三菱地所米ロックフェラーグループへの資本参加と、5年後のロックフェラーセンター投資事業からの撤退

「向こうのノウハウを勉強する」という買収理由は、その後の5年にどこまで耐えたか

時期 1990年4月
意思決定者(推定) 高木丈太郎 社長
論点 対米不動産投資と、再開発ノウハウの取得
概要
1989年10月に投資を始め、1990年4月に三菱地所はニューヨークのロックフェラーセンターを持つ米ロックフェラーグループ社へ資本参加した。投資額は約2,200億円、保有比率は最終的に80%となった。1995年5月に子会社2社が連邦破産法の適用を申請し、同年9月に三菱地所はロックフェラーセンター12棟のオフィスビルの運営から撤退した。
背景
三菱地所は1972年4月の三菱地所ニューヨーク社設立以来、現地のパートナーと組んで地面を掘るところから始める事業を重ね、単独でビルを買うことは避けてきた。ロックフェラー側との話は、ロサンゼルスで共同でビルを建てたエアシャー社が1989年2月に持ち込んだもので、7月には全面的な提携の話へ広がった。
内容
高木丈太郎社長は、従来のロックフェラーの路線を変えることはなく、むしろ向こうのノウハウを勉強して丸の内再開発などに役立てたいと説明した。株式の過半を握っても配当収入だけでプラスになる商売ではないとして、当座の収益ではなくノウハウの勉強になると述べ、決断は個人ではなく全社的なものだとした。
含意
1994年の契約更改で1スクエアフィート当たり年60〜70ドルへ倍増すると見込んだ賃料は30〜40ドルにとどまり、空室率20%の市況が続いた。1995年9月の撤退で約400億円の債務免除益と1,000億円程度の固定資産除却損が生じ、1996年3月期の連結決算は989億円の最終赤字となった。ロックフェラーグループ社自体は連結子会社として残った。
筆者の見解

収益で正当化しなかった買収の重さ

高木丈太郎社長が買収の理由に据えたのは配当や賃料ではなく、ロックフェラーセンターの地下街のつなぎ方や地区内のLAN網といった再開発のノウハウであった。株式の51%を握っても配当収入だけでプラスになる商売ではないと自ら述べており、収益で正当化しない投資であることは初めから明示されていた。それでも投資額は約2,200億円に達し、5年後に手放した所有権の簿価は約9億ドルにのぼる。学習という理由づけが、どの規模までなら許されるのかを問う買収であったとみることができる。

ただ、外れたのは説明の側ではなく数字の側であった。1994年の契約更改で1スクエアフィート当たり60〜70ドルへ倍増すると見込んだ賃料は30〜40ドルにとどまり、空室率20%の市況が続いた。三菱地所は関係のまったくない機関に調べさせ、石橋をたたいたと語っていたが、たたいたのは相手の素性であって、賃料の見通しではなかったのかもしれない。撤退後もロックフェラーグループ社は手元に残り、勉強の対象とされた丸の内の建て替えは1999年に着工している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

単独では乗り込まなかった対米投資

三菱地所の海外事業は1972年4月の三菱地所ニューヨーク社の設立に始まる。1985年9月にはロンドンのシティで歴史的な建物アトラスハウスを取得し、1986年3月に現地法人メックユーケー社を設立した。米国では1971年にハワイ島のリゾートホテル建設を地元資本と始め、翌1972年からモルガン系企業と組んでカリフォルニアなど全米で住宅やリゾートの開発を進めていた[1][2]

高木丈太郎社長は買収の直後、三井不動産などに比べて海外進出が遅く焦りがあったのではないかという問いに、投資額では他社に負けているかもしれないと認めつつ、15年も前から米国で事業をしてきたと答えた。いずれも現地の信頼できるパートナーと組んで地面を掘るところから始める事業ばかりで、単独で乗り込んでビルを買収することはやらなかった、というのが高木氏の説明であった[3]

持ち込まれた話

ロックフェラーの案件は自分で探したものではなかった。ロサンゼルスで共同でビルを建てたヒューストンのエアシャー社が1989年2月、ロックフェラーが共同開発のパートナーを探しているので組んでみたらどうかと持ち込んだ。共同ビル開発の話が7月ごろには全面的な提携の話へ広がり、10月下旬から進み方が非常に速くなった。高木丈太郎氏は、発表はできれば翌年に延ばしたかったと語っている[4]

もっとも、出資を求められた日本企業は三菱地所だけではなかった。ロックフェラー側の出資要請に対し、三井不動産など業界他社はみなそっぽを向いたと後に伝えられている。ロックフェラーグループ社は非上場で経営内容が分からず、売上高も利益も数字が公表されない相手であった。三菱地所は関係のまったくない機関を選んで調査に当たらせ、投資銀行ではなく銀行や調査機関に依頼したと高木丈太郎氏は述べている[5][6]

決断

過半の取得と「勉強」という説明

投資は1989年10月に始まり、1990年4月に三菱地所は米国ロックフェラーグループ社へ資本参加した。当初は株式の51%を握る形で説明され、保有比率は最終的に80%となった。投資額は約2,200億円にのぼり、ニューヨークのロックフェラーセンター12棟のオフィスビルを持つ会社が三菱地所の連結子会社に入った[7][8]

高木丈太郎社長が買収の狙いに挙げたのは、収益ではなく学習であった。従来のロックフェラーの路線を変えることはなく、むしろ向こうのノウハウを勉強して丸の内再開発などに役立てたいと語り、株式の51%を握っても配当収入だけでプラスになる商売ではないとして、当座は儲けるのではなくノウハウの勉強になると述べた。ロックフェラーセンターの各ビルの地下街のつなぎ方や、地区内に張り巡らせたLAN網が参考になるという説明であった[9][10]

石橋をたたく会社の大型案件

三菱地所は石橋をたたいても渡らないと言われる会社であった。高木丈太郎氏はその評に触れ、渡らないわけではないが橋があったらたたいてみるのは当然だとして、乗ってみてから大丈夫だったというのでは困ると語っている。決断の形については、個人会社ではないので自分が決断したというより全社的に決断したと説明し、三菱グループの社外役員3社にも話を通したと述べた[11]

発表の時期は日米の投資摩擦が強まる最中で、直前にはソニーのコロンビア・ピクチャーズ買収もあった。米国の威信やシンボルを買ったという反発に対し、高木丈太郎氏は政府ではないのでそこまで言う立場にないとしながら、感情論としての批判はないとは言えないと述べた。名物のクリスマスツリーが見られなくなることも、スケートができなくなることもないとも語っている[12]

結果

5年で崩れた賃料の前提

崩れた前提は賃料であった。1994年に約半数のテナントが契約を更改する予定で、賃貸料は1スクエアフィート当たり年間60〜70ドルへ倍増すると見込んでいたが、実際には30〜40ドルにしかならなかった。米国では空室率20%が当たり前の市況が続き、ロックフェラーグループ社は1993年度から赤字に転落したとみられる状態になった[13]

資金の追加も続いた。ロックフェラーグループ社は1995年3月までの累計で6億2000万ドルの資金を補填し、2000年までにさらに4億ドルの追加支援が必要な状況にあった。1995年5月、ロックフェラーセンターの土地・建物を担保に約13億ドルを借り入れていた子会社2社が、米破産裁判所に連邦破産法11条の適用を申請した[14]

撤退の中身と、残ったもの

1995年9月12日、三菱地所はロックフェラーセンター12棟のオフィスビルの運営から撤退すると発表した。ロックフェラーセンターの所有権を譲渡し、簿価約13億ドルの債権を消滅させることで基本的に合意した内容で、1995年度の連結決算では約400億円の債務免除益と1,000億円程度の固定資産除却損が生じる見込みとされた。福澤武社長は会見で、全く予想もつかなかった深刻かつ長い不動産不況に見舞われたと述べ、責任問題の次元ではないとも語っている[15][16]

損失は決算に表れた。1996年3月期の連結決算は989億円の最終赤字で、1992年3月期以降の連結開示のなかで赤字となったのは、この期と2002年3月期の2期だけである。一方でロックフェラーグループ社そのものは連結子会社として残り、2020年1月にメックグループインターナショナル社へ改称された。高木丈太郎氏が勉強の対象に挙げた丸の内再開発は、1999年4月に着工している[17][18]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1989年12月4日号「編集長インタビュー 高木丈太郎氏(三菱地所社長)『石橋たたいた、ロックフェラー買収』」
  • 日経ビジネス 1995年9月25日号「投資判断の甘さ露呈した三菱地所 ロックフェラー運営撤退、連結の含み損どう処理」
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995年)「三菱地所」
  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
  • 三菱地所 有価証券報告書(1996年3月期・連結)

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