ALSOK の歴史

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創業 1965年
創業者 村井順
創業地 東京都千代田区
創業
1965年7月、村井順氏が東京都千代田区内幸町で綜合警備保障を設立した。資本金2,500万円、事業目的は警備請負業である。村井氏は1935年に東京帝国大学法学部を出て内務省へ入り、戦後の警備警察制度をつくったのち、吉田茂首相の秘書官と初代内閣調査室長を務めた。1964年の東京オリンピックでは大会組織委員会の事務次長として学生と消防を動員し、1か月の会場警備を編成している。創業はその翌年で、組織委員会の安川第五郎会長が自ら会長を引き受けた。ただし同じ業種では日本警備保障(現セコム)が3年先に営業を始めており、後発である。警察の仕事を民間へ移すという発想が先にあり、売る商品はまだ人だけだった。
決断
本体に残す事業と地域会社へ渡す事業を、償却負担の有無で分けた。1980年4月までに支社を32の地域会社へ切り出し、そのすべてを独立採算に移している。譲ったのは常駐警備で、設備の償却がかかる機械警備は本社が持ち続けた。地域会社は常駐で利益を蓄えてから機械警備へ進む順序に置かれ、資本金の半分までは地元の企業と名士が出資した。人を置く仕事を外へ、機器を置く仕事を内へ振り分けた配分は商品にも及ぶ。1967年9月に法人向けの『綜合ガードシステム』、1975年1月に現金自動支払機コーナーを制御する『アマンドシステム』、1988年4月に一般家庭向けの『タクルス』を発売した。償却の重い商品を本社に残したことが、常駐の人手を地域会社へ任せたまま機械警備の契約だけを本社へ積む配分を作った。
現況
16期続けて増収を重ねても、3本の中期経営計画はいずれも売上目標に達しなかった。2026年3月期の連結売上高は5,970億円、経常利益は499億円で、2021年5月に掲げたGrand Design 2025の6,500億円・650億円には達していない。2025年3月期の内訳はセキュリティ事業が売上3,919億円・利益403億円と大半を占め、FM事業等が797億円・91億円、介護事業が534億円・15億円、海外事業は268億円で5億円の損失を出した。買収で加えた介護と海外は売上こそ積んだものの、利益率は本業に及ばない。数十年据え置いた機械警備の料金を2024年11月に改定し、対象顧客の7〜8割から同意を得て、増収の出どころを契約数から単価へ広げた。
競合
3年後発で始まった会社は、機械警備よりも人を大量に並べる仕事で先に名を成した。1966年に人手の警備を機械警備へ置き換えた日本警備保障に対し、綜合警備保障は1970年の日本万国博覧会で延べ約27万人を動員し、重要施設の8割を受け持った。2021年の東京2020大会には延べ50万人超、2025年の大阪・関西万博にも延べ16万人を投じている。創業者が持ち込んだのは機器ではなく官公庁への到達路で、金融機関向けは2004年3月期に総売上高の約3割を占めた。同期の売上高2,492億円は、セコムのセキュリティサービス事業3,660億円を下回る。2003年にブランドをALSOKへ改め、2025年7月には商号そのものを変えた。警備と呼べない駆けつけや見守りを抱えたことが、社名から『警備保障』の四文字を外させた。
長期業績の推移 2002〜2026年
ALSOK:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 1965年に警察の警備を民間企業へ移した村井順 (1965年〜)

創業ストーリー(1)

吉田茂の秘書官を務めた村井順の転身と創業

村井順氏は1909年5月に東京で生まれ[1]、在学中に高等文官試験に合格したうえで、1935年に東京帝国大学法学部を卒業して内務省に入った[2]。戦後は日本の警備警察制度をつくり[3]、吉田茂首相の秘書官を務めたことで一内務官僚の枠を越え、初代の内閣調査室長となった[4]。官僚としての最後の役職は九州警察管区局長である[5]。吉田首相は村井氏を斎藤昇長官と入れ替えて国家警察本部長官に据えようとしたが、当時は閣僚でない国家公安委員長が長官人事を握っており、占領下で民政局の支持を得た斎藤長官が法律を楯に抵抗したため、この人事は実現しなかった[6]

    • [1]村井順は明治42年(1909年)5月生まれで、東京の生まれ
    • [2]村井順は昭和10年(1935年)に東大法学部を卒業して内務省に入った。在学中に当時の高等文官試験に優秀な成績で合格していた
    • [4]吉田ワンマン首相の秘書官をつとめることにより一内務官僚・警察官僚のワクを越え、初代の内閣調査室長となった
    • [5]官僚としての最後のポストは九州警察管区局長であった
    • [6]吉田首相は村井順を斎藤昇(国家警察本部長官)ととりかえて長官にしたかったが、閣僚でない国家公安委員長が長官人事を握っており、占領下で民政局の支持をバックにねばった斎藤長官が法律を楯に抵抗したため、村井長官は実現しなかった
  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [3]村井順は戦後におけるわが国警備警察制度の創始者である

1964年の東京オリンピックで、村井順氏は大会組織委員会の事務次長を務め、安川第五郎会長を補佐した[7]。警備の期間は1か月に限られ、村井氏は学生を動員し、消防の人員にも応援を求めて会場の警備を組んだ[8]。大会を成功させた翌年、村井氏は綜合警備保障を設立して社長に就いた[9]。オリンピックの中心にいた安川第五郎氏らが積極的に協力し、安川氏が自ら会長を引き受けた[10]。ガードマンという仕事が社会的な地位を得る前で、事業として成り立つかどうかは定まっていなかった[11]。村井順社長は東京オリンピックの警備で日本の青年が持つ素質を確かめており、優秀な青年を集めれば世界で最も優秀な警備会社になれると考えた[12]

  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [7]村井順はさきのオリンピック東京大会で事務次長として安川第五郎会長の女房役として活躍した
    • [8]東京オリンピックの警備について、村井順は「オリンピックはとにかく一ヵ月ですからね、勝負はその間我慢してくれといってね随分学生サンなんか動員していろいろしました。消防の人達にも来てもらったりしてね」と述べた
    • [12]村井順は「私ども警備会社もこうした日本の優秀な青年をもって警備会社をつくるんだから世界の最も優秀な警備会社になるはずだと、これは決してオーバーじゃない。東京オリンピックではっきり自信をもった」と述べた
    • [9]東京オリンピックを成功させた村井順は、翌年綜合警備保障会社を設立し、その社長となった
    • [10]設立にあたりオリンピックの中心となった故安川第五郎氏らは積極的に協力し、自ら会長を引き受けた
    • [11]設立当時はまだガードマンという仕事がいまのような社会的地位を得る前のことで、海のものとも山のものともわからぬときであった

綜合警備保障は1965年7月、東京都千代田区内幸町二丁目20番に資本金25百万円をもって、警備請負業を主たる事業目的として設立された[13]。同じ業種では日本警備保障(現セコム)が1962年10月に常駐警備と巡回警備で営業を始め、1964年の東京オリンピックの警備を担当して評価を高めており、綜合警備保障の設立はこれに3年遅れた[14]。創業者の村井順氏は、純国産の警備会社が日本には欠かせないという一念でこの会社を興した[15]。村井順社長は、自身が担ってきた警察警備と内閣の情報機関の調査という仕事を企業に移せないかという考えから事業を進めた[16]。設立から2年の間、無事故を通した[17]

  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1965年7月、東京都千代田区内幸町二丁目20番に資本金25百万円をもって、警備請負業を主たる事業目的として綜合警備保障株式会社を設立
    • [14]日本警備保障(現セコム)が営業を開始したのは1962年10月で、巡回警備・常駐警備のスタートだった。1964年の東京オリンピックの警備を担当して一気に評価を高めた。このセコムに後れること3年、1965年7月に綜合警備保障が設立された
    • [15]創業者の村井順氏が「純国産の警備会社が日本には欠かせない」との一念で綜合警備保障を興した
  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [16]村井順は「私自身、警察警備をやったり内閣の情報機関の調査の仕事をやったりしていましたから、これを企業に移せばどうだろうということで進めてきた」と述べた
    • [17]綜合警備保障は創業以来、無事故を誇る警備会社として順調に発展した
    • [1]村井順は明治42年(1909年)5月生まれで、東京の生まれ
    • [2]村井順は昭和10年(1935年)に東大法学部を卒業して内務省に入った。在学中に当時の高等文官試験に優秀な成績で合格していた
    • [4]吉田ワンマン首相の秘書官をつとめることにより一内務官僚・警察官僚のワクを越え、初代の内閣調査室長となった
    • [5]官僚としての最後のポストは九州警察管区局長であった
    • [6]吉田首相は村井順を斎藤昇(国家警察本部長官)ととりかえて長官にしたかったが、閣僚でない国家公安委員長が長官人事を握っており、占領下で民政局の支持をバックにねばった斎藤長官が法律を楯に抵抗したため、村井長官は実現しなかった
    • [9]東京オリンピックを成功させた村井順は、翌年綜合警備保障会社を設立し、その社長となった
    • [10]設立にあたりオリンピックの中心となった故安川第五郎氏らは積極的に協力し、自ら会長を引き受けた
    • [11]設立当時はまだガードマンという仕事がいまのような社会的地位を得る前のことで、海のものとも山のものともわからぬときであった
  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [3]村井順は戦後におけるわが国警備警察制度の創始者である
    • [7]村井順はさきのオリンピック東京大会で事務次長として安川第五郎会長の女房役として活躍した
    • [8]東京オリンピックの警備について、村井順は「オリンピックはとにかく一ヵ月ですからね、勝負はその間我慢してくれといってね随分学生サンなんか動員していろいろしました。消防の人達にも来てもらったりしてね」と述べた
    • [12]村井順は「私ども警備会社もこうした日本の優秀な青年をもって警備会社をつくるんだから世界の最も優秀な警備会社になるはずだと、これは決してオーバーじゃない。東京オリンピックではっきり自信をもった」と述べた
    • [16]村井順は「私自身、警察警備をやったり内閣の情報機関の調査の仕事をやったりしていましたから、これを企業に移せばどうだろうということで進めてきた」と述べた
    • [17]綜合警備保障は創業以来、無事故を誇る警備会社として順調に発展した
  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1965年7月、東京都千代田区内幸町二丁目20番に資本金25百万円をもって、警備請負業を主たる事業目的として綜合警備保障株式会社を設立
    • [14]日本警備保障(現セコム)が営業を開始したのは1962年10月で、巡回警備・常駐警備のスタートだった。1964年の東京オリンピックの警備を担当して一気に評価を高めた。このセコムに後れること3年、1965年7月に綜合警備保障が設立された
    • [15]創業者の村井順氏が「純国産の警備会社が日本には欠かせない」との一念で綜合警備保障を興した
創業ストーリー(2)

機械警備「綜合ガードシステム」の発売と欧米視察

設立の翌1966年8月、綜合警備保障は東京都千代田区にビル管理を行う綜合管財(現ALSOKファシリティーズ)を設立した[18]。1967年、村井順社長は日本万国博覧会協会から正式に依頼を受け、開催中のモントリオール万博の警備を視察するため、約1か月かけて欧米を回った[19]。訪ねた先は、ハワイの警備会社、117年の歴史を持つ世界最大のピンカートン、カナダ・ピンカートン、モントリオール万博の会場、ヨーロッパ最大の規模といわれるイギリスのセキュリコ、パリの警備会社である[20]。創業2年の綜合警備保障は世界的には無名だったが、どの会社も最高幹部が面会に応じ、今後は協力し提携しようという話にまで進んだ[21]

  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1966年8月、東京都千代田区にビル管理を行う綜合管財株式会社(現ALSOKファシリティーズ株式会社)を設立
  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [19]1967年の欧米視察は日本万国博覧会協会から正式に依頼された、開催中のモントリオール万博の警備状況の視察・調査が第一の目的で、期間は約1か月だった
    • [20]視察先はハワイの警備会社、117年の歴史をもった世界最大の警備会社ピンカートン、カナダのモントリオール万博とカナダ・ピンカートン、ヨーロッパ最大の規模といわれるイギリスのセキュリコ、パリの警備会社である
    • [21]創業2年で世界的には無名だったが、どこの会社も最高幹部が心良く会い、今後お互い大いに協力し提携して行こうという話にまでなった

欧米の警備会社は警報器を数多く採用し、無線を活用し、危険で重要な場所には隠しカメラを置いて調整室のテレビで受信していた[22]。村井順社長は創立2周年を機に機械化へ重点を置くと定めており、視察はその方向を裏づけた[23]。警報器は世界に何百何千という種類があり、誤報を出さない確実さと価格と使いやすさで選ぶため、村井順社長は世界中の資料を集めて研究し、日本の一流の電気器具メーカーと組んで独自の警報器を作るとした[24]。契約先に迷惑をかけない社会の信用第一主義を採り、格好よりも間違いのなさを優先してきた方針は、機械化に進んでも変えなかった[25]。1967年9月、綜合警備保障は法人向け機械警備『綜合ガードシステム』を開発し、発売した[26]

  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [22]欧米の警備会社は相当機械化しており、警報器を相当採用し、無線を大いに活用し、非常に危険で重要な場所には隠しカメラを設置して調整室の受信テレビで見る仕掛けになっていた
    • [23]警報器の採用と無線の活用は、綜合警備保障が創立2周年を記念して今後重点を置こうと思っていた点であり、視察は非常に勉強になったと村井順は述べた
    • [24]警報器は世界中に何百、何千種類以上もあり、誤報のない確実さ、できるだけ安いこと、使う便利さを基準に世界中の資料を集めて研究し、日本の一流の電気器具メーカーと相談して自社独特の警報器を作るつもりだと村井順は述べた
    • [25]村井順は仕事は信用だとして契約先に迷惑をかけない社会の信用第一主義をとり、少し泥臭くても馬鹿正直にやって来たとし、この方針は今後も変らないと述べた
  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [26]1967年9月、法人向け機械警備「綜合ガードシステム」を開発、発売

村井順社長は、警備会社の生命は優秀な警備員を持つこと以外にないとして、良い青年を集めて徹底した教育をし、本部からの遠隔指揮ではなく幹部が第一線に出て指導する方法を採った[27]。教育には、ピンカートンのように学校と教育施設を持つやり方と、採用した者に経験の豊かな警備士を一人ずつ付けて現場で半月から1か月指導するやり方があり、綜合警備保障は両方を用いた[28]。警備士の採用は20歳から35歳までで切っていたが、欧米には50歳まで採用する会社があり、何億という現金を扱う金融機関の職場では人生経験の豊かな警備員のほうが契約先も安心すると考え、年齢の上限を広げることを研究課題とした[29]。警備員の待遇は、各国の賃金水準に照らして低くないとした[30]

  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [27]村井順は警備会社の生命は優秀な警備員をもつこと以外にないとし、良い青年を集めて徹底した教育をし、本部でリモートコントロールするのではなく第一線に幹部が乗り出して指導することが最も重要だと述べた
    • [28]警備士の教育には、ピンカートンのように学校なり教育施設を持つやり方と、採用した者に経験の豊かな指導能力のある者を一人ずつ付けて現場で半月なり1か月なり指導する方法の二つがあり、綜合警備保障は両方を考えていた
    • [29]綜合警備保障の警備士の採用年齢は20〜35歳で切っていたが、欧米には50歳位まで採用する会社があり、何億という金を使う金融関係の職場では人生経験豊かな警備員のほうが安心だとして、年齢制限を伸ばすことを研究課題とした
    • [30]警備員の待遇について村井順は、その国々の労働賃金のベースに合わせれば綜合警備保障の遇し方は決して低くないと述べた
  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1966年8月、東京都千代田区にビル管理を行う綜合管財株式会社(現ALSOKファシリティーズ株式会社)を設立
    • [26]1967年9月、法人向け機械警備「綜合ガードシステム」を開発、発売
  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [19]1967年の欧米視察は日本万国博覧会協会から正式に依頼された、開催中のモントリオール万博の警備状況の視察・調査が第一の目的で、期間は約1か月だった
    • [20]視察先はハワイの警備会社、117年の歴史をもった世界最大の警備会社ピンカートン、カナダのモントリオール万博とカナダ・ピンカートン、ヨーロッパ最大の規模といわれるイギリスのセキュリコ、パリの警備会社である
    • [21]創業2年で世界的には無名だったが、どこの会社も最高幹部が心良く会い、今後お互い大いに協力し提携して行こうという話にまでなった
    • [22]欧米の警備会社は相当機械化しており、警報器を相当採用し、無線を大いに活用し、非常に危険で重要な場所には隠しカメラを設置して調整室の受信テレビで見る仕掛けになっていた
    • [23]警報器の採用と無線の活用は、綜合警備保障が創立2周年を記念して今後重点を置こうと思っていた点であり、視察は非常に勉強になったと村井順は述べた
    • [24]警報器は世界中に何百、何千種類以上もあり、誤報のない確実さ、できるだけ安いこと、使う便利さを基準に世界中の資料を集めて研究し、日本の一流の電気器具メーカーと相談して自社独特の警報器を作るつもりだと村井順は述べた
    • [25]村井順は仕事は信用だとして契約先に迷惑をかけない社会の信用第一主義をとり、少し泥臭くても馬鹿正直にやって来たとし、この方針は今後も変らないと述べた
    • [27]村井順は警備会社の生命は優秀な警備員をもつこと以外にないとし、良い青年を集めて徹底した教育をし、本部でリモートコントロールするのではなく第一線に幹部が乗り出して指導することが最も重要だと述べた
    • [28]警備士の教育には、ピンカートンのように学校なり教育施設を持つやり方と、採用した者に経験の豊かな指導能力のある者を一人ずつ付けて現場で半月なり1か月なり指導する方法の二つがあり、綜合警備保障は両方を考えていた
    • [29]綜合警備保障の警備士の採用年齢は20〜35歳で切っていたが、欧米には50歳位まで採用する会社があり、何億という金を使う金融関係の職場では人生経験豊かな警備員のほうが安心だとして、年齢制限を伸ばすことを研究課題とした
    • [30]警備員の待遇について村井順は、その国々の労働賃金のベースに合わせれば綜合警備保障の遇し方は決して低くないと述べた
創業ストーリー(3)

日本万国博覧会の常駐警備と地方会社の相次ぐ設立

1967年の時点で、村井順社長は日本万国博覧会の警備を難事業とみていた[31]。半年の会期に2,000人から3,000人を集めなければならず、当時の労働事情で優秀な人材が半年間空いていることは考えにくく、会期には梅雨と酷熱が重なる[32]。1か月で終わった東京オリンピックと違い、警察が半年も会場だけの警固につくことはできず、自衛隊も特別の場合を除いては動かないとみた[33]。モントリオール万博では協会が1,600人ほどで全体の警備にあたり、各パビリオンは警備会社が8人から10人ずつ契約して受け持っていた[34]。1970年3月、綜合警備保障は日本万国博覧会の常駐警備を実施した[35]

  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [31]日本の万国博の警備について村井順は「結論からいいますと、これは大変な難事業です」と述べた
    • [32]半年という期間に2,000人も3,000人も集めねばならず、当時の日本の労働事情では優秀な人間が半年間遊んでいることは考えられない。会期中は梅雨があり、明ければ酷熱の中で制服の警備員が活動することになると村井順は述べた
    • [33]1か月の東京オリンピックと異なり、半年も警察がそこだけの警固につくことはできず、自衛隊も特別の場合を除いては原則としてやらないと村井順は述べた
    • [34]モントリオール万博では全体の警備を協会が行い警備員は1,600名ほどで、各パビリオンには警備会社がそれぞれ契約して8人とか10人とかずつ出勤していた
  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1970年3月、日本万国博覧会の常駐警備を実施

警備は警備員を契約先の現地に置く仕事であり、綜合警備保障は地方に警備請負業の会社を相次いで設立した[36]。1968年12月に栃木県宇都宮市へ北関東綜合警備保障を[37]、1969年6月に広島県広島市へ広島綜合警備保障を設けた[38]。1972年6月には東京都港区に常駐警備を行う東京綜合警備保障(現ALSOK東京)を[39]、1975年5月には札幌市中央区に北海道綜合警備保障(現ALSOK北海道)を設立した[40]。1970年代の警備では、1970年の大阪万国博に続いて1972年の札幌オリンピック、1979年の東京サミットを受け持ち、高い評価を得た[41]

  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [36]綜合警備保障は1968年から1975年にかけて各地に警備請負業を主たる事業目的とする会社を設立した
    • [37]1968年12月、栃木県宇都宮市に警備請負業を主たる事業目的として北関東綜合警備保障株式会社を設立
    • [38]1969年6月、広島県広島市に警備請負業を主たる事業目的として広島綜合警備保障株式会社を設立
    • [39]1972年6月、東京都港区に常駐警備を行う東京綜合警備保障株式会社(現ALSOK東京株式会社)を設立
    • [40]1975年5月、札幌市中央区に警備請負業を主たる事業目的として北海道綜合警備保障株式会社(現ALSOK北海道株式会社)を設立
    • [41]1970年代の警備では1970年の大阪万国博、1972年の札幌オリンピック、1979年の東京サミット、1980年のヨハネ・パウロ2世の来日時などを完璧にこなし、高い評価を得た

警備員を置く仕事に、機械で制御する商品が重なった[42]。1975年1月、綜合警備保障は無人化店舗のCD(現金自動支払機)コーナーを自動制御する『アマンドシステム』を開発し、発売した[43]。警備員を常駐させずに現金の機械を制御する商品である[44]。同じ年の9月には、常駐警備に設備の制御と監視ができる設備を併用した『オルムシステム』を開発し、発売した[45]。1978年2月、設立から置いていた東京都千代田区内幸町の本社を、東京都港区元赤坂一丁目6番6号へ移した[46]。1979年10月には消防用設備の定期点検業務を開始し、警備の請負に法定の点検が加わった[47]

  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [42]綜合警備保障は1975年に機械警備・設備制御を伴う商品を相次いで発売した
    • [43]1975年1月、無人化店舗のCD(現金自動支払機)コーナーを自動制御する「アマンドシステム」を開発、発売
    • [44]「アマンドシステム」は無人化店舗のCD(現金自動支払機)コーナーを自動制御するもの
    • [45]1975年9月、常駐警備に設備制御・監視ができる設備を併用した「オルムシステム」を開発、発売
    • [46]1965年7月に東京都千代田区内幸町二丁目20番で設立し、1978年2月に東京都港区元赤坂一丁目6番6号へ本社を移転
    • [47]1979年10月、消防用設備の定期点検業務を開始
  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [31]日本の万国博の警備について村井順は「結論からいいますと、これは大変な難事業です」と述べた
    • [32]半年という期間に2,000人も3,000人も集めねばならず、当時の日本の労働事情では優秀な人間が半年間遊んでいることは考えられない。会期中は梅雨があり、明ければ酷熱の中で制服の警備員が活動することになると村井順は述べた
    • [33]1か月の東京オリンピックと異なり、半年も警察がそこだけの警固につくことはできず、自衛隊も特別の場合を除いては原則としてやらないと村井順は述べた
    • [34]モントリオール万博では全体の警備を協会が行い警備員は1,600名ほどで、各パビリオンには警備会社がそれぞれ契約して8人とか10人とかずつ出勤していた
  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1970年3月、日本万国博覧会の常駐警備を実施
    • [36]綜合警備保障は1968年から1975年にかけて各地に警備請負業を主たる事業目的とする会社を設立した
    • [37]1968年12月、栃木県宇都宮市に警備請負業を主たる事業目的として北関東綜合警備保障株式会社を設立
    • [38]1969年6月、広島県広島市に警備請負業を主たる事業目的として広島綜合警備保障株式会社を設立
    • [39]1972年6月、東京都港区に常駐警備を行う東京綜合警備保障株式会社(現ALSOK東京株式会社)を設立
    • [40]1975年5月、札幌市中央区に警備請負業を主たる事業目的として北海道綜合警備保障株式会社(現ALSOK北海道株式会社)を設立
    • [42]綜合警備保障は1975年に機械警備・設備制御を伴う商品を相次いで発売した
    • [43]1975年1月、無人化店舗のCD(現金自動支払機)コーナーを自動制御する「アマンドシステム」を開発、発売
    • [44]「アマンドシステム」は無人化店舗のCD(現金自動支払機)コーナーを自動制御するもの
    • [45]1975年9月、常駐警備に設備制御・監視ができる設備を併用した「オルムシステム」を開発、発売
    • [46]1965年7月に東京都千代田区内幸町二丁目20番で設立し、1978年2月に東京都港区元赤坂一丁目6番6号へ本社を移転
    • [47]1979年10月、消防用設備の定期点検業務を開始
    • [41]1970年代の警備では1970年の大阪万国博、1972年の札幌オリンピック、1979年の東京サミット、1980年のヨハネ・パウロ2世の来日時などを完璧にこなし、高い評価を得た
創業ストーリー(4)

常駐警備を渡す分社と実力本位の昇格試験

綜合警備保障の1979年6月期の売上高は311億円、グループでは485億円、従業員は6500人、グループでは1万1500人だった[48]。支社を別会社に切り出す形で地域会社を設け、1980年4月までに32社へ増やし、そのすべてを黒字で運営した[49]。支社のままでは本社への甘えが残るため、独立採算に切り替え、労働と努力の結果が業績へ素直に反映される仕組みにした[50]。地域会社へは、支社が築いた財産と社員、顧客、そしてノウハウを無償で譲った[51]。譲る事業は常駐警備に限り、償却負担のかかる機械警備は本社が受け持った[52]。地域会社が常駐警備で利益を蓄え、体力をつけてから機械警備へ出る順序を敷いた[53]。資本金の50%までは地元の企業や名士に出資してもらい、従業員も地域会社が独自に採用した[54]

  • 日経ビジネス 1980年4月21日号
    • [48]1979年6月期の売上高311億円(グループ485億円)、従業員6500人(グループ1万1500人)
    • [49]1980年4月時点で地域会社は32社に上り、すべて黒字
    • [50]支社では本社への甘えが残るため別会社化して独立採算にすると、労働と努力の結果が素直に業績へ反映される
    • [51]支社が築き上げた財産、社員と顧客、ノウハウをタダで譲渡する作戦
    • [52]資本がいらず人間でできる常駐警備を分離し、償却負担のかかる機械警備は本社で受け持つ方針
    • [53]機械警備は常駐警備で利益を蓄積し体力をつけてから出て来ればよいとする方針
    • [54]地域会社の資本金の50%までは地元の企業や名士に出資してもらい、従業員も地域会社が独自に採用

効率の向上であがった利益は、特別賞与として従業員に配った。基準は夏が2カ月、冬が3カ月で、業績があがればこれ以外に7月と9月へ1カ月ずつ出した[55]。綜合警備保障はこの特別賞与を翌年の賃上げの原資とし、賃金の負担能力を推し量る物差しとして扱った[56]。昇進から情実と学歴を外した。新入社員から部長までの社内資格は10段階あり、6段目の司令までは筆記試験と役員面接で選抜し、昇格試験の合格率は20%前後だった[57]。昇任した者には1泊2日18時間の昇任研修を課した[58]。本社の総務部長には高卒の生え抜きが就き、山口綜合警備保障の社長には30代の若手を据えた[59]。高卒の定着率は85%で、業界平均の70%を上回った[60]

  • 日経ビジネス 1980年4月21日号
    • [55]特別賞与は夏2カ月・冬3カ月が基準。業績があがればこれ以外に7月と9月に1カ月ずつ出す
    • [56]特別賞与は翌年の賃上げ原資であり、負担能力を推し量るモノサシになる
    • [57]新入社員から部長まで社内資格は10段階。6段目の司令までは筆記試験と役員面接で選抜し、昇格試験の合格率は20%前後
    • [58]昇任すると1泊2日18時間にわたる昇任研修が待ち受ける
    • [59]本社の総務部長は高卒の生え抜き。山口綜合警備保障の社長には30代の若手
    • [60]高卒の定着率は85%で業界一。業界平均は精々70%

従業員教育の費用に上限を設けず、東京と大阪に置いた研修所を毎日使った[61]。新人教育は5泊6日で50時間以上に及び、20時間だった業界平均の2倍半にあたる。半年後にはさらに1泊2日18時間の研修を重ねた[62]。村井順社長は年に最低100回、従業員と直接対話する場を持ち、話を聞いてほしいという従業員のために木曜の午後をすべて空けて待った[63]。経営の根幹には『ありがとうの精神』を置き、感謝の相手として、社会のしくみとして国家があるから企業があるという意味でまず国家を、次に契約先である顧客と従業員を挙げた[64]

  • 日経ビジネス 1980年4月21日号
    • [61]東京と大阪に研修所があり使わない日はない。教育関係の費用はノーチェックですべて通す
    • [62]新人教育は5泊6日で50時間以上。業界平均20時間の2倍半で、半年後にさらに1泊2日18時間の研修
    • [63]村井順社長は最低年100回従業員と直接対話し、木曜の午後をすべて空けて待つ
    • [64]経営の根幹をなす「ありがとうの精神」。感謝の相手は、社会のシステムとして国家があるから企業があるという意味でまず国家、そして契約先である顧客と従業員
  • 日経ビジネス 1980年4月21日号
    • [48]1979年6月期の売上高311億円(グループ485億円)、従業員6500人(グループ1万1500人)
    • [49]1980年4月時点で地域会社は32社に上り、すべて黒字
    • [50]支社では本社への甘えが残るため別会社化して独立採算にすると、労働と努力の結果が素直に業績へ反映される
    • [51]支社が築き上げた財産、社員と顧客、ノウハウをタダで譲渡する作戦
    • [52]資本がいらず人間でできる常駐警備を分離し、償却負担のかかる機械警備は本社で受け持つ方針
    • [53]機械警備は常駐警備で利益を蓄積し体力をつけてから出て来ればよいとする方針
    • [54]地域会社の資本金の50%までは地元の企業や名士に出資してもらい、従業員も地域会社が独自に採用
    • [55]特別賞与は夏2カ月・冬3カ月が基準。業績があがればこれ以外に7月と9月に1カ月ずつ出す
    • [56]特別賞与は翌年の賃上げ原資であり、負担能力を推し量るモノサシになる
    • [57]新入社員から部長まで社内資格は10段階。6段目の司令までは筆記試験と役員面接で選抜し、昇格試験の合格率は20%前後
    • [58]昇任すると1泊2日18時間にわたる昇任研修が待ち受ける
    • [59]本社の総務部長は高卒の生え抜き。山口綜合警備保障の社長には30代の若手
    • [60]高卒の定着率は85%で業界一。業界平均は精々70%
    • [61]東京と大阪に研修所があり使わない日はない。教育関係の費用はノーチェックですべて通す
    • [62]新人教育は5泊6日で50時間以上。業界平均20時間の2倍半で、半年後にさらに1泊2日18時間の研修
    • [63]村井順社長は最低年100回従業員と直接対話し、木曜の午後をすべて空けて待つ
    • [64]経営の根幹をなす「ありがとうの精神」。感謝の相手は、社会のシステムとして国家があるから企業があるという意味でまず国家、そして契約先である顧客と従業員
創業ストーリー(5)

村井恒夫社長の就任と家庭市場への参入

機械警備を広げるにあたり、綜合警備保障は警報機器を自社では作らなかった。コンピューターや各種センサーを設計し生産するノウハウを持たず、日本電気立石電機に依存し、設計の段階で正確さと使いやすさの注文をつけた[65]。一流メーカーと組まなければ、多様化し広域化する警備に対応できないと判断した[66]。注文をつけられたのは、消防設備士や電気工事士などの有資格者を700人以上抱えていたためでもある[67]。1979年10月に消防用設備の定期点検業務を始め、1982年12月にビルメンテナンスの分野で菱電サービスと業務提携した[68]。1983年3月に東京都公安委員会の警備業認定証を第1号で取得し、1984年9月に警備用機器の設置工事を行う綜警電気工事を設立した[69]

  • 日経ビジネス 1980年4月21日号
    • [65]コンピューターやセンサーを設計・生産するノウハウはなく日本電気や立石電機などに依存。設計段階で正確さ・使い易さを考慮した注文をつける
    • [66]一流メーカーと手を組むことが基本で、そうしなければ多様化・広域化する警備に対応できないという判断
    • [67]消防設備士、電気工事士などの有資格者が700人を超える
  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [68]1979年10月に消防用設備の定期点検業務を開始。1982年12月にビルメンテナンスの分野で菱電サービスと業務提携
    • [69]1983年3月に東京都公安委員会による警備業認定証(第1号)を取得。1984年9月に警備用機器の設置工事を行う綜警電気工事を設立

村井恒夫氏が1986年9月に代表取締役社長へ就いた[70]。1941年2月10日に東京で生まれた[71]。1964年3月に慶応義塾大学商学部を卒業し[72]、同年4月に日本勧業銀行へ入行した[73]。銀行を選んだ理由に、生きた日本経済を自分の目で見たいという考えを挙げている[74]。大森と鶴見の両支店に勤め、外回りで新規の取引先を得ようと大森の割烹旅館を訪ねたところ、玄関に出て来た女将から勝手口へ回るよう言われ、回った先では誰も出て来なかった[75]。1968年8月に同行を退職して綜合警備保障の取締役に就き、1970年8月に常務取締役、1980年11月に取締役副社長、1982年9月に代表取締役副社長を務めた[76]。役員となって10年後、同じ割烹旅館へ客として招かれたが、女将は一銀行員の顔を覚えていなかった[77]

  • ALSOK 有価証券報告書【役員の状況】
    • [70]1986年9月 代表取締役社長就任
    • [71]村井恒夫氏は1941年2月10日生まれ、東京生まれ
    • [73]1964年4月 日本勧業銀行入行
    • [76]1968年8月 当社取締役就任、1970年8月 常務取締役、1980年11月 取締役副社長、1982年9月 代表取締役副社長
  • 日経ビジネス 1986年11月24日号
    • [72]1964年3月に慶応義塾大学商学部を卒業
    • [74]銀行を選んだのは生きた日本経済を自分の目で見てみたかったから
    • [75]日本勧業銀行では大森と鶴見の両支店に勤務。大森の一流割烹旅館を訪ねた際に女将から勝手口に回るよう言われ、回っても誰も出て来なかった
    • [77]門前払いから10年後、役員になって同じ割烹に招待されたが、女将は一銀行員の顔を覚えていなかった

1988年4月、綜合警備保障は一般家庭向けの機械警備『タクルス』を開発し発売した[78]。それまでの機械警備は、1967年9月発売の法人向け『綜合ガードシステム』と、1975年1月発売の無人化店舗の現金自動支払機コーナーを制御する『アマンドシステム』が示すとおり、契約先が法人と店舗にとどまっていた[79]。ガードセンターの中央監視装置は、どの契約先のどこで事故が発生したかを認知すると同時に消防署と警察署へ通報する[80]。タクルスは、この監視と警備員の急行を一般の住宅へ向けた[81]。機器が異常を知らせ、人が現場で処置する組み立ては変えず、駆けつける先を家庭まで伸ばした[82]。村井恒夫社長は1994年6月に代表取締役会長へ退いた[83]

  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [78]1988年4月 一般家庭向け機械警備「タクルス」を開発、発売
    • [79]1967年9月に法人向け機械警備「綜合ガードシステム」、1975年1月に無人化店舗のCD(現金自動支払機)コーナーを自動制御する「アマンドシステム」を開発・発売
    • [81]タクルスは一般家庭向けの機械警備として開発・発売された
  • 日経ビジネス 1980年4月21日号
    • [80]ガードセンターの中央監視装置は、どの契約先のどこに事故が発生したかを認知すると同時に消防署、警察署に通報する
    • [82]火災や侵入を発見するだけでは警備ではなく、処置をしてこそ意味があるという方針
  • ALSOK 有価証券報告書【役員の状況】
    • [83]1994年6月 代表取締役会長就任
  • 日経ビジネス 1980年4月21日号
    • [65]コンピューターやセンサーを設計・生産するノウハウはなく日本電気や立石電機などに依存。設計段階で正確さ・使い易さを考慮した注文をつける
    • [66]一流メーカーと手を組むことが基本で、そうしなければ多様化・広域化する警備に対応できないという判断
    • [67]消防設備士、電気工事士などの有資格者が700人を超える
    • [80]ガードセンターの中央監視装置は、どの契約先のどこに事故が発生したかを認知すると同時に消防署、警察署に通報する
    • [82]火災や侵入を発見するだけでは警備ではなく、処置をしてこそ意味があるという方針
  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [68]1979年10月に消防用設備の定期点検業務を開始。1982年12月にビルメンテナンスの分野で菱電サービスと業務提携
    • [69]1983年3月に東京都公安委員会による警備業認定証(第1号)を取得。1984年9月に警備用機器の設置工事を行う綜警電気工事を設立
    • [78]1988年4月 一般家庭向け機械警備「タクルス」を開発、発売
    • [79]1967年9月に法人向け機械警備「綜合ガードシステム」、1975年1月に無人化店舗のCD(現金自動支払機)コーナーを自動制御する「アマンドシステム」を開発・発売
    • [81]タクルスは一般家庭向けの機械警備として開発・発売された
  • ALSOK 有価証券報告書【役員の状況】
    • [70]1986年9月 代表取締役社長就任
    • [71]村井恒夫氏は1941年2月10日生まれ、東京生まれ
    • [73]1964年4月 日本勧業銀行入行
    • [76]1968年8月 当社取締役就任、1970年8月 常務取締役、1980年11月 取締役副社長、1982年9月 代表取締役副社長
    • [83]1994年6月 代表取締役会長就任
  • 日経ビジネス 1986年11月24日号
    • [72]1964年3月に慶応義塾大学商学部を卒業
    • [74]銀行を選んだのは生きた日本経済を自分の目で見てみたかったから
    • [75]日本勧業銀行では大森と鶴見の両支店に勤務。大森の一流割烹旅館を訪ねた際に女将から勝手口に回るよう言われ、回っても誰も出て来なかった
    • [77]門前払いから10年後、役員になって同じ割烹に招待されたが、女将は一銀行員の顔を覚えていなかった

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沿革年表 1965〜2025年

ALSOKの沿革1965〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1965〜1979年1965年に警察の警備を民間企業へ移した村井順東京都千代田区内幸町に警備請負業を目的として綜合警備保障を設立★★
法人向け機械警備「綜合ガードシステム」を開発し発売★★★
日本万国博覧会の常駐警備を実施★★
無人化店舗の現金自動支払機コーナーを自動制御する「アマンドシステム」を開発し発売★★
本社を東京都港区元赤坂に移転
消防用設備の定期点検業務を開始
1980〜1994年地域会社32社の独立採算と家庭向け機械警備タクルスビルメンテナンス分野で菱電サービスと業務提携
一般家庭向け機械警備「タクルス」を開発し発売★★★
1995〜2011年東証一部上場とコーポレートブランドALSOKの制定都内の機械警備を一元的に集中監視する東京指令センターを運用開始
収納代行や情報検索機能を搭載した多機能型ATM「MMK」を開発し発売
一般家庭向けに生活便利機能を備えた「SOKホームセキュリティ」を開発し発売
村井温東京証券取引所市場第一部に株式を上場
村井温新コーポレートブランド「ALSOK」を制定★★★
村井温防犯・防災事業関連分野でホーチキと業務提携
村井温ロボットによる常駐警備を可能とする新型巡回警備ロボットを開発し発売
村井温管工事・電気工事を主とする日本ファシリオを子会社化★★
2012〜2026年介護と海外へ広げた人手とALSOKへの商号変更青山幸恭個人向けブランド「HOME ALSOK」を立ち上げ
青山幸恭総合防災事業のホーチキを持分法適用関連会社化★★
青山幸恭少子高齢化社会に向けた事業の共同展開で損保ジャパン日本興亜グループと業務提携
青山幸恭訪問介護のあんていけあを子会社化し介護事業に参入★★★
青山幸恭介護事業および介護周辺事業のウイズネットを子会社化★★
青山幸恭総合防災事業の日本ドライケミカルを持分法適用関連会社化
青山幸恭インドネシアの警備会社PT. ALSOK BASS Indonesiaを子会社化★★
青山幸恭東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会警備共同企業体を設立★★
青山幸恭介護事業のらいふホールディングスを子会社化
青山幸恭介護・高齢者生活支援事業で三菱商事および日本ケアサプライと資本業務提携
青山幸恭東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の警備を実施★★
青山幸恭東京証券取引所プライム市場に移行
栢木伊久二インドネシアの警備・人材派遣会社PT. Shield-On Serviceを子会社化★★
栢木伊久二商号をALSOKに変更★★★
出典・参考 7件
出典・参考

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