兼松・江商合併と「兼松江商」の発足

東京銀行仲介の救済合併は、繊維一本足の商社をどう総合商社に変えたか

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時期 1967年4月
意思決定者 兼松・江商両社取締役会 仲介:東京銀行
論点 事業構成の多角化と資本市場アクセス
概要
1967年4月、経営危機に陥った江商を、主取引銀行の東京銀行仲介のもとで兼松が合併し、「兼松江商株式会社」が発足した経営判断。繊維単一品種構造からの脱却と、東京証券取引所第一部上場という2つの課題を合併という一手で同時に解いた。
背景
兼松は従業員持株制度の名残りで株式の外部流通を欠き、東京第一部への上場基準を満たせずにいた。同じ繊維商社の江商もまた、戦後の多角化に手間取り経営の行き詰まりが表面化していた。
内容
東京銀行の仲介で兼松を存続会社、江商を消滅会社とする合併(比率1:5)が成立し、機械・鉄鋼・食料・化学品の事業を取り込んで非繊維部門の拡充を進めた。
含意
合併から6年後の1973年、株式数・株主分布の基準を満たして東証一部上場を果たし、総合商社化が資本市場側にも認知された。取り込んだ複線の事業構成は、後年の専門商社化を支える土台にもなった。
筆者の見解

資本構成の壁を、合併という一手で解いた判断

この合併の核心は、単なる救済にとどまらず、資本市場アクセスの壁そのものを取り払った点にある。従業員持株制度が長く続いた兼松は、規模で並ぶ総合商社に伍していながら、株式の外部流通を欠くという構造的な理由で東京第一部への上場を果たせずにいた。江商との合併は、経営危機に陥った同業を救う形をとりながら、実質的には兼松自身が抱えていた資本構成の閉鎖性を解く手段になったとみることができる。

合併で取り込んだ機械・鉄鋼・食料・化学品という複線の事業構成は、その後の非繊維拡充を経て、1999年の構造改革で「総合商社」の看板を自ら下ろした後も、専門商社として生き残る土台になった。銀行仲介という受け身の形で始まった合併が、30年余りを経た危機のなかで会社の骨格を支える基盤へと転じた点に、この決断の射程の長さがうかがえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

「羊毛の兼松、棉花の江商」——2つの源流

兼松は明治22年8月、兼松房治郎氏が神戸で「豪州貿易兼松房治郎商店」を創業したことに始まり、1973年時点で創業84年を数えていた。大正7年に株式会社兼松商店へ改組した後も、羊毛を中心に扱う繊維商社としての性格を長く保った。同じころ、明治24年には北川与平氏が輸入綿糸の取引商として「北川商店」を開業し、これが後の江商株式会社の母体となった。兼松の「羊毛」、江商の「棉花」という呼び名が示すとおり、両社はともに特定の繊維品目を主力とする専業商社として並び立っていた[1][2]

江商の起源については記述が資料によって割れる。兼松の有価証券報告書沿革は北川商店の開業地を大阪と記すが、合併6年後の1973年に兼松江商社長・町田業太氏本人が証券アナリスト協会で語った回顧では横浜としている。いずれにせよ江商は戦後、多角化と海外取引拡大を目指したものの収益化が遅れ、1960年代半ばには経営の行き詰まりが表面化していた[3][4]

従業員持株制度の限界と資本市場アクセスの壁

兼松房治郎商店は、大正2年に房治郎氏が没した際、その遺志により持分が従業員へ譲り渡され、合資会社組織となった。大正7年に株式会社兼松商店へ改組してからも完全な従業員持株制度が続き、昭和36年まで役員・従業員以外の手に株式が渡ることはなかった。町田業太氏が入社した昭和7年ごろには、兼松奨励会という匿名組合が株式の過半数を保有し、退職時に株を買い取って新入社員へ循環させる仕組みで、従業員優遇の色合いが濃い組織であった[5][6]

戦後の激しいインフレでこの持株組織は行き詰まり、朝鮮動乱後の不況では、貿易業界で有利な地位にあった兼松の信用そのものが裏目に出て大きな損失を被った。この結果、昭和36年(1961年)に大阪証券取引所第二部へ上場し、38年(1963年)に第一部指定を受けたが、株式数や株主分布の事情から悲願の東京証券取引所第一部上場は果たせずにいた。総合商社10社に数えられながら、資本市場での扱いは見劣りする状態が続いていた[7][8]

決断

東京銀行仲介による吸収合併、「兼松江商」発足

1967年4月、両社の主取引銀行であった東京銀行の仲介により、兼松を存続会社、江商を消滅会社とする合併が成立し、商号を「兼松江商株式会社(Kanematsu-Gosho LTD.)」に改めた。合併比率は1対5とされ、新資本金は28億円となった。株式数・株主分布の制約で東京証券取引所第一部への上場基準を満たせずにいた兼松にとって、江商を迎え入れることは、規模と株式流通の両面で長年のハンディを解消する機会でもあった[9][10]

合併により、江商が持つ機械・鉄鋼・食料・化学品の事業群を取り込み、繊維単一品種の構造から多角型商社へと性格を転換した。合併から2カ月後の1967年6月には黒田精工からファインクロダサービスの経営権を取得し、商号を兼松江商工作機械販売株式会社(現 兼松ケージーケイ)に改めて機械販売の足場を作った。翌1968年7月には兼松電子サービス株式会社(現 兼松エレクトロニクス株式会社)を設立し、後年の電子・デバイス事業の源流となる拠点を築いた[11]

非繊維部門拡充による構造転換の実行

兼松は昔から「羊毛」、江商は「棉花」と呼ばれたとおり、両社とも繊維を主力とする商社であった。1973年に兼松江商社長を務めていた町田業太氏は、合併当時は繊維部門が全体の50%にも達していたと振り返り、これは重化学工業部門が7割を占める当時の日本の産業構造にそぐわないとして、非繊維部門の拡充・強化を経営の重点課題に据えたと説明した。3年ごとの長期計画で毎期目標を設定し、達成率は95%に上ったという[12][13]

実際の事業展開でも非繊維部門への布石が続いた。1970年12月には鉄鋼販売子会社の兼松江商鉄鋼販売株式会社(現 兼松トレーディング株式会社)を設立し、あわせて東京支社を本社とする体制へ移行した。1973年11月時点の講演で町田社長が示した部門別構成は、繊維29%・食糧14%・鉄鋼14%・機械電機13%・木材8%などとなっており、合併当時5割を占めていた繊維の比重は、この時点で3割を切るまで縮小していた[14][15]

結果

東証一部上場「悲願」達成と総合商社化の完成

1973年4月、兼松江商は東京・名古屋両証券取引所第一部に上場した。株式数や株主分布の基準を満たせず長年見送られてきた東京第一部上場は、江商との合併を経てようやく基準に合致し実現した。町田社長は総合商社でありながら東京一部に上場できなかった経緯を「証券界になじみの薄い事実」と自ら語りつつ、従来のハンディが取り除かれ名実ともに一人前になったことを非常に喜んでいると述べた[16]

資本金も合併後の拡充を続けた。1973年3月末までわずか56億円で総合商社10社中最下位だった資本金は、同年4月の時価発行で66億円、9月末の1割無償増資で72億6,000万円へ積み上がった。1973年9月期の決算は、当初計画の売上高7,500億円を大きく超える8,000億円台に達し、増配も実施した。1990年1月には合併から23年を経て商号を「兼松」へ復号し、機械・電子・食料・繊維・エネルギーを束ねる総合商社としての多角化はこの時点でほぼ完成した[17][18][19]

出典・参考
  • 兼松 有価証券報告書【沿革】
  • 兼松株式会社 公式沿革「兼松の歩み」
  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第11号「兼松江商」