鈴屋 の歴史

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創業 1909年
創業者 鈴木房吉
創業地 東京都台東区
創業
1909年、鈴木房吉氏が東京・上野の駅前で洋品雑貨店の鈴木商店を創業した。福井県の士族の家に生まれ、16歳で上京して20歳で独立した房吉氏は、肌着・シャツ・毛糸・毛布を並べ、拝見棚と呼ぶショーウィンドーを構えてガス灯で店内を照らしている。掛け値も値引きもせず正札で売り、気に入らないと持ち込まれた品は引き取った。1923年には店舗が150坪へ広がって上車坂町に支店を開設したが、同年の関東大震災で被害を受け、1928年には乳バンドの製造販売へ手を広げた。戦時の企業整備令で店を閉じ、1946年に上野広小路で建て直した店が、のちの本拠地となる。
決断
一等地の400坪に人を厚く置き、商品を速く売り切ることで稼いだ。1953年に男物をやめて婦人洋品の専門店へ切り替え、1954年に鈴木義雄氏が専務として商号を鈴屋へ改めた。出店は1960年代後半の年1〜2店から1970年代前半の年5店、1974年からは年8店へ上がり、1972年5月にはパリのシャンゼリゼ通りに70平方メートルの店を開設している。仕入れは600余りの問屋から現金で分散して集め、自主企画は1割から1割5分にとどめ、売場には同業より2割から3割多い人員を置いた。自己資金は出店の速度に追いつかず、長短借入金は1973年の103億円から1977年2月末に180億円へ増え、総資産に対する借入依存度は72%に達した。
現況
88年の商売を終わらせたのは、売場ではなく資金繰りだった。1976年6月の青山ベルコモンズは専門店が開発した日本で最初のファッションビルだったが、敷地と建物はアサヒ都市開発が所有し、鈴屋は建設費を負担したうえで賃借する側に置かれた。1969年に百貨店をやめてテナントに場所を貸す立場へ移ったパルコと違い、商品を売る立場を残したまま場所を貸す側へ回っている。1977年2月期には14%の増収を確保しながら経常利益を17%減らし、設立以来はじめての減益となった。1994年に赤字へ転落し、1996年9月に第一勧業銀行が支援を打ち切ると、1997年2月24日に負債526億円で和議を申請する。建てたビルを所有しないまま出店の速度を借入で支えた設計が、消費が止まった局面で売却できる資産を残さなかった。
競合
品ぞろえで選ばれた店は、ブランドで選ぶ客には応えられなかった。大手の衣料専門店はシーズンの初めにアパレルの作った商品をできるだけ多く並べ、そこから売れる品だけを追加発注する売り方を続けていた。しかし1990年代に入ると消費者の好みが細かく分かれ、雑多な品が並ぶ店ではなく明確なイメージを持つブランドが求められる。香港のジョルダーノやトピーは、自ら企画して外部の縫製工場へ発注し、買い取った商品を直営店で売る製造小売業を携えて日本市場へ入ってきた。同じ1988年に香港へ拠点を置いたファーストリテイリング商社を挟まず中国の縫製工場へ直接発注する調達へ移った。1997年には鈴丹が100店、キャビンが約70店を閉じている。問屋を分散させた身軽さが、そのまま商品の中身を自社で決められない立場を固定した。

創業ストーリー 上野駅前のガス灯から始まり、男物を捨てて婦人服の鈴屋になるまで (1909年〜)

上野駅前のガス灯から始まり、男物を捨てて婦人服の鈴屋になるまで

創業ストーリー(1)

上野駅前にガス灯を灯した鈴木商店の店頭

1909年、鈴木房吉氏が東京・上野の駅前に洋品雑貨店の鈴木商店を開いた[1]。房吉氏は福井県の士族の家に生まれ、16歳で東京へ出て働き、20歳で独立し[2]、店には肌着、シャツ、毛糸、毛布といった洋品と小間物を並べた[3]。ただ、房吉氏が他の商店に先駆けて手を入れたのは品ではなく店先で、拝見棚、いまのショーウィンドーを構え、ガス灯で店内を照らして通りを歩く客の目を引いた[4]。掛け値も値引きもせずに正札で売り、買った客が気に入らないと言って持ち込めば快く引き取り[5]、正札を付けず、客と店主の胸算用で値が決まるのが当たり前の商売のなかで、房吉氏はその流儀を嫌った[6]

  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
    • [1]明治42年(1909年)、鈴木房吉氏が東京・上野駅前に洋品雑貨店「鈴木商店」を開いたのが鈴屋のはじまり。
    • [2]鈴木家は福井県の士族の出。房吉氏が福井から東京に出たのは16歳のときで、明治42年に20歳で独立した。
    • [3]鈴木商店は肌着、シャツ、毛糸、毛布などの洋品、雑貨、小間物を販売していた。
    • [4]鈴木商店は他の商店に先駆けて店先に拝見棚(今のショーウィンド)を設け、ガス灯で照明をほどこし、当時のモダン・ガールたちの眼をひく明るい店舗だった。
    • [5]房吉氏は掛値はもちろん値引きも一切しなかったが、買った客が気にいらないといって返品してきた場合は快く引きとった。
    • [6]当時、衣料品を売る店では正札なしの掛け値で商いするのがあたりまえで、客と店主の胸算用で売買が行われていた。房吉氏はこういう商いの仕方が嫌いだった。

堅い商いが実を結び、創業14年目の1923年には店舗が150坪に広がり、昭和通りに面した上車坂町に支店を開いた[7]。店売りとあわせて外売にも力を入れ、店独自の商品を持とうと洋品の加工にも手を付けた[8]が、同じ年の関東大震災で店は被害を受け、震災後の不況の余波で、伸びてきた商売はくだり坂に入った[9]。房吉氏はこの不況を乗り越えるために新しい手を打ち[10]、1928年に新案特許の乳バンド、つまりブラジャーの製造販売を始める[11]。あわせて男もののYシャツ、肌着、下着、白衣を作り、かっぽう着も売り出してかなりの好評を得た[12]

    • [7]先代の堅実な商法が実を結び、創業14年目の大正12年(1923年)には店舗も150坪にひろがり、昭和通りに面した上車坂町に支店も開いた。
    • [8]店売りとともに外売にも力を入れ、店独自の商品をと考えて2、3の洋品の加工も手掛けた。
    • [9]関東大震災でいくらかの被害を受け、震災後の不況の余波で伸びに伸びてきた商売はくだり坂となった。
    • [10]房吉氏はこの不況を乗り越え、打ち破り、さらに発展させねばならないと考え、さらに新しい手を打った。
    • [12]男ものの洋品、Yシャツ、肌着、下着、白衣なども作り、かっぽう着も作ってかなり好評を博した。
    • [11]創業者が昭和3年(1928年)に「乳バンド」を開発した。房吉氏は新案特許乳バンド、つまりブラジャーの製造販売を始めた。
  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
    • [1]明治42年(1909年)、鈴木房吉氏が東京・上野駅前に洋品雑貨店「鈴木商店」を開いたのが鈴屋のはじまり。
    • [2]鈴木家は福井県の士族の出。房吉氏が福井から東京に出たのは16歳のときで、明治42年に20歳で独立した。
    • [3]鈴木商店は肌着、シャツ、毛糸、毛布などの洋品、雑貨、小間物を販売していた。
    • [4]鈴木商店は他の商店に先駆けて店先に拝見棚(今のショーウィンド)を設け、ガス灯で照明をほどこし、当時のモダン・ガールたちの眼をひく明るい店舗だった。
    • [5]房吉氏は掛値はもちろん値引きも一切しなかったが、買った客が気にいらないといって返品してきた場合は快く引きとった。
    • [6]当時、衣料品を売る店では正札なしの掛け値で商いするのがあたりまえで、客と店主の胸算用で売買が行われていた。房吉氏はこういう商いの仕方が嫌いだった。
    • [7]先代の堅実な商法が実を結び、創業14年目の大正12年(1923年)には店舗も150坪にひろがり、昭和通りに面した上車坂町に支店も開いた。
    • [8]店売りとともに外売にも力を入れ、店独自の商品をと考えて2、3の洋品の加工も手掛けた。
    • [9]関東大震災でいくらかの被害を受け、震災後の不況の余波で伸びに伸びてきた商売はくだり坂となった。
    • [10]房吉氏はこの不況を乗り越え、打ち破り、さらに発展させねばならないと考え、さらに新しい手を打った。
    • [12]男ものの洋品、Yシャツ、肌着、下着、白衣なども作り、かっぽう着も作ってかなり好評を博した。
    • [11]創業者が昭和3年(1928年)に「乳バンド」を開発した。房吉氏は新案特許乳バンド、つまりブラジャーの製造販売を始めた。
創業ストーリー(2)

企業整備令での閉店と上野広小路での再出発

満州事変から日中戦争、太平洋戦争へと戦線が延びるにつれ、平和産業は軍需産業へ切り換えられた[13]。繊維も例外ではなく、あらゆる繊維が軍需用に調達され、国民の衣料生活は急速に乏しくなった[14]鈴木商店の店頭も商品が細り、やがて切符による衣料の配給制が始まり[15]、企業整備令も出されて数軒の店が強制的に合併させられた[16]。房吉氏は、このまま他の店と合併しても自分の思うような商売はできないと考え、店をたたんで上車坂町の自宅に引っ込んだ[17]。おしゃれができる時代が戻り、息子が大きくなったころに二人でやれば前より素晴らしい店ができる、というのが店を閉じるときの見通しだった[18]

    • [13]昭和年代に入ると満州事変、日中戦争と局地戦争が相次いで勃発し、太平洋戦争が始まった。戦争ですべての平和産業は軍需産業へ切り換えられた。
    • [14]繊維産業も例外ではなく、あらゆる繊維は軍需用に調達され、銃後を守る国民の衣料生活は急速に乏しくなった。
    • [15]鈴木商店はこうした情勢のなかで商品が乏しく、やがて切符による衣料の配給制が始まった。
    • [16]企業整備令も出され、数軒の店が強制的に合併されることになった。
    • [17]房吉氏は「このまま他の店と合併しても、もう自分が思うような商売は出来ない」と考えて決心し、店をたたんで上車坂町の自宅に引っこんだ。
    • [18]房吉氏は店を閉めるにあたり、そのうち平和な世の中も来て、その頃には息子も大きくなっている、息子と二人でやれば前よりずっと素晴らしい店ができると考えた。

終戦の翌年の1946年、房吉氏は焼けくずれた建物の残骸がころがる上野広小路の一画に土地を見つけ、店舗を建てた[19]。これがのちに鈴屋の本拠地となる上野店の始まりにあたる[20]。衣料の統制はまだ解けておらず、昔からの顔を生かして問屋を回り、手に入れたいくらかの洋品を売った[21]。このとき店を手伝った、呉服問屋に嫁いだものの夫を戦争で失った房吉氏の娘の小泉清子氏は[22]、やがて独立し、房吉氏の助けを得て同じ上野に40平方メートルの店を構えて呉服小売店を開いた[23]。この店には、鈴屋に実母の名から一字を入れた鈴乃屋という名を付けた[24]

    • [19]昭和21年(1946年)、房吉氏は焼けくずれた建物の残骸がゴロゴロしている上野広小路の一画に土地を見つけ店舗を建てた。
    • [20]1946年に上野広小路に建てた店舗が、現在の「鈴屋」の本拠地上野店のはじまりである。
    • [21]まだ衣料の統制が解除されていなかったので、昔からの顔を生かして問屋を廻り、いくらかの洋品を手に入れては売っていた。
  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
    • [22]戦後、房吉氏が上野駅前で店名を鈴屋と改めて洋品雑貨店を営んだとき手伝ったのが、呉服問屋に嫁いだものの主人の戦死で未亡人となっていた小泉清子氏だった。
    • [23]小泉清子氏は独立を目指し、房吉氏の助けを得て、同じ上野にわずか40平方メートルの店舗を構えて呉服小売店を開業した。
    • [24]小泉清子氏の呉服小売店の店名は、鈴屋に実母の名前の一字を間に入れて鈴乃屋とした。
    • [13]昭和年代に入ると満州事変、日中戦争と局地戦争が相次いで勃発し、太平洋戦争が始まった。戦争ですべての平和産業は軍需産業へ切り換えられた。
    • [14]繊維産業も例外ではなく、あらゆる繊維は軍需用に調達され、銃後を守る国民の衣料生活は急速に乏しくなった。
    • [15]鈴木商店はこうした情勢のなかで商品が乏しく、やがて切符による衣料の配給制が始まった。
    • [16]企業整備令も出され、数軒の店が強制的に合併されることになった。
    • [17]房吉氏は「このまま他の店と合併しても、もう自分が思うような商売は出来ない」と考えて決心し、店をたたんで上車坂町の自宅に引っこんだ。
    • [18]房吉氏は店を閉めるにあたり、そのうち平和な世の中も来て、その頃には息子も大きくなっている、息子と二人でやれば前よりずっと素晴らしい店ができると考えた。
    • [19]昭和21年(1946年)、房吉氏は焼けくずれた建物の残骸がゴロゴロしている上野広小路の一画に土地を見つけ店舗を建てた。
    • [20]1946年に上野広小路に建てた店舗が、現在の「鈴屋」の本拠地上野店のはじまりである。
    • [21]まだ衣料の統制が解除されていなかったので、昔からの顔を生かして問屋を廻り、いくらかの洋品を手に入れては売っていた。
  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
    • [22]戦後、房吉氏が上野駅前で店名を鈴屋と改めて洋品雑貨店を営んだとき手伝ったのが、呉服問屋に嫁いだものの主人の戦死で未亡人となっていた小泉清子氏だった。
    • [23]小泉清子氏は独立を目指し、房吉氏の助けを得て、同じ上野にわずか40平方メートルの店舗を構えて呉服小売店を開業した。
    • [24]小泉清子氏の呉服小売店の店名は、鈴屋に実母の名前の一字を間に入れて鈴乃屋とした。
創業ストーリー(3)

男物を捨てて女性客に絞った専門店への切り替え

戦後の店は、商品がやや出回りだしたころから女物もいくらかは扱ったものの、主力はYシャツや肌着などの男物が占めた[25]。男物は商品の利益率が低く、回転率もたいしたことはなく、売り上げを伸ばす見込みが立たなかった[26]。慶応大学を出て繊維商社の伊藤萬に勤めていた房吉氏の子、鈴木義雄氏は、洋品店は女物専門でなければ本当に伸びないと父に進言する[27]。手始めに毛糸を扱って客の入りを試すと、思っていた以上に女性客が入ってよく売れ[28]、義雄氏は全面的に女性洋品へ切り換えた[29]。長年の男の客を失う代わりに、鈴屋は1953年、婦人洋品雑貨の専門店として完全な形で客の前に姿を現した[30]

    • [25]商品がやや出回りだした昭和23、24年ごろから女物もいくらかは扱っていたが、主力はYシャツ、肌着などの男物だった。
    • [26]男物は商品の利益率が低く、回転率もたいしたことはなく、売上げを伸ばすことに期待できなかった。
    • [27]鈴木義雄氏は慶応大学を出て繊維商社の伊藤万に勤めていた。義雄氏は「やはり洋品店は、女物専門でなければ本当に伸びない」と父の房吉氏に進言した。
    • [28]まず手始めに毛糸を扱ってどの程度の客が入るかテストすると、思っていた以上に女性客が入り、結構売れた。
    • [29]女性のお客を掴むことができ、店の存在を女性に知らすこともできたと判断した義雄氏は、全面的に女性洋品に切り換えた。
    • [30]女性洋品への切り換えには長年店を可愛がってくれた男の客を失うマイナスもあった。「鈴屋」が婦人洋品雑貨の専門店として完全なかたちで客の前に姿を現わしたのは昭和28年(1953年)である。

外から助言している時ではないと考えた義雄氏は、1954年に伊藤萬を退社し、専務として新しい店づくりに入った[31]。最初に替えたのは商品ではなく店名で、ありふれた鈴木商店という名では客の頭に残らないとして、コロコロという鈴の音を連想させる鈴屋に改め、店先に大きな鈴の看板を掲げた[32]。宣伝にも手を伸ばし、開局したばかりのラジオ東京にスポットを流した[33]。何十万円もするスポット料は切り換えたばかりの小さな商店の売り上げに見合わず、採算を度外視するほかなかった[34]。義雄氏は店員と一緒に店頭へ出て自ら接客し、その態度を店員に学ばせ[35]、切り換えから1年ほどで、鈴屋は業界でおしゃれの店のパイオニアと呼ばれるようになった[36]

    • [31]義雄氏は「もはや外から助言している時ではない」「自分が陣頭に立って店を盛りたてていかねばならない」と考え、昭和29年(1954年)に伊藤万を退社し、専務として新しい店づくりに打ち込み出した。
    • [32]義雄氏は店名を「鈴木商店」から「鈴屋」に改めた。「鈴木商店」ではありふれていて客の頭に残らないと考え、コロコロというやさしい「鈴の音」を連想する「鈴屋」という名にし、コロコロとなる大きな「鈴」の看板をつけた。
    • [33]義雄氏は次いで宣伝に力を入れ、その頃開局したばかりのラジオ東京(現在の東京放送)を使ってスポットを流した。
    • [34]何十万もするスポット料を払うには相応の売上げ、利益が伴わなければならず、切り換えたばかりの鈴屋は採算を度外視してやるほかなかった。小さな商店としては非常な冒険だった。
    • [35]義雄氏は店員教育に力を入れ、店員と一緒に店頭へ出て自ら接客し、その接客態度を店員たちに学んでもらった。
    • [36]女性洋品への切り換えから1年後ぐらいには、鈴屋は業界から「おしゃれの店のパイオニア」といわれるようになった。

義雄氏が上野の店に置いた狙いは、銀座での買物を上野でさせることにあり[37]、有楽町や丸の内で働く女性が上野まで足を運んで鈴屋のファンになった[38]。専門店として新しい生き方を続けるため、銀座店とスキヤ橋店を開き、中級品からデラックス商品までを置いた[39]。1960年、義雄氏はアメリカと西欧を回って外国の専門店の生き方を学ぶ[40]。大量生産販売のアメリカ式商法より、とぎすました鋭い商品を独特のセンスで売るヨーロッパ的商法を研究し、売上げより商品の質の向上が要ると考えて研究室を設け、ハイセンス商品の開発に力を入れ出した[41]

    • [37]義雄氏は「銀座でのお買物を上野でというのが初めの狙いでした」と語っている。
    • [38]有楽町、丸の内方面に働くビジネスガールがわざわざ上野まで来て鈴屋のファンになった。
    • [39]ファンにこたえるため、また専門店として常に新しい生き方をしていくために、銀座店、スキヤ橋店を開いて中級品からデラックス商品を置き、これも成功した。
    • [40]昭和35年(1960年)に義雄氏はアメリカ、西欧を廻って外国の専門店の生き方を学んできた。
    • [41]義雄氏は大量生産販売のアメリカ式商法よりも、とぎすました鋭い商品を独特なセンスで売るヨーロッパ的商法を研究。売上げより商品の質の向上を痛感し、研究室を設けてハイセンス商品の開発に力を入れ出した。
    • [25]商品がやや出回りだした昭和23、24年ごろから女物もいくらかは扱っていたが、主力はYシャツ、肌着などの男物だった。
    • [26]男物は商品の利益率が低く、回転率もたいしたことはなく、売上げを伸ばすことに期待できなかった。
    • [27]鈴木義雄氏は慶応大学を出て繊維商社の伊藤万に勤めていた。義雄氏は「やはり洋品店は、女物専門でなければ本当に伸びない」と父の房吉氏に進言した。
    • [28]まず手始めに毛糸を扱ってどの程度の客が入るかテストすると、思っていた以上に女性客が入り、結構売れた。
    • [29]女性のお客を掴むことができ、店の存在を女性に知らすこともできたと判断した義雄氏は、全面的に女性洋品に切り換えた。
    • [30]女性洋品への切り換えには長年店を可愛がってくれた男の客を失うマイナスもあった。「鈴屋」が婦人洋品雑貨の専門店として完全なかたちで客の前に姿を現わしたのは昭和28年(1953年)である。
    • [31]義雄氏は「もはや外から助言している時ではない」「自分が陣頭に立って店を盛りたてていかねばならない」と考え、昭和29年(1954年)に伊藤万を退社し、専務として新しい店づくりに打ち込み出した。
    • [32]義雄氏は店名を「鈴木商店」から「鈴屋」に改めた。「鈴木商店」ではありふれていて客の頭に残らないと考え、コロコロというやさしい「鈴の音」を連想する「鈴屋」という名にし、コロコロとなる大きな「鈴」の看板をつけた。
    • [33]義雄氏は次いで宣伝に力を入れ、その頃開局したばかりのラジオ東京(現在の東京放送)を使ってスポットを流した。
    • [34]何十万もするスポット料を払うには相応の売上げ、利益が伴わなければならず、切り換えたばかりの鈴屋は採算を度外視してやるほかなかった。小さな商店としては非常な冒険だった。
    • [35]義雄氏は店員教育に力を入れ、店員と一緒に店頭へ出て自ら接客し、その接客態度を店員たちに学んでもらった。
    • [36]女性洋品への切り換えから1年後ぐらいには、鈴屋は業界から「おしゃれの店のパイオニア」といわれるようになった。
    • [37]義雄氏は「銀座でのお買物を上野でというのが初めの狙いでした」と語っている。
    • [38]有楽町、丸の内方面に働くビジネスガールがわざわざ上野まで来て鈴屋のファンになった。
    • [39]ファンにこたえるため、また専門店として常に新しい生き方をしていくために、銀座店、スキヤ橋店を開いて中級品からデラックス商品を置き、これも成功した。
    • [40]昭和35年(1960年)に義雄氏はアメリカ、西欧を廻って外国の専門店の生き方を学んできた。
    • [41]義雄氏は大量生産販売のアメリカ式商法よりも、とぎすました鋭い商品を独特なセンスで売るヨーロッパ的商法を研究。売上げより商品の質の向上を痛感し、研究室を設けてハイセンス商品の開発に力を入れ出した。

上野から新宿、シャンゼリゼ通りへ延ばした27店の売り場

創業ストーリー(4)

盛り場ごとに置いた売り場と、女店員が任された陳列

鈴木義雄氏は1960年にアメリカと西欧を回り、各国の専門店の商いを見て歩いた[42]。大量生産と大量販売で押すアメリカ式より、研ぎ澄ました商品を独特の感覚で売るヨーロッパ式に学ぶところを見て、売上高を伸ばすことより商品の質を上げることを先に置き、社内に研究室を設けてハイセンス商品の開発にあたらせた[43]。1962年秋、上野駅前で洋品雑貨店を開いた初代の鈴木房吉氏が74歳で世を去り、義雄氏が後を継いで社長に就いた[44]。就任時は38歳で、店員は450人を数え[45]、鈴木社長は商売はアイデアで勝負するものだと語った[46]

    • [42]三十五年に義雄さんはアメリカ、西欧を廻って、外国の専門店の生き方を学んできた
    • [43]大量生産販売のアメリカ式商法よりも、とぎすました鋭い商品を独特なセンスで売るヨーロッパ的商法を研究し、売上げより商品の質の向上を痛感、研究室を設けてハイセンス商品の開発に力を入れ出した
    • [44]三十七年の秋、初代房吉さんは七十四歳で天寿をまっとうし、その後を継いで義雄さんが社長となった。房吉氏は明治四十二年に上野の駅前に「鈴木商店」の看板を掲げて開業した人である
    • [45]「鈴屋」四五〇人の店員の総大将鈴木義雄社長は、まだ三十八歳の若さである
    • [46]「商売はアイデイアで勝負する」という三十八歳の独身社長

銀座で買う買い物を上野で、という組み立てで有楽町や丸の内に勤める女性を上野まで通わせ、そのうえで銀座店とスキヤ橋店を開いて中級品からデラックス商品までを置き[47]、続いて池袋店と立川店を構えた[48]。1964年5月には新宿店を開き、家か勤め先の最寄りで買えるようにと都内の盛り場へ店を並べた[49]。上野の店には、隣に同じ形の店があっても客がその前を通り越して入った[50]。どの店にもスーツ、ブラウス、セーター、スカート、コート、子供服、下着、小物を並べ、ハイティーンからヤングミセスまでを対象に最新のものを厳選した[51]

    • [47]「銀座でのお買物を上野で」というのが初めの狙いで、有楽町・丸の内方面に働くビジネスガールがわざわざ上野まで来てファンになった。専門店として常に新しい生き方をするために銀座店、スキヤ橋店を開いて中級品からデラックス商品を置き、これも成功した
    • [48]今では池袋店、立川店を開いている
    • [49]新宿店(五月開店)というように都内の盛り場に店を出した。お家なり会社なりの最寄りの店で買ってもらうようにとの心からである
    • [50]上野の店は隣りに同じ形の店があるのに、お客さんはその前を通り越して「鈴屋」に入ってしまうほどの人気である
    • [51]各店ともスーツ、ブラウス、セーター、スカート、コート、子供服、下着、小物などのおしゃれ用品をおいており、いずれもハイティーンからヤングミセスにいたるまでを対象に厳選した最新のものばかりである

各売り場の設計、装飾、陳列、商品の選択まで、担当の女店員が知恵を出し合って責任を負った[52]。女性の心理は女性が一番よく知る、という理由からであり[53]、売り場ごとに成績を競うコンクール制を敷いて、売上高の順位に加えて客への応対やサービスの仕方まで点数にした[54]。商品はフランス語で鈴の音を指すソネリエの名を付けた自主企画品を柱に、同じデザインを数多く作らず、種類をそろえた[55]。大売り出しを除いて掛け値も値引きもしない正札販売は、初代の代から変えなかった[56]。バーゲンセールのほかバレンタインデー、パリー祭、クリスマスにも特別セールを置き、月ごとに何かしらの催しを開いた[57]

    • [52]「鈴屋」では、各売場の一切の設計、装飾、陳列、それに商品の選択にいたるまで、それぞれの担当の女店員たちが衆智を集め、責任を持ってやっている
    • [53]その狙いは、女性の心理は女性が一番よく知っているからということにある
    • [54]売場毎に成績を競うコンクール制をとっており、売上げ高の順位はもちろん、お客さまへの応待、サービスの仕方まで点数となる
    • [55]フランス語のSONNERIE(鈴の音)からとった名前を付けた「ソネリエ」は鈴屋だけのオリジナル商品で、デザインの同じものを数多く作らず、その代りいろいろなデザインを取り揃える
    • [56]大売出しの時を除いて、うちの商品は父の代から掛け値も値引きもない正札販売である
    • [57]「鈴屋」ではバーゲンセールの他にバレンタインディ、パリー祭、クリスマスなどにも特別セールを行ない、さらに月毎になにかしら催物を開いている
    • [42]三十五年に義雄さんはアメリカ、西欧を廻って、外国の専門店の生き方を学んできた
    • [43]大量生産販売のアメリカ式商法よりも、とぎすました鋭い商品を独特なセンスで売るヨーロッパ的商法を研究し、売上げより商品の質の向上を痛感、研究室を設けてハイセンス商品の開発に力を入れ出した
    • [44]三十七年の秋、初代房吉さんは七十四歳で天寿をまっとうし、その後を継いで義雄さんが社長となった。房吉氏は明治四十二年に上野の駅前に「鈴木商店」の看板を掲げて開業した人である
    • [45]「鈴屋」四五〇人の店員の総大将鈴木義雄社長は、まだ三十八歳の若さである
    • [46]「商売はアイデイアで勝負する」という三十八歳の独身社長
    • [47]「銀座でのお買物を上野で」というのが初めの狙いで、有楽町・丸の内方面に働くビジネスガールがわざわざ上野まで来てファンになった。専門店として常に新しい生き方をするために銀座店、スキヤ橋店を開いて中級品からデラックス商品を置き、これも成功した
    • [48]今では池袋店、立川店を開いている
    • [49]新宿店(五月開店)というように都内の盛り場に店を出した。お家なり会社なりの最寄りの店で買ってもらうようにとの心からである
    • [50]上野の店は隣りに同じ形の店があるのに、お客さんはその前を通り越して「鈴屋」に入ってしまうほどの人気である
    • [51]各店ともスーツ、ブラウス、セーター、スカート、コート、子供服、下着、小物などのおしゃれ用品をおいており、いずれもハイティーンからヤングミセスにいたるまでを対象に厳選した最新のものばかりである
    • [52]「鈴屋」では、各売場の一切の設計、装飾、陳列、それに商品の選択にいたるまで、それぞれの担当の女店員たちが衆智を集め、責任を持ってやっている
    • [53]その狙いは、女性の心理は女性が一番よく知っているからということにある
    • [54]売場毎に成績を競うコンクール制をとっており、売上げ高の順位はもちろん、お客さまへの応待、サービスの仕方まで点数となる
    • [55]フランス語のSONNERIE(鈴の音)からとった名前を付けた「ソネリエ」は鈴屋だけのオリジナル商品で、デザインの同じものを数多く作らず、その代りいろいろなデザインを取り揃える
    • [56]大売出しの時を除いて、うちの商品は父の代から掛け値も値引きもない正札販売である
    • [57]「鈴屋」ではバーゲンセールの他にバレンタインディ、パリー祭、クリスマスなどにも特別セールを行ない、さらに月毎になにかしら催物を開いている
創業ストーリー(5)

シャンゼリゼ通りに構えた70平方メートルの海外一号店

店を増やす速度は1970年代に入って一段上がり、1960年代後半まで年に1〜2店だった出店が年5店平均へ変わった[58]。1969年の大阪・梅田店を皮切りに西下作戦を展開し、東京の盛り場に閉じていた売り場を関西へ延ばした[59]。動かしたのは店だけではなく、パリとニューヨークには流行の情報を集める駐在員を置き、店頭に並べるものを自前で決める材料を取り込んだ[60]

    • [58]四十年代前半には年一〜二店の出店ペースだった同社が、四十年代後半には年五店平均の猛烈なスピードに変わった
    • [59]四十四年の大阪・梅田店を皮切りに〝西下作戦〟を展開した
  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
    • [60]鈴屋などはパリ、ニューヨークにファッション情報収集のための現地駐在員を置き、たえず最新のファッションを吸収している

1972年5月、パリのシャンゼリゼ通りに70平方メートルのチェーン店を開いた[61]。ファッションの本場に店を構えた日本のファッション企業は、当時ほかになかった[62]。同じ年の暮れにサンジェルマン通りへ2号店、1973年3月にはシャンゼリゼ通りへ3号店を出店[63]。1972年秋にはパリ婦人既製服組合への加盟が認められ、単独でファッションショーも開き[64]、1973年には香港にも店を開いて海外の売り場を欧州とアジアの二方面に持った[65]。本社は東京、資本金は1億円で[66]、株式は公開せず、営業報告書も外には出さなかった[67]

  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
    • [61]パリはシャンゼリゼ通りに70平方メートルとはいえ、チェーン店を開設したのは昨年(1972年)5月である
    • [62]ファッションビジネスとしてファッションの本場パリに店を持っているのは鈴屋をおいて他にない
    • [63]続いて昨年末(1972年末)、やはりパリのサンジェルマン通りに第2号店を、この3月(1973年3月)にはシャンゼリゼ通りに第3号店をそれぞれ出店した
    • [64]その実績が認められて昨年秋(1972年秋)にはパリ婦人既製服組合への加盟を認められ、単独でファッションショーも開催した
    • [66]婦人服専門店の鈴屋は本社東京、社長鈴木義雄氏、資本金1億円である
    • [65]鈴屋は海外店として香港店を持っている
    • [67]鈴屋は非上場の会社であり、営業報告書すらみせない

1973年のチェーン店は海外の3店を含めて27店、年商は150億円[68]。自主企画品の比率は全体の50%以上に達し[69]、一般の広告宣伝を一切せず、宣伝は口コミに任せていた[70]。同年2月上旬、東京・五反田の東京卸売センターで開いた恒例のバーゲンには、徹夜組40人を含めて午前9時に3000人の女性が列をなし、その列は夕方まで途切れなかった[71]。前日まで店頭に並んでいたセーターやスカートが3分の1から5分の1で買えるため、九州から駆けつける客もおり[72]、会場の入口で渡された大きなナイロン袋にバーゲン品を詰め、出口で2万円も3万円も支払っていく客が大半を占めた[73]

  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
    • [68]現在チェーン店は海外の3店を含めて27店で、年商は150億円である(1973年4月時点)
    • [69]鈴屋はいわゆるプライベートブランドの比率が全体の50%以上に上っている
    • [70]鈴屋は一般の広告宣伝活動を全くしない。いい商品さえつくって売っておれば自然と名は伝わるとして、クチコミによる宣伝だけに頼ってきた
    • [71]この2月(1973年2月)上旬、東京は五反田の東京卸売センターに、徹夜組40人を含めて午前9時には3000人ものヤング女性が列をなし、夕方までその列は続いた。鈴屋が毎年春秋ものファッション品の切り替え期に実施する恒例のバーゲンである
    • [72]つい昨日まで鈴屋の店頭に並んでいたセーター、スカートなどが3分の1から5分の1で買えるというだけで、はるか九州から駆けつける女性もいる
    • [73]会場の入口で渡された大きなナイロン袋にバーゲン品をいっぱい詰めて、出口で2万円も3万円も支払っていく客が大半である
    • [58]四十年代前半には年一〜二店の出店ペースだった同社が、四十年代後半には年五店平均の猛烈なスピードに変わった
    • [59]四十四年の大阪・梅田店を皮切りに〝西下作戦〟を展開した
    • [65]鈴屋は海外店として香港店を持っている
    • [67]鈴屋は非上場の会社であり、営業報告書すらみせない
  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
    • [60]鈴屋などはパリ、ニューヨークにファッション情報収集のための現地駐在員を置き、たえず最新のファッションを吸収している
    • [61]パリはシャンゼリゼ通りに70平方メートルとはいえ、チェーン店を開設したのは昨年(1972年)5月である
    • [62]ファッションビジネスとしてファッションの本場パリに店を持っているのは鈴屋をおいて他にない
    • [63]続いて昨年末(1972年末)、やはりパリのサンジェルマン通りに第2号店を、この3月(1973年3月)にはシャンゼリゼ通りに第3号店をそれぞれ出店した
    • [64]その実績が認められて昨年秋(1972年秋)にはパリ婦人既製服組合への加盟を認められ、単独でファッションショーも開催した
    • [66]婦人服専門店の鈴屋は本社東京、社長鈴木義雄氏、資本金1億円である
    • [68]現在チェーン店は海外の3店を含めて27店で、年商は150億円である(1973年4月時点)
    • [69]鈴屋はいわゆるプライベートブランドの比率が全体の50%以上に上っている
    • [70]鈴屋は一般の広告宣伝活動を全くしない。いい商品さえつくって売っておれば自然と名は伝わるとして、クチコミによる宣伝だけに頼ってきた
    • [71]この2月(1973年2月)上旬、東京は五反田の東京卸売センターに、徹夜組40人を含めて午前9時には3000人ものヤング女性が列をなし、夕方までその列は続いた。鈴屋が毎年春秋ものファッション品の切り替え期に実施する恒例のバーゲンである
    • [72]つい昨日まで鈴屋の店頭に並んでいたセーター、スカートなどが3分の1から5分の1で買えるというだけで、はるか九州から駆けつける女性もいる
    • [73]会場の入口で渡された大きなナイロン袋にバーゲン品をいっぱい詰めて、出口で2万円も3万円も支払っていく客が大半である
創業ストーリー(6)

年8店の出店ペースと総資産の72%に達した借入依存度

鈴木社長の時代の鈴屋は、専門店の収益率の高さと巧みな店舗展開をひっさげ、ベル・エポック(良き時代)と呼ばれる拡大期を作った[74]。1974年に入ると出店は年8店のペースへ上がり、同年には北海道・札幌に二号店を出して、東京と関西に続く全国チェーンの土台を固めた[75]。店の作り方は売り場面積400坪の大型店を志向し、立地は繁華街の角地の一等地に絞り[76]、同じ1974年には新宿駅中央口に近いビルの1階から3階、約205平方メートルに紳士服のベルアルノ新宿店を開いた[77]。鈴木社長は開店当時、女性ものを究めるには男性ものをやらなければならないと語ったとされる[78]

    • [74]二代目の鈴木義雄現社長の時代には、専門店の収益率のよさ、巧みな店舗展開をひっさげて〝ベル・エポック〟(良き時代)なるものを作ってきた
    • [75]四十九年から八店の出店ペースが五十一年まで続き、四十九年には北海道・札幌に二号店を出店、全国チェーン形成の基礎固めに遮二無二突進してきた
    • [76]鈴屋の店舗政策は売場面積四百坪の大型店志向であり、立地は繁華街の角地の一等地に執着する高コスト型店舗である
    • [77]新宿駅中央口に近いビル一〜三階、約二百五平方メートルの比較的大型の店を四年前(1974年)に華々しくオープンさせた紳士服ベルアルノ新宿店である
    • [78]「女性ものをきわめるには男性ものをやらなければ」と鈴木社長は当時、自信満々に語ったとされている

鈴木社長は最大の防御は最大の攻勢だと常々語り、その構えは社内の仕組みにそのまま表れており[79]、仕入れは小回りの分散主義を通し、取引先である600余りの問屋から、年間取引高1000万円の小口から5億円の大口まで、現金でこまめに集めた[80]。店仕入れと本部仕入れの比率は半々で、オリジナル商品は10〜15%にとどまる[81]。各売り場には他の専門店より2〜3割多い人員を投じ、売り場管理と商品管理を細かく回した[82]。一等地の400坪に厚い人員を置いて商品を速く売り切る、高コストで高回転というのが鈴屋の基本戦略である[83]

    • [79]鈴木社長は常々〝最大の防御は最大の攻勢なり〟と語っており、それは端的に同社の社内機構に表われている
    • [80]仕入れは徹底した小回り分散主義で、六百有余の問屋から、小は年間取引高一千万円、大もおよそ五億円まで、現金仕入れでこまめに商品を集めて回る
    • [81]店仕入れと本部仕入れの比率は半々だが、オリジナル商品は一〇〜一五%と少ない
    • [82]各々の売場には他の専門店に比べて二〜三割増しの人員を投入して、きめ細かな売場管理、商品管理体制をしている
    • [83]とどのつまりが「高コスト=高回転」というのが鈴屋の基本的な戦略である

1973年に150億円だった年商は、1974年に190億円、1975年には259億円へ達した[84]。1975年のファッションブームでは、スーパーや百貨店の収益率をはるかにしのぐ専門店が脚光を浴びた[85]。年率30〜40%の売り上げ増が当たり前とされた時期であり[86]、売上を伸ばしたぶんの元手は借入で、長短借入金は1973年の103億円から1975年には160億円へ膨らみ[87]、総資産に対する借入依存度は1975年度末で72%に達した[88]。この72%は、1977年度末のダイエーの59%を上回る水準にあたる[89]

    • [84]鈴屋は昭和四十九年に百九十億円の売り上げ、次ぐ五十年には二百五十九億円、五十一年も三百二億円と急成長を遂げた
    • [85]五十年のファッションブーム時は、スーパー、百貨店の収益率をはるかにしのぐ専門店が脚光をあびた
    • [86]鈴屋の借金体質も、年率三〇〜四〇%の売り上げ増が当り前だった高度成長期には「安心して見ていられる」(マネジメント会社)水準とされた
    • [87]長短借入金は昭和四十八年に百三億円だったものが五十年には百六十億円へと急膨脹している
    • [88]鈴屋の借入依存度(対総資産)は五十年度末で実に七二%と悪化した
    • [89]鈴屋の借入依存度七二%は、ダイエーの五九%(五十二年度末)を上回る、日本一の借金体質である
    • [74]二代目の鈴木義雄現社長の時代には、専門店の収益率のよさ、巧みな店舗展開をひっさげて〝ベル・エポック〟(良き時代)なるものを作ってきた
    • [75]四十九年から八店の出店ペースが五十一年まで続き、四十九年には北海道・札幌に二号店を出店、全国チェーン形成の基礎固めに遮二無二突進してきた
    • [76]鈴屋の店舗政策は売場面積四百坪の大型店志向であり、立地は繁華街の角地の一等地に執着する高コスト型店舗である
    • [77]新宿駅中央口に近いビル一〜三階、約二百五平方メートルの比較的大型の店を四年前(1974年)に華々しくオープンさせた紳士服ベルアルノ新宿店である
    • [78]「女性ものをきわめるには男性ものをやらなければ」と鈴木社長は当時、自信満々に語ったとされている
    • [79]鈴木社長は常々〝最大の防御は最大の攻勢なり〟と語っており、それは端的に同社の社内機構に表われている
    • [80]仕入れは徹底した小回り分散主義で、六百有余の問屋から、小は年間取引高一千万円、大もおよそ五億円まで、現金仕入れでこまめに商品を集めて回る
    • [81]店仕入れと本部仕入れの比率は半々だが、オリジナル商品は一〇〜一五%と少ない
    • [82]各々の売場には他の専門店に比べて二〜三割増しの人員を投入して、きめ細かな売場管理、商品管理体制をしている
    • [83]とどのつまりが「高コスト=高回転」というのが鈴屋の基本的な戦略である
    • [84]鈴屋は昭和四十九年に百九十億円の売り上げ、次ぐ五十年には二百五十九億円、五十一年も三百二億円と急成長を遂げた
    • [85]五十年のファッションブーム時は、スーパー、百貨店の収益率をはるかにしのぐ専門店が脚光をあびた
    • [86]鈴屋の借金体質も、年率三〇〜四〇%の売り上げ増が当り前だった高度成長期には「安心して見ていられる」(マネジメント会社)水準とされた
    • [87]長短借入金は昭和四十八年に百三億円だったものが五十年には百六十億円へと急膨脹している
    • [88]鈴屋の借入依存度(対総資産)は五十年度末で実に七二%と悪化した
    • [89]鈴屋の借入依存度七二%は、ダイエーの五九%(五十二年度末)を上回る、日本一の借金体質である

青山ベルコモンズの開業から負債526億円の和議まで

創業ストーリー(7)

専門店が初めて開発したファッションビル青山ベルコモンズ

1976年6月2日、鈴屋は東京・北青山にファッションビル青山ベルコモンズを開いた。地下1階・地上11階、延べ床面積1万3900平方メートルで、6階から上を本社が使い、下層を鈴屋自身が運営・管理する専門店街にあてた[90]。専門店がこの形で本格的なショッピングセンターを開発したのは日本で初めてだった[91]が、敷地と建物を所有するのは日本不動産銀行系のアサヒ都市開発で、鈴屋は建設費を払ったうえでビルを賃借する立場に置かれた[92]。同じ月に本社も湯島から青山へ移し、店舗数は海外6店を含めて53店に達した[93]

  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [90]1976年6月2日に青山ベルコモンズが開店。地下1階・地上11階、延べ床面積1万3900平方メートル。6階以上が鈴屋本社、残りが鈴屋の運営・管理するショッピングセンター。
    • [91]専門店がこうした形で本格的なショッピングセンターを作ったのは日本で初めてだという。
    • [92]ビルの設計は鈴屋だが、敷地・建物とも所有は日本不動産銀行系のアサヒ都市開発で、鈴屋は賃借。建設費は鈴屋が払っている。
    • [93]昭和51年6月、本社を青山に移転し同時にベルコモンズを開店。店舗数は53(海外6店を含む)。鈴木氏は以前の所在地を湯島と語っている。

開業した夏ごろから、鈴木社長が青山ベルコモンズの不振を苦にして自殺したという噂が業界に流れ[94]、噂の根には投資額があった。借入金についても非公開だとしたうえで大したことはないと述べ、むしろ預金が多く経営が甘いと言われるくらいだと付け加えた[95]。青山ベルコモンズ自体は、初年度の年商予想30億円を3億円から4億円上回る見通しにあった[96]

  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [94]うわさが最初に出たのは夏ごろで、青山に作ったベルコモンズの不振を苦にして鈴木氏が自殺未遂した、死んだという内容だった。
    • [95]鈴木氏は借入金について「それは非公開なのでいえませんが、大したことないです。おまけに当社は預金が多くて、その点経営が甘いといわれるくらい」と述べた。
    • [96]ベルコモンズの当初の年商予想30億円に対し、社長室の斉藤敏氏は「3億~4億円超えそう」と述べた。

鈴屋は株主が鈴木社長ただ1人の非上場企業で、財務数値を公表していなかった[97]。公表していた1976年2月期の売上高370億円に対し、決算の実数は売上高331億円、経常利益11億円、支払利息11億7000万円で、短期40億円と長期119億6000万円を合わせた借入金は160億円にのぼった[98]。600余りの問屋への支払は現金一本で、支払手形はゼロで[99]、借入金はその後も増え、1976年8月に180億円ほどでピークを打ち、以後は預金を取り崩して高金利の借金を返済し、金融費用を切り下げにかかった[100]。主力取引銀行の第一勧業銀行は、鈴屋の拡大政策が青山ベルコモンズで一段落したという了解のもとで支援しているとみられた[101]

  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [97]鈴屋は未上場企業で財務データを公表せず、株主は鈴木義雄氏ただ1人。
    • [98]取材チームが入手した51年2月期の決算では、公表数値370億円に対し売上高331億円、経常利益11億円、支払い利息11億7000万円。借入金は短期40億円、長期119億6000万円の合計160億円。
    • [99]支払手形はゼロで、仕入先も「鈴屋さんは前から現金決済一本ヤリ」と語った。仕入れは600有余の問屋から現金仕入れ。
    • [100]借入のピークは昭和51年8月で180億円ぐらい。その後は預金を取り崩して高金利の借金を返済し金融費用の切り下げを図っている。
    • [101]「メーンバンクの第一勧銀も、鈴屋の拡大政策が青山ベルコモンズで一段落したという了解のもとで支援しているとみられますからね」との情報筋の証言。
  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [90]1976年6月2日に青山ベルコモンズが開店。地下1階・地上11階、延べ床面積1万3900平方メートル。6階以上が鈴屋本社、残りが鈴屋の運営・管理するショッピングセンター。
    • [91]専門店がこうした形で本格的なショッピングセンターを作ったのは日本で初めてだという。
    • [92]ビルの設計は鈴屋だが、敷地・建物とも所有は日本不動産銀行系のアサヒ都市開発で、鈴屋は賃借。建設費は鈴屋が払っている。
    • [93]昭和51年6月、本社を青山に移転し同時にベルコモンズを開店。店舗数は53(海外6店を含む)。鈴木氏は以前の所在地を湯島と語っている。
    • [94]うわさが最初に出たのは夏ごろで、青山に作ったベルコモンズの不振を苦にして鈴木氏が自殺未遂した、死んだという内容だった。
    • [95]鈴木氏は借入金について「それは非公開なのでいえませんが、大したことないです。おまけに当社は預金が多くて、その点経営が甘いといわれるくらい」と述べた。
    • [96]ベルコモンズの当初の年商予想30億円に対し、社長室の斉藤敏氏は「3億~4億円超えそう」と述べた。
    • [97]鈴屋は未上場企業で財務データを公表せず、株主は鈴木義雄氏ただ1人。
    • [98]取材チームが入手した51年2月期の決算では、公表数値370億円に対し売上高331億円、経常利益11億円、支払い利息11億7000万円。借入金は短期40億円、長期119億6000万円の合計160億円。
    • [99]支払手形はゼロで、仕入先も「鈴屋さんは前から現金決済一本ヤリ」と語った。仕入れは600有余の問屋から現金仕入れ。
    • [100]借入のピークは昭和51年8月で180億円ぐらい。その後は預金を取り崩して高金利の借金を返済し金融費用の切り下げを図っている。
    • [101]「メーンバンクの第一勧銀も、鈴屋の拡大政策が青山ベルコモンズで一段落したという了解のもとで支援しているとみられますからね」との情報筋の証言。
創業ストーリー(8)

初の減益決算と借入依存度72%の借金体質

青山ベルコモンズは、10年にわたって加速した出店の到達点にあたる。1960年代後半に年1店から2店だった鈴屋の出店は1970年代前半に年平均5店へ上がり、1974年から1976年までは年8店が続いた[102]。立地は繁華街の角地の一等地、1店の売場面積は400坪という大型店志向で、地方スーパーや中堅スーパーをしのぐ速さで国内49店・海外8店まで広げた[103]。自己資金は追いつかず、長短の借入金は1973年の103億円から1975年に160億円へ膨らみ、1977年2月末には180億円に達し[104]、総資産に対する借入依存度は1975年度末で72%となってダイエーの59%を上回った[105]

    • [102]昭和40年代前半には年1~2店の出店ペースだったのが40年代後半には年5店平均に変わり、49年から8店のペースが51年まで続いた。
    • [103]鈴屋の店舗政策は売場面積400坪の大型店志向で、立地は繁華街の角地の一等地に執着する高コスト型店舗。地方スーパー、中堅スーパーをしのぐ出店ペースで店舗数49店、海外店8店に達した。
    • [104]長短借入金は昭和48年に103億円だったものが50年には160億円へ急膨脹し、52年2月末で180億円にのぼる。高収益でも急速な出店に自己資金が追いつかない。
    • [105]鈴屋の借入依存度(対総資産)は50年度末で72%と悪化し、ダイエーの59%(52年度末)を上回った。

1977年2月期、鈴屋は売上高378億円と前期比14%の増収を確保しながら、経常利益は9億2000万円と17%減らし、会社設立以来はじめての減益決算となった[106]。年率30%から40%の増収が当たり前だった時期には安心して見ていられた借金も、消費の停滞と店舗展開のつまずきが重なると意味が変わった。売場面積が16%増えたのに対し1976年度の増収率は14%にとどまり、坪効率が落ちた[107]。青山ベルコモンズは初年度目標を下回り、テナントも義理で入っているようなものだと業界筋にみられた[108]。4年前に新宿駅中央口近くのビル1階から3階に開いた紳士服店ベルアルノ新宿店は、1978年に撤退した[109]

    • [106]52年2月期決算は売上高378億円(前期比14%増)に対し経常利益9億2000万円と17%減。鈴屋にとって会社設立以来初めての減益決算。
    • [107]借金体質も年率30~40%の売上増が当たり前だった高度成長期には「安心して見ていられる」が、消費の停滞、店舗展開の躓き、坪効率の低下(51年度は売場面積16%増に対し14%増収率)が目立つと黄信号となる。
    • [108]青山ベルコモンズは「同社の初年度目標を下回り、中に入っているテナントも義理で入っているようなもの」(業界筋)というのが現実の姿に近い。
    • [109]新宿駅中央口に近いビル1~3階、約205平方メートルに4年前に開いた紳士服・ベルアルノ新宿店が今年に入って撤退した。

1977年5月、鈴屋は鈴屋ニュー路線と名づけた新三カ年計画を始め[110]、営業本部・商品部・店舗開発部・開発事業部・海外事業部の5事業部を、YCS事業部から外商事業部まで8つに組み替えた[111]。路線の転換を狙ったのは第三事業部で、売場30坪から50坪の中型店をローコスト・ロープライスの業態として地方都市と郊外に出す役を負った[112]。それまでの鈴屋は600余りの問屋からこまめに現金で仕入れ、オリジナル商品は1割から1割5分にとどめ、売場には同業他社より2割から3割多い人員を置く高コスト高回転で稼いでいた[113]。ベル・パリ原宿店やサンローゼ赤坂店のように高級ファッションビルへ出した店は高収益店にならず、海外店も香港店を除いて見込んだ収益をあげられなかった[114]

    • [110]昨年(昭和52年)5月にスタートした「鈴屋ニュー路線」と銘打った新三ヵ年計画を進めている。
    • [111]以前の社長以下5事業部(営業本部、商品部、店舗開発部、開発事業部、海外事業部)を8事業部(YCS事業部、第一・第二・第三事業部、商品企画事業部、ベルコモンズ事業部、海外事業部、外商事業部)に改編した。
    • [112]「路線の転換を狙った」のは第三事業部の設置で、ローコスト・ロープライス店という新業態の開発が狙い。売場面積30坪から50坪の中型店を指向し、地方都市および郊外へ出店する。
    • [113]仕入れは600有余の問屋から現金仕入れでこまめに集め、オリジナル商品は10~15%と少なく、各売場に他の専門店に比べ2~3割増しの人員を投入する「高コスト=高回転」が鈴屋の基本戦略。
    • [114]ベル・パリ原宿店、パレ・フランス、サンローゼ赤坂店と超高級ファッションビルに出店しながら高収益店舗となっていない。海外店も香港店以外は軒並み予想通りの収益をあげていない。
    • [102]昭和40年代前半には年1~2店の出店ペースだったのが40年代後半には年5店平均に変わり、49年から8店のペースが51年まで続いた。
    • [103]鈴屋の店舗政策は売場面積400坪の大型店志向で、立地は繁華街の角地の一等地に執着する高コスト型店舗。地方スーパー、中堅スーパーをしのぐ出店ペースで店舗数49店、海外店8店に達した。
    • [104]長短借入金は昭和48年に103億円だったものが50年には160億円へ急膨脹し、52年2月末で180億円にのぼる。高収益でも急速な出店に自己資金が追いつかない。
    • [105]鈴屋の借入依存度(対総資産)は50年度末で72%と悪化し、ダイエーの59%(52年度末)を上回った。
    • [106]52年2月期決算は売上高378億円(前期比14%増)に対し経常利益9億2000万円と17%減。鈴屋にとって会社設立以来初めての減益決算。
    • [107]借金体質も年率30~40%の売上増が当たり前だった高度成長期には「安心して見ていられる」が、消費の停滞、店舗展開の躓き、坪効率の低下(51年度は売場面積16%増に対し14%増収率)が目立つと黄信号となる。
    • [108]青山ベルコモンズは「同社の初年度目標を下回り、中に入っているテナントも義理で入っているようなもの」(業界筋)というのが現実の姿に近い。
    • [109]新宿駅中央口に近いビル1~3階、約205平方メートルに4年前に開いた紳士服・ベルアルノ新宿店が今年に入って撤退した。
    • [110]昨年(昭和52年)5月にスタートした「鈴屋ニュー路線」と銘打った新三ヵ年計画を進めている。
    • [111]以前の社長以下5事業部(営業本部、商品部、店舗開発部、開発事業部、海外事業部)を8事業部(YCS事業部、第一・第二・第三事業部、商品企画事業部、ベルコモンズ事業部、海外事業部、外商事業部)に改編した。
    • [112]「路線の転換を狙った」のは第三事業部の設置で、ローコスト・ロープライス店という新業態の開発が狙い。売場面積30坪から50坪の中型店を指向し、地方都市および郊外へ出店する。
    • [113]仕入れは600有余の問屋から現金仕入れでこまめに集め、オリジナル商品は10~15%と少なく、各売場に他の専門店に比べ2~3割増しの人員を投入する「高コスト=高回転」が鈴屋の基本戦略。
    • [114]ベル・パリ原宿店、パレ・フランス、サンローゼ赤坂店と超高級ファッションビルに出店しながら高収益店舗となっていない。海外店も香港店以外は軒並み予想通りの収益をあげていない。
創業ストーリー(9)

メインバンクの支援打ち切りと負債526億円の和議申請

1990年代に入ると、日本の衣料品専門店が立っていた前提そのものが崩れた。大手専門店はシーズンの初めにアパレルの作った商品をできるだけ多く店に並べ、その中から売れる商品だけを急いで追加発注する品揃え型の商売を続けていた[115]。ところが消費者の好みが細分化し、種々雑多な商品が並ぶ店ではなく、明確で個性的なイメージを持つブランドが求められるようになる[116]。香港のジョルダーノやトピーは、自ら商品を企画して外部の縫製工場に生産を発注し、買い取った商品を直営店で売る製造小売業の仕組みを携えて日本市場に入ってくる一方[117]、日本勢の店じまいは1997年に集中し、鈴丹は100店、キャビンは約70店を閉じた[118]

  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [115]日本の大手専門店は、シーズンの初めにアパレルが作った商品をできるだけたくさん店に並べ、その品揃えの中から売れる商品だけを急いで追加発注する商売のやり方だった。
    • [116]消費者の好みが細分化した結果、種々雑多な商品が店頭に並んでいるだけの品揃え型専門店ではなく、明確で個性的なイメージを持つブランドが求められるようになった。
    • [117]ジョルダーノなどの業態は製造小売業(SPA)と呼ばれ、自ら商品を企画・立案して外部の縫製工場に生産を発注し、商品はすべて買い取って主に直営店で販売する。トピーは香港最大の婦人服専門店グループで1994年に日本で店舗展開を始めた。
    • [118]鈴丹は97年に100店、98年に60店の不採算店舗を閉め、キャビンは97年に約70店を閉める。

1909年に東京・上野で鈴木商店として開いてから88年後、鈴屋はファッション専門店の旗手と呼ばれたまま消えた[119]

  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [119]明治42年、東京・上野に鈴木商店開業。/和議申請した鈴屋は「70年代のファッション専門店の旗手」と評された。
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [115]日本の大手専門店は、シーズンの初めにアパレルが作った商品をできるだけたくさん店に並べ、その品揃えの中から売れる商品だけを急いで追加発注する商売のやり方だった。
    • [116]消費者の好みが細分化した結果、種々雑多な商品が店頭に並んでいるだけの品揃え型専門店ではなく、明確で個性的なイメージを持つブランドが求められるようになった。
    • [117]ジョルダーノなどの業態は製造小売業(SPA)と呼ばれ、自ら商品を企画・立案して外部の縫製工場に生産を発注し、商品はすべて買い取って主に直営店で販売する。トピーは香港最大の婦人服専門店グループで1994年に日本で店舗展開を始めた。
    • [118]鈴丹は97年に100店、98年に60店の不採算店舗を閉め、キャビンは97年に約70店を閉める。
  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [119]明治42年、東京・上野に鈴木商店開業。/和議申請した鈴屋は「70年代のファッション専門店の旗手」と評された。

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沿革年表 1909〜1997年

鈴屋の沿革1909〜1997年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1909〜1961年上野駅前のガス灯から始まり、男物を捨てて婦人服の鈴屋になるまで鈴木房吉氏が東京市下谷区で鈴木シャツ被服店を開業★★★
鈴木房吉株式会社に改組★★
鈴木房吉鈴木義雄氏が専務に就任し婦人服専門店に転換★★★
鈴木房吉婦人服ブランド「SUZUYA」を開始し社名を鈴屋に変更★★
1962〜1975年上野から新宿、シャンゼリゼ通りへ延ばした27店の売り場鈴木義雄鈴木義雄氏が社長に就任★★
鈴木義雄パリ・シャンゼリゼ店を開業★★
鈴木義雄香港店を開業
1976〜1997年青山ベルコモンズの開業から負債526億円の和議まで鈴木義雄東京・北青山にファッションビル青山ベルコモンズを開業★★★
鈴木義雄店舗数が全国約300店に到達★★
鈴木義雄日本専門店協会の設立にともない鈴木義雄氏が初代会長に就任
鈴木義雄衣料販売の不振により赤字に転落★★
鈴木義雄渋谷店をサンドラッグの店舗に転換
鈴木義雄新宿店をツタヤの店舗に転換
鈴木義雄住金物産・住友商事・鈴乃屋による再建計画が住友商事の撤回で頓挫★★
鈴木義雄主力取引銀行の第一勧業銀行が支援を打ち切り★★
鈴木義雄手形不渡りにより東京地方裁判所に和議を申請★★★
出典・参考 5件
出典・参考

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