1966年4月、毒島邦雄氏が名古屋市で中央製作所として設立した。本社・名古屋工場を整備し、東京・大阪に支店を開設、本社業務部も配置するという初期投資の規模からして、家内工業的なパチンコ機メーカーとは一線を画す出発だった。同年5月には商号を三共製作所へ変更、同年11月にさらに三共へと改称した。設立から1年以内に商号を二度変更した経緯は、当時のパチンコ機業界における事業基盤を整える過程の試行錯誤を映している。創業初期の商号変遷を経て、三共というブランド名は、1991年8月に定款上の商号を株式会社SANKYOへ変更するまでの25年間、中核ブランドとして定着した。 [1][2][3]
1968年11月、福岡市に九州支店を開設したのを皮切りに、1969年4月に札幌支店、1970年9月に広島支店、同年11月に仙台支店、1971年4月に北関東支店(桐生市、後に高崎市に移転)、同年5月に名古屋支店と、創業5年で全国主要都市に販売拠点を整備した。パチンコホールへの機械販売はホールオーナーとの直接取引が中心で、地域ごとに支店を構えて営業対応する販売モデルが必要であり、地域支店網の急速な整備は機械販売の全国展開を支える基盤となった。1975年11月には群馬県桐生市に桐生工場を開設し、主力生産拠点としての整備が進んだ。1981年4月には本社を桐生工場のある桐生市に移転した。 [4][5][6][7]
1980年7月、『超特電機フィーバー』を発売した。それまでのパチンコ機は出玉数が比較的少なく、玉のはじき方や台選びという遊技者の技術的要素が遊技の中心だった。フィーバーは大当たり時に連続して大量の出玉が出る『フィーバーアタッカー』を搭載し、確率変動と連続当たりという演出を導入することで、遊技者の体験を根本から変えた。『超特電機フィーバー』発売以降、パチンコは技術勝負の遊技から確率による爆発的な出玉を期待する遊技へと業界構造そのものが変質し、ホールへの設置台数も急増した。SANKYO(当時の三共)が業界全体を変えた1980年は、現在まで業界史で語られる画期となった。 [8]
1991年4月、三共産業に吸収合併され商号を三共とし、単位株制度導入のための持株関連の組織再編を実施した。同年8月には定款上の商号を株式会社SANKYOに変更、ローマ字商号を法的にも前面に出した。これは単純な商号刷新ではなく、創業25年で蓄積したフィーバー機の業界的地位を、対外ブランドとしても明確化する意図があった。同年10月、日本証券業協会に株式を店頭売買銘柄として登録し、資本市場への第一歩を記した。1992年3月の三共化成(現三共エクセル)買収と、同年4月のダイワ電機製作所(現三共エクセル)買収で、部品子会社を取り込み、垂直統合の体制を整えた。 [9][10][11][12]
1995年8月、東京証券取引所市場第二部に株式を上場し、創業29年で資本市場からの増資ルートを開いた。同年12月にはバンドー化成を買収し、子会社網の整備を続けた。1996年3月には大同(現ビスティ)を買収し連結子会社化、関連子会社のラインアップを広げた。1997年4月には商品本部を新設し、研究開発体制の強化を実行、同年9月には東京証券取引所市場第一部銘柄に指定された。創業31年で大企業ステージへの格上げを果たした。1995年の二部上場から1997年の一部指定までわずか2年で、SANKYOは公開企業としての本格的な事業運営に移った。 [13][14][15][16]
2001年4月、群馬県伊勢崎市に三和工場を開設し、桐生工場から主力生産拠点を移転した。創業以来の中心地・桐生から、より広い敷地と新規設備を備えた伊勢崎へと生産拠点を刷新する投資で、フィーバー機の量産体制を時代に合わせて再編した。2005年10月には三共化成がダイワ電機製作所と合併し三共エクセルに商号変更し、部品子会社の統合も並走させた。2006年7月の管理本部新設、2007年4月の知的財産本部新設と、創業者の毒島邦雄氏・毒島秀行氏のもとで続いてきた事業執行中心の組織から、本社機能の整備と知財重視へのシフトが2000年代後半に進行した。 [17][18][19][20]
2008年4月、CEO・COO体制と執行役員制度を導入し、業務執行と監督の分離に踏み込んだ。同月には内部監査室も新設し、ガバナンス体制を整えた。同年8月、本社を東京都渋谷区に移転、創業地の名古屋・量産拠点の桐生・伊勢崎から本社機能を都心へ移し、業界の中心地である首都圏でのブランド発信と政策・規制対応の即応性を高めた。2009年6月には東京都渋谷区に研究開発棟が完成し、R&D拠点も都心へ集約した。創業以来43年にわたり関東圏の量産拠点を軸とした組織から、本社機能と研究開発機能を都心へ集約する体制への移行が、2008〜2009年に集中した。 [21][22][23]
創業者の毒島邦雄氏は1966年の設立から1996年まで約30年にわたり代表取締役社長を務めた。1996年6月、長男の毒島秀行氏(FY95〜FY06)が後任の代表取締役社長に就任し、以後約12年間トップを務めている。1966年の創業から毒島秀行氏が会長へ退く2008年4月までの42年間、社長職は毒島家の父子二代が担い続けた。2008年4月には澤井明彦氏が後任社長として就任し、毒島秀行氏は代表取締役会長CEOに転じた。創業同族の長期政権から内部生え抜き社長への交代は、CEO・COO体制導入と並走するガバナンス転換の一環だった。澤井氏のFY07〜FY10在任の4年間は、世界金融危機の影響と業界の警察庁規制対応に追われた時期で、FY07(2008年3月期)の売上2,805億円・経常利益758億円から、FY09(2010年3月期)の売上2,227億円・経常利益594億円へと業績規模の縮小が始まった。
2010年代に入ると、警察庁による遊技機規制の強化と若年層のパチンコ離れが業界全体の縮小をもたらした。FY11(2012年3月期)の売上1,737億円・経常利益444億円から、FY12(2013年3月期)の売上1,042億円・経常利益95億円へ、わずか1年で売上40%減・経常利益79%減という急縮小に直面した。FY11就任の筒井公久社長は、業界規制強化と縮小の局面で経営の舵取りを担い、FY16(2017年3月期)には売上815億円までの縮小に直面した。創業期の『超特電機フィーバー』(1980年)以来30年にわたって業界をリードしたSANKYOにとって、市場の縮小は構造的な経営課題として残された。
2012年3月、ジェイビーを買収し連結子会社化した。創業期のフィーバー機の業績で築いた現預金の厚みから、業界縮小局面でも事業領域の拡張に踏み込む姿勢を示した買収だった。2017年4月には商品本部に商品企画部を新設、同月に事業企画部も新設し、規制対応下での新商品開発と事業企画機能の強化を並走させた。2018年4月には商品本部に業務部を新設し、商品本部を企画・業務・販売の3機能に細分化した。創業期の単一商品(フィーバー機)依存の組織から、企画・業務・販売管理など機能別の専門部署を擁する組織への変化が、2010年代後半に進行した。 [24][25]
筒井公久社長在任中のFY11〜FY19の9年間は、業界縮小という構造的逆風のなかで売上815億円〜1,737億円の幅で推移する厳しい時期だった。FY15(2016年3月期)の売上1,371億円から翌FY16の815億円へ40%減という落ち込みは、警察庁による出玉規制(旧規則機→新規則機への切り替え)の影響が直接受注を縮小させた結果だった。創業者の毒島邦雄氏・毒島秀行氏という父子二代・42年(1966〜2008年)にわたる業界リーダーシップから、業界規制強化局面での縮小耐性が焦点となる経営局面への変化を、筒井体制が担った。 [26]
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|---|---|---|---|---|
| 1966〜2006年中央製作所創業と「フィーバー」によるパチンコ業界の構造変革 | 中央製作所として設立し名古屋工場・東京/大阪支店・本社業務部を開設 | ★ | ||
| 三共に商号変更 | ★ | |||
| 広島支店を開設 | ★ | |||
| 仙台支店を開設 | ★ | |||
| 北関東支店を開設 | ★ | |||
| 名古屋支店を開設 | ★ | |||
| 桐生工場を新設 | ★ | |||
| 超特電機フィーバーを発売 | ★★ | |||
| 本社を移転 | ★ | |||
| 三共産業を存続会社とする吸収合併と、商号のSANKYOへの変更 1991年4月、パチンコ機メーカーの三共は三共産業株式会社に吸収合併され、同日付で存続会社の商号が株式会社三共に改められた。有価証券報告書は理由を『単位株制度の導入等のため』と記録している。同年8月には定款上の商号を株式会社SANKYOに変更し、10月には株式を店頭売買銘柄として登録した。毒島邦雄社長のもとで、法人格・商号・株式公開の三つを半年で整えた組織再編であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 定款上の商号をSANKYOに変更 | ★ | |||
| 日本証券業協会に株式を店頭売買銘柄として登録 | ★ | |||
| 三共化成を買収 | ★ | |||
| 大同を買収 | ★ | |||
| 毒島秀行 | 三和工場を新設し桐生工場から生産拠点を移転 | ★ | ||
| 2007〜2019年CEO・COO体制導入と業界縮小局面での収益縮小 | 澤井明彦 | 創業家・毒島家から生え抜き澤井明彦への社長交代と、CEO・COO体制・執行役員制度の導入 2008年4月、SANKYOは1978年入社の生え抜きである澤井明彦氏を代表取締役社長COOに起用すると同時にCEO・COO体制と執行役員制度を導入し、毒島秀行氏が会長CEO、澤井氏が社長COOとなる二層の経営体制へ移行した。創業者・毒島邦雄氏から長男・秀行氏へと引き継がれてきた創業家の社長体制が、これで初めて創業家以外の社長へ移った。 詳細を読む | ★★★ | |
| 澤井明彦 | CEO・COO体制と執行役員制度を導入 | ★ | ||
| 澤井明彦 | 本社を移転 | ★ | ||
| 澤井明彦 | 研究開発棟完成 | ★ | ||
| 澤井明彦 | 商品本部に商品戦略室を新設 | ★ | ||
| 澤井明彦 | 商品本部にPS開発部を新設 | ★ | ||
| 澤井明彦 | ジェイビーを買収 | ★ | ||
| 筒井公久 | 商品本部に商品企画部を新設 | ★ | ||
| 筒井公久 | 事業企画部を新設 | ★ | ||
| 2020〜2025年スマートパチスロ・スマートパチンコ対応と業績回復 | 石原明彦 | プライム市場へ移行 | ★ | |
| 石原明彦 | 情報システム本部を新設 | ★ | ||
| 石原明彦 | 営業本部に販売管理部を新設 | ★ | ||
| 石原明彦 | 秘書室を新設 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(SANKYO)