石油ショック後の経営危機と川崎体制の終焉

副業への進出の遅れが石油危機と重なった京成電鉄は、21年に及んだワンマン体制をどう終えたか

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時期 1979年6月
意思決定者 川崎千春・主力金融機関9行 京成電鉄 社長(のち会長)
論点 経営危機からの再建と経営陣刷新
概要
1977年前後、京成電鉄は本業の鉄道・バス部門の収益力低下に石油危機後の副業不振が重なって経営危機に陥った。主力金融機関9行との協議のもとで人員削減と経営陣刷新を進め、1979年6月、川崎千春氏は社長から会長へ退き佐藤光夫氏が新社長に就いて再建計画を担った。
背景
国鉄・営団地下鉄東西線との競合で本業の収益力が落ち込むなか、石油危機前後の土地投資による金利負担、百貨店子会社への助成、150億円を投じた成田新空港線の未稼働が重なり、1977年時点で京成の経営内容はある金融筋から「全身衰弱」と評された。
内容
京成は主力金融機関9行と協議し、1978年6月末に日本興業銀行から村田倉夫氏を副社長に迎えて再建計画を練った。1979年3月には334人の希望退職を含む人員合理化案を労組に示し役員報酬も削減、同年6月、川崎千春氏は社長から代表権のない会長へ退き佐藤光夫氏が新社長に就任、再建5カ年計画を始めた。
含意
空港線は1978年5月にようやく開通したが空港ビルから800メートル離れた地点にしか駅を設けられず、川崎氏は会長となった1979年でもなお乗り入れの実現を陳情していた。経常損益は1985年3月期まで赤字が続き、副業依存からの立て直しには長い年月を要した。
筆者の見解

だれの経営で立て直すか、という問い

この判断の核心は、石油危機という外部要因への対応にとどまらず、21年におよぶ自らの経営そのものへ川崎千春氏が向き合った点にあるとみることができる。副業への進出は、国鉄並走という構造的な不利を補う手段として選ばれたものであり、地下鉄乗り入れやオリエンタルランド設立以来、京成の成長を支えてきた。その同じ副業が、出発の遅れゆえに石油危機の打撃を最も強く受けたのは皮肉であった。川崎氏が20年も社長をやるのはおかしいと自ら語った点に、経営者としての率直さがうかがえる。

もっとも、この危機からの回復は速いものではなかった。空港線は開通後も空港ビルへの乗り入れが実現せず、経常損益は1985年3月期まで赤字が続いた。副業を武器にしてきた私鉄経営が、その副業ゆえに大きな打撃を受け、立て直しに長い年月を要した経緯は、本業だけでは立ち行かない構造と、副業に頼ることの代償という、私鉄経営に特有の緊張を映しているといえる。京成が空港アクセス輸送で改めて競争力を試されるのは、この10年余りのちのことである。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

副業への出遅れと石油危機の直撃

京成電鉄は、鉄道・バス事業を営むかたわら、1930年代からすでに不動産業を兼ね、1960年代以降は観光・流通へも兼業を広げていた。1958年11月に社長へ就いた川崎千春氏のもとで、この副業への傾斜はいっそう強まった。百貨店事業への進出は1972年秋であり、東急・小田急・京王など同業他社が10年ほどで相当の実績をあげたのに比べ、出発は遅れていた。1973年の石油危機は、進出から1年余りの京成百貨店を直撃し、上向いていた業績を急速に鈍らせた[1]

鉄道・バスという本業も、同じ時期に収益力を落としていた。国鉄との並行区間に加え、営団地下鉄東西線との競合、合理化の遅れが重なり、本業部門の収益は極端に低下した。石油危機の前後に進めた土地投資は支払い金利の負担を膨らませ、赤字が続く百貨店子会社への助成も経営を圧迫した。7.1キロメートルの区間に150億円を投じた成田新空港線も、1977年の時点でなお開業のめどが立たず未稼働のままであった[2]

「全身衰弱」と評された経営内容

こうした要因が重なった1977年、業界誌は京成電鉄を「傾城電鉄」と呼び、再建の必要に迫られた企業として取り上げた。本業もふるわず、多角化した流通部門も不振で、それまで苦境を埋めてきた不動産部門も、保有地のうち開発可能な市街化区域が8%にとどまるため分譲収入が1973年度以降頭打ちとなり、金利負担を補いきれなくなっていた。ある金融筋は当時の状況を「全身衰弱ですな」と述べた[3]

経営内容は数字にも表れていた。京成電鉄(単体)の経常損益は1975年度に赤字へ転じ、1977年度は93億6000万円、1978年度も102億円の経常損失を計上した。石油危機の直撃を受ける前の1973年度に25億円あった経常利益が、わずか数年で二桁億円規模の損失へ転落した計算になる。同誌がこの状態を「全身衰弱」と呼んだのは、この赤字が単年度の落ち込みではなく、本業・副業のいずれも崩れた複合的な危機であったことを裏づけていた[4][5]

決断

川崎千春氏によるオイルショック直接原因論と自己省察

1979年8月、会長となっていた川崎千春氏は日経ビジネスの取材に応じ、危機の直接の原因をみずから語った。経営危機に立ち至った一番の直接の原因はオイルショックであり、これによって不動産事業・百貨店事業が大きな影響を受けたと述べた。そのうえで、鉄道事業だけではなかなかやっていけないという点が問題だったと語り、私鉄経営が副業なしには成り立たない構造そのものが、石油危機によって表面化したと語った[6]

川崎氏は、自身が21年にわたり社長を務めてきた事実にも触れた。20年も社長をやってきたこと自体がおかしなことであり、ワンマン経営といわれる通りだと述べたうえで、最高責任者であるからには人材がいなければよそから引っ張ってでも充実させるべきだったと振り返った。危機の原因を石油危機という外部要因だけに帰さず、後継者や人材の登用を怠った自身の経営そのものに問題があったと認める発言であった[7]

銀行団との再建協議と経営陣刷新

再建は、主力金融機関9行との協議のもとで進んだ。1978年6月末には日本興業銀行から筆頭常務であった村田倉夫氏を副社長として迎え入れ、再建計画の策定にあたらせた。1979年3月には、初めての希望退職を含む334人の人員合理化案を労働組合に提示し、経営陣もみずからの賃金カットに踏み込んだ。長く増収増益を前提としてきた京成にとって、人員削減を伴う合理化は初めての経験であった[8]

1979年6月、川崎千春氏は経営悪化の責任を取って代表権のない会長へ退き、後任の社長には佐藤光夫氏が就いた。1958年11月の就任から21年に及んだ川崎体制はここで区切りを迎え、再建5カ年計画が動き出した。川崎氏は退任後の取材でも再建の方向を語り、鉄道・自動車部門を合理化して独立採算とし、不動産は金利負担の軽減のためにできるだけ処分し、百貨店事業も経営改善を進めて赤字を食い止めるという骨子を挙げた[9][10]

結果

なお解けない空港ビル乗り入れ

再建計画が動き出すなか、長年の懸案であった成田新空港線は1978年5月、新東京国際空港(成田空港)の開港にあわせてようやく開通し、空港特急「スカイライナー」の運行が始まった。川崎氏は1979年のインタビューで、この空港線が完成から供用開始まで5年半を待たされたと振り返り、その間の金利負担で建設費がほぼ2倍に膨らんだと明かした[11]

開通後も、空港ビルへの乗り入れという課題は残った。新幹線の地下駅計画が定まらないことを理由に空港公団が乗り入れを認めず、京成は空港ビルから800メートル離れた地点にしか駅を設けられなかった。旅客はバスで乗り継ぐほかなく、川崎氏は取材の時点でもなお、地下駅への乗り入れを実現するよう政府へ働きかけていると述べた[12]

9年に及んだ赤字と緩やかな回復

財務面での立て直しも一朝一夕には進まなかった。再建5カ年計画が動き出した1980年3月期の京成電鉄(単体)は、売上高729億円に対し経常損失80億円、当期純損失67億円を計上した。前期の経常損失102億円からは縮小したものの、人員合理化に伴う費用がかさみ、当期純損益はかえって前期の25億円の損失から拡大した[13]

経常損益はその後も好転せず、赤字は1985年3月期まで10年にわたって続いた。同期の当期純損益は155億円の黒字へ転じたものの、経常損益は10億円の損失にとどまっており、本業の収益力が石油危機以前の水準まで回復するには至っていなかった。石油危機直後に始まった副業依存からの立て直しは、単年度の合理化では終わらない長期の課題であった[14]

出典・参考
  • 1977年9月12日号掲載誌「京成電鉄・公共事業なら民営でも潰れない?」
  • 日経ビジネス 1979年8月13日号「副業立ち遅れ石油ショック 川崎千春・京成電鉄会長に『不利な競争などの不運』(上)」
  • 京成電鉄 会社年鑑・単体