セコムセコム創業——巡回ガードマンから日本初のオンライン警備「SPアラーム」へ
「安全はタダ」とされた日本で、酒問屋を出た29歳・飯田亮 氏は、戸田壽一 氏との民間警備会社をどう機械警備の事業へ育てたか
- 概要
- 1962年7月7日、東京都渋谷区桜丘町25番地で、酒問屋「岡永」三男の29歳・飯田亮 氏と学習院時代の友人・戸田壽一 氏が、資本金600万円・社員5名で日本警備保障株式会社を発足させた。「安全はタダ」とされた日本に民間警備という業態を持ち込み、1964年の東京オリンピック選手村警備の単独受注で信用を得て、1966年に日本初のオンライン安全システム「SPアラーム」を発売して機械警備モデルへ主力を移した。
- 背景
- 戦後の日本では治安維持を警察が無償で担う通念が根強く、企業が代金を払って安全を買うという民間警備の発想は浸透していなかった。飯田 氏は江戸期から続く酒問屋の家業で現金回収が長期化する商習慣に問題意識を持ち、前金で対価を得られる業態を求めていた。欧米で既に機能していた民間警備の事例に着目し、官に頼り切れない法人施設の安全需要が日本にも潜在していると見立てて、戸田壽一 氏とともに未開拓の市場への参入を選んだ。
- 内容
- 日本警備保障は資本金600万円・社員5名で発足し、二人の創業者はともに29歳であった。当時の日本に民間警備という業態が存在しないなか、業種としてほぼ唯一の事業者として、警備員による巡回・常駐の人手警備から事業を始めた。創業初年度は法人顧客の開拓が難航して売上はごく小さい水準にとどまったが、1964年の東京オリンピックで選手村と一部会場の警備を単独受注し、翌1965年末には法人からの警戒注文が殺到した。
- 含意
- オリンピック後に警戒注文が殺到しても、警備員を増やすほど人件費が膨らむ人手警備では需要に追いつけず、飯田 氏は1966年に日本初の機械警備「SPアラーム」を発売してセンサーと通信と監視センターによる集中管理へ主力を移した。1968年の府中3億円事件の批判のなかでも機械警備を選び通し、1974年6月には東京証券取引所市場第二部へ上場、全国250カ所の警報基地・従業員3,300人・年間売上110億円の規模へと十数年で組織を広げた。
未開拓の市場に業態そのものを興した創業
この創業が示すのは、既存の需要を奪い合うのではなく、日本にまだ存在しなかった民間警備という業態そのものを興した選択の意味である。「安全はタダ」という通念のもとで創業初年度の売上は小さくとどまり、東京オリンピックの警備という国家的行事の実績を得て、ようやく民間警備の社会的な認知が広がった。前金で対価を得られる未開拓の安全需要に賭けた二人の若者の判断が、警備を有償のサービスとして成立させる出発点になったとみられる。
もう一つ見えてくるのは、人手による警備から機械警備への主力の移し方である。オリンピック後に警戒注文が殺到しても、警備員を増やすほど人件費が膨らむ構造では需要に応えきれず、飯田 氏はセンサーと通信回線と監視センターによる集中管理へ主力を移した。府中3億円事件の批判のなかでも機械警備を選び通した判断は、人手に依存しない収益構造を選ぶ賭けでもあったと読める。創業から十数年で、渋谷桜丘の5名の会社は全国に警報基地を持つ機械警備の会社へと姿を変えていった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
酒問屋の三男が選んだ独立と「安全はタダ」の社会
飯田亮 氏は1933年に東京赤坂の酒問屋「岡永」の三男として生まれ、学習院大学政経学部を卒業したのち家業の岡永商店に入った[1]。江戸期から続く酒問屋は得意先との掛売りと回収に時間を要する商習慣のなかにあり、飯田 氏は現金回収が長期化する家業の資金繰りに問題意識を持っていた。家業を継ぐ立場にはなく、前金で代金を受け取れる業態を条件に独立先を探すうち、当時の日本にまだ存在しなかった民間警備という未開拓の領域へ行き着いた[2]。
飯田 氏は後年、「わたしが日本警備保障を設立した動機は、何も高邁なものはなく、何が何でも独立したいというガムシャラな独立心からである」(日経ビジネス 1973/8/6)と、その動機を振り返っている[3]。戦後の日本では治安維持は警察が無償で担う公共サービスという通念が根強く、企業や施設が代金を払って安全を購入する発想は浸透していなかった。飯田 氏は欧米で民間警備会社が既に機能していた事例に着目し、官に頼り切れない法人施設の安全需要が日本にも潜在していると見立てて、学習院時代からの友人である戸田壽一 氏を共同創業者に誘った[4]。
決断
渋谷桜丘の5名で日本警備保障を発足
1962年7月7日、東京都渋谷区桜丘町25番地の小さな事務所で、資本金600万円・社員5名の日本警備保障株式会社が発足した[5]。飯田 氏と戸田壽一 氏はともに29歳で、当時の日本に民間警備という業態そのものが存在しないなか、業種としてほぼ唯一の事業者として出発している。登記上の設立日は1923年4月4日と古いが、これは後年に株式額面の変更を目的として既存会社と合併した事情によるもので、実質の創業は1962年7月にあたる[6]。
創業初年度は「安全はタダ」とされた社会通念のもとで法人顧客の開拓が難航し、売上はごく小さい水準にとどまった[7]。治安維持を警察が無償で担う日本では、代金を払って安全を買うという商習慣がなく、二人は法人施設への営業を地道に重ねるほかなかった。それでも飯田 氏と戸田壽一 氏は、未開拓の市場であるがゆえに先行者として参入できる余地があると判断し、警備員による巡回・常駐の人手警備を主力に据えた[8]。
東京オリンピック選手村警備の単独受注
創業から2年後の1964年10月、日本警備保障は東京オリンピックで各国選手団が滞在する選手村と一部会場の警備を単独で受注した[9]。社員も小規模な無名企業が国家的行事の警備を担う異例の受注であった。背景には、警察力だけでは国際行事の会場と選手村の警備を担保しきれないという組織委員会側の判断と、当時の日本でこれを請け負える民間警備会社が同社のほかにほとんど存在しなかった事情があった[10]。
国際的な行事での実績は民間警備という業態の社会的な認知を一気に広げ、創業期の信用をかたちづくった。翌1965年の年末には法人からの「警戒」注文が殺到し(読売新聞 1965/12/23)、人手による巡回警備では捌ききれない規模の需要が現れはじめた[11]。警備員を増やすほど人件費が膨らむ人手警備の構造では、広がる需要に追いつけないという課題が、オリンピック後の同社に見えてきた。
結果
「SPアラーム」と機械警備への転換
1966年6月、飯田 氏は人手警備の限界への回答として、日本初のオンライン安全システム「SPアラーム」を開発・発売した[12]。センサーが施設の異常を検知し、通信回線を通じて監視センターへ通報し、駆けつけ要員が現場へ向かう仕組みで、巡回警備で膨らむ人件費を抑えながら契約数を伸ばせる構造を生んだ。学校・銀行・店舗など夜間の無人時間が長い施設が初期の主要な顧客となり、月額の利用料を継続して受け取るストック型の収益が、後のセコムの収益モデルの原型を形づくった[13]。
1968年12月に東京都府中市で現金輸送車から3億円が奪われる事件が起き、日本警備保障が関与した現場でもあったため、無人の機械警備では犯行を防げないという批判が一部から出た。飯田 氏は批判を受けても機械警備への確信を強め、1969年に「今後は無人警備以外の注文をとるな」(読売新聞 1969/4/8)と社内へ指示し、人手依存からの脱却を進めた[14]。この方針のもとで同社は機械警備を軸に契約と拠点を広げ、1974年6月に東京証券取引所市場第二部へ上場し、同年時点で全国250カ所の警報基地・従業員3,300人・年間売上110億円の規模へ達した(読売新聞 1974/10/2)[15]。
- 有価証券報告書(沿革)
- 日経ビジネス 1973/8/6
- 読売新聞 1965/12/23
- 読売新聞 1969/4/8
- 読売新聞 1974/10/2