ダスキン:鈴木清一のサニクリーン設立とダストコントロールのFC展開
1963年〜ジョンソン社との資本提携で自社を失った創業者
創業者の鈴木清一氏は、1911年に愛知県碧南市で生まれた。商業学校を出て大阪のロウ問屋である川原商店の東京出張所に勤めたが、肋膜炎で生死の境をさまよい、快復後は京都の修養団体である一灯園に入って修業を重ねた。事業家としては代用ロウを使った靴クリームと床用ワックスの製造で成功し、戦争末期にはこのワックスが切削油剤に使える点に着目した。1944年には川原商店から独立してユシロ航空油剤製造を設立し、敗戦後はこれをケントクと改称して靴クリームとワックスの製造を続けた。社名は一灯園ゆかりの人物の戒名にちなむ"謙徳"から取り、鈴木氏はこの改称の後から社員に朝夕の読経をさせた。
- ダスキン「創業者 鈴木清一」
- [1]鈴木清一は1911年に愛知県碧南市で生まれた
- [4]1944年にユシロ航空油剤製造を設立した
- [5]戦後、ユシロ航空油剤製造をケントクと改称し靴クリームとワックスの製造を続けた
- 現代の眼 1979年「ダスキン・鈴木清一──"祈りの経営"で一千億円企業に」(大野明男)
- [2]商業学校卒業後に大阪のロウ問屋川原商店の東京出張所へ勤め、肋膜炎の後に京都の修養団体一灯園で修業した
- [3]代用ロウを使った靴クリームと床用ワックスの製造で成功し、戦争末期にワックスが切削油剤に使われる点に着目した
- [6]ケントクの社名は一灯園ゆかりの人物の戒名から取った「謙徳」に由来する
- [7]ケントクへの改称以後、社員に朝夕のおつとめをさせた
1961年、鈴木氏は初めての海外旅行で米国の大手ワックスメーカーであるジョンソン社を訪ね、シカゴ郊外の本社で出迎えたサンデファー極東部長から提携を持ちかけられた。ジョンソン社の首脳とは一度も会わないまま、社内の心配をよそに翌年の調印に踏み切り、自らケントクの株を買い集めてジョンソン社へ渡した。ところが提携をまとめたサンデファー氏はダラスの菓子会社へ移り、代わって東京代理店から副社長に迎えたD氏が米国式の営業方法を持ち込み、鈴木氏を経営から遠ざけた。朝夕の読経も時間の無駄だとされ、鈴木氏の側から取りやめた。D氏のやり方に耐えかねて退社する社員が出て、最後は鈴木氏とD氏がともに退社し、提携は破局に至った。世間は鈴木氏を資本自由化の犠牲第一号と見て、乗っとられ社長と呼んだ。
- 現代の眼 1979年「ダスキン・鈴木清一──"祈りの経営"で一千億円企業に」(大野明男)
- [8]1961年の初の海外旅行でジョンソン社シカゴ郊外本社を訪ね、サンデファー極東部長から提携を切り出された
- [9]ジョンソン社首脳と会わないまま翌年に提携へ調印し、鈴木清一はケントク株を買い集めてジョンソン社へ渡した
- [10]提携をまとめたサンデファー極東部長はテキサス州ダラスの菓子会社副社長へ移った
- [11]東京代理店からケントク副社長に迎えたD氏が米国式の営業方法を押しつけ、鈴木清一を経営から外した
- [12]朝晩の読経は時間の無駄だとされ、鈴木清一の側から取りやめた
- [13]D氏のやり方に耐えかねた退社者が出て、鈴木清一とD氏がともに退社して提携は破局した
- [14]世間は鈴木清一を資本自由化の犠牲第一号と見て乗っとられ社長と呼んだ
同じ1961年の旅で、鈴木氏は信仰を持つ経営者の国際団体を創設したエバンズ博士の紹介により、カナダのトロントでメンデルソン氏と会った。そこでダストコントロールの技術を無償で伝授され、フランチャイズによる事業の広げ方も知った。帰国後の同年末には油剤含浸繊維の製法を特許出願し、1963年2月に大阪市大淀区でサニクリーンを設立して、水を使わずに清掃できるダストコントロール商品のレンタルをフランチャイズチェーンで始めた。同年11月には大阪府吹田市に吹田工場を開設し、1964年6月に商号をダスキンへ変更した。社名は英語のダストと日本語のぞうきんをつないで作った。ダスキンが創業と数えるのは1963年11月16日で、2023年11月16日を創業60周年としている。
- 現代の眼 1979年「ダスキン・鈴木清一──"祈りの経営"で一千億円企業に」(大野明男)
- [15]1961年の旅でエバンズ博士の紹介によりカナダ・トロントのメンデル氏と会った
- [17]1961年末に国産技術としての油剤含浸繊維の製法を特許出願した
- [21]ダスキンは英語のダストと日本語のゾーキンをつないだ新造語である
- ダスキン「創業者 鈴木清一」
- [16]1961年、カナダのメンデルソン氏からダストコントロール事業の技術を無償で伝授された
- ダスキン 有価証券報告書【沿革】
- [18]1963年2月 大阪市大淀区で株式会社サニクリーン設立、ダストコントロール商品のレンタルをフランチャイズチェーンシステムにより開始
- [19]1963年11月 大阪府吹田市に吹田工場開設
- [20]1964年6月 商号を株式会社ダスキンに変更
- ダスキン CORPORATE REPORT 2024「トップメッセージ」
- [22]ダスキンが創業として数えるのは1963年11月16日で、2023年11月16日に創業60周年を迎えた
参考文献[1]-[22]
- [1]鈴木清一は1911年に愛知県碧南市で生まれた
- [4]1944年にユシロ航空油剤製造を設立した
- [5]戦後、ユシロ航空油剤製造をケントクと改称し靴クリームとワックスの製造を続けた
- [16]1961年、カナダのメンデルソン氏からダストコントロール事業の技術を無償で伝授された
- 現代の眼 1979年「ダスキン・鈴木清一──"祈りの経営"で一千億円企業に」(大野明男)
- [2]商業学校卒業後に大阪のロウ問屋川原商店の東京出張所へ勤め、肋膜炎の後に京都の修養団体一灯園で修業した
- [3]代用ロウを使った靴クリームと床用ワックスの製造で成功し、戦争末期にワックスが切削油剤に使われる点に着目した
- [6]ケントクの社名は一灯園ゆかりの人物の戒名から取った「謙徳」に由来する
- [7]ケントクへの改称以後、社員に朝夕のおつとめをさせた
- [8]1961年の初の海外旅行でジョンソン社シカゴ郊外本社を訪ね、サンデファー極東部長から提携を切り出された
- [9]ジョンソン社首脳と会わないまま翌年に提携へ調印し、鈴木清一はケントク株を買い集めてジョンソン社へ渡した
- [10]提携をまとめたサンデファー極東部長はテキサス州ダラスの菓子会社副社長へ移った
- [11]東京代理店からケントク副社長に迎えたD氏が米国式の営業方法を押しつけ、鈴木清一を経営から外した
- [12]朝晩の読経は時間の無駄だとされ、鈴木清一の側から取りやめた
- [13]D氏のやり方に耐えかねた退社者が出て、鈴木清一とD氏がともに退社して提携は破局した
- [14]世間は鈴木清一を資本自由化の犠牲第一号と見て乗っとられ社長と呼んだ
- [15]1961年の旅でエバンズ博士の紹介によりカナダ・トロントのメンデル氏と会った
- [17]1961年末に国産技術としての油剤含浸繊維の製法を特許出願した
- [21]ダスキンは英語のダストと日本語のゾーキンをつないだ新造語である
- ダスキン 有価証券報告書【沿革】
- [18]1963年2月 大阪市大淀区で株式会社サニクリーン設立、ダストコントロール商品のレンタルをフランチャイズチェーンシステムにより開始
- [19]1963年11月 大阪府吹田市に吹田工場開設
- [20]1964年6月 商号を株式会社ダスキンに変更
- ダスキン CORPORATE REPORT 2024「トップメッセージ」
- [22]ダスキンが創業として数えるのは1963年11月16日で、2023年11月16日に創業60周年を迎えた
1979年〜加盟店とシーダーに配達と回収を任せたレンタル
ダスキンは商品を売り切らず、使い終えた化学ぞうきんやモップを回収して洗濯と再処理を施し、8回から10回まで繰り返し貸し出した。売り切らない以上、配達、回収、洗濯、再処理、配送という作業の連なりが避けられず、末端の配達と回収を担ったのが加盟店と、加盟店に属する訪問販売員のシーダーである。シーダーは喜びの種をまく人の意味で名付けられ、大もうけは望めないものの得意先を交換するだけで安定した収入になり、中年の女性の内職として広がった。工場と商品は自社に残す一方で店と人は外に置き、1979年時点の加盟店1,424に対して直営店は24にとどまった。
- 現代の眼 1979年「ダスキン・鈴木清一──"祈りの経営"で一千億円企業に」(大野明男)
- [23]ダスキンは売り切りではなく通常8〜10回の繰返し使用方式を採った
- [24]売り切りでないため配達・回収・洗たく・再処理・配送の流れが必然となり、加盟店とシーダー(訪問販売係)が担った
- [26]シーダーの仕事は大もうけは期待できないが得意先の交換だけでも安定収入になり、中年婦人層の内職になっていた
- [27]1979年時点のダスキンのレンタル事業は代理店(加盟店)1,424に対し直営店24だった
- 日経ビジネス 1974年4月29日号
- [25]シーダーは喜びの種をまく人の意味で、貸しぞうきんの取り替えなどに当たる訪問販売員である
加盟店の募集は広告への応募が中心で、勧誘による加盟よりも自主的な加盟が多かった。新規に加盟する者は契約の時点で正味5日間の研修会に入り、初日に経営理念を、2日目からは契約内容、管理体制、セールスの手順までの説明を受けた。契約の後も各支部からスーパーバイザーが派遣され、加盟店の計数管理と営業計画の進み具合を確かめ、情報の交換にあたった。加盟店の経験が浅い時期には伸び悩む店へ送り込むプロモーターも置いたが、各店が2年3年の営業を重ねて力をつけた段階で廃止した。毎年8月には全国の加盟店を一堂に集める全国大会を開いた。1966年には最初の加盟店組織であるDFC全国連合会が発足した。
- 北海評論 1968年「企業インタビュー 異色の経営、ダスキン戦略の本質」(石館昌和・伊藤森右衛門)
- [28]フランチャイズチェーンへの加盟は広告による応募形式で、勧誘加盟より自主加盟が多かった
- [29]新規加盟者は契約時点で正味5日間の研修会に参加し、初日は経営理念、2日目は契約内容から各管理体制、セールスまでの説明を受けた
- [30]各支部からスーパーバイザーが派遣され、計数管理の徹底と営業計画の進行状況の把握、情報交換にあたった
- [31]伸び悩む加盟店へ派遣するプロモーター制度は、各チェーンが2〜3年の営業体験で力をつけた段階で廃止された
- [32]毎年8月に全国の加盟店が一堂に会する全国大会を開いた
- ダスキン CORPORATE REPORT 2024「加盟店との協働」
- [33]1966年に初の加盟店組織であるDFC全国連合会が発足した
北海道への進出は1965年9月で、1968年6月時点の加盟店は北の根室、稚内から南の沖縄まで全国約500軒に達し、月に30軒の速さで増えていた。売上高は1965年の1億4,000万円が1966年に3億3,000万円へ伸び、1968年には約20億円となり、1969年3月には44億円を見込んだ。創業後の2年間は赤字で、3年目から黒字に転じ、途中では7割配当や5割配当も記録した。工場も増やし、1967年9月に石川県七尾市の和倉工場、1968年7月に愛知県小牧市の小牧工場を開設した。商品はマット、モップ、雑巾状のものを中心に9種類あり、なかでも家庭用モップの伸びが際立った。1969年7月にはロールタオルのレンタルを加えた。
- 北海評論 1968年「企業インタビュー 異色の経営、ダスキン戦略の本質」(石館昌和・伊藤森右衛門)
- [34]ダスキンの北海道進出は1965年9月だった
- [35]1968年6月時点で加盟店は根室・稚内から沖縄まで全国約500軒、月間30軒の増加ペースだった
- [36]売上高は1965年1億4,000万円、1966年3億3,000万円、1968年約20億円、1969年3月は44億円の見込みだった
- [39]ダスキンの商品は9種類で、マット・モップ・雑巾状のものに大別され、家庭用モップの伸びが著しかった
- 現代の眼 1979年「ダスキン・鈴木清一──"祈りの経営"で一千億円企業に」(大野明男)
- [37]ダスキンは創業後2年間は赤字で3年目から黒字になり、7割配当・5割配当を記録した
- ダスキン 有価証券報告書【沿革】
- [38]1967年9月に石川県七尾市に和倉工場、1968年7月に愛知県小牧市に小牧工場を開設した
- [40]1969年7月 ロールタオル(現キャビネットタオル)のレンタルを開始
参考文献[23]-[40]
- 現代の眼 1979年「ダスキン・鈴木清一──"祈りの経営"で一千億円企業に」(大野明男)
- [23]ダスキンは売り切りではなく通常8〜10回の繰返し使用方式を採った
- [24]売り切りでないため配達・回収・洗たく・再処理・配送の流れが必然となり、加盟店とシーダー(訪問販売係)が担った
- [26]シーダーの仕事は大もうけは期待できないが得意先の交換だけでも安定収入になり、中年婦人層の内職になっていた
- [27]1979年時点のダスキンのレンタル事業は代理店(加盟店)1,424に対し直営店24だった
- [37]ダスキンは創業後2年間は赤字で3年目から黒字になり、7割配当・5割配当を記録した
- 日経ビジネス 1974年4月29日号
- [25]シーダーは喜びの種をまく人の意味で、貸しぞうきんの取り替えなどに当たる訪問販売員である
- 北海評論 1968年「企業インタビュー 異色の経営、ダスキン戦略の本質」(石館昌和・伊藤森右衛門)
- [28]フランチャイズチェーンへの加盟は広告による応募形式で、勧誘加盟より自主加盟が多かった
- [29]新規加盟者は契約時点で正味5日間の研修会に参加し、初日は経営理念、2日目は契約内容から各管理体制、セールスまでの説明を受けた
- [30]各支部からスーパーバイザーが派遣され、計数管理の徹底と営業計画の進行状況の把握、情報交換にあたった
- [31]伸び悩む加盟店へ派遣するプロモーター制度は、各チェーンが2〜3年の営業体験で力をつけた段階で廃止された
- [32]毎年8月に全国の加盟店が一堂に会する全国大会を開いた
- [34]ダスキンの北海道進出は1965年9月だった
- [35]1968年6月時点で加盟店は根室・稚内から沖縄まで全国約500軒、月間30軒の増加ペースだった
- [36]売上高は1965年1億4,000万円、1966年3億3,000万円、1968年約20億円、1969年3月は44億円の見込みだった
- [39]ダスキンの商品は9種類で、マット・モップ・雑巾状のものに大別され、家庭用モップの伸びが著しかった
- ダスキン CORPORATE REPORT 2024「加盟店との協働」
- [33]1966年に初の加盟店組織であるDFC全国連合会が発足した
- ダスキン 有価証券報告書【沿革】
- [38]1967年9月に石川県七尾市に和倉工場、1968年7月に愛知県小牧市に小牧工場を開設した
- [40]1969年7月 ロールタオル(現キャビネットタオル)のレンタルを開始
1979年〜ミスタードーナツ第1号店の開業と読経を伴う利益配分
ダスキンがフード事業へ進んだきっかけは、鈴木氏がエバンズ博士の未亡人と遺児を日本へ招いたところ、その子息が米国のミスタードーナツのコンサルタントを務めており、そこから提携がまとまったことにある。ダスキンは1971年4月にミスタードーナツ・オブ・アメリカ社と事業提携を締結し、大阪府箕面市に第1号店を出店した。同じ年の1月には米国のサービスマスター社と提携してサービスマスター事業を始め、7月には産業用ウエスのレンタルを加えた。ドーナツ店も加盟店方式で、80円のドーナツと100円のコーヒーを売った。出店に相応の資金が要るため、加盟したのは電鉄会社やレジャー資本が多く、脱サラの個人は少なかった。
- 現代の眼 1979年「ダスキン・鈴木清一──"祈りの経営"で一千億円企業に」(大野明男)
- [41]エバンズ博士の未亡人と遺児を日本に招待したところ、その子息が米国ミスタードーナツのコンサルタントをしていた縁で事業提携ができた
- [45]ミスタードーナツは80円のドーナツと100円のコーヒーなどを売るチェーンだった
- [46]出店に資金が必要なため提携先は電鉄会社・レジャー資本などの企業が多く、脱サラの個人は少なかった
- ダスキン 有価証券報告書【沿革】
- [42]1971年4月 ミスタードーナツ・オブ・アメリカ社との事業提携によるミスタードーナツ事業を開始、大阪府箕面市に第1号店をオープン
- [43]1971年1月 米国サービスマスター社との事業提携によるサービスマスター事業を開始
- [44]1971年7月 産業用ウエスのレンタルを開始
社内では社長を含む全社員を働きさんと呼び、入社の順に働きさん番号を与えた。番号の1番は鈴木社長である。月給はおさがり、賞与はご供養と言い換えた。事業本部長をダスキチ、地域本部長をキンバカと呼んだのは、管理職も思い上がってはならないという戒めからである。新入社員は全員が一灯園での修業を体験し、職場では朝に維摩経偈、夕に般若心経を全員で唱えた。1974年には1,000人を超える社員が社内の各所に集まって読経していた。特定の宗派を押しつけたわけではなく、鈴木社長は金光教の信者で、幹部には天理教の信者やクリスチャンもいた。労働組合は置かなかった。
- 現代の眼 1979年「ダスキン・鈴木清一──"祈りの経営"で一千億円企業に」(大野明男)
- [47]ダスキンは社長以下の全社員を「働きさん」と呼び、入社順に「働きさん番号」を付けた
- [48]働きさん番号の1番は社長である
- [49]月給を「おさがり」、ボーナスを「ご供養」と呼んだ
- [51]新入社員はすべて一灯園での修業を体験させられた
- [54]特定の宗派を押しつけるわけではなく、社長は金光教の信者、幹部には天理教の信者やクリスチャンもいた
- [55]ダスキンには労働組合がなかった
- 日経ビジネス 1974年4月29日号
- [50]事業本部長を「ダスキチ」、地域本部長を「キンバカ」と呼び、管理職も思い上がってはいけないという戒めから出た呼称である
- [52]朝は維摩経偈、夕方は般若心経を全員で読経した
- [53]1974年時点で1,000人を超える社員が社内のあちこちに集まって読経していた
ダスキンは決算の内容を働きさん全員に公開し、合議で経営方針を決めた。年2回のご供養とは別に、毎期末の余剰利益を働きに応じて全社員へ配分し、1968年当時のおさがりは24歳で月4万円と、他社に比べて高い水準にあった。週休2日制も早くから完全に実施し、社員の平均年齢は24歳だった。1974年の年間売上高は150億円、加盟店は化学ぞうきんが1,600店、ドーナツが87店に達した。1979年春の決算ではグループの末端売上高が約790億円となり、うちダストコントロール事業が500億円弱、ミスタードーナツ事業が170億円を占め、ダスキン本社の売上高は約300億円、税引後利益は10億円だった。
- 日経ビジネス 1974年4月29日号
- [56]経営内容を働きさん全員に公開し、合議制で経営方針を決める「公開経営」を採った
- [57]一般のボーナスとは別に毎期末の余剰利益を全従業員に働きに応じて配分した
- [61]1974年の年間売上高は150億円、化学ぞうきんの加盟店1,600店、ドーナツの加盟店87店だった
- 北海評論 1968年「企業インタビュー 異色の経営、ダスキン戦略の本質」(石館昌和・伊藤森右衛門)
- [58]ご供養は年2回で、おさがりは24歳で4万円と給与水準は他社より高かった
- [60]ダスキンの社員の平均年齢は24歳だった
- 現代の眼 1979年「ダスキン・鈴木清一──"祈りの経営"で一千億円企業に」(大野明男)
- [59]週休二日制を早くから完全実施していた
- [62]1979年春の決算でグループ末端売上高約790億円、ダストコントロール事業500億円弱、ミスタードーナツ事業170億円、ダスキン本社売上高約300億円、税引後利益10億円
参考文献[41]-[62]
- 現代の眼 1979年「ダスキン・鈴木清一──"祈りの経営"で一千億円企業に」(大野明男)
- [41]エバンズ博士の未亡人と遺児を日本に招待したところ、その子息が米国ミスタードーナツのコンサルタントをしていた縁で事業提携ができた
- [45]ミスタードーナツは80円のドーナツと100円のコーヒーなどを売るチェーンだった
- [46]出店に資金が必要なため提携先は電鉄会社・レジャー資本などの企業が多く、脱サラの個人は少なかった
- [47]ダスキンは社長以下の全社員を「働きさん」と呼び、入社順に「働きさん番号」を付けた
- [48]働きさん番号の1番は社長である
- [49]月給を「おさがり」、ボーナスを「ご供養」と呼んだ
- [51]新入社員はすべて一灯園での修業を体験させられた
- [54]特定の宗派を押しつけるわけではなく、社長は金光教の信者、幹部には天理教の信者やクリスチャンもいた
- [55]ダスキンには労働組合がなかった
- [59]週休二日制を早くから完全実施していた
- [62]1979年春の決算でグループ末端売上高約790億円、ダストコントロール事業500億円弱、ミスタードーナツ事業170億円、ダスキン本社売上高約300億円、税引後利益10億円
- ダスキン 有価証券報告書【沿革】
- [42]1971年4月 ミスタードーナツ・オブ・アメリカ社との事業提携によるミスタードーナツ事業を開始、大阪府箕面市に第1号店をオープン
- [43]1971年1月 米国サービスマスター社との事業提携によるサービスマスター事業を開始
- [44]1971年7月 産業用ウエスのレンタルを開始
- 日経ビジネス 1974年4月29日号
- [50]事業本部長を「ダスキチ」、地域本部長を「キンバカ」と呼び、管理職も思い上がってはいけないという戒めから出た呼称である
- [52]朝は維摩経偈、夕方は般若心経を全員で読経した
- [53]1974年時点で1,000人を超える社員が社内のあちこちに集まって読経していた
- [56]経営内容を働きさん全員に公開し、合議制で経営方針を決める「公開経営」を採った
- [57]一般のボーナスとは別に毎期末の余剰利益を全従業員に働きに応じて配分した
- [61]1974年の年間売上高は150億円、化学ぞうきんの加盟店1,600店、ドーナツの加盟店87店だった
- 北海評論 1968年「企業インタビュー 異色の経営、ダスキン戦略の本質」(石館昌和・伊藤森右衛門)
- [58]ご供養は年2回で、おさがりは24歳で4万円と給与水準は他社より高かった
- [60]ダスキンの社員の平均年齢は24歳だった
出典・参考
7件
- ダスキン 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1974年4月29日号
- 北海評論 1968年「企業インタビュー 異色の経営、ダスキン戦略の本質」(石館昌和・伊藤森右衛門)
- 現代の眼 1979年「ダスキン・鈴木清一──"祈りの経営"で一千億円企業に」(大野明男)
- ダスキン CORPORATE REPORT 2024「トップメッセージ」
- ダスキン CORPORATE REPORT 2024「加盟店との協働」
- ダスキン「創業者 鈴木清一」