SANKYO三共産業を存続会社とする吸収合併と、商号のSANKYOへの変更

創業25年目の事業会社が別法人に吸収される形をとったのはなぜか

時期 1991年4月
意思決定者(推定) 毒島邦雄 社長
論点 資本構成の整理と株式公開
概要
1991年4月、パチンコ機メーカーの三共は三共産業株式会社に吸収合併され、同日付で存続会社の商号が株式会社三共に改められた。有価証券報告書は理由を「単位株制度の導入等のため」と記録している。同年8月には定款上の商号を株式会社SANKYOに変更し、10月には株式を店頭売買銘柄として登録した。毒島邦雄社長のもとで、法人格・商号・株式公開の三つを半年で整えた組織再編であった。
背景
1966年に名古屋市で中央製作所として発足した業界最後発のメーカーは、1980年7月発売の「フィーバー」で業界の勢力図を塗り替えた。1991年末には全国約1万6,000店のホールのうち約1万2,000店と取引し、その年度の受注は70万台を超える見込みに達していたが、株式は市場で売買されていなかった。
内容
三共産業株式会社を存続会社、株式会社三共を消滅会社とする吸収合併で、事業を営んできた法人が消滅し、その商号を引き継いだ別の法人が事業を承継した。4か月後にローマ字の商号SANKYOへ改め、6か月後に日本証券業協会へ株式を店頭売買銘柄として登録している。
含意
店頭登録の後、1995年8月に東京証券取引所市場第二部、1997年9月に第一部へ進んだ。一方で大株主の上位は長く二つの有限会社と毒島姓の個人株主が占め、2006年3月末には上位5名で発行済株式の44%を超えていた。持分は後年薄まったが、創業家が投資方針を決める形は続いた。
筆者の見解

会社の形を整えた一年

この合併を、単位株制度の導入にともなう事務手続きとだけ読むと、1991年という年の意味を取り落とす。半年のあいだに法人格の入れ替え、商号のSANKYOへの刷新、株式の店頭登録が一続きに並び、別々の年に散らしてもよかったはずの手続きが束ねられた。業界最後発から全国のホールの四分の三を得意先に抱えるまでになった会社が、創業25年目に手を入れたのは新しい機械でも工場でもなく、自らの法人としての形であったとみることができる。

もっとも、公開が会社の性格まで変えたわけではない。株式が市場で売買され始めた後も大株主の上位は二つの有限会社と毒島姓の個人株主で占められ、2006年3月末には上位5名で発行済株式の44%を超えていた。その持分は2024年3月末に1割を下回るまで薄まったが、毒島秀行氏がオーナー会長として遊技機への集中投資を決める構図は残った。1991年に整えたのは資本を受け入れる入口であって、経営を手放す仕組みではなかったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

業界最後発として始めた1966年

SANKYOの前身である三共は、1966年4月に名古屋市で中央製作所として発足した。名古屋はパチンコ機製造の本場で、部品メーカーが集まり下請け工場の協力も得やすかった。ただし商社と販売店はすでに先発メーカーの代理店になっており、新参で無名の製品を扱う先はなかった。同社は東京と大阪に営業所を開き、製造は名古屋の流儀を、販売は自ら売り歩く桐生の流儀を採って、自前の販売網を築いた[1][2][3]

最後発の遅れを取り戻す手を打ったのは、創業から10年目であった。1975年11月に群馬県桐生市へ工場を構え、研究開発部を製造部から分けて同地へ移した。開発部は地元の群馬大学工学部出身者と大手電機メーカーからの採用者で組み、既存の部品を買い集めて組み付ける名古屋流からの脱却をねらった。2年後にIC回路を積んだ「ブレンド」を、その3年後の1980年7月に「フィーバー」を世に出した[4][5][6]

フィーバーが変えた業界と会社の規模

「フィーバー」の登場でパチンコ業界は活況に転じ、機械メーカーの競争はソフトウエアの開発力で決まるようになった。三共は同じ時期に大学新卒者の定期採用を始め、1991年までの10年間で全社員650名のうち約200名を学卒者で迎えている。開発部員は約100名を数えてその過半を学卒者が占め、年間1,000本を超えるソフトの提案が社内から上がる体制ができていた[7][8]

営業の網も広がった。1985年2月の新風営法施行で販売許可の判定が保通協へ一本化され、試験に通れば全国で販売できる制度に変わったことも追い風となった。1991年末の時点で支店・営業所は31か所を数え、全国約1万6,000店のホールのうち約1万2,000店と取引していた。その年度の受注は70万台を超える見込みで、最後発として出発した会社が全国のホールの四分の三を得意先に抱えていた[9][10]

決断

三共産業を存続会社とする吸収合併

1991年4月、パチンコ機メーカーの三共は三共産業株式会社に吸収合併され、同日付で存続会社の商号が株式会社三共に改められた。有価証券報告書の沿革は、この合併の理由を「単位株制度の導入等のため」と記録している。事業を営んできた法人が消滅し、その商号を引き継いだ別の法人が事業を承継する組み替えであった。社名も工場も外形は変わらないまま、法人格だけが入れ替わっている[11][12]

合併から4か月後の1991年8月、同社は定款上の商号を株式会社SANKYOに変更した。1966年11月から四半世紀使ってきた漢字の社名を、ローマ字の表記へ改める決定であった。さらに2か月後の10月には、日本証券業協会に株式を店頭売買銘柄として登録している。法人格の組み替えから商号の刷新、株式の公開までを半年のうちに済ませており、一連の手続きが同じ設計のもとに並んでいたとみられる[13][14]

創業社長が公開の年に掲げた「夢30」

一連の再編を率いたのは、1970年4月から代表取締役社長を務めてきた毒島邦雄氏であった。1925年生まれの毒島邦雄社長は、合併の年に66歳を迎えている。翌1992年2月には、1977年4月に入社した長男の毒島秀行氏が代表取締役専務に就き、1996年6月には社長を継いだ。株式を公開する手当てと、創業家内で後継者を引き上げる動きが、同じ数年のうちに重なっていた[15]

店頭登録から2か月後の1991年12月、毒島邦雄社長は証券アナリスト向けの講演に立ち、「夢30」と名付けた中期3か年計画を説明した。創立30周年にあたる1996年へ向けて市場シェア30%と売上高1,000億円を確保する構想で、計画は順調に推移しているとしたうえで「必ず達成することを約束する」と述べている。公開したばかりの会社の経営者が、投資家に向けて数値目標を掲げた場であった[16]

結果

店頭登録から東証一部へ

公開後の同社は、部品の内製化と上位市場への移行を並べて進めた。1992年3月に三共化成、翌4月にダイワ電機製作所を買収して部品会社を傘下に収め、1996年3月にはダイドー(現ビスティ)も取り込んでいる。株式は1995年8月に東京証券取引所市場第二部へ上場し、1997年9月には第一部銘柄に指定された。店頭登録から6年で、東証一部の企業になった[17][18]

上場によって株主の顔ぶれは広がったが、資本の構成が入れ替わったわけではない。2006年3月末の大株主では、有限会社マーフコーポレーションが15.42%、有限会社群馬創工が14.54%を保有し、これに毒島邦雄氏の7.26%、毒島秀行氏の3.90%、毒島章子氏の3.03%が続いた。上位5名だけで発行済株式の44%を超え、うち毒島姓の三名で14.19%を占めていた[19]

変わらない投資方針と、薄まる持分

創業家が資本を握る構成は、後年の投資方針にも表れている。2023年の時点で、SANKYOはオーナー会長である毒島秀行氏の経営思想のもと、遊技機関連への投資集中を方針として掲げていた。2022年12月末の手元資金は2,400億円を超えていたが、使途は開発費や部材の先行発注など、遊技機事業の競争力を保つ範囲に絞られていた。同業のセガサミーホールディングスや平和が非遊技機事業へ広げたのとは対照的な選び方であった[20][21]

もっとも、創業家の持分そのものは固定されていない。2024年3月末の大株主では日本マスタートラスト信託銀行の信託口が16.17%で首位に立ち、個人では毒島秀行氏の3.62%が最も高い。毒島壮氏の1.96%、毒島章子氏の1.81%、株式会社マーフコーポレーションの1.81%を足しても1割に届かず、2006年に上位5名で44%を超えていた保有は、機関投資家の比重が増すなかで薄まった[22]

出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1992年1月号(第30巻第1号)「SANKYO」(毒島邦雄社長講演、1991年12月)
  • SANKYO 有価証券報告書【沿革】
  • SANKYO 有価証券報告書【役員の状況】(2006年3月期)
  • SANKYO 有価証券報告書【大株主の状況】(2006年3月期)
  • SANKYO 公式サイト「沿革」
  • 週刊東洋経済 2023年3月4日号「発見! 成長企業 【6417】SANKYO アニメ機種の大ヒットを連発 「パチンコ覇権」握り快走中」

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