三菱地所三菱地所創業——入札ゼロの丸ノ内買収から日本最大の不動産会社へ

入札ゼロに終わった陸軍練兵場跡地・丸ノ内約35万坪を、松方正義 蔵相の打診で128万円で買い取った岩崎弥之助 氏は、値の付かない原野をどう日本最大の不動産会社へ育てたか

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時期 1890年3月
意思決定者 岩崎弥之助 氏(三菱財閥2代目・三菱社を率いた当主)。買収を打診したのは松方正義 氏 大蔵大臣
論点 入札不調に終わった丸ノ内一帯の取得と、西洋式オフィス街の建設(都市不動産事業の起業)
概要
1890年3月、三菱財閥2代目の岩崎弥之助 氏が、入札不調に終わった陸軍練兵場跡地の丸ノ内約35万坪を、大蔵大臣の松方正義 氏の打診を受けて128万円で一括買収した。岩崎 氏は英国人建築家ジョサイア・コンドル 氏を招いて西洋式のオフィス街を築き、1937年5月には三菱合資会社から地所課を切り出して資本金1500万円の三菱地所株式会社を発足させた。
背景
明治政府は財政難のなか、1889年に陸軍練兵場跡地の丸ノ内約35万坪を売却へ付したが、東京市予算3年分の150万円という価格と交通の便の悪さから入札に応じる者はなかった。買い手のつかない広大な官有地を、蔵相の松方正義 氏が三菱財閥2代目の岩崎弥之助 氏へ直接持ちかけ、岩崎 氏は政府との長期的な関係を優先して買収に応じた。
内容
岩崎弥之助 氏はロンドンのロンバート街を模範とした西洋式のビジネス街を構想し、1894年にコンドル設計の三菱1号館を、1918年までに第26号館までの19棟を建て、馬場先通り一帯に赤煉瓦の「一丁倫敦」を形づくった。1923年には桜井小太郎 氏設計の初代丸ノ内ビルヂングを東京駅前に竣工させ、赤煉瓦の街から近代的な高層ビル街への転換を進めた。
含意
財閥本体で付随的な扱いだった不動産事業は、丸ビルの取引規模の膨張を経て、1937年に資本金1500万円の三菱地所として独立した。戦後はGHQの財閥解体で1950年に陽和不動産・開東不動産との3社へ分割されたが、1953年に再合併して丸ノ内を一体管理へ戻し、同年5月の東京・大阪両取引所上場で公開企業としての資金調達の基盤を整えた。
筆者の見解

不用の地とされた買収が残したもの

この創業が示すのは、目立った使い道の見えない原野を一括で買い取り、そこに西洋式のオフィス街を築くという長い時間軸の選択である。買収の当初は社内からも批判を招き、地元紙も繁盛の見込みを疑った。1894年の三菱1号館から1918年の一丁倫敦、そして1923年の丸ビルへと、賃貸を担う建物を1棟ずつ積み上げた歩みが、値の付かなかった土地を東京の中心的なビジネス街へ変えていったとみられる。

もう一つ見えてくるのは、丸ノ内という単一の資産を一体で管理することの意味である。1937年の独立は、財閥の一部門にとどめておけないほど育った不動産事業を専業の会社へ移す判断であったと読める。戦後の3分割からわずか3年での再合併は、丸ノ内を分けて持つ構造が事業として立ちゆかないことを、実務のなかで裏づけたものといえる。買収から60年余りを経て、三菱地所は丸ノ内一極の資産を運営する公開企業として法人の形を整えた。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

入札に応じる者のいなかった練兵場跡地

明治政府は財政難のなか、陸軍練兵場として使われていた丸ノ内一帯の約35万坪を1889年に売却へ付した。だが東京市の予算3年分にあたる150万円という価格と、当時の交通の便の悪さから、入札に応じる者は現れなかった[1]。政府にとって、丸ノ内は買い手のつかないまま抱え続ける広大な官有地であった。財政の立て直しを迫られるなかで、この土地の処分は容易に進まなかった。

買い手を探す政府の側から動いたのが、大蔵大臣の松方正義 氏であった。松方 氏は三菱財閥2代目の岩崎弥之助 氏に丸ノ内一帯の購入を直接持ちかけた[2]。当時の丸ノ内は江戸期に大名屋敷が並んだ敷地が明治維新後に更地となった草原で、商業用地としてはほとんど値の付かない土地とみなされていた。目立った使い道の見えない広大な官有地を、政府は民間の一財閥へ託そうとしていた。

決断

128万円の一括買収と西洋式ビジネス街の構想

1890年3月、岩崎弥之助 氏は政府との長期的な関係を保つことを優先し、三菱社として丸ノ内一帯の約35万坪を128万円で一括して買い取った[3]。東京市の年間予算の3倍にあたる資金を、当てのない原野へ投じる買収であった。三菱社内では「何の目的で不用の地を買うのか」という批判が噴出したが、岩崎 氏は「竹を植てて虎でも飼うさ」と応じたと伝えられている。使い道の定まらない土地を抱えた買収は、社内でも容易には理解されなかった。

岩崎弥之助 氏は買い取った丸ノ内に、ロンドンのロンバート街を模範とした西洋式のビジネス街を築く構想を掲げた。三菱社は英国人建築家ジョサイア・コンドル 氏を招き、煉瓦造のオフィス街の建設に着手している[4]。あわせて1890年には自社物件の設計監理を担う丸ノ内建築所を社内に設け、のちの三菱地所設計へつながる建築部門を早くから内部に抱えた[5]。無価値とみなされた原野を西洋式のオフィス街へ変える計画が、買収と同時に動きはじめた。

三菱1号館から「一丁倫敦」へ

1894年6月、ジョサイア・コンドル 氏が設計した三菱1号館が煉瓦造3階建てで竣工し、丸ノ内で最初の本格的なオフィスビルとなった[6]。だが1914年の東京駅開業以前の丸ノ内は交通の便が悪く、テナントの誘致は難航した。1896年の第2号館の竣工を最後に新築は9年ほど止まり、買収の翌年には読売新聞が「丸の内に街を作ろうとしても、到底繁盛する見込みはない」(読売新聞 1891/10/02)と冷ややかな観測を伝えている[7]。開発の先行きは、当初から平坦ではなかった。

1904年に開発が再開し、第7号館以降のビル建設が進んだ。1894年の第1号館から1918年の第26号館まで、馬場先通り一帯には19棟の煉瓦造・鉄筋コンクリート造のビル群が並び、ロンドンになぞらえた「一丁倫敦」と呼ばれる赤煉瓦のオフィス街が形づくられた[8]。1923年2月には桜井小太郎 氏の設計による初代丸ノ内ビルヂングが東京駅前に竣工し、8階建ての大貸事務所を当時の時事新報は「東洋一の大貸事務所」(時事新報 1923/02/05)と伝えた[9]。買収から33年を経て、丸ノ内は赤煉瓦の街から近代的な高層ビル街へと姿を変えていった。

結果

三菱合資会社からの独立

丸ビルの竣工で丸ノ内のオフィス賃貸の取引規模が膨らみ、昭和初期には一帯がほぼ空き地のないビジネス街へと近づいた。1935年12月の時事新報は、丸ノ内が「ニューヨークのウォール街にも比すべきビジネスセンターになろう」(時事新報 1935/12/14)と将来を見通している[10]。財閥本体のなかで一部門にすぎなかった不動産事業は、単独の会社として切り出すだけの取引規模へと育っていた。都市不動産の経営を専門に担う体制が求められはじめた。

1937年5月、三菱合資会社は丸ビルの土地建物の所有権と丸の内地区の営業権を譲渡する形で地所課を切り出し、資本金1500万円で三菱地所株式会社を設立した[11]。同年11月には三菱合資会社の建築課を吸収し、設計・開発・賃貸を一つの会社で担う体制を整えている[12]。財閥本体で付随的な扱いにとどまっていた不動産事業が、独立した主力事業へと格上げされた。岩崎弥之助 氏の買収から47年を経て、丸ノ内の経営は専業の株式会社へと移された。

財閥解体による3分割と再結集

太平洋戦争後、GHQの財閥解体方針により持株会社の三菱本社が解散対象となり、三菱地所も再編の対象に置かれた。1950年1月、三菱地所は丸ノ内ビル・八重洲ビルを除く丸の内地区の営業権を三菱本社へ返還し、三菱本社の解散にあわせて第二会社として陽和不動産と開東不動産が設立された[13]。1890年以来60年にわたり一元で管理されてきた丸ノ内の土地建物が、三つの会社へ事実上分割された。丸ノ内という単一の資産を分けて持つ構造が、このとき生まれた。

分割された3社のうち陽和不動産が外部からの株式の買い占めにさらされ、丸ノ内を分けて管理する構造の弱さが表面化した。1953年4月、三菱地所は陽和不動産と開東不動産を吸収合併し、丸ノ内の土地建物を再び一つの会社で管理する体制へ戻した[14]。合併後の三菱地所は営業用の土地22万6360平方メートル・建物32万5100平方メートルを抱える、規模でも収益でも日本最大の不動産会社となった。翌1953年5月には東京・大阪の両証券取引所へ株式を上場し、続く1954年から1955年にかけて札幌・福岡・名古屋にも上場して、公開企業としての資金調達の基盤を整えた[15]

出典・参考
  • 有価証券報告書(沿革)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 読売新聞 1891/10/02
  • 時事新報 1923/02/05
  • 時事新報 1935/12/14

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