三菱地所丸ノ内総合改造計画の策定と、赤煉瓦街から9階建てビル街への建て替え

高さをどこまで求めるか——皇居前の美観と、借り手を失えない貸ビル業のあいだで

時期 1959年7月
意思決定者(推定) 渡辺武次郎 社長
論点 丸ノ内の街区単位の建て替えと、建物の高さの扱い
概要
1959年7月、三菱地所は東京都都市計画局の指導を受けて「丸ノ内総合改造計画」を策定した。明治期から建て続けてきた3、4階建ての赤煉瓦建物を街区ごとに取り壊し、鉄骨鉄筋コンクリート造の不燃ビルへ建て替える方針で、渡辺武次郎社長のもとで進み、1973年の三菱ビル竣工で一応の完成をみた。
背景
戦後の事務所需要の膨張に対し、一丁倫敦と呼ばれた赤煉瓦街の床は狭く設備も古かった。三菱地所は1951年の地代家賃統制の撤廃を機に東京ビル・永楽ビル・新丸ノ内ビルなど約5万坪を新築したが、残った赤煉瓦の一帯は借り手の一流企業から敬遠され、1966年の新聞にはテナント側の拒否の声が載った。
内容
一棟ごとではなく街区を単位に建て替え、新築ビルはいずれも地下3階・地上9階、高さ31mの制限に全棟の屋上を揃えた。防災建築街区や特定街区の指定も用い、有楽町駅前の東京交通会館や常盤橋地区の日本ビルなど、丸ノ内の外の再開発事業にも手を伸ばした。
含意
周辺で超高層の計画が現れても、渡辺武次郎社長は皇居前広場の美観を理由に高さを競うことを退け、同じ三菱系の東京海上の建て替えにも中止を申し入れた。統一された9階の街並みは借り手で埋まった一方、1973年には丸の内地区だけで約4,000億円と算定される含み資産と、「土地本位経営」という批判をあわせて残した。
筆者の見解

屋上を揃えた街が残したもの

31mに屋上を揃えるという決めごとは、床を積める限り積まないという決めごとでもあった。渡辺武次郎社長は皇居前広場の美観を理由に「実益のないのに高さを競争するのは困る」と述べ、同じ三菱系の東京海上の建て替えにまで中止を申し入れている。丸ノ内で最も多くの土地を持つ会社が自ら高さの上限を引いたことで、街区ごとに屋上の高さが揃う景観が生まれた。借り手の一流企業から赤煉瓦を拒まれながら、建て替えの理由を床の量に置かなかった点に、当時の判断の性格が表れているとみられる。

ただ、抑えた高さが長く保たれたわけではない。中田乙一氏が再開発の終了を語った翌年、日経ビジネスは丸の内地区だけで約4,000億円の含みを算定し、土地本位経営という言葉で批判を向けた。三菱地所自身も同じ時期に、丸の内のビル需要を満たすには再々開発が必要で、改築には一時移転用のスペースが要ると答えている。9階に揃えた街並みは、完成した時点ですでに次の建て替えを織り込んだ資産であったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

需要に追いつかない赤煉瓦の床

1894年の三菱1号館から1918年の第26号館まで、丸ノ内には19棟の赤煉瓦とRC造の建物が並び、一丁倫敦と呼ばれるオフィス街ができていた。戦後は事務所の需要が急に増えたが、3、4階建て中心の赤煉瓦では床が足りず、設備も古かった。三菱地所は1951年に地代家賃の統制が撤廃されたのを機に鉄骨鉄筋コンクリート造の新築へ移り、東京ビル・永楽ビル・新丸ノ内ビルなど合計約5万坪を1955年3月までに順次竣工させた[1]

新築は空いた土地から進むほかなく、明治期の赤煉瓦は一丁倫敦の一帯に残った。1966年11月の毎日新聞には、この一帯を「ニューヨークのハーレムを連想させ、一流銀行にはふさわしくない」とする借り手側の見方が載った。丸ノ内の借り手は三菱系にとどまらず、貸ビル専業の三菱地所にとって、こう言われたまま古い建物を残す選択はとりにくかった[2]

建て替えに伴う資金の重さ

建て替えは資金の重さを伴った。1956年に着工した3万3,000坪の大手町ビルは建設費70億円で、当時の資本金20億6,400万円の3倍にあたる。後に社長となる中田乙一氏は、これを「大きな冒険であつた」と振り返っている。ビルの建設は景気上昇の波にうまく乗らないと金利負担で損を出し、収益に入るのが遅れる。一企業の資金調達能力にも限界があり、景気の波をとらえて事業を進めるのは楽ではなかった[3]

それでも投資を止められない事情があった。中田乙一氏は丸の内地区への総額1,500億円の投資について、テナントを魚にたとえて「魚が逃げたり、隣りの人に釣られたのでは困るので、需要に応じて投資をしてきた」と説明している。伝統の土地の上に安座してきたという三井不動産との比較に対し、自分の縄張りを守るためやむを得ず投資をした時代もあったと述べていた[4]

決断

街区を単位に建て替える計画

1959年7月、三菱地所は丸ノ内総合改造計画を策定した。東京都都市計画局の指導を受けてまとめたもので、明治以来建設してきた3、4階建ての赤煉瓦建物を取り壊し、街区ごとに近代的な不燃高層ビルを建てる方針であった。あわせて防災建築街区や特定街区の指定も用い、有楽町駅前の東京交通会館や、常盤橋地区に当時日本最大の日本ビルを竣工させるなど、丸ノ内の外の都市再開発にも手を伸ばした[5][6]

新築ビルの形は初めから揃えられた。1960年7月の読売新聞は、新しいビルがいずれも地下3階・地上9階で、高さ31mの空間に全部のビルの屋根が一直線に揃うと伝え、「消える東京の“ロンドン街”」の見出しでロンドン調からアメリカ調への衣替えと書いた。同紙は改造計画を、機能の低下した古い都市をこわして新しい都市をつくる近代都市計画の考えとして紹介している[7]

高さを自ら抑えるという判断

31mという高さは、当時の高さ制限に沿ったものであった。周辺で超高層の計画が現れても、渡辺武次郎社長は皇居前の美観を理由に高さを競うことを退けた。渡辺氏は1966年に「丸ノ内はただの街とは違う。前は皇居前広場だ。各国の元首も来る。国民自慢の場所だ。それを潰したくない」と述べ、一つ失うと次々に失うとして、広場の美観をぜひ強調したいと語っている[8]

その考えは同じ三菱系の東京海上へも向けられた。渡辺武次郎氏は東京海上ビルの計画について「とにかく実益のないのに高さを競争するのは困る。広告塔ではいかん」と述べている。東京海上の建築確認申請は皇居前の美観論争を呼んで3年近く建設省で保留され、1970年9月に25階へ削った変更申請が出されて決着した。三菱地所は丸ノ内の建て替えで、自らも高さを求めなかった[9][10]

結果

14年で入れ替わった街と、借り手の顔

改造計画は1973年の三菱ビル竣工で一応の完成をみた。中田乙一氏は1972年10月の講演で、この10年で丸の内の再開発を終えたと述べ、脱丸の内という評は使わないとしながら、丸の内を跳躍台にして各方面へ事業を広げる段階に入ったと語った。ビル部門の収益比率はかつての90%から約60%へ下がり、住宅開発や浚渫埋立、地域開発が並ぶ会社に変わっていた[11][12]

建て替えた街は借り手で埋まった。1972年時点で丸の内の貸ビルは満室、テナントは約3,000社に達していた。1972年度の土地建物賃貸収入は350億円で、営業収入は5年前の197億円から639億円へ3.2倍になった。9階に屋上を揃える建て替えでも、丸ノ内の借り手が失われることはなかったとみることができる[13][14]

完成の年に向けられた「土地本位経営」の批判

街の入れ替えが終わる時期に、別の評価が現れた。1973年9月の日経ビジネスは、丸の内地区の所有地19万3,600平方メートルの簿価299億円に対し、1平方メートル217万円で見た時価を4,299億円と算定し、含みは約4,000億円に達すると書いた。同じ時点の株式時価総額は約2,987億円で、丸の内の土地の含みは会社の株式の値段を1,000億円以上上回っていた[15]

同誌は、坪1,100万円という高値でNHK跡地1万550平方メートルを354億6,300万円で落札した件を取り上げ、土地本位経営という言葉で批判を向けた。これに対する三菱地所の反論は、丸の内のビル需要には根強いものがあり、それを満たすには再々開発を当然頭に入れておかねばならず、ビルの改築には一時移転用のスペースが必要だというものであった。9階の街が完成した年に、会社はすでに次の建て替えを見込んでいた[16][17]

出典・参考
  • 会社銀行八十年史 第2篇日本会社史「三菱地所」(1955年)
  • 毎日新聞(1966年11月12日)
  • 国際建築 1966年12月号
  • 読売新聞(1960年7月2日)
  • 読売新聞(1970年9月13日)
  • 証券アナリストジャーナル 1969年 第7巻第12号「三菱地所の現状と将来」(中田乙一氏講演)
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第11号「三菱地所」(中田乙一氏講演)
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号「三菱地所『土地本位経営』を加速する本家」
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995年)「三菱地所」
  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】

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