三菱地所財閥解体による丸ノ内3分割と、3年後の陽和不動産・開東不動産の吸収合併
分けられた丸ノ内をなぜ1社に戻したか——GHQに退けられた一元開発と、株の買い占め
- 概要
- 1950年1月、三菱本社の解散に伴い、第二会社として陽和不動産と開東不動産が設立され、丸ノ内の土地建物は3社に分かれた。1953年4月、三菱地所は両社を吸収合併して丸ノ内を再び一体で持つ会社に戻り、同年5月に東京・大阪両証券取引所へ上場した。
- 背景
- 持株会社整理委員会の野田岩次郎氏は、丸の内は東京の玄関口として一貫した開発方式で開発すべきだとして、三菱地所を存続させ一つの第二会社として再編成すべきだとGHQに主張したが、GHQは分割を譲らなかった。安い地代と借地借家法のもとで借地人は土地を買わず、丸の内の処分そのものが行き詰まっていた。
- 内容
- 1952年9月、陽和不動産と開東不動産の株が買い占められ、額面50円の陽和株は最高1,600円まで急騰した。三菱銀行を中心に旧三菱系8社が資金を出し合って一株800円以上で買い戻し、翌1953年4月に三菱地所が両社を吸収合併した。資本金は1億7,200万円となり、8月には4倍増資で6億8,800万円となった。
- 含意
- 合併により営業用不動産は土地6万7,000坪余・建物69棟延9万8,525坪となり、名実ともに日本最大の不動産会社となった。分割は外からの制度変更、再統合は自社と旧三菱系各社の判断であった。丸ノ内を1社で持つ体制に戻ったことが、1959年の丸ノ内総合改造計画で街区ごとの建て替えへ進む前提になった。
外から分けられ、外からの脅威で束ね直した
分割と再統合は同じ判断の裏表ではない。1950年の3分割は、丸の内は一貫した開発方式で開発すべきだという持株会社整理委員会の野田岩次郎氏の主張がGHQに退けられた結果で、三菱地所の側に選ぶ余地はなかった。これに対し1953年の合併は自社と旧三菱系各社の判断であり、直接の引き金は1952年9月の買い占めで、旧三菱関係の土地建物がすべて人手に渡りかねない事態であった。外から分けられた資産を、外から来た脅威をきっかけに自ら束ね直したとみることができる。
ただ、買い戻しは三菱地所の力だけでは成らなかった。陽和にも開東にも親会社の三菱地所にも回収の資金はなく、三菱銀行を中心に旧三菱系8社が資金を出し合い、一株800円以上、総額数億円を投じている。丸ノ内という資産の一体性は、1社の財務ではなく旧財閥各社の結束によって保たれた。その6年後に街区単位の建て替え計画を打ち出せたのは、所有者が1社に戻っていたからだといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
売ろうとしても売れなかった丸ノ内
三菱本社の資本金は2億4,000万円で、その47.8%を岩崎一族が持っていた。資産のうち土地21万5,000坪と建物3万3,000坪余は東京・丸の内一帯を占め、簿価はただ同然でも当時の価格で再評価すれば大変な額になった。ところが処分は行き詰まった。安い地代と借地借家法の存在で借地人は土地を買おうとせず、興業銀行本店や三和銀行丸の内支店の敷地などが売れたにすぎなかった[1]。
持株会社整理委員会の野田岩次郎氏は、丸の内は東京の玄関口として一貫した開発方式で開発すべきであり、三菱地所を存続させて一つの第二会社として再編成すべきだとGHQに主張した。しかしGHQは分割を譲らず、1950年1月に陽和不動産・開東不動産の2社が設立され、丸ノ内・八重洲の両ビルを除く土地建物営業権は三菱本社へ返された。野田氏は、両社の社長と役員の人選に旧三菱地所の関係者を就けることだけはGHQに認めさせている[2][3]。
決断
買い占めを受けて1社へ戻す
1952年9月、陽和不動産と開東不動産の株が買い占められた。三菱銀行の営業部長であった宇佐美洵氏によれば、株価はうわさが広まるうちに急騰し、額面50円の陽和株は最高1,600円まで跳ね上がった。両社は旧三菱関係の土地や建物の管理に当たっていたため、最悪の場合はこれがすべて人手に渡る。陽和にも開東にも親会社の三菱地所にも回収の資金はなく、三菱銀行を中心に旧三菱系8社が資金を出し合い、一株800円以上、総額数億円で買い戻した[4]。
1953年4月、三菱地所は陽和不動産・開東不動産の2社を吸収合併した。資本金は1億7,200万円となり、営業用不動産は土地6万7,000坪余、建物69棟延9万8,525坪となった。会社銀行八十年史は、この合併を経営合理化の面のみではなく、オフィスセンターの整備充実という公共性の面からも大きなプラスであったと記している。合併の直後に有償2無償1の抱き合わせで4倍増資を行い、同年8月に資本金は6億8,800万円となった[5][6]。
結果
一体の所有者に戻った丸ノ内
合併の前後で会社の地力は上がっていた。1952年の朝鮮戦争特需による景気もあって大幅な増収増益となり、この安定を機に三菱地所は丸の内での統一された街づくりへ向かった。1953年の合併で規模は営業用土地・建物ともに広がり、名実ともに日本最大の不動産会社となった。1951年以降に着手していた東京ビル・永楽ビル・新丸ノ内ビルなどの新築も、合併後の1955年3月までに合計約5万坪が順次竣工した[7]。
再統合は後の経営者にとっても沿革の節目であった。中田乙一氏は1969年の講演で、戦後は幾多の変遷を経て、1953年にそれまで分割されていた陽和不動産と開東不動産を合併し、資本金は1億7,200万円になったと語っている。丸ノ内を1社で持つ体制に戻って6年後の1959年7月、三菱地所は丸ノ内総合改造計画を策定し、街区ごとの建て替えに入った[8][9]。
- 私の履歴書 経済人20「野田岩次郎」(日本経済新聞社, 1986年)
- 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社, 1980年)
- 会社銀行八十年史 第2篇日本会社史「三菱地所」(1955年)
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995年)「三菱地所」
- 証券アナリストジャーナル 1969年 第7巻第12号「三菱地所の現状と将来」(中田乙一氏講演)
- 三菱地所 有価証券報告書【沿革】