1955年6月になっても、全国の受像機は約11万台、正式に登録されたものは6万7000台ほどにすぎなかった。この数を前提に広告枠を売ろうとすれば、開局から数年は赤字を抱えるほかない。日本テレビ放送網が繁華街へ据えた大型受像機は、それ自体が一円も売上を生まない設備である。にもかかわらず7か月目の黒字を引き寄せたのは、広告の値段を支える根拠を、家庭の受信機の台数から街頭に立つ人数へ置き換えたからだと推察される。
ただ、正力松太郎氏が最初に描いた形は実現していない。米国資本とマイクロ波網で1社が全国を覆うという構想は1954年12月に却下され、全国への広がりは系列各局との連合に委ねられた。街頭の受像機も、家庭に一台ずつテレビが入れば役目を終える一時の手段である。開局期に残ったのは装置ではなく、視聴者の数を自分でつくってから広告を売るという順序であり、それはのちの番組編成と視聴率の争いにそのまま引き継がれたといえる。