綜合警備保障の創業は、警察の外へ人を出す事業ではなく、警察の中にあった段取りを民間へ持ち出す事業だった。村井順氏は戦後の警備警察制度をつくり、吉田茂首相の秘書官を経て初代の内閣調査室長を務めた人物である。1964年の東京オリンピックで事務次長として組んだ警備は、1か月という期限付きのもので、学生の動員と消防の応援で足りた。だが企業や建物の警備は毎日続き、途切れれば契約が切れる。1965年の創業は、一度きりの大会で確かめた段取りを、続く契約へ置き換える試みだった。ガードマンという仕事に社会的な地位がまだ無かった時期に、安川第五郎氏が自ら会長を引き受けたのは、事業の中身ではなく、その段取りを組んだ人物への信用が先にあったからである。
機械警備への傾斜は、人手が足りなくなってから始まったのではない。1967年の欧米視察で村井順社長が見たのは、警報器と無線と隠しカメラによって人の数を減らす仕組みだったが、機械化へ重点を置く方針は創立2周年の時点で既に決めていた。それでも、警備員を減らすための機械ではなかった。日本万国博覧会は半年の会期に2,000人から3,000人を必要とし、当時の労働事情で優秀な人材がその期間ずっと空いている見込みは薄い。機械は、集められる人数の上限を動かすための道具だった。1975年のアマンドシステムが無人化店舗の現金自動支払機を制御する商品になったのも、人を置けない場所こそが機械の市場だったからである。
村井順氏は1909年5月に東京で生まれ、在学中に高等文官試験に合格したうえで、1935年に東京帝国大学法学部を卒業して内務省に入った。戦後は日本の警備警察制度をつくり、吉田茂首相の秘書官を務めたことで一内務官僚の枠を越え、初代の内閣調査室長となった。官僚としての最後の役職は九州警察管区局長である。吉田首相は村井氏を斎藤昇長官と入れ替えて国家警察本部長官に据えようとしたが、当時は閣僚でない国家公安委員長が長官人事を握っており、占領下で民政局の支持を得た斎藤長官が法律を楯に抵抗したため、この人事は実現しなかった。
1964年の東京オリンピックで、村井順氏は大会組織委員会の事務次長を務め、安川第五郎会長を補佐した。警備の期間は1か月に限られ、村井氏は学生を動員し、消防の人員にも応援を求めて会場の警備を組んだ。大会を成功させた翌年、村井氏は綜合警備保障を設立して社長に就任した。オリンピックの中心にいた安川第五郎氏らが積極的に協力し、安川氏が自ら会長を引き受けた。ガードマンという仕事が社会的な地位を得る前で、事業として成り立つかどうかは定まっていなかった。村井順社長は東京オリンピックの警備で日本の青年が持つ素質を確かめており、優秀な青年を集めれば世界で最も優秀な警備会社になれると考えた。
同業では日本警備保障(現セコム)が先行していた。1962年10月に常駐警備と巡回警備で営業を始め、1964年の東京オリンピックの警備で評価を上げた同社に、綜合警備保障は3年遅れて設立されている。設立は1965年7月で、所在地は東京都千代田区内幸町二丁目20番、資本金25百万円、主な事業目的は警備請負業だった。創業者の村井順氏を動かしたのは、日本には国産だけで成り立つ警備会社がなければならないという思いである。自らが手がけてきた警察警備と内閣の情報機関での調査を企業の仕事として移せないか、という発想が村井順社長の事業の出発点にあった。発足後の2年間は無事故だった。
設立の翌1966年8月、綜合警備保障は東京都千代田区にビル管理を行う綜合管財(現ALSOKファシリティーズ)を設立した。1967年、村井順社長は日本万国博覧会協会から正式に依頼を受け、開催中のモントリオール万博の警備を視察するため、約1か月かけて欧米を回った。訪ねた先は、ハワイの警備会社、117年の歴史を持つ世界最大のピンカートン、カナダ・ピンカートン、モントリオール万博の会場、ヨーロッパ最大規模のイギリスのセキュリコ、パリの警備会社である。創業2年の綜合警備保障は世界的には無名だったが、どの会社も最高幹部が面会に応じ、今後は協力し提携しようという話にまで進んだ。
欧米の警備会社は警報器を数多く採用し、無線を活用し、危険で重要な場所には隠しカメラを置いて調整室のテレビで受信していた。村井順社長は創立2周年を機に機械化へ重点を置くと定めており、視察はその方向を裏づけた。警報器は世界に何百何千という種類があり、誤報を出さない確実さと価格と使いやすさで選ぶため、村井順社長は世界中の資料を集めて研究し、日本の一流の電気器具メーカーと組んで独自の警報器を作るとした。契約先に迷惑をかけない社会の信用第一主義を採り、格好よりも間違いのなさを優先してきた方針は、機械化に進んでも変えなかった。1967年9月、綜合警備保障は法人向け機械警備"綜合ガードシステム"を開発し、発売した。
村井順社長は、警備会社の生命は優秀な警備員を持つこと以外にないとして、良い青年を集めて徹底した教育をし、本部からの遠隔指揮ではなく幹部が第一線に出て指導する方法を採った。教育には、ピンカートンのように学校と教育施設を持つやり方と、採用した者に経験の豊かな警備士を一人ずつ付けて現場で半月から1か月指導するやり方があり、綜合警備保障は両方を用いた。警備士の採用は20歳から35歳までで切っていたが、欧米には50歳まで採用する会社があり、何億という現金を扱う金融機関の職場では人生経験の豊かな警備員のほうが契約先も安心すると考え、年齢の上限を広げることを研究課題とした。警備員の待遇は、各国の賃金水準に照らして低くないとした。
1967年の時点で、村井順社長は日本万国博覧会の警備を難事業とみていた。半年の会期に2,000人から3,000人を集めなければならず、当時の労働事情で優秀な人材が半年間空いていることは考えにくく、会期には梅雨と酷熱が重なる。1か月で終わった東京オリンピックと違い、警察が半年も会場だけの警固につくことはできず、自衛隊も特別の場合を除いては動かないとみた。モントリオール万博では協会が1,600人ほどで全体の警備にあたり、各パビリオンは警備会社が8人から10人ずつ契約して受け持っていた。1970年3月、綜合警備保障は日本万国博覧会の常駐警備を実施した。
警備は警備員を契約先の現地に置く仕事であり、綜合警備保障は地方に警備請負業の会社を相次いで設立した。1968年12月に栃木県宇都宮市へ北関東綜合警備保障を、1969年6月に広島県広島市へ広島綜合警備保障を設けた。1972年6月には東京都港区に常駐警備を行う東京綜合警備保障(現ALSOK東京)を、1975年5月には札幌市中央区に北海道綜合警備保障(現ALSOK北海道)を設立した。1970年代の警備では、1970年の大阪万国博に続いて1972年の札幌オリンピック、1979年の東京サミットを受け持ち、高い評価を得た。
警備員を置く仕事に、機械で制御する商品が重なった。1975年1月、綜合警備保障は無人化店舗のCD(現金自動支払機)コーナーを自動制御する"アマンドシステム"を開発し、発売した。警備員を常駐させずに現金の機械を制御する商品である。同じ年の9月には、常駐警備に設備の制御と監視ができる設備を併用した"オルムシステム"を開発し、発売した。1978年2月、設立から置いていた東京都千代田区内幸町の本社を、東京都港区元赤坂一丁目6番6号へ移した。1979年10月には消防用設備の定期点検業務を開始し、警備の請負に法定の点検が加わった。
分社は組織図の書き換えではなく、資本をどこに置くかを決める作業だった。綜合警備保障が地域会社へ渡したのは、人を配置すれば成り立つ常駐警備であり、本社に残したのは、センサーと監視装置を買い揃えなければ動かない機械警備である。前者は赤字になりにくく、後者は投資を回収するまで赤字を出す。32社すべてが黒字だったという1980年の数字は、地域会社の経営が優れていた証明ではなく、赤字の出る部分を本社が引き受けた結果でもあった。村井順社長が、常駐警備で体力をつけてから機械警備へ出て来ればよいと言ったのは、順番の指定であって、地域会社を常駐だけの会社に留めるという意味ではない。
人そのものが商品になる会社は、人を安く使うか、辞めさせないかのどちらかを選ぶ。綜合警備保障は後者を採り、新人へ5泊6日50時間の教育を当て、10段階の資格と合格率20%前後の試験を置き、高卒の定着率を85%まで上げた。業界平均の70%との15ポイントの差は、毎年採り直す人数の差であり、採用と初期教育に掛ける費用の差でもある。学歴を外して高卒の生え抜きを本社の総務部長に、30代の若手を山口綜合警備保障の社長に据えたのは、公平のためというより、辞めない理由を社内に作るためだった。1988年に家庭向けのタクルスを出せたのは、機械を買う資金と、その機械の先で処置に走る人の両方が本社に揃っていたからである。
綜合警備保障の地域会社は1980年4月時点で32社を数え、どこも黒字を出していた。村井順社長の見立てでは、支社という形のままだと本社に頼る気持ちが抜けない。独立採算の別会社に切り出せば、働いて努力した分がそのまま業績の数字に表れ、社員の取り組みにも本気さが出る。分社で採算を見る単位を細かくし、親方日の丸の意識をなくすことを狙った。車の扱いにも違いが出た。支社だったころは古くなった車を新車に替えていたが、地域会社になってからは、整備すればまだ走れる車は使い続けるようになった。グループが使う自動車は全体で1,700台に上り、一台ごとの使用期間を半年延ばすだけでも費用に大きな差が出た。
地域会社が黒字を外さなかったのは、渡す事業を選んでいたからである。本社は財産・社員・顧客・ノウハウを対価なしで地域会社へ渡したが、切り出した業務は資本がなくても人さえいれば回る常駐警備に限った。機械警備の要であるガードセンターの中央監視装置は、契約先で異常が起きれば直ちに消防署と警察署へ通報する設備であり、生まれたばかりの地域会社が抱えるには重すぎた。償却の負担が大きい機械警備は本社が持ち、地域会社には常駐警備で稼いだ利益を蓄えて地力をつけ、そのうえで打って出ることが求められた。確実に稼げる部分に限って移した結果、地域会社が赤字を出す心配はほとんどなかった。
村井順社長は、先々の成長と得意先の開拓をにらみ、地域会社の資本金の最大50%をその土地の会社や有力者に引き受けてもらうことにした。海外の警備会社が日本へじかに乗り込んでくるという話をあまり聞かないのには、理由がある。警備は各国の社会の仕組みに深く結びついており、機械などのハード面は他国でもまねられても、ソフト面は模倣できない場合が多いからである。地域会社は社員も自前で採用して地元に根を張り、30代後半から60代前半まで年齢に幅のある各社の社長に対し、村井社長は、指導しても口出しはせず、手を貸しても従わせはしないという原則で臨んだ。
会社の盛衰は社員をどう育て、働きにどう報いるかで決まると村井順社長は考えており、その根には、サービス業では人こそが最も大きな資産だという見方があった。東京と大阪に置いた研修所は空きが出ないほど稼働し、教育費は審査抜きで通った。入社直後の研修は5泊6日で50時間を超え、業界平均である20時間の2倍半に及んだうえ、半年たつと1泊2日・約18時間の研修が再び組まれた。社長自身も社員と直接対話する場を年100回以上持つと決め、胸にしまった思いを聞いてもらいたい社員のために木曜の午後をまるごと空けていた。
社内資格は新入社員から部長まで10段階あり、下から6段目の司令までは筆記試験と役員面接で選ばれた。昇格試験に通るのは20%前後にとどまった。情実も学歴も判断材料にしない試験で昇進が決まる仕組みである。昇任が決まった者は、1泊2日で18時間に及ぶ研修をあらためて受けた。実力本位の人事は具体例にも表れ、本社総務部長には高卒で入社した生え抜き、山口綜合警備保障の社長には30代の若手が就いた。高卒者の定着率は85%で業界トップに立ち、70%がせいぜいという業界平均を大きく上回った。人手そのものが商品である業種では、辞めない人を作ることは、採り直す人を減らすことと同じ意味を持った。
効率の向上で上がった利益を従業員へ分配する制度も置いた。特別賞与がそれで、夏は2か月、冬は3か月を基準とし、業績が上がればこれ以外に7月と9月へ1か月ずつ出した。従業員にとっては約束された成功報酬だったが、会社はこれを翌年の賃上げ原資であり、負担能力を推し量るモノサシになると位置づけた。固定給を先へ積めば景気が落ちても下げられないが、賞与で配れば、払える年に払って翌年の水準を決められる。1979年6月期の売上高は311億円、地域会社を含めたグループでは485億円に達し、従業員は6,500人、グループでは1万1,500人を数えた。資本金は1億2,000万円にとどまっていた。
警備は人の数に頼るものから、機械が主役を担うものへと変わりつつあった。コンピューターを使うシステムを入れた百貨店や超高層ビルでは、配置する要員が半減している。ただし、コンピューターや各種センサーを自ら設計して作る技術は綜合警備保障になく、日本電気や立石電機などの力を借りた。一流メーカーとの提携を原則にしたのは、警備の需要が多様になり地域も広がるなかで、自前では応じられないとみたためである。消防設備士や電気工事士など700人を超える有資格者を社内に抱えていたから、正確さや扱いやすさの面で細かい注文をメーカーに数多く出すことができた。
異常を見つけるだけで終わらせず、手当てまでしてこそ警備だという点で、村井順社長と小原清参事の考えは同じだった。綜合警備保障は1982年12月にビルメンテナンスで菱電サービスと提携し、1983年3月には東京都公安委員会の警備業認定証を第1号として受けた。1984年9月に設けた綜警電気工事は、警備用機器の据え付け工事を受け持つ会社である。発見から処置までを自社の人員と機器で完結させるには、機器を売って取り付け、点検のたびに建物へ入り続ける工程まで手元に置く必要があった。その工程を自前で組めたのは、機械警備と有資格者を本社が抱えたままだったからだ。
1941年2月に東京で生まれた村井恒夫氏は、1964年3月に慶応義塾大学商学部を卒業して日本勧業銀行に入ったが、就職先を銀行にしたのは動く日本経済を間近で確かめたかったからだと本人は語っている。綜合警備保障では1968年8月の取締役就任に始まり、1970年8月に常務、1980年11月に副社長、1982年9月に代表取締役副社長と昇り、1986年9月に代表取締役社長となった。一般家庭向けの機械警備「タクルス」を同社が開発・発売したのは1988年4月である。法人の建物を守ってきた仕組みを住宅へ向け直した商品である。ただし2000年の時点でも家庭向け警備の普及率は全警備会社を合わせて1%に達しておらず、タクルスは市場が育つのを待つ商品だった。
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|---|---|---|---|---|
| 1965〜1979年1965年に警察の警備を民間企業へ移した村井順 | 東京都千代田区内幸町に警備請負業を目的として綜合警備保障を設立 | ★★ | ||
| 法人向け機械警備「綜合ガードシステム」を開発し発売 | ★★★ | |||
| 日本万国博覧会の常駐警備を実施 | ★★ | |||
| 無人化店舗の現金自動支払機コーナーを自動制御する「アマンドシステム」を開発し発売 | ★★ | |||
| 本社を東京都港区元赤坂に移転 | ★ | |||
| 消防用設備の定期点検業務を開始 | ★ | |||
| 1980〜1994年地域会社32社の独立採算と家庭向け機械警備タクルス | ビルメンテナンス分野で菱電サービスと業務提携 | ★ | ||
| 一般家庭向け機械警備「タクルス」を開発し発売 | ★★★ | |||
| 1995〜2011年東証一部上場とコーポレートブランドALSOKの制定 | 都内の機械警備を一元的に集中監視する東京指令センターを運用開始 | ★ | ||
| 収納代行や情報検索機能を搭載した多機能型ATM「MMK」を開発し発売 | ★ | |||
| 一般家庭向けに生活便利機能を備えた「SOKホームセキュリティ」を開発し発売 | ★ | |||
| 村井温 | 東京証券取引所市場第一部に株式を上場 | ★ | ||
| 村井温 | 新コーポレートブランド「ALSOK」を制定 | ★★★ | ||
| 村井温 | 防犯・防災事業関連分野でホーチキと業務提携 | ★ | ||
| 村井温 | ロボットによる常駐警備を可能とする新型巡回警備ロボットを開発し発売 | ★ | ||
| 村井温 | 管工事・電気工事を主とする日本ファシリオを子会社化 | ★★ | ||
| 2012〜2026年介護と海外へ広げた人手とALSOKへの商号変更 | 青山幸恭 | 個人向けブランド「HOME ALSOK」を立ち上げ | ★ | |
| 青山幸恭 | 総合防災事業のホーチキを持分法適用関連会社化 | ★★ | ||
| 青山幸恭 | 少子高齢化社会に向けた事業の共同展開で損保ジャパン日本興亜グループと業務提携 | ★ | ||
| 青山幸恭 | 訪問介護のあんていけあを子会社化し介護事業に参入 | ★★★ | ||
| 青山幸恭 | 介護事業および介護周辺事業のウイズネットを子会社化 | ★★ | ||
| 青山幸恭 | 総合防災事業の日本ドライケミカルを持分法適用関連会社化 | ★ | ||
| 青山幸恭 | インドネシアの警備会社PT. ALSOK BASS Indonesiaを子会社化 | ★★ | ||
| 青山幸恭 | 東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会警備共同企業体を設立 | ★★ | ||
| 青山幸恭 | 介護事業のらいふホールディングスを子会社化 | ★ | ||
| 青山幸恭 | 介護・高齢者生活支援事業で三菱商事および日本ケアサプライと資本業務提携 | ★ | ||
| 青山幸恭 | 東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の警備を実施 | ★★ | ||
| 青山幸恭 | 東京証券取引所プライム市場に移行 | ★ | ||
| 栢木伊久二 | インドネシアの警備・人材派遣会社PT. Shield-On Serviceを子会社化 | ★★ | ||
| 栢木伊久二 | 商号をALSOKに変更 | ★★★ |
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事実根拠:出所(ALSOK)