屋号を佐々木営業部といい、メリヤスなどを扱った。社名になる『レナウン』は創業から20年後に決まった。1922年に英国皇太子が巡洋戦艦レナウン号で来日した折、乗組員の帽章[1]にあった金文字の『RENOWN』を見た佐々木氏が、その響きと字面を商品名に採ることを決める。翌1923年から商標として使い始めた。
会社はいちど消えている。1944年に佐々木営業部は商社の江商と合併し[2]、法人としての独立を失った。戦後の1947年、尾上清氏と本間良雄氏を中心に佐々木営業部が再発足する。尾上氏の父・尾上設蔵氏は創業期から佐々木八十八氏[3]とともに事業を興した人物で、二代にわたる関与だった。商号が商品名に追いついたのは、その先である。1955年に株式会社レナウン商事へ、1967[4]年に株式会社レナウンへ改める。1968年にはレナウン工業を吸収合併し、企画から生産、販売までを一つの会社に収めた。卸商から出発した会社が、自ら商品を企画して作る体制に組み替わったのがこの時期にあたる。
レナウンの強みは、商品そのものよりも売り場の押さえ方にあった。1956年に五つの販売会社を置いて全国の販売網を組み[5]、1959年にはレナウン・チェーン・ストア計画を始める。当時の衣料販売の主役は商店街の洋品屋であり、百貨店はまだ普通の消費者にとって商品を見に行く場所に近い。その洋品屋を全国規模で組織化した会社は他になく、レナウンは商品を並べる場所を先に確保した。
売り方の裏返しとして、この時期のレナウンはデザイナーの育成に力を入れていない。昔を知る元社員は{q1}と証言する。高度成長期の大量消費とこの手法は噛み合っていた。会社の形が整うのと、売り場が広がるのとが同時に進んだ。
1967年に流したカラーCM『イエイエ』は[6]、レナウンの名を衣料品の外へ広げた。この年は広告の世界でCM元年と呼ばれ、以後しばらく『イエイエ以後』が業界の合言葉になっている。百貨店でも量販店でも売り、最盛期にはどちらの売り場にも同じ傘マークが並ぶ。1970年にはアパレル業界で初めて商品企画室を設けており[7]、当時は『企画のレナウン』と呼ばれていた。テレビ広告の使い方の早さと、押さえた販路の広さが、この一つのブランドで重なった。
もっとも、この売り方は後年の常識とは食い違う。ブランドごとに扱える適正な量があるという発想も、当時はまだ一般的ではなかった。オンワード樫山の廣内武社長は後年、{q1}と語った。拡大だけを追った結果、消費者はやがて傘マークに飽きた。もっとも、売れている間は売り場を増やすことが最も確実な答えに見えており、この売り方を止める理由は社内になかった。
1970年代のレナウンは売上を伸ばし続けた。1977年度は売上高1516億円、経常利益79億円で[8]、経常利益は前期比33%増だった。売上が前期を下回って見えるのは子会社ダーバンの売上を分離したためで、同一の基準で比べれば11%増にあたる。1980年度には売上高2058億円、経常利益116[9]億円に届いた。10年前と比べて売上は5.7倍、経常利益は12倍である。自己資本比率も1974年12月期の19%から1980年度末の39%へ上げている。
拡大を支えたのは、全国に張った販売子会社だった。中京や北海道といった地域ごとに販社を置き、百貨店と全国展開の量販店を除く地場の量販店・専門店・洋品屋を担当させる。元幹部は『レナウンが一番儲かっていた時期、つまり量販店や専門店が日本の衣料販売を引っ張ったころは、販社が収益の牽引車だった』[引用元]と証言した。商品を企画する力よりも、商品を置く売り場を広く押さえる力で稼ぐ会社であり、1970年代の日本では衣料品を売る売り場そのものが最も速く広がっていた。ブランドの設計も具体的で、1970年設立のダーバンは『35歳、大学卒、東京のサラリーマン』[引用元][10]と客層を定め、レリアンは商品をドレス・スーツ・コートに絞った。
当時のレナウンは『非日本的楽しさの経営』と呼ばれた。本間良雄会長はその中身を『企業や仕事は個人が楽しい生活をするための手段に過ぎない』[引用元]と説明する。理想論ではなかった。尾上清理事長は『楽しさとは働く者にとって、つまるところペイの問題』[引用元]と言い切っている[11]。実装は報酬制度だった。夏冬の通常賞与に加え、期末に部門別の損益を対象とした特別賞与を出す。同じ課長クラスでも支給額は100万円から10万円、5[12]万円まで開いた。1976年度の労働生産性690万円・労働分配率64.8%は、全上場企業平均の639万円・52.2%を上回っている。
尾上清氏は1975年、一切の権限と責任を持たない理事長[13]という職を自ら設けて経営の第一線から退いた。大株主でもない。それでもこの人物が会社の性格を決めたと言われるのは、危機のたびに前へ出たからである。ダーバンの前身は設立当初に実質11億円の赤字を抱え、争議で赤旗が立った。尾上氏は組合幹部と直接向き合い、賃上げの凍結を条件に再建を引き受けている。稲川博通社長が1979年に掲げた『常議経営』も[14]、部や課、肩書きに関係なく議論するという同じ流儀の延長にある。
営業利益の頂点は1981年度の107億円で[15]、この数字はその後一度も更新されていない。1989年度の営業利益は25億円まで落ちた。同じ年、オンワード樫山は174億円、三陽商会は103億円である。差がついた原因を金田康男社長は『82年度以降は売り上げの伸びが鈍化、販売費や管理費の伸びを下回る傾向が続いたことが響いた』[引用元]と説明した。1980年代の日本のファッション市場ではDCブランドと海外の著名ブランドが台頭し、デザイナーの感性を前面に出した商品が主役に変わる。
レナウンが手を打たなかったわけではない。1982年6月には販売政策を転換し、量販店での全店画一的な企画[16]・販売をやめて店舗別・企業別の個別企画に切り替えている。出店規制の強化で量販店の新規出店が難しくなり、既存店の売上も伸び悩んでいたためで、放置すれば売上高が前年を割りかねない状況だった。1985年には稲川博通社長の号令で28もの新ブランド[17]を一挙に投入する。1988年に婦人服事業本部を置き、翌1989[18]年1月には全社を事業本部制へ移した。事業本部長に企画・生産・営業の権限をまとめ、東京と大阪に分かれていた営業も統合して決裁を速める狙いだった。
それでも経常利益は100億円前後を保っていた。営業利益の減少分を財テクで埋めていたからである。営業外収益は1985年12月期から毎年100億円前後[19]に達し、1990年12月期には148億円を計上した。稼ぐ場所が売り場から金融収支へ移っても、決算の見え方は変わらない。後年、社内はこれを誤りと総括している。『なまじ財テクで利益をひねり出せたことが、傷を深くした原因になっている』[引用元]。売れている数字が手元にある限り、売り方を変える理由は社内で共有されにくい。1988年に尾上清氏が世を去ったことも、方針を変える契機[20]になったと当時は見られていた。
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|---|---|---|---|---|
| 1902〜1969年大阪の卸商が巡洋戦艦の名を掲げ、洋品屋の店頭を組織するまで | 佐々木八十八氏が尾上設蔵氏とともに大阪で「佐々木営業部」を創業 | ★ | ||
| レナウン工業を設立 | ★ | |||
| 巡洋戦艦レナウン号にちなむ商標「レナウン」を決定 | ★ | |||
| 佐々木営業部が江商と合併 | ★ | |||
| 尾上清・本間良雄を中心に佐々木営業部が再発足 | ★ | |||
| 商号をレナウン商事に変更 | ★ | |||
| 五つの販売会社を置いて全国の販売網を組む | ★ | |||
| 「暮しの肌着」を町の洋品屋に置くレナウン・チェーン・ストア計画を開始 | ★ | |||
| 全国の小売店を組織化 | ★ | |||
| 百貨店向けの婦人服を扱うレナウンルックを設立 | ★ | |||
| 東京・大阪の証券取引所に株式を上場 | ★ | |||
| レナウンに商号変更 | ★ | |||
| カラーCM「イエイエ」を放映 | ★ | |||
| 「アーノルド・パーマー」を発売 | ★ | |||
| 1970〜1989年「楽しさの経営」で伸びた1970年代と、財テクで利益を作った1980年代 | アパレル業界で初めて商品企画室を設置 | ★ | ||
| レナウンニシキ(後のダーバン)を設立 | ★ | |||
| 尾上清氏が権限を持たない理事長に就任 | ★ | |||
| 売上高が1610億円に達する。1971年度の467億円から5年で3.4倍に拡大 | ★ | |||
| 稲川博通氏が社長に就任 | ★ | |||
| 営業利益107億円を計上。この水準は以後一度も更新されなかった | ★ | |||
| オンワード樫山が単独営業利益で逆転 | ★ | |||
| 稲川博通社長の「売り上げを伸ばせ」の号令で28の新ブランドを一挙に発売 | ★★ | |||
| 実質的創業者としてグループを率いた尾上清が死去 | ★ | |||
| 全社を事業本部制へ移行 | ★ | |||
| 1990〜2003年買った格と、破産管財人のつもりで来た会長——1990年代の失速と再建 | 英国アクアスキュータム社の取得と、国内ライセンス権を欠いたままの買収 1990年4月、レナウンが英国の高級紳士服ブランド『アクアスキュータム』を展開するアクアスキュータム社の買収を発表した経営判断。交渉を仕掛けたのは後に社長となる松坂萬丈氏で、単身ロンドンに入り、金曜に同意を取り付けて週明け月曜に株式公開買い付けを成立させた。買収額は報道により180億円から230億円まで幅がある。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 初の営業赤字となる85億円の営業損失を計上 | ★★ | |||
| 創業以来初の希望退職を募集 | ★★ | |||
| オンワード樫山に抜かれアパレル首位から陥落 | ★ | |||
| 外様の会長への全権委任と、役員全員による辞職届の提出 1998年、レナウンが本体では外様にあたる水野史郎氏を顧問として迎え、4月に会長へ据えた経営判断。水野史郎会長は『私は破産管財人のつもりでこの会社に来た』と宣言し、豊田圭二社長以下の役員全員が辞職届を書いて預けた。以後、会長が事実上の全権を握って再建にあたる体制へ移った。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 2004〜2020年ダーバンとの統合、外資の傘下、そして118年目の破産 | 岡康久 | ダーバンとの株式移転でレナウンダーバンHDを設立 | ★★ | |
| 岡康久 | レナウンとダーバンを吸収合併しレナウンに商号変更 | ★ | ||
| 北畑稔 | アクアスキュータムの売却を決定 | ★★ | ||
| 北畑稔 | 不採算16ブランドの廃止と400名の人員削減を発表 | ★ | ||
| 北畑稔 | 筆頭株主ネオラインの要求を受け取締役が総退陣 | ★★ | ||
| 北畑稔 | 婦人服ブランドを担うレリアンの株式を売却 | ★ | ||
| 北畑稔 | 中国・山東如意科技集団への第三者割当増資と、外資の傘下入り 2010年7月、レナウンが中国の繊維大手・山東如意科技集団を割当先に約40億円の第三者割当増資を実施し、同社が4割を握る筆頭株主となった経営判断。中国企業が東証一部上場企業を買収する初めての事例となった。北畑稔社長は交渉相手に投資ファンドもいたと認めたうえで、事業会社を選んだ理由を説明している。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 北畑稔 | 山東如意グループの持株比率が53%に上昇 | ★★ | ||
| 神保佳幸 | 山東如意の子会社向け売掛金に53億円の貸倒引当金を計上 | ★ | ||
| 神保佳幸 | 10か月の変則決算で営業損失79億99百万円 | ★ | ||
| 毛利憲司 | 東京地方裁判所から民事再生手続開始の決定(負債総額約138億円) | ★★ |
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