1966年〜 中央製作所創業と「フィーバー」によるパチンコ業界の構造変革
SANKYOの業績推移:連結
- 1966年 中央製作所として設立し名古屋工場・東京/大阪支店・本社業務部を開設
- 1966年 三共に商号変更
- 1970年 広島支店を開設
- 1970年 仙台支店を開設
- 1971年 北関東支店を開設
- 1980年 超特電機フィーバーを発売
- 1991年 三共産業を存続会社とする吸収合併と、商号のSANKYOへの変更 創業25年目の事業会社が別法人に吸収される形をとったのはなぜか
1966年中央製作所設立から1980年「超特電機フィーバー」の登場まで
1966年4月、毒島邦雄氏が名古屋市で中央製作所として設立した。本社・名古屋工場を整備し、東京・大阪に支店を開設、本社業務部も配置するという初期投資の規模からして、家内工業的なパチンコ機メーカーとは一線を画す出発だった。同年5月には商号を三共製作所へ変更、同年11月にさらに三共へと改称した。設立から1年以内に商号を二度変更した経緯は、当時のパチンコ機業界における事業基盤を整える過程の試行錯誤を映している。創業初期の商号変遷を経て、三共というブランド名は、1991年8月に定款上の商号を株式会社SANKYOへ変更するまでの25年間、中核ブランドとして定着した。 [1][2][3]
- SANKYO 有価証券報告書【沿革】
- [1]1966年4月 毒島邦雄が名古屋市で中央製作所を設立(名古屋工場・東京/大阪支店・本社業務部を開設)
- [2]創業者は毒島邦雄
- [3]1966年5月に三共製作所へ商号変更、同年11月に三共へ改称(設立から1年以内に二度の商号変更)
1968年11月、福岡市に九州支店を開設したのを皮切りに、1969年4月に札幌支店、1970年9月に広島支店、同年11月に仙台支店、1971年4月に北関東支店(桐生市、後に高崎市に移転)、同年5月に名古屋支店と、創業5年で全国主要都市に販売拠点を整備した。パチンコホールへの機械販売はホールオーナーとの直接取引が中心で、地域ごとに支店を構えて営業対応する販売モデルが必要であり、地域支店網の急速な整備は機械販売の全国展開を支える基盤となった。1975年11月には群馬県桐生市に桐生工場を開設し、主力生産拠点としての整備が進んだ。1981年4月には本社を桐生工場のある桐生市に移転した。 [4][5][6][7]
- SANKYO 有価証券報告書【沿革】
- [4]1968年11月 九州支店(福岡市)開設
- [5]1969年4月 札幌支店、1970年9月 広島支店、1970年11月 仙台支店、1971年4月 北関東支店(桐生市・後に高崎市へ移転)、1971年5月 名古屋支店を開設
- [6]1975年11月 群馬県桐生市に桐生工場を開設
- [7]本社の桐生市移転は1981年4月。本文は『1981年4月には本社を桐生工場のある桐生市に移転』とし整合
1980年7月、「超特電機フィーバー」を発売した。それまでのパチンコ機は出玉数が比較的少なく、玉のはじき方や台選びという遊技者の技術的要素が遊技の中心だった。フィーバーは大当たり時に連続して大量の出玉が出る「フィーバーアタッカー」を搭載し、確率変動と連続当たりという演出を導入することで、遊技者の体験を根本から変えた。「超特電機フィーバー」発売以降、パチンコは技術勝負の遊技から確率による爆発的な出玉を期待する遊技へと業界構造そのものが変質し、ホールへの設置台数も急増した。SANKYO(当時の三共)が業界全体を変えた1980年は、現在まで業界史で語られる画期となった。 [8]
- SANKYO 有価証券報告書【沿革】
- [8]1980年7月 『超特電機フィーバー』を発売
- SANKYO 有価証券報告書【沿革】
- [1]1966年4月 毒島邦雄が名古屋市で中央製作所を設立(名古屋工場・東京/大阪支店・本社業務部を開設)
- [2]創業者は毒島邦雄
- [3]1966年5月に三共製作所へ商号変更、同年11月に三共へ改称(設立から1年以内に二度の商号変更)
- [4]1968年11月 九州支店(福岡市)開設
- [5]1969年4月 札幌支店、1970年9月 広島支店、1970年11月 仙台支店、1971年4月 北関東支店(桐生市・後に高崎市へ移転)、1971年5月 名古屋支店を開設
- [6]1975年11月 群馬県桐生市に桐生工場を開設
- [7]本社の桐生市移転は1981年4月。本文は『1981年4月には本社を桐生工場のある桐生市に移転』とし整合
- [8]1980年7月 『超特電機フィーバー』を発売
1991年三共産業吸収合併から1995年東証二部上場まで
1991年4月、三共産業に吸収合併され商号を三共とし、単位株制度導入のための持株関連の組織再編を実施した。同年8月には定款上の商号を株式会社SANKYOに変更、ローマ字商号を法的にも前面に出した。これは単純な商号刷新ではなく、創業25年で蓄積したフィーバー機の業界的地位を、対外ブランドとしても明確化する意図があった。同年10月、日本証券業協会に株式を店頭売買銘柄として登録し、資本市場への第一歩を記した。1992年3月の三共化成(現三共エクセル)買収と、同年4月のダイワ電機製作所(現三共エクセル)買収で、部品子会社を取り込み、垂直統合の体制を整えた。 [9][10][11][12]
- SANKYO 有価証券報告書【沿革】
- [9]1991年4月 三共産業に吸収合併され商号を三共に変更(単位株制度導入のための持株関連の組織再編)
- [10]1991年8月 定款上の商号を株式会社SANKYOへ変更
- [11]1991年10月 日本証券業協会に株式を店頭売買銘柄として登録
- [12]1992年3月 三共化成(現三共エクセル)買収、1992年4月 ダイワ電機製作所(現三共エクセル)買収
1995年8月、東京証券取引所市場第二部に株式を上場し、創業29年で資本市場からの増資ルートを開いた。同年12月にはバンドー化成を買収し、子会社網の整備を続けた。1996年3月には大同(現ビスティ)を買収し連結子会社化、関連子会社のラインアップを広げた。1997年4月には商品本部を新設し、研究開発体制の強化を実行、同年9月には東京証券取引所市場第一部銘柄に指定された。創業31年で大企業ステージへの格上げを果たした。1995年の二部上場から1997年の一部指定までわずか2年で、SANKYOは公開企業としての本格的な事業運営に移った。 [13][14][15][16]
- SANKYO 有価証券報告書【沿革】
- [13]1995年8月 東京証券取引所市場第二部に株式を上場
- [14]1996年3月 大同(現ビスティ)を買収し連結子会社化
- [15]1997年4月 商品本部を新設(研究開発体制の強化)
- [16]1997年9月 東京証券取引所市場第一部銘柄に指定
2001年4月、群馬県伊勢崎市に三和工場を開設し、桐生工場から主力生産拠点を移転した。創業以来の中心地・桐生から、より広い敷地と新規設備を備えた伊勢崎へと生産拠点を刷新する投資で、フィーバー機の量産体制を時代に合わせて再編した。2005年10月には三共化成がダイワ電機製作所と合併し三共エクセルに商号変更し、部品子会社の統合も並走させた。2006年7月の管理本部新設、2007年4月の知的財産本部新設と、創業者の毒島邦雄氏・毒島秀行氏のもとで続いてきた事業執行中心の組織から、本社機能の整備と知財重視へのシフトが2000年代後半に進行した。 [17][18][19][20]
- SANKYO 有価証券報告書【沿革】
- [17]2001年4月 群馬県伊勢崎市に三和工場を開設し桐生工場から生産拠点を移転
- [18]2005年10月 三共化成がダイワ電機製作所と合併し三共エクセルに商号変更
- [19]2006年7月 管理本部新設、2007年4月 知的財産本部新設
- SANKYO 有価証券報告書【役員の状況】
- [20]創業者・毒島邦雄は1966〜1996年に社長を務めた創業者。毒島秀行は1996年6月に社長就任。本段落の『毒島邦雄氏・毒島秀行氏のもと』という父子並記は両者の関与期間として成立
- SANKYO 有価証券報告書【沿革】
- [9]1991年4月 三共産業に吸収合併され商号を三共に変更(単位株制度導入のための持株関連の組織再編)
- [10]1991年8月 定款上の商号を株式会社SANKYOへ変更
- [11]1991年10月 日本証券業協会に株式を店頭売買銘柄として登録
- [12]1992年3月 三共化成(現三共エクセル)買収、1992年4月 ダイワ電機製作所(現三共エクセル)買収
- [13]1995年8月 東京証券取引所市場第二部に株式を上場
- [14]1996年3月 大同(現ビスティ)を買収し連結子会社化
- [15]1997年4月 商品本部を新設(研究開発体制の強化)
- [16]1997年9月 東京証券取引所市場第一部銘柄に指定
- [17]2001年4月 群馬県伊勢崎市に三和工場を開設し桐生工場から生産拠点を移転
- [18]2005年10月 三共化成がダイワ電機製作所と合併し三共エクセルに商号変更
- [19]2006年7月 管理本部新設、2007年4月 知的財産本部新設
- SANKYO 有価証券報告書【役員の状況】
- [20]創業者・毒島邦雄は1966〜1996年に社長を務めた創業者。毒島秀行は1996年6月に社長就任。本段落の『毒島邦雄氏・毒島秀行氏のもと』という父子並記は両者の関与期間として成立