レナウン英国アクアスキュータム社の取得と、国内ライセンス権を欠いたままの買収

デザイナーを育てるか、格のあるブランドを買うか——4日間で決めた海外買収

時期 1990年4月
意思決定者(推定) 金田康男(社長)・松坂萬丈 副社長
論点 ブランド調達の方法
概要
1990年4月、レナウンが英国の高級紳士服ブランド「アクアスキュータム」を展開するアクアスキュータム社の買収を発表した経営判断。交渉を仕掛けたのは後に社長となる松坂萬丈氏で、単身ロンドンに入り、金曜に同意を取り付けて週明け月曜に株式公開買い付けを成立させた。買収額は報道により180億円から230億円まで幅がある。
背景
1980年代にDCブランドと海外の著名ブランドが台頭し、市場はデザイナーの感性で売る側へ移っていた。レナウンは販路を押さえる売り方で伸びた会社で、名のあるデザイナーを使いこなす人材を自前で育ててこなかった。営業利益は1981年度の107億円をピークに落ち、1989年度は25億円まで下がっていた。
内容
買収話が持ち込まれたのは発表のわずか1か月前で、交渉から成立までは4日間だった。ただし日本での生産・販売ライセンス権は1994年まで三菱商事が保有しており、国内でライセンス生産していた20社が反発した。買った直後の日本市場では、自社ブランドとして自由に売れない状態が続いた。
含意
自前で育てられなかった格を外から買う判断であり、金田康男社長は「最終的にはレナウンの主力ブランドになるだろう」と述べた。1995年には店頭100億円規模のブランドに育つが、2008年に売却を決め、2009年に手放す。19年後に売られたことで、この買収は結果として一時的な調達に終わった。
筆者の見解

筆者見解

自前でデザイナーを育ててこなかった会社が、格のあるブランドを外から買う。1990年の判断は、当時の選択肢として理に適っていた。1985年に28ブランドを一挙投入して成果が出ず、自社で作る道の答えは既に出ていたからである。踏み切れたのは、営業外収益で経常利益を作れる財務の余裕が残っていたことと、1988年に尾上清氏を失って社内の重石が外れたことが重なったためだとみられる。問題は、決着までの4日間で日本市場の権利関係をどこまで確かめられたかにある。

買った格は、ライセンス権が戻った後に100億円規模まで育った。その意味でこの買収は失敗ではない。ただし2006年からの3年でさらに60億円を投じたうえで、2008年に売却が決まる。育てた資産を、本体の資金繰りのために手放す順序になった。ブランドを買うことは、それを支える本業の体力を前提にする。前提が崩れれば、育ったブランドほど先に現金化の対象になる——19年をかけた往復が示すのは、この関係だといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

売り場で勝つ会社が、デザイナーの市場に置かれた

レナウンは商品を作る力よりも、商品を置く売り場を押さえる力で伸びた会社であった。1959年のレナウン・チェーン・ストア計画で町の洋品屋を組織し、量販店にも商売のやり方を伝えながら取引に入った。その時代について、昔を知る元社員は「70年代までは、デザイナーは誰でもよく、きちっと販路を作って品質のよい商品を供給することこそ重要だった」と証言している。1980年代に入り、DCブランドと海外の著名ブランドが台頭すると、この前提が崩れた[1]

数字にも表れていた。営業利益は1981年度の107億円をピークに下がり続け、1989年度は25億円である。同じ年、オンワード樫山は174億円、三陽商会は103億円を計上した。金田康男社長は「82年度以降は売り上げの伸びが鈍化、販売費や管理費の伸びを下回る傾向が続いたことが響いた」と説明している。1985年には社長の号令で28もの新ブランドを一挙に投入したが、成果は出なかった。自前で作る側の答えは、この時点で出ていた[2][3]

助っ人ブランドという先行策

買収の前に、外から借りる手は試されていた。1989年に「トクコ・プルミエヴォル」「ニノ・セルッティ」、1990年に「ヘンリー・コットンズ」を導入している。社内でこれらは助っ人ブランドと呼ばれた。自社で育てる時間を待たず、外部の名前で売り場を埋める発想であり、アクアスキュータムはその延長線上に、しかも借りるのではなく所有する形で置かれた。1988年に実質的創業者の尾上清氏が世を去ったことも、方針を変える契機になったと当時は見られている[4]

重衣料に自社で出られない事情もあった。紳士服は1970年設立のダーバン、婦人服は1962年設立のレナウンルックへ分社しており、本体が同じ土俵に立てば身内と競合する。外から格のあるブランドを持ち込めば、この制約に触れずに百貨店の売り場を取れる。買収は、組織の形が生んだ回り道への答えでもあった[5]

決断

4日間で決めた買収

1990年4月、レナウンはアクアスキュータム社の買収を発表した。仕掛けたのは当時副社長の松坂萬丈氏である。単身ロンドンに乗り込み、金曜に同意を取り付け、週明け月曜に株式公開買い付けを成立させた。交渉から決着まで4日間であった。買収話が持ち込まれたのは発表のわずか1か月前で、社内で長く検討を重ねた案件ではない。翌1991年3月に社長へ就く人物が、就任前にこの案件を成立させている[6][7]

買収額は資料によって開きがある。当事者の証言に基づく1991年の報道は180億円、1998年の報道は230億円、2008年の報道は約200億円と記す。いずれにせよ、営業利益が25億円まで落ちた会社が、その数年分にあたる額を一件のブランドに投じた。金田康男社長はこのブランドについて「最終的にはレナウンの主力ブランドになるだろう」と述べている[8][9]

買っても日本で売れない状態

買収には、日本市場に関する制約が付いていた。アクアスキュータムの日本での生産・販売ライセンス権は1994年まで三菱商事が保有しており、その下で国内20社がライセンス生産をしていた。買い手が変わったことにその20社は反発する。世界の商標を手に入れながら、最も売りたい自国の市場では4年間、自社ブランドとして自由に動かせない状態が続いた[10]

4日間で決めた案件に、この条件をどこまで織り込めたかは分からない。ただ、買収の目的が国内百貨店での格の獲得にあったとすれば、その効果は最初の数年間、契約によって止められていた。1995年の報道が「一時は海外企業買収の失敗例とまで言われた」と振り返るのは、この期間の評価を指している[11]

結果

育ってから、手放すまで

ライセンス権が戻った後、アクアスキュータムは伸びた。1995年には店頭で100億円規模のブランドに育ち、同じ時期に発売した「J・クルー」も3年目で店頭売上高100億円を超えている。買収の狙いは、時間はかかったものの果たされた。2006年からの3年間には、商品企画の刷新と米国展開の再挑戦に約60億円を投じ、さらに強化を図っている。買った格を自社の柱に育てる方向は、この時点まで維持されていた[12][13]

2008年10月、レナウンはアクアスキュータムの売却を決めた。中村実社長は「160年近い歴史を誇るすばらしいブランドで今後の可能性も大いにある。個人的にも非常に愛着があるが、残念ながら売却を決断せざるをえなかった」と語っている。売却は2009年9月に実行され、レナウンの連結から外れた。海外での赤字が続いていたことが理由であり、買ってから19年後に、格は再び外へ出た[14][15]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1990年9月24日号「リストラ戦略 レナウン 助っ人ブランドで低迷打開、事業本部が指揮」
  • 日経ビジネス 1991年6月17日号「新社長登場 松坂萬丈氏[レナウン]」
  • 日経ビジネス 1995年2月13日号「ケーススタディー レナウン、営業力低下で苦境」
  • 週刊東洋経済 1998年9月26日号「企業危機のレナウン リーダー不在の病転げ落ち、再生に苦しむ「イエイエ娘」」
  • 週刊東洋経済 2008年11月1日号「名門レナウンの窮地 繰り返す大リストラ」
  • 週刊東洋経済 2010年6月19日号「緊急インタビュー レナウン社長 北畑稔 会社も自分も追い込んだ 中国との提携で一変させる」

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