三菱地所「丸の内マンハッタン化計画」の構想発表と、初代丸ビルの建て替えによる複合都市への転換
オフィス専用の街をどう作り替えるか——猛反発で挫けた30年構想から、2代目丸ビルまでの14年
- 概要
- 1988年1月、三菱地所は東京駅周辺113ヘクタールを対象に総投資額約6兆円で40〜50階建てビル約60棟を建てる丸の内再開発計画を発表した。通称「丸の内マンハッタン化計画」は地権者の反発で挫折したが、1995年に自社所有の初代丸ビルの建て替えを決め、2002年に商業施設を組み込んだ2代目丸ビルを開業させた。
- 背景
- 1923年竣工の初代丸ビルは1988年に築65年を迎え、所有ビルの老朽化が目立ち始めた。都庁舎が移る新宿やウォーターフロントに新しい都市軸ができ、1997年には「丸の内のたそがれ」と書かれた。1959年の改造計画で建てた9階建て中心のビル街は、夜になるとシャッターが閉まる街として機能面の古さを抱えていた。
- 内容
- 2代目丸ビルは37階建てで、地下1階から地上6階までの4万平方メートルを商業施設に充てた。東京都の特定街区制度の運用基準緩和を初めて受け、法定容積率1000%に活性化施設分300%を積み、隣接する三菱商事ビル別館から割増分を移して容積率1437%とした。丸の内一帯では10年間で5,000億円を投じ、5〜6棟を建て替える方針を示した。
- 含意
- 1988年の構想は「他人のビルまで勝手に変える気か」との反発で挫折し、実際の転換は自社所有の丸ビル一棟から始まった。開業から約1か月で280万人が訪れ、丸の内で店舗は成功しないという定説は覆った。2007年には新丸ビルが竣工し、連結売上高は2003年3月期の6,817億円から2007年3月期の9,476億円へ増えた。
構想が挫けた会社が、自分の一棟から始めた意味
1988年に描いた絵と、2002年に建った建物は同じではない。113ヘクタールに40〜50階建てを約60棟という構想は「他人のビルまで勝手に変える気か」という反発で挫け、実際に動いたのは自社が所有する丸ビル一棟の建て替えからであった。福澤武社長が建て替えの理由に挙げたのも街の将来像ではなく、阪神大震災後の耐震診断の結果と、壁を増やせば使い勝手が悪くなるという事情であった。地権者に拒まれた会社が、反論の出ない自分の建物から街を変えたとみることができる。
ただ、進め方の慎重さと中身の大胆さは別であった。地下1階から地上6階までの4万平方メートルを商業に充てる形は、丸の内で店舗は成功しないという業界の定説を自ら覆すもので、容積率も特定街区制度の緩和と隣接ビルからの移転で1437%まで積み上げている。1959年の改造計画でコンクリート9階建てに揃えた街を、40年後には床を積む制度を使い切って建て替えた。機能面の古さを率直に認めるところから始めた点が、この転換を可能にしたのかもしれない。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
築65年の丸ビルと「丸の内のたそがれ」
1923年に竣工した初代丸ビルは、1988年に築65年を迎えた。同年8月の日本経済新聞は、丸ビルに象徴されるように所有ビルの老朽化が目立ち始めたと書き、都庁舎が移る新宿やウォーターフロントに新しい都市軸ができて、東京全体から見た丸の内の地位が揺らぎ始めたと指摘した。入居希望を断るのが営業マンの大事な仕事と同業他社からうらやまれる状態を一新しなければ、丸の内の栄光は過去のものになりかねないとも書かれた[1]。
その見立ては1990年代に強まった。1997年8月の日本経済新聞は「丸の内のたそがれ、漂流するオフィスビル超一等地」の見出しを掲げ、丸ビル一棟の建て替えでも手が回らないうちに汐留・東品川・六本木六丁目・臨海副都心と魅力あるオフィス街が続々とでき、テナント争奪戦のなかで丸の内地区の地盤沈下が避けられなくなると書いた。同紙は丸の内の将来は丸ビルにかかっており、日本の都市再開発の在り方を占う試金石でもあるとした[2]。
9階建ての街が抱えた機能の古さ
街の古さは建物の年数だけの問題ではなかった。福澤武社長は、赤煉瓦の街並みが現在の姿になったのは約40年前で、1959年に策定した丸ノ内総合改造計画に基づきコンクリート9階建てなどのビルへ建て替えられたと振り返っている。当時は高度経済成長期の極度のオフィス不足で、入り口やエレベーターホールのすぐ横がオフィスという具合にキツキツに詰め込んだビルを建てる必要があった、というのが福澤氏の説明であった[3]。
働く人が街に求めるものも変わった。福澤武氏は、夜になるとビルのシャッターが閉まって辺りは真っ暗という街ではもはや満足されないとして、機能的な面で丸の内のビル街が古くなったことを率直に認めると述べた。同じ見方は1989年の高木丈太郎社長にもあり、再開発後は1階に商店があって2階から上が事務所というビルではなく、宿泊や夜間の食事・運動もできる24時間都市にふさわしいビルにする必要があると語っていた[4][5]。
決断
113ヘクタール・6兆円の構想と、その挫折
1988年1月20日、三菱地所は東京駅を中心とした丸の内・有楽町・大手町・八重洲の合計113ヘクタールを対象に、総投資額約6兆円をかけて40〜50階建てのビル約60棟を建てる丸の内再開発計画を発表した。開発地域を国際金融センターの一部と考え、増える床の一定割合を優先的に外資系企業と金融機関へ提供する構想であった。容積率は現行の1000%を2000%へ高める案を打ち出した[6][7]。
通称「丸の内マンハッタン化計画」と呼ばれたこの構想は、根回し不足から「他人のビルまで勝手に変える気か」との猛反発を受けて挫折した。1997年の日本経済新聞は、以来三菱地所が地元関係者への気遣いを重ね、再開発に慎重にならざるを得なくなったと書いている。1988年7月には地元の千代田区も参加して地権者の協議会ができ、建設省の外郭団体である都市計画協会に都心のあり方の調査・研究を委託した[8][9]。
阪神大震災を機に、自社の一棟から始める
絵を描くだけの状態を動かしたのは地震であった。1995年1月17日の阪神大震災の後に耐震診断をやり直すと、1923年竣工の丸ビルが同級の地震に耐えるにはもっと壁を増やす必要があると分かった。福澤武社長は「だが壁だらけでは使い勝手が悪い。それなら、いっそ丸ビルを建て替えよう、と判断した」と語っている。同年11月に建て替え計画を発表し、10年間で5,000億円を投じて5棟から6棟を建て替える方針も示した[10][11]。
建て替えの中身は、オフィス専用の街からの離脱であった。福澤武氏は「単なる建て替えでは意味がない」として、オフィスと店舗の両方を入れる形を選んだと述べている。2代目丸ビルは地下1階から地上6階までの4万平方メートルを商業施設に充て、東京都の特定街区制度の運用基準の緩和を初めて受けて法定容積率1000%に活性化施設分の300%を積み、隣接する三菱商事ビル別館から割増分を移して容積率1437%とした[12][13]。
結果
2代目丸ビルの開業と、街の規模
1999年4月に丸の内ビルの新築工事が着工し、2002年8月に37階建ての2代目丸ビルが竣工、9月に開業した。日経MJは、開業から約1か月で280万人が訪れ、平日も週末も問わずごった返していると伝え、JR東京駅周辺の日本を代表するオフィス街が今や消費者の街になったと書いた。オフィスの街に人を集めるという読みは、開業直後の人出でみれば当たった[14][15]。
建て替えは丸ビル一棟で終わらなかった。2007年4月には新丸ビルが竣工し、商業ゾーンの総店舗面積は丸ビルと同じ約1.6万平方メートルながら、店舗数は153店と丸ビルの140店を上回った。会社全体の規模も動き、連結売上高は2003年3月期の6,817億円から2007年3月期には9,476億円へ、当期純利益は360億円から976億円へ増えた[16][17]。
「丸の内で店舗は成功しない」という定説の書き換え
丸の内で店舗は成功しないというのが、それまでの定説であった。土曜と日曜に人が集まらないためである。福澤武氏は、仲通りを国際的なブランド・ショップ・ストリートにして丸ビルにも店舗を作り、土日にも人が集まるようにしてこの定説を覆したいと語った。三菱地所は仲通りと馬場先通りの交差点にある古河ビルヂング1階に、銀行が退いた後の場所を使って出入り自由・持ち込み可の「丸の内カフェ」を開いた[18][19]。
考える範囲も丸の内の外へ広がった。福澤武氏は、丸の内という狭い地域だけを考えていては成功しないとして、有楽町と一体化した回遊性や、駐車場に余裕のある丸の内から銀座へ客を運ぶ回遊バスまで挙げている。約30棟のビルについては、1年に1棟のペースで建て替えとリニューアルの工事を進める方針を示した。動きが止まればノウハウがさびつく、という説明であった[20][21]。
- 日本経済新聞(1988年1月20日)「三菱地所が30年計画」
- 日本経済新聞(1988年8月24日)「三菱地所(上)丸の内「再生」へ走る」
- 日本経済新聞(1997年8月3日)「丸の内のたそがれ」
- 日経ビジネス 1989年12月4日号「編集長インタビュー 高木丈太郎氏(三菱地所社長)『石橋たたいた、ロックフェラー買収』」
- 週刊東洋経済 1999年1月16日号「編集長インタビュー 福澤武 三菱地所社長 丸の内は生まれ変わる」
- 週刊東洋経済 2000年10月28日号「Interview 三菱地所社長 福澤武 土、日も人が集まる街に丸の内が変わる」
- 日経MJ(2002年10月8日)「丸ビル新装1ヵ月、丸の内消費沸く」
- 日経MJ(2008年6月8日)
- 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
- 三菱地所 有価証券報告書(2003年3月期・2007年3月期・連結)