンライン安全システム『SPアラーム』を発売して機械警備モデルへ主力を移した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 東京オリンピックの選手村警備を単独で担当 | ★ | |||
| 人海警備から機械警備へ——日本初のオンライン安全システム「SPアラーム」 1966年6月、日本警備保障(現セコム)が日本初のオンライン安全システム『SPアラーム』を発売し、警備員を常駐・巡回させる人手警備から、センサーと通信回線で異常を検知する機械警備へ主力を移した経営判断。契約が積み上がるほど利益が残るストック型の収益構造を、警備業で初めて成立させた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 世界初のコンピュータ安全システムCSSを確立 | ★★ | |||
| 東京電力・関西電力・中部電力との合弁で日本原子力防護システムを設立 | ★ | |||
| 安全機器を自社生産するセコム工業を設立 | ★ | |||
| 1978〜1991年家庭と海外へ売り先を広げ、「セコム」へ改称する | タイワンセコムと業務提携 | ★ | ||
| 日本初の家庭用安全システム「マイアラーム」を発売 | ★★ | |||
| 韓国三星グループとの合弁で韓国安全システムを設立 | ★ | |||
| セコムに商号変更 | ★ | |||
| セコムIS研究所を設立 | ★ | |||
| タイセコムピタキイ社を設立 | ★ | |||
| 小峰顕一 | 在宅医療サービスを開始 | ★★ | ||
| 小峰顕一 | 「本業」と会長依存からの決別——事業5分割と専任役員制 1991年12月1日、28期連続増収増益を続けるセコムが、グループ事業を5分野に対等分割し、それぞれに専任役員を置く大規模な組織改革を実施した経営判断。中核のセキュリティー事業を『本業』の地位から降ろし、創業者・飯田亮会長への意思決定の集中を薄めることで、新規事業の自立を促す狙いであった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1992〜2003年創業者への依存を薄め、規制の壁の内側へ入る | 小峰顕一 | 在宅医療への参入と「医経分離」への一石 セコムが1991年に在宅医療・訪問看護へ参入し、1994年に企業による看護婦採用が厚生省に認められたことを受けて『セコム在宅医療システム』を設立、全国展開へ動いた経営判断。倒産寸前の病院再建も引き受け、医療と経営を分ける『医経分離』の論議に一石を投じた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 小峰顕一 | 日本初の画像センサー利用オンライン画像監視システム「セコムAX」を発売 | ★ | ||
| 小峰顕一 | 東洋火災海上保険に資本参加 | ★★ | ||
| 小峰顕一 | 移動体向けセキュリティ「ココセコム」を発売 | ★ | ||
| 小峰顕一 | 日本初の自由診療保険「メディコム」をセコム損保が発売 | ★ | ||
| 2004〜2026年買収で裾野を広げ、1兆円に届いた先の課題 | 原口兼正 | 能美防災を子会社化 | ★★ | |
| 原口兼正 | PFI刑務所「美祢社会復帰促進センター」を開設 | ★ | ||
| 前田修司 | 前田修司が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 前田修司 | アット東京を子会社化 | ★★ | ||
| 前田修司 | インド初の日本企業経営総合病院「サクラ・ワールド・ホスピタル」を開院 | ★ | ||
| 伊藤博 | 伊藤博が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 伊藤博 | 世界初の民間防犯用自律型小型飛行監視ロボット「セコムドローン」を発売 | ★ | ||
| 尾関一郎 | 尾関一郎が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 尾関一郎 | 世界初のAIバーチャル警備システムを発売 | ★ | ||
| 尾関一郎 | セノンを子会社化 | ★ | ||
| 尾関一郎 | アルテリア・ネットワークスに資本参加 | ★★ | ||
| 吉田保幸 | 吉田保幸が代表取締役社長に就任 | ★ |
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事実根拠:出所(セコム)