創業者の鈴木清一氏は、1911年に愛知県碧南市で生まれた。商業学校を出て大阪のロウ問屋である川原商店の東京出張所に勤めたが、肋膜炎で生死の境をさまよい、快復後は京都の修養団体である一灯園に入って修業を重ねた。事業家としては代用ロウを使った靴クリームと床用ワックスの製造で成功し、戦争末期にはこのワックスが切削油剤に使える点に着目した。1944年には川原商店から独立してユシロ航空油剤製造を設立し、敗戦後はこれをケントクと改称して靴クリームとワックスの製造を続けた。社名は一灯園ゆかりの人物の戒名にちなむ"謙徳"から取り、鈴木氏はこの改称の後から社員に朝夕の読経をさせた。
1961年、鈴木氏は初めての海外旅行で米国の大手ワックスメーカーであるジョンソン社を訪ね、シカゴ郊外の本社で出迎えたサンデファー極東部長から提携を持ちかけられた。ジョンソン社の首脳とは一度も会わないまま、社内の心配をよそに翌年の調印に踏み切り、自らケントクの株を買い集めてジョンソン社へ渡した。ところが提携をまとめたサンデファー氏はダラスの菓子会社へ移り、代わって東京代理店から副社長に迎えたD氏が米国式の営業方法を持ち込み、鈴木氏を経営から遠ざけた。朝夕の読経も時間の無駄だとされ、鈴木氏の側から取りやめた。D氏のやり方に耐えかねて退社する社員が出て、最後は鈴木氏とD氏がともに退社し、提携は破局に至った。世間は鈴木氏を資本自由化の犠牲第一号と見て、乗っとられ社長と呼んだ。
同じ1961年の旅で、鈴木氏は信仰を持つ経営者の国際団体を創設したエバンズ博士の紹介により、カナダのトロントでメンデルソン氏と会った。そこでダストコントロールの技術を無償で伝授され、フランチャイズによる事業の広げ方も知った。帰国後の同年末には油剤含浸繊維の製法を特許出願し、1963年2月に大阪市大淀区でサニクリーンを設立して、水を使わずに清掃できるダストコントロール商品のレンタルをフランチャイズチェーンで始めた。同年11月には大阪府吹田市に吹田工場を開設し、1964年6月に商号をダスキンへ変更した。社名は英語のダストと日本語のぞうきんをつないで作った。ダスキンが創業と数えるのは1963年11月16日で、2023年11月16日を創業60周年としている。
ダスキンは商品を売り切らず、使い終えた化学ぞうきんやモップを回収して洗濯と再処理を施し、8回から10回まで繰り返し貸し出した。売り切らない以上、配達、回収、洗濯、再処理、配送という作業の連なりが避けられず、末端の配達と回収を担ったのが加盟店と、加盟店に属する訪問販売員のシーダーである。シーダーは喜びの種をまく人の意味で名付けられ、大もうけは望めないものの得意先を交換するだけで安定した収入になり、中年の女性の内職として広がった。工場と商品は自社に残す一方で店と人は外に置き、1979年時点の加盟店1,424に対して直営店は24にとどまった。
加盟店の募集は広告への応募が中心で、勧誘による加盟よりも自主的な加盟が多かった。新規に加盟する者は契約の時点で正味5日間の研修会に入り、初日に経営理念を、2日目からは契約内容、管理体制、セールスの手順までの説明を受けた。契約の後も各支部からスーパーバイザーが派遣され、加盟店の計数管理と営業計画の進み具合を確かめ、情報の交換にあたった。加盟店の経験が浅い時期には伸び悩む店へ送り込むプロモーターも置いたが、各店が2年3年の営業を重ねて力をつけた段階で廃止した。毎年8月には全国の加盟店を一堂に集める全国大会を開いた。1966年には最初の加盟店組織であるDFC全国連合会が発足した。
北海道への進出は1965年9月で、1968年6月時点の加盟店は北の根室、稚内から南の沖縄まで全国約500軒に達し、月に30軒の速さで増えていた。売上高は1965年の1億4,000万円が1966年に3億3,000万円へ伸び、1968年には約20億円となり、1969年3月には44億円を見込んだ。創業後の2年間は赤字で、3年目から黒字に転じ、途中では7割配当や5割配当も記録した。工場も増やし、1967年9月に石川県七尾市の和倉工場、1968年7月に愛知県小牧市の小牧工場を開設した。商品はマット、モップ、雑巾状のものを中心に9種類あり、なかでも家庭用モップの伸びが際立った。1969年7月にはロールタオルのレンタルを加えた。
ダスキンがフード事業へ進んだきっかけは、鈴木氏がエバンズ博士の未亡人と遺児を日本へ招いたところ、その子息が米国のミスタードーナツのコンサルタントを務めており、そこから提携がまとまったことにある。ダスキンは1971年4月にミスタードーナツ・オブ・アメリカ社と事業提携を締結し、大阪府箕面市に第1号店を出店した。同じ年の1月には米国のサービスマスター社と提携してサービスマスター事業を始め、7月には産業用ウエスのレンタルを加えた。ドーナツ店も加盟店方式で、80円のドーナツと100円のコーヒーを売った。出店に相応の資金が要るため、加盟したのは電鉄会社やレジャー資本が多く、脱サラの個人は少なかった。
社内では社長を含む全社員を働きさんと呼び、入社の順に働きさん番号を与えた。番号の1番は鈴木社長である。月給はおさがり、賞与はご供養と言い換えた。事業本部長をダスキチ、地域本部長をキンバカと呼んだのは、管理職も思い上がってはならないという戒めからである。新入社員は全員が一灯園での修業を体験し、職場では朝に維摩経偈、夕に般若心経を全員で唱えた。1974年には1,000人を超える社員が社内の各所に集まって読経していた。特定の宗派を押しつけたわけではなく、鈴木社長は金光教の信者で、幹部には天理教の信者やクリスチャンもいた。労働組合は置かなかった。
ダスキンは決算の内容を働きさん全員に公開し、合議で経営方針を決めた。年2回のご供養とは別に、毎期末の余剰利益を働きに応じて全社員へ配分し、1968年当時のおさがりは24歳で月4万円と、他社に比べて高い水準にあった。週休2日制も早くから完全に実施し、社員の平均年齢は24歳だった。1974年の年間売上高は150億円、加盟店は化学ぞうきんが1,600店、ドーナツが87店に達した。1979年春の決算ではグループの末端売上高が約790億円となり、うちダストコントロール事業が500億円弱、ミスタードーナツ事業が170億円を占め、ダスキン本社の売上高は約300億円、税引後利益は10億円だった。
1979年10月8日、ダスキンの鈴木清一社長は西宮市の香雪記念病院へ入院した。10日には病床に全役員が集められ、臨時役員会で駒井茂春副社長の社長代行が決まった。12月10日の臨時株主総会と取締役会で鈴木氏は会長へ退き、駒井氏が代表取締役社長に就いた。駒井氏は1923年1月に大阪市で生まれ、大阪市立商科大学高等商学部を出て安宅産業へ入り、復員後の1957年11月にケントクへ移った人物である。入社試験は技術者の募集で、物理も化学も白紙で提出した駒井氏のもとを、試験官を務めていた鈴木氏が数日後に訪ね、三時間話し込んで採用を決めたという。1980年12月22日、鈴木会長は入院先で死去した。享年は68歳8カ月だった。
駒井社長は株式の公開を選ばなかった。1980年6月19日の第18回定時株主総会で資本金を9億9000万円へ増資したが、上場資格を満たしてなお公開の計画は無かった。理由は二つあった。数年前から無借金となっており、公開しなくても資金を調達できたこと、そして株主が従業員と加盟店と納入業者だけで占められ、40%の高率配当を続けても資金がグループの外へ流出しなかったことである。本部が利益を上げても加盟店から批判は出ず、利益はいずれグループの構成員へ還元される形になっていた。
資本を外へ開かない姿勢は、提携の組み方にも通じていた。ダスキンは米国企業と事業提携を重ねながら、合弁会社は作らなかった。前身のケントクがワックスのジョンソン社との提携で実質的に支配され、鈴木氏が追われるように会社を去った経験があったためである。ロイヤリティなど払うべきものは払い、あとは自社の責任で経営する形を選んだのは、責任を分担する甘えた関係にならずに済むからだった。ミスタードーナツのロイヤリティは当初売上高の3.35%だったが、店舗が100店を超えた時点で交渉し直し、1.85%へ引き下げている。株式をどれだけ持つかより、販売の大半を引き受けている側のほうが企業への影響力は強いというのが駒井氏の見方だった。
1982年10月1日、ダスキンは事業本部制と支社長制度を敷いた。同時にクリーンマネジメント事業本部が発足し、サービスマスター、ヘルスケア、化粧品の各事業を一人の本部長が統括する形に改めた。ヘルスケアは同年7月に始めた医療関連施設マネジメントサービスで、12月には第2号契約先の東京衛生病院でサービスに入っている。1982年の法人申告所得でダスキンは全体で460位、サービス部門では日本警備保障と東洋現像所に次ぐ3位に入った。1983年6月の第21回定時株主総会では、企業集団売上高1351億円が報告されている。化学ぞうきんのレンタルのために組んだ一つの営業組織では、増えた事業を動かしきれなくなっていた。
駒井社長の下で、ダスキンは米国で完成した業態を次々に買い付けた。工具や日用品を貸すユナイテッドレントオール、水産物を売るロングジョンシルバーに続き、1985年12月にはマックファーデン・ベンチャーズ社とスチュードベーカーズ事業の提携に調印した。1988年11月には日本初のダイナーレストランであるエド・デベヴィックスを大阪府枚方市に、同じ月にサーカスレストランのカーニバルプラザ市川スタジアムを千葉県市川市に開いている。買った業態は品質も味付けも米国流のままとし、日本に合わせて変えるのは土地の値段と立地に縛られる建物と、接客の側だけに限った。1989年2月20日には、ミスタードーナツの太平洋地域11カ国のフランチャイズ営業権を譲り受ける契約に調印した。ノウハウを買う側だったダスキンが、地域の営業権ごと引き取る側へ回った。
買った業態のすべてが残ったわけではない。基礎衣料のエスプランジェは1983年5月に始めて1990年に撤収し、米トライケム社のペインティングアートは1985年に検証へ入って1990年3月に畳んだ。1986年3月に発足したサービスディレクション事業部と、同じ年の4月に発足したスチュードベーカーズ事業部は、どちらも1992年に撤収された。また1989年4月に第1号店を出した靴工房事業も1993年に撤収している。駒井社長は新規事業の担当者に対し、損益分岐点に達する時期はいつか、そこまでに累積赤字も含めた純投資額はどれだけ必要か、本当に黒字化するのはいつかという三つの問いを必ず投げかけ、これに答えられない者には担当させなかった。
米国のサービスマスター社とダスキンの提携は1983年にさかのぼり、このときは病院衛生管理サービスの導入が目的だった。1987年ごろ、同社は都内に住む高齢者数十人に面接で調査し、自宅で介護サービスを受けられるなら使いたいとする回答が多いことを確かめた。ただ自社には介護のノウハウがなかった。そこで組む相手に選んだのが、再びサービスマスター社だった。ホームヘルスケア事業部の正式発足は1988年7月16日で、杉並区での在宅介護事業は1989年1月に始まった。当初のヘルパーは7人だった。同年3月には東京の河北総合病院で在宅ケアサービスのパイロットテストを始めている。同病院は8年ほど前から在宅医療に力を注いでいたが、看護婦が身の回りの世話まで担う余裕はなく、医療は病院、介護はダスキンという役割分担で提携がまとまった。
人手に頼るサービスが事業として成り立つかどうかは、採算の組み方で決まった。1991年の杉並では看護婦3人、ソーシャルワーカー1人、ヘルパー63人で47人を介護し、顧客1人あたりの月額は8万5000円、収入は420万円ほどで、その半分近くが人件費だった。ヘルパー50人程度の店舗なら月750万円の売上高で黒字になる計算で、高額所得者の多い目黒の客単価は16万円に達した。新たに雇うヘルパーには介護実習と講義を合わせて104時間の研修を課したが、折り込み求人50万部から研修を終えるのは6人にとどまり、1人あたり約14万3000円の養成費がかかった。杉並では2年で3分の2のヘルパーが入れ替わった。1989年7月には一般家庭の清掃を代行するメリーメイド事業も始まっている。
1993年3月1日、ダスキンは第二の創業を掲げた新しいフランチャイズシステムであるサーヴ100の構想を発表した。サーヴ100は全国の支店とフランチャイズ契約を結んだ独立事業者の呼び名で、1000事業所と2000世帯を責任ユニットとして受け持ち、サーヴ車で配達と営業にあたる形とした。同年10月1日、全国53支店と29支社、総勢365人で活動が始まった。直営配送センターは前日の午後9時まで注文を受け、サーヴ車ごとに仕分けて当日午前7時までに担当支店へ届ける段取りを組んだ。同じ日に営業所は支店へ改称され、メリーメイドとターミニックスの紹介業務も担わせた。加盟店に預けてきた末端の配達を、本部の引いた線の上へ載せ直す試みだった。
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|---|---|---|---|---|
| 1963〜1979年ケントクを追われた鈴木清一が持ち帰ったダストコントロール | 鈴木清一がサニクリーンを設立、ダストコントロール商品のフランチャイズ展開を開始 | ★★★ | ||
| 大阪府吹田市に吹田工場を開設 | ★ | |||
| 商号をダスキンに変更 | ★★ | |||
| 化学ぞうきん「ホームダスキン」の全国発売を開始 | ★★ | |||
| 国際フランチャイズ協会に日本企業として初めて入会 | ★ | |||
| 米国サービスマスター社との提携でサービスマスター事業を開始 | ★★ | |||
| 米国社との提携でミスタードーナツ事業を開始、大阪府箕面市に第1号店 | ★★★ | |||
| 産業用ウエスのレンタルを開始 | ★ | |||
| アガとの提携で化粧品販売事業を開始 | ★ | |||
| 害虫駆除等のサプコ事業を開始 | ★ | |||
| 家庭用品総合レンタルのユナイテッドレントオール事業を開始 | ★ | |||
| ユニフォームレンタルのメンデルロンソン事業を開始 | ★ | |||
| 1980〜2001年上場せずに米国から業態を買い続けた駒井茂春の20年 | 医療関連施設マネジメントサービス事業を開始 | ★ | ||
| 浄水器のレンタルを開始 | ★ | |||
| サービスマスター社との提携でメリーメイド事業を開始 | ★ | |||
| 新フランチャイズシステム「ダスキンサーヴ100」を開始 | ★★ | |||
| 台湾の統一超商との合弁で楽清服務股份有限公司を設立、初の海外事業に参入 | ★★★ | |||
| とんかつレストランのかつアンドかつ事業を開始 | ★ | |||
| オフィスコーヒー等のケータリング事業を開始 | ★ | |||
| 庭木手入れのトゥルグリーン事業を開始 | ★ | |||
| 高齢者向けのホームインステッド事業を開始 | ★ | |||
| 2002〜2012年大肉まんの隠蔽で失った信用と、53億円の賠償判決 | 伊東英幸 | 株式交換によりダスキン共益を完全子会社化 | ★ | |
| 伊東英幸 | 介護用品・福祉用具のヘルスレント事業を開始 | ★ | ||
| 伊東英幸 | 台湾の統一超商との合弁で統一多拿滋を設立し現地でミスタードーナツ事業を開始 | ★★ | ||
| 伊東英幸 | 三井物産と包括的な資本・業務提携契約を締結 | ★★★ | ||
| 伊東英幸 | 東京証券取引所および大阪証券取引所の各市場第一部に上場 | ★★ | ||
| 伊東英幸 | サカイ引越センターと業務提携 | ★ | ||
| 伊東英幸 | モスフードサービスと資本・業務提携 | ★ | ||
| 山村輝治 | アザレプロダクツおよび共和化粧品工業を完全子会社化 | ★ | ||
| 2013〜2026年1,538億円まで落ちた売上と、100円セールを捨てた選択 | 山村輝治 | 中外産業を完全子会社化 | ★ | |
| 山村輝治 | 住まいのピンポイント補修のホームリペア事業を開始 | ★ | ||
| 山村輝治 | マレーシアのBig Apple Worldwide Holdingsを子会社化 | ★ | ||
| 山村輝治 | ナックと資本業務提携 | ★ | ||
| 山村輝治 | 東京証券取引所の市場区分見直しによりプライム市場へ移行 | ★ | ||
| 大久保裕行 | クラシアンと業務提携し持株会社Nile Holdingsの株式15%を取得 | ★ | ||
| 大久保裕行 | 鍵の駆けつけ対応を担うレスキューサービス事業を開始 | ★ | ||
| 大久保裕行 | ナッシュと資本業務提携 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ダスキン)