日本テレビホールディングス日本初の民間テレビ局としての開局と、街頭受像機による視聴者の創出

受像機の無い国で広告枠は売れるか——家庭への普及を待たずに視聴者をつくれるか

時期 1953年8月
意思決定者(推定) 正力松太郎 社長
論点 開局と収益の立ち上げ
概要
1953年8月28日、日本テレビ放送網が日本初の民間テレビ局として放送を開始した経営判断。受像機が家庭にほとんど無い段階で開局に踏み切り、放送開始と同時に東京都内や近県都市の繁華な場所へ大型受像機を据えて視聴者を集めた。読売新聞社主の正力松太郎氏が発起人の中心となり、社長として主導した。
背景
受像機は当時の給与水準からみて高価で、家庭への普及には時間がかかるとみられていた。テレビ放送の経営は開始後数年は赤字になるというのが業界の常識であり、広告の価値を家庭の受信機の数で測る限り、営業開始早々に広告収入をあげることは難しかった。
内容
放送開始と同時に街頭へ大型受像機を据え、相撲・レスリング・拳闘の中継で群衆を集めた。飲食店や喫茶店にも受像機が広がり、街頭とあわせた視聴者は百万人を超えたとされる。1953年4月と1955年4月の二度の増資で、資本金を2億5000万円から7億5000万円へ積み増した。
含意
家庭の受信機の数ではなく街頭に集まる人数を広告料の根拠に変え、開局から7か月目に償却前の黒字を計上した。一方、正力松太郎氏が構想の中心に置いた、1社で全国を覆うマイクロ波網の計画は1954年12月に国から却下された。
筆者の見解

筆者見解

1955年6月になっても、全国の受像機は約11万台、正式に登録されたものは6万7000台ほどにすぎなかった。この数を前提に広告枠を売ろうとすれば、開局から数年は赤字を抱えるほかない。日本テレビ放送網が繁華街へ据えた大型受像機は、それ自体が一円も売上を生まない設備である。にもかかわらず7か月目の黒字を引き寄せたのは、広告の値段を支える根拠を、家庭の受信機の台数から街頭に立つ人数へ置き換えたからだとみられる。

ただ、正力松太郎氏が最初に描いた形は実現していない。米国資本とマイクロ波網で1社が全国を覆うという構想は1954年12月に却下され、全国への広がりは系列各局との連合に委ねられた。街頭の受像機も、家庭に一台ずつテレビが入れば役目を終える一時の手段である。開局期に残ったのは装置ではなく、視聴者の数を自分でつくってから広告を売るという順序であり、それはのちの番組編成と視聴率の争いにそのまま引き継がれたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

免許第一号を取るまで

1951年8月6日に公職追放が解けた読売新聞社主の正力松太郎氏は、その一週間後の8月13日に日本テレビ放送網構想を発表した。東京を中央局として全国にマイクロ波の無線中継網を敷き、1社で全国のテレビ放送を担うという計画である。同年10月に電波監理委員会へ免許を申請し、1952年7月、日本で第一号となるテレビ放送免許を得た。10月15日の創立総会を経て10月28日に会社が設立され、資本金は2億5000万円、本社は東京都千代田区二番町に置かれた[1][2]

開局を待つ側の事情は厳しかった。受像機は当時の給与水準からみて手の届かない値段で、白黒テレビは29万円と大卒初任給の50倍を超えていた。家庭への普及に時間がかかることは誰の目にも明らかで、テレビ放送の経営は開始後数年は赤字になるというのが業界の常識であった。広告の価値を家庭の受信機の数で測る限り、営業を始めてすぐに広告収入をあげる道は見えていなかった[3][4]

免許事業という枠と、広告価値の測り方

テレビ企業は電波法と放送法によって免許を与えられる事業であり、のちに専務取締役の保田宗一氏が講演で述べたとおり、準独占の性格を帯びていた。新聞や雑誌との最大の違いはそこにある。同時に公共性・社会性が強く、番組の質を保つことが免許を受けた側の務めとされた。加えて、報道の同時性・即時性という他の媒体にない強みがあり、保田氏はこれを見えざる武器と呼んでいる[5]

免許を独占的に持つことは、それだけでは収入を保証しなかった。広告の値段は視聴できる家庭の数に支えられるはずのもので、その数がなければ枠は売れない。1955年6月の時点でも受像機は全国で約11万台、うち正式登録は6万7000台ほどにとどまっていた。開局から二年近くを経てなおこの水準であり、家庭への普及を待って収入を立てる経営では、その間をどう凌ぐかという問いが先に立った[6]

決断

街頭に受像機を置く

1953年8月28日、日本テレビ放送網は地上波の放送を開始した。呼出符号はJOAX-TV、チャンネルは4である。同社は放送開始と同時に、東京都内と近県の都市の繁華な場所へ大型受像機を据えた。相撲、レスリング、拳闘といった番組が街頭に群衆を呼び、一台の前に数百から数千の人が集まった。受像機を各家庭が買うのを待つのではなく、見る場所を会社の側が用意するという方法であった[7][8]

街頭に置かれた受像機は、飲食店や喫茶店へも広がった。テレビを備える店が続き、店頭と街頭をあわせた視聴者は百万人を超えたとされる。家庭にある受信機の数では測れない視聴者が、開局から一、二年のうちに積み上がった。広告の価値を家庭の台数で測る常識のままでは売れなかった枠が、街頭に集まる人数を根拠として値段のつくものに変わった[9]

増資で設備を積み、全国網は却下される

視聴者が増えれば設備が要る。設立時に2億5000万円だった資本金は、1953年4月に建設資金と一部の運転資金へ充てるため5億円へ、1955年4月にはさらに7億5000万円へと積み増された。開局から二年足らずのうちに資本金は三倍になっている。放送は、番組を作る費用とは別に、送信と中継の設備を先に用意しなければ始まらない事業であった[10]

一方で、正力松太郎氏が構想の中心に置いた全国網は実現しなかった。米国から資金と技術の援助を受け、マイクロ波の無線中継で1社が全国を覆うという計画は、1954年12月3日に国から却下されている。全国への広がりは、のちに系列各局との連合という別の道をたどった。開局から数年で固まったのは、街頭で視聴者をつくり、放送収入を軸に据える東京の一局としての経営であった[11]

結果

7か月目の黒字と、上場までの数年

テレビ放送は数年赤字が常識とされたなかで、日本テレビ放送網は放送開始から7か月目に、償却前とはいえ黒字を計上した。番組の企画に加えて、街頭受像機という自社の工夫が早期の収益化を支えたとされる。開始後数年の赤字を織り込んで資本を厚くしておくという当時の常識からみれば、この立ち上がりの速さは想定の外にあった[12]

1955年11月、正力松太郎氏の入閣にともない清水与七郎氏が後任の社長となった。会社は1959年9月に東京証券取引所へ上場し、放送収入を軸とする経営の型が開局から数年でひとまず固まった。1957年には他社に先がけて野球中継のカラー化に取り組み、放送機器の更新へ資金を投じる段階に入っている[13][14][15]

出典・参考

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