三菱地所「丸の内マンハッタン化計画」:構想発表と、初代丸ビルの建て替えによる複合都市への転換
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- 概要
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1988年1月、三菱地所は東京駅周辺113ヘクタールを対象に総投資額約6兆円で40〜50階建てビル約60棟を建てる丸の内再開発計画を発表した。通称"丸の内マンハッタン化計画"は地権者の反発で挫折したが、1995年に自社所有の初代丸ビルの建て替えを決め、2002年に商業施設を組み込んだ2代目丸ビルを開業させた。
- 背景
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1923年竣工の初代丸ビルは1988年に築65年を迎え、所有ビルの老朽化が目立ち始めた。都庁舎が移る新宿やウォーターフロントに新しい都市軸ができ、1997年には 『丸の内のたそがれ』 と書かれた。1959年の改造計画で建てた9階建て中心のビル街は、夜になるとシャッターが閉まる街として機能面の古さを抱えていた。
- 内容
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2代目丸ビルは37階建てで、地下1階から地上6階までの4万平方メートルを商業施設に充てた。東京都の特定街区制度の運用基準緩和を初めて受け、法定容積率1000%に活性化施設分300%を積み、隣接する三菱商事ビル別館から割増分を移して容積率1437%とした。丸の内一帯では10年間で5,000億円を投じ、5〜6棟を建て替える方針を示した。
- 含意
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1988年の構想は 『他人のビルまで勝手に変える気か』 との反発で挫折し、実際の転換は自社所有の丸ビル一棟から始まった。開業から約1か月で280万人が訪れ、丸の内で店舗は成功しないという定説は覆った。2007年には新丸ビルが竣工し、連結売上高は2003年3月期の6,817億円から2007年3月期の9,476億円へ増えた。
構想が挫けた会社が、自分の一棟から始めた意味
1988年に描いた絵と、2002年に建った建物は同じではない。113ヘクタールに40〜50階建てを約60棟という構想は『他人のビルまで勝手に変える気か』という反発で挫け、実際に動いたのは自社が所有する丸ビル一棟の建て替えからであった。福澤武社長が建て替えの理由に挙げたのも街の将来像ではなく、阪神大震災後の耐震診断の結果と、壁を増やせば使い勝手が悪くなるという事情であった。地権者に拒まれた会社が、反論の出ない自分の建物から街を変えたとみることができる。
ただ、進め方の慎重さと中身の大胆さは別であった。地下1階から地上6階までの4万平方メートルを商業に充てる形は、丸の内で店舗は成功しないという業界の定説を自ら覆すもので、容積率も特定街区制度の緩和と隣接ビルからの移転で1437%まで積み上げている。1959年の改造計画でコンクリート9階建てに揃えた街を、40年後には床を積む制度を使い切って建て替えた。機能面の古さを率直に認めるところから始めた点が、この転換を可能にしたのかもしれない。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
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