1952年〜 日本初の民間テレビ局として開局し、街頭テレビで大衆をつかむ
- 1952年我が国第1号のテレビ放送免許を獲得
- 1952年創立総会(10月15日)を経て日本テレビ放送網を設立(10月28日)
- 1953年地上波アナログ放送を開始(開局記念日8月28日、呼出符号JOAX-TV、チャンネル4)
- 1959年東京証券取引所に上場
日本テレビホールディングスの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
免許第一号を得て開局した放送会社
1951年10月、日本テレビ放送網はテレビ放送の免許を電波監理委員会へ申請した。読売新聞社主の正力松太郎氏が発起人の中心となり、テレビ放送事業の開始に備えて米国から専門家を招いた準備がこれに先立つ。1952年7月、日本で第一号となるテレビ放送免許が下り、同年10月15日の創立総会を経て10月28日に会社が設立された。本社は東京都千代田区二番町、設立時の資本金は2億5000万円であった。正力松太郎氏が社長に就いている。 [1][2][3][4][5]
- 有価証券報告書
- [1]1951年10月にテレビ放送免許を電波監理委員会へ申請した
- [3]1952年7月に日本第一号のテレビ放送免許を獲得した
- [4]1952年10月15日の創立総会を経て10月28日に日本テレビ放送網を設立した
- 会社銀行八十年史(1955)
- [2]読売新聞社主の正力松太郎が発起人の中心となり社長に就任した
- [5]本社は東京都千代田区二番町、設立時資本金は2億5000万円であった
1953年8月28日、地上波アナログ放送を開始した。呼出符号はJOAX-TV、チャンネルは4である。テレビ放送の経営は開始後数年は赤字になるというのが当時の業界の常識であり、受像機がなお高価で家庭への普及に時間を要したため、営業開始早々に広告収入をあげることは難しいと見られていた。免許事業として電波法・放送法のもとで営まれる準独占の性格を持ちつつ、収益をどう立ち上げるかが最初の課題であった。 [6][7]
- 有価証券報告書
- [6]1953年8月28日に地上波アナログ放送を開始した(呼出符号JOAX-TV、チャンネル4)
- 証券アナリストジャーナル(1969・保田宗一講演)
- [7]テレビは免許事業であり電波法・放送法のもとで準独占の性格を持つ
- 有価証券報告書
- [1]1951年10月にテレビ放送免許を電波監理委員会へ申請した
- [3]1952年7月に日本第一号のテレビ放送免許を獲得した
- [4]1952年10月15日の創立総会を経て10月28日に日本テレビ放送網を設立した
- [6]1953年8月28日に地上波アナログ放送を開始した(呼出符号JOAX-TV、チャンネル4)
- 会社銀行八十年史(1955)
- [2]読売新聞社主の正力松太郎が発起人の中心となり社長に就任した
- [5]本社は東京都千代田区二番町、設立時資本金は2億5000万円であった
- 証券アナリストジャーナル(1969・保田宗一講演)
- [7]テレビは免許事業であり電波法・放送法のもとで準独占の性格を持つ
街頭テレビが生んだ広告収入と早期黒字化
受像機の家庭普及を待たずに視聴者を集めるため、日本テレビ放送網は放送開始と同時に東京都内や近県都市の繁華な場所へ大型受像機を設置した。街頭に置かれた受像機は相撲・レスリング・拳闘といった番組で群衆を呼び、一台の前に数百から数千の人が集まった。飲食店や喫茶店でもテレビを備える店が続き、街頭テレビとあわせた視聴者は百万人を超えたとされる。1955年6月時点の受像機台数は全国で約11万台、うち正式登録は6万7000台ほどにとどまり、家庭への普及はなお途上にあった。広告価値は家庭の受信機の数で測るのが常識だったが、街頭受像機はその常識の外側で視聴者をつくり、広告収入を押し上げた。 [8][9][10]
- 会社銀行八十年史(1955)
- [8]放送開始と同時に繁華街へ大型受像機(街頭テレビ)を設置し相撲・レスリング・拳闘で群衆を集めた
- [9]街頭テレビとあわせた視聴者は百万人以上に及んだ
- [10]1955年6月時点の受像機台数は全国で約11万台、うち正式登録は約6万7000台であった
テレビ放送は数年赤字が常識とされたなかで、日本テレビ放送網は放送開始から7か月目に、償却前とはいえ黒字を出した。番組企画のほか、街頭受像機という自社の工夫が早期の収益化を支えたとされる。設立時に2億5000万円だった資本金は、1953年4月に建設資金と一部運転資金へ充てるため5億円へ、1955年4月にはさらに7億5000万円へ増えた。同年11月、正力松太郎氏の入閣にともない清水与七郎氏が後任の社長となり、1959年9月には東京証券取引所に上場している。放送収入を軸とする経営の型が、開局から数年でひとまず固まった。 [11][12][13][14]
- 会社銀行八十年史(1955)
- [11]放送開始から7か月目に償却前で黒字を計上した
- [12]資本金は設立時2億5000万円から1953年4月に5億円、1955年4月に7億5000万円へ増資した
- [13]1955年11月に正力松太郎の入閣にともない清水与七郎が後任社長となった
- 有価証券報告書
- [14]1959年9月に東京証券取引所へ上場した
- 会社銀行八十年史(1955)
- [8]放送開始と同時に繁華街へ大型受像機(街頭テレビ)を設置し相撲・レスリング・拳闘で群衆を集めた
- [9]街頭テレビとあわせた視聴者は百万人以上に及んだ
- [10]1955年6月時点の受像機台数は全国で約11万台、うち正式登録は約6万7000台であった
- [11]放送開始から7か月目に償却前で黒字を計上した
- [12]資本金は設立時2億5000万円から1953年4月に5億円、1955年4月に7億5000万円へ増資した
- [13]1955年11月に正力松太郎の入閣にともない清水与七郎が後任社長となった
- 有価証券報告書
- [14]1959年9月に東京証券取引所へ上場した