1909年、鈴木房吉氏が東京・上野の駅前に洋品雑貨店の鈴木商店を開いた[1]。房吉氏は福井県の士族の家に生まれ、16歳で東京へ出て働き、20歳で独立し[2]、店には肌着、シャツ、毛糸、毛布といった洋品と小間物を並べた[3]。ただ、房吉氏が他の商店に先駆けて手を入れたのは品ではなく店先で、拝見棚、いまのショーウィンドーを構え、ガス灯で店内を照らして通りを歩く客の目を引いた[4]。掛け値も値引きもせずに正札で売り、買った客が気に入らないと言って持ち込めば快く引き取り[5]、正札を付けず、客と店主の胸算用で値が決まるのが当たり前の商売のなかで、房吉氏はその流儀を嫌った[6]。
堅い商いが実を結び、創業14年目の1923年には店舗が150坪に広がり、昭和通りに面した上車坂町に支店を開いた[7]。店売りとあわせて外売にも力を入れ、店独自の商品を持とうと洋品の加工にも手を付けた[8]が、同じ年の関東大震災で店は被害を受け、震災後の不況の余波で、伸びてきた商売はくだり坂に入った[9]。房吉氏はこの不況を乗り越えるために新しい手を打ち[10]、1928年に新案特許の乳バンド、つまりブラジャーの製造販売を始める[11]。あわせて男もののYシャツ、肌着、下着、白衣を作り、かっぽう着も売り出してかなりの好評を得た[12]。
満州事変から日中戦争、太平洋戦争へと戦線が延びるにつれ、平和産業は軍需産業へ切り換えられた[13]。繊維も例外ではなく、あらゆる繊維が軍需用に調達され、国民の衣料生活は急速に乏しくなった[14]。鈴木商店の店頭も商品が細り、やがて切符による衣料の配給制が始まり[15]、企業整備令も出されて数軒の店が強制的に合併させられた[16]。房吉氏は、このまま他の店と合併しても自分の思うような商売はできないと考え、店をたたんで上車坂町の自宅に引っ込んだ[17]。おしゃれができる時代が戻り、息子が大きくなったころに二人でやれば前より素晴らしい店ができる、というのが店を閉じるときの見通しだった[18]。
終戦の翌年の1946年、房吉氏は焼けくずれた建物の残骸がころがる上野広小路の一画に土地を見つけ、店舗を建てた[19]。これがのちに鈴屋の本拠地となる上野店の始まりにあたる[20]。衣料の統制はまだ解けておらず、昔からの顔を生かして問屋を回り、手に入れたいくらかの洋品を売った[21]。このとき店を手伝った、呉服問屋に嫁いだものの夫を戦争で失った房吉氏の娘の小泉清子氏は[22]、やがて独立し、房吉氏の助けを得て同じ上野に40平方メートルの店を構えて呉服小売店を開いた[23]。この店には、鈴屋に実母の名から一字を入れた鈴乃屋という名を付けた[24]。
戦後の店は、商品がやや出回りだしたころから女物もいくらかは扱ったものの、主力はYシャツや肌着などの男物が占めた[25]。男物は商品の利益率が低く、回転率もたいしたことはなく、売り上げを伸ばす見込みが立たなかった[26]。慶応大学を出て繊維商社の伊藤萬に勤めていた房吉氏の子、鈴木義雄氏は、洋品店は女物専門でなければ本当に伸びないと父に進言する[27]。手始めに毛糸を扱って客の入りを試すと、思っていた以上に女性客が入ってよく売れ[28]、義雄氏は全面的に女性洋品へ切り換えた[29]。長年の男の客を失う代わりに、鈴屋は1953年、婦人洋品雑貨の専門店として完全な形で客の前に姿を現した[30]。
外から助言している時ではないと考えた義雄氏は、1954年に伊藤萬を退社し、専務として新しい店づくりに入った[31]。最初に替えたのは商品ではなく店名で、ありふれた鈴木商店という名では客の頭に残らないとして、コロコロという鈴の音を連想させる鈴屋に改め、店先に大きな鈴の看板を掲げた[32]。宣伝にも手を伸ばし、開局したばかりのラジオ東京にスポットを流した[33]。何十万円もするスポット料は切り換えたばかりの小さな商店の売り上げに見合わず、採算を度外視するほかなかった[34]。義雄氏は店員と一緒に店頭へ出て自ら接客し、その態度を店員に学ばせ[35]、切り換えから1年ほどで、鈴屋は業界でおしゃれの店のパイオニアと呼ばれるようになった[36]。
義雄氏が上野の店に置いた狙いは、銀座での買物を上野でさせることにあり[37]、有楽町や丸の内で働く女性が上野まで足を運んで鈴屋のファンになった[38]。専門店として新しい生き方を続けるため、銀座店とスキヤ橋店を開き、中級品からデラックス商品までを置いた[39]。1960年、義雄氏はアメリカと西欧を回って外国の専門店の生き方を学ぶ[40]。大量生産販売のアメリカ式商法より、とぎすました鋭い商品を独特のセンスで売るヨーロッパ的商法を研究し、売上げより商品の質の向上が要ると考えて研究室を設け、ハイセンス商品の開発に力を入れ出した[41]。
鈴木義雄氏は1960年にアメリカと西欧を回り、各国の専門店の商いを見て歩いた[42]。大量生産と大量販売で押すアメリカ式より、研ぎ澄ました商品を独特の感覚で売るヨーロッパ式に学ぶところを見て、売上高を伸ばすことより商品の質を上げることを先に置き、社内に研究室を設けてハイセンス商品の開発にあたらせた[43]。1962年秋、上野駅前で洋品雑貨店を開いた初代の鈴木房吉氏が74歳で世を去り、義雄氏が後を継いで社長に就いた[44]。就任時は38歳で、店員は450人を数え[45]、鈴木社長は商売はアイデアで勝負するものだと語った[46]。
銀座で買う買い物を上野で、という組み立てで有楽町や丸の内に勤める女性を上野まで通わせ、そのうえで銀座店とスキヤ橋店を開いて中級品からデラックス商品までを置き[47]、続いて池袋店と立川店を構えた[48]。1964年5月には新宿店を開き、家か勤め先の最寄りで買えるようにと都内の盛り場へ店を並べた[49]。上野の店には、隣に同じ形の店があっても客がその前を通り越して入った[50]。どの店にもスーツ、ブラウス、セーター、スカート、コート、子供服、下着、小物を並べ、ハイティーンからヤングミセスまでを対象に最新のものを厳選した[51]。
各売り場の設計、装飾、陳列、商品の選択まで、担当の女店員が知恵を出し合って責任を負った[52]。女性の心理は女性が一番よく知る、という理由からであり[53]、売り場ごとに成績を競うコンクール制を敷いて、売上高の順位に加えて客への応対やサービスの仕方まで点数にした[54]。商品はフランス語で鈴の音を指すソネリエの名を付けた自主企画品を柱に、同じデザインを数多く作らず、種類をそろえた[55]。大売り出しを除いて掛け値も値引きもしない正札販売は、初代の代から変えなかった[56]。バーゲンセールのほかバレンタインデー、パリー祭、クリスマスにも特別セールを置き、月ごとに何かしらの催しを開いた[57]。
店を増やす速度は1970年代に入って一段上がり、1960年代後半まで年に1〜2店だった出店が年5店平均へ変わった[58]。1969年の大阪・梅田店を皮切りに西下作戦を展開し、東京の盛り場に閉じていた売り場を関西へ延ばした[59]。動かしたのは店だけではなく、パリとニューヨークには流行の情報を集める駐在員を置き、店頭に並べるものを自前で決める材料を取り込んだ[60]。
1972年5月、パリのシャンゼリゼ通りに70平方メートルのチェーン店を開いた[61]。ファッションの本場に店を構えた日本のファッション企業は、当時ほかになかった[62]。同じ年の暮れにサンジェルマン通りへ2号店、1973年3月にはシャンゼリゼ通りへ3号店を出店[63]。1972年秋にはパリ婦人既製服組合への加盟が認められ、単独でファッションショーも開き[64]、1973年には香港にも店を開いて海外の売り場を欧州とアジアの二方面に持った[65]。本社は東京、資本金は1億円で[66]、株式は公開せず、営業報告書も外には出さなかった[67]。
1973年のチェーン店は海外の3店を含めて27店、年商は150億円[68]。自主企画品の比率は全体の50%以上に達し[69]、一般の広告宣伝を一切せず、宣伝は口コミに任せていた[70]。同年2月上旬、東京・五反田の東京卸売センターで開いた恒例のバーゲンには、徹夜組40人を含めて午前9時に3000人の女性が列をなし、その列は夕方まで途切れなかった[71]。前日まで店頭に並んでいたセーターやスカートが3分の1から5分の1で買えるため、九州から駆けつける客もおり[72]、会場の入口で渡された大きなナイロン袋にバーゲン品を詰め、出口で2万円も3万円も支払っていく客が大半を占めた[73]。
鈴木社長の時代の鈴屋は、専門店の収益率の高さと巧みな店舗展開をひっさげ、ベル・エポック(良き時代)と呼ばれる拡大期を作った[74]。1974年に入ると出店は年8店のペースへ上がり、同年には北海道・札幌に二号店を出して、東京と関西に続く全国チェーンの土台を固めた[75]。店の作り方は売り場面積400坪の大型店を志向し、立地は繁華街の角地の一等地に絞り[76]、同じ1974年には新宿駅中央口に近いビルの1階から3階、約205平方メートルに紳士服のベルアルノ新宿店を開いた[77]。鈴木社長は開店当時、女性ものを究めるには男性ものをやらなければならないと語ったとされる[78]。
鈴木社長は最大の防御は最大の攻勢だと常々語り、その構えは社内の仕組みにそのまま表れており[79]、仕入れは小回りの分散主義を通し、取引先である600余りの問屋から、年間取引高1000万円の小口から5億円の大口まで、現金でこまめに集めた[80]。店仕入れと本部仕入れの比率は半々で、オリジナル商品は10〜15%にとどまる[81]。各売り場には他の専門店より2〜3割多い人員を投じ、売り場管理と商品管理を細かく回した[82]。一等地の400坪に厚い人員を置いて商品を速く売り切る、高コストで高回転というのが鈴屋の基本戦略である[83]。
1973年に150億円だった年商は、1974年に190億円、1975年には259億円へ達した[84]。1975年のファッションブームでは、スーパーや百貨店の収益率をはるかにしのぐ専門店が脚光を浴びた[85]。年率30〜40%の売り上げ増が当たり前とされた時期であり[86]、売上を伸ばしたぶんの元手は借入で、長短借入金は1973年の103億円から1975年には160億円へ膨らみ[87]、総資産に対する借入依存度は1975年度末で72%に達した[88]。この72%は、1977年度末のダイエーの59%を上回る水準にあたる[89]。
1976年6月2日、鈴屋は東京・北青山にファッションビル青山ベルコモンズを開いた。地下1階・地上11階、延べ床面積1万3900平方メートルで、6階から上を本社が使い、下層を鈴屋自身が運営・管理する専門店街にあてた[90]。専門店がこの形で本格的なショッピングセンターを開発したのは日本で初めてだった[91]が、敷地と建物を所有するのは日本不動産銀行系のアサヒ都市開発で、鈴屋は建設費を払ったうえでビルを賃借する立場に置かれた[92]。同じ月に本社も湯島から青山へ移し、店舗数は海外6店を含めて53店に達した[93]。
開業した夏ごろから、鈴木社長が青山ベルコモンズの不振を苦にして自殺したという噂が業界に流れ[94]、噂の根には投資額があった。借入金についても非公開だとしたうえで大したことはないと述べ、むしろ預金が多く経営が甘いと言われるくらいだと付け加えた[95]。青山ベルコモンズ自体は、初年度の年商予想30億円を3億円から4億円上回る見通しにあった[96]。
鈴屋は株主が鈴木社長ただ1人の非上場企業で、財務数値を公表していなかった[97]。公表していた1976年2月期の売上高370億円に対し、決算の実数は売上高331億円、経常利益11億円、支払利息11億7000万円で、短期40億円と長期119億6000万円を合わせた借入金は160億円にのぼった[98]。600余りの問屋への支払は現金一本で、支払手形はゼロで[99]、借入金はその後も増え、1976年8月に180億円ほどでピークを打ち、以後は預金を取り崩して高金利の借金を返済し、金融費用を切り下げにかかった[100]。主力取引銀行の第一勧業銀行は、鈴屋の拡大政策が青山ベルコモンズで一段落したという了解のもとで支援しているとみられた[101]。
青山ベルコモンズは、10年にわたって加速した出店の到達点にあたる。1960年代後半に年1店から2店だった鈴屋の出店は1970年代前半に年平均5店へ上がり、1974年から1976年までは年8店が続いた[102]。立地は繁華街の角地の一等地、1店の売場面積は400坪という大型店志向で、地方スーパーや中堅スーパーをしのぐ速さで国内49店・海外8店まで広げた[103]。自己資金は追いつかず、長短の借入金は1973年の103億円から1975年に160億円へ膨らみ、1977年2月末には180億円に達し[104]、総資産に対する借入依存度は1975年度末で72%となってダイエーの59%を上回った[105]。
1977年2月期、鈴屋は売上高378億円と前期比14%の増収を確保しながら、経常利益は9億2000万円と17%減らし、会社設立以来はじめての減益決算となった[106]。年率30%から40%の増収が当たり前だった時期には安心して見ていられた借金も、消費の停滞と店舗展開のつまずきが重なると意味が変わった。売場面積が16%増えたのに対し1976年度の増収率は14%にとどまり、坪効率が落ちた[107]。青山ベルコモンズは初年度目標を下回り、テナントも義理で入っているようなものだと業界筋にみられた[108]。4年前に新宿駅中央口近くのビル1階から3階に開いた紳士服店ベルアルノ新宿店は、1978年に撤退した[109]。
1977年5月、鈴屋は鈴屋ニュー路線と名づけた新三カ年計画を始め[110]、営業本部・商品部・店舗開発部・開発事業部・海外事業部の5事業部を、YCS事業部から外商事業部まで8つに組み替えた[111]。路線の転換を狙ったのは第三事業部で、売場30坪から50坪の中型店をローコスト・ロープライスの業態として地方都市と郊外に出す役を負った[112]。それまでの鈴屋は600余りの問屋からこまめに現金で仕入れ、オリジナル商品は1割から1割5分にとどめ、売場には同業他社より2割から3割多い人員を置く高コスト高回転で稼いでいた[113]。ベル・パリ原宿店やサンローゼ赤坂店のように高級ファッションビルへ出した店は高収益店にならず、海外店も香港店を除いて見込んだ収益をあげられなかった[114]。
1990年代に入ると、日本の衣料品専門店が立っていた前提そのものが崩れた。大手専門店はシーズンの初めにアパレルの作った商品をできるだけ多く店に並べ、その中から売れる商品だけを急いで追加発注する品揃え型の商売を続けていた[115]。ところが消費者の好みが細分化し、種々雑多な商品が並ぶ店ではなく、明確で個性的なイメージを持つブランドが求められるようになる[116]。香港のジョルダーノやトピーは、自ら商品を企画して外部の縫製工場に生産を発注し、買い取った商品を直営店で売る製造小売業の仕組みを携えて日本市場に入ってくる一方[117]、日本勢の店じまいは1997年に集中し、鈴丹は100店、キャビンは約70店を閉じた[118]。
1909年に東京・上野で鈴木商店として開いてから88年後、鈴屋はファッション専門店の旗手と呼ばれたまま消えた[119]。
| 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1909〜1961年上野駅前のガス灯から始まり、男物を捨てて婦人服の鈴屋になるまで | 鈴木房吉氏が東京市下谷区で鈴木シャツ被服店を開業 | ★★★ | ||
| 鈴木房吉 | 株式会社に改組 | ★★ | ||
| 鈴木房吉 | 鈴木義雄氏が専務に就任し婦人服専門店に転換 | ★★★ | ||
| 鈴木房吉 | 婦人服ブランド「SUZUYA」を開始し社名を鈴屋に変更 | ★★ | ||
| 1962〜1975年上野から新宿、シャンゼリゼ通りへ延ばした27店の売り場 | 鈴木義雄 | 鈴木義雄氏が社長に就任 | ★★ | |
| 鈴木義雄 | パリ・シャンゼリゼ店を開業 | ★★ | ||
| 鈴木義雄 | 香港店を開業 | ★ | ||
| 1976〜1997年青山ベルコモンズの開業から負債526億円の和議まで | 鈴木義雄 | 東京・北青山にファッションビル青山ベルコモンズを開業 | ★★★ | |
| 鈴木義雄 | 店舗数が全国約300店に到達 | ★★ | ||
| 鈴木義雄 | 日本専門店協会の設立にともない鈴木義雄氏が初代会長に就任 | ★ | ||
| 鈴木義雄 | 衣料販売の不振により赤字に転落 | ★★ | ||
| 鈴木義雄 | 渋谷店をサンドラッグの店舗に転換 | ★ | ||
| 鈴木義雄 | 新宿店をツタヤの店舗に転換 | ★ | ||
| 鈴木義雄 | 住金物産・住友商事・鈴乃屋による再建計画が住友商事の撤回で頓挫 | ★★ | ||
| 鈴木義雄 | 主力取引銀行の第一勧業銀行が支援を打ち切り | ★★ | ||
| 鈴木義雄 | 手形不渡りにより東京地方裁判所に和議を申請 | ★★★ |
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事実根拠:出所(鈴屋)