レナウン外様の会長への全権委任と、役員全員による辞職届の提出
「私は破産管財人のつもりでこの会社に来た」——8期連続経常赤字の会社が誰に何を預けたか
- 概要
- 1998年、レナウンが本体では外様にあたる水野史郎氏を顧問として迎え、4月に会長へ据えた経営判断。水野会長は「私は破産管財人のつもりでこの会社に来た」と宣言し、豊田圭二社長以下の役員全員が辞職届を書いて預けた。以後、会長が事実上の全権を握って再建にあたる体制へ移った。
- 背景
- 1991年12月期以降、経常赤字は8期続いていた。1997年12月には社債の償還で資金繰りに窮しているとの噂が流れ、株価は初めて額面を割って一時35円まで下げる。1998年1月期の売上高は1833億円で、同年2月期に1846億円を計上したオンワード樫山に抜かれ、アパレル首位の座を初めて明け渡した。
- 内容
- 水野会長は役員を20人から14人に減らし、社長を副社長待遇へ降格させ、役員全員の報酬を削った。3月には約3100人の正社員を対象に3日間で希望退職を募り、500人強が5月末で去る。ブランドは60から40前後へ、量販店向けの自主企画品と肌着・靴下の約200ブランドも順次減らした。
- 含意
- 経営責任を問う手続きと再建の実務を、社外に近い一人に集約した判断である。水野会長は尾上清氏の遺訓を引きながら、利益を放置して財テクに走ったことが危機を招いたと総括した。以後の資産売却は住友銀行から入った小野寺満芳副社長が担い、2000年1月期に10期ぶりの経常黒字へつながる。
筆者見解
「私は破産管財人のつもりでこの会社に来た」。この一言で役員全員が辞職届を出した事実は、当時の社内に決着をつける力が残っていなかったことを示している。1995年に松坂萬丈社長が退任せず副社長へ降格したとき、責任の取り方をめぐって批判が出た。生え抜きの序列では進退を決められない状態が3年続き、外様の68歳に預けるところまで来た。水野史郎会長が本体に長くいなかったからこそ、役員の削減も社長の降格も情実なしに並べられたのだとみられる。
ただし、この体制が直したのは勘定と人員であって、売る力ではない。水野会長自身が、尾上清氏の「やみくもに売上高を伸ばそうとするのではなく、利益がきちんと取れる企業にならなければならない」という教えを引き、それが忘れられて財テクに走ったことが危機を招いたと総括している。教えを思い出す形の再建は、失ったものを取り戻す作業までは含まない。2000年1月期の経常黒字が有価証券売却益に支えられていた事実が、その限界を示しているといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
8期続いた経常赤字と、額面を割った株価
1991年12月期に初めて営業赤字へ転落してから、レナウンの経常赤字は8期続いた。1994年11月には創業以来初の希望退職を募り、400人の枠に601人が応じている。締切の1週間以上前に定員が埋まった。1995年1月には松坂萬丈社長が退任せず副社長へ降格し、豊田圭二氏が社長に就く。責任の取り方をめぐっては「本来、役員が経営責任を取るには退任しかない」との批判も出た[1][2]。
1997年12月、レナウンが社債の償還で資金繰りに困っているという噂が流れた。株価は初めて額面を割り、一時35円まで下げる。百貨店・取引銀行・商社の幹部が動いた。彼らが経営参加を強く求めた相手が、水野史郎氏である。1998年1月期の売上高は前年度比4.5%減の1833億円で、同年2月期に1846億円を計上したオンワード樫山に抜かれた。アパレル首位の座を明け渡したのは、このときが初めてであった[3][4]。
どんぶり勘定と押し込み
赤字の作られ方は、取引と勘定の両面にあった。商品別の経費分析がなく、経費は売上に比例して配分する扱いだった。営業員の実績は出荷量で決まるため、期末には売り場へ商品を押し込む。納品伝票と同時に返品伝票を書く例もあった。東京支店の赤字は本社経費でカバーされ、どこで損が出ているかが見えない構造になっていた[5]。
働き方も市場とずれていた。土曜出社を決めたのは1998年の1年前で、それまで週休2日を通していた。1995年の取材では、伊勢丹が日曜の応援を頼んでも「休日出勤すると労組がうるさいから」と断られた例が挙がっている。1991年に約420億円を投じて建てた習志野の物流センターも、稼ぎ時の土日祝日は稼働しなかった。売り場が動く日に会社が止まる状態が、長く放置されていた[6][7]。
決断
外様を呼ぶ
水野史郎氏は1954年に前身の佐々木営業部へ入社した人物である。ただし1972年からダーバンへ取締役大阪支店長として出向し、1986年にはレリアン社長を務めた。経歴の大半をグループ会社で過ごしており、レナウン本体では外様にあたる。1998年2月1日付で顧問に就き、4月28日に会長へ就任した。当時68歳である。生え抜きの序列から選ばなかったところに、この人事の性格が表れている[8]。
着任にあたって水野会長が述べたのは、再建計画の中身ではなく立場の宣言だった。「私は破産管財人のつもりでこの会社に来た。経営再建に向けて、全面的に協力してほしい」。これを受けて豊田圭二社長以下の役員全員が辞職届を書いて預け、水野会長が事実上の経営の全権を掌握する。経営陣の進退を会長の判断に委ねる形であり、責任の所在を一点にまとめる手続きでもあった[9]。
削る対象を並べる
手を付けた順序は、まず自分たちからであった。役員は20人から14人に減り、社長は副社長待遇へ降格し、役員全員の報酬が削られる。管理職の年間休日は115日から103日になった。そのうえで3月23日から3日間、約3100人の正社員を対象に希望退職を募る。500人強が5月31日付で会社を去った。1994年に続く2度目の募集である。営業員も約1000人から3割前後を減らす計画だった[10]。
商品の側も絞った。ナショナルブランドは60から40前後へ、量販店向けの自主企画品と肌着・靴下の約200ブランドも順次減らす。量販店向けの売上高は170億円から約90億円まで落とす計画で、売上を捨てて採算を取る方針が明確だった。是正策として東京支店・大阪支店など5つの販売部門をカンパニー制に分け、それぞれに利益責任を負わせる。最も赤字幅の大きい東京支店の責任者は、降格した豊田社長が兼務した[11]。
結果
資産を売り切り、10期ぶりの黒字へ
資産の側を担ったのは、住友銀行から乗り込んだ小野寺満芳副社長である。メインバンクの住友銀行や東京三菱の株を含め、保有する銀行株をすべて売却した。百貨店など取引先との持ち合いも解消し、本社ビルは95億円で住宅・都市整備公団に売る。約1000億円あった有利子負債は1期で半減させる方針だった。1999年7月中間期は売上高が23%減ったものの、有価証券売却益57億円で経常利益8億円を確保している[12]。
通期の2000年1月期は経常利益43億円を見込み、経常黒字は1990年12月期以来10期ぶりとなる見通しになった。人員は希望退職を含め約700名を減らし、残る1800名にはレナウン・アカデミーで再教育を施している。2001年度にも400名の削減と子供服・ベビー服からの撤退を実施した。営業利益が浮上したのは2002年度で、最初の営業赤字から12年が経っていた[13][14]。
- 日経ビジネス 1995年2月13日号「ケーススタディー レナウン、営業力低下で苦境」
- 日経ビジネス 1998年4月20日号「ケーススタディー レナウン、最後の賭け」
- 週刊東洋経済 1998年9月26日号「企業危機のレナウン リーダー不在の病転げ落ち、再生に苦しむ「イエイエ娘」」
- 週刊東洋経済 1999年10月2日号「裸一貫10年ぶり黒字へ 資産すべて売り払い名門レナウン裸の再出発」
- 週刊東洋経済 2008年11月1日号「名門レナウンの窮地 繰り返す大リストラ」