鈴屋の源流は、1909年に鈴木房吉氏が上野駅に近い上車坂の住まいにミシン1台を据えて始めた鈴木屋にある。福井県今立郡の郷士の分家に生まれた房吉氏は、16歳で上京して下谷の肌着店に奉公したが、ミシンの技術を教わる機会がなく、19歳で独立した。開業当初は肌着の直しを請けながら店先にたばこや石けん、文具を並べたが、隣家が雑貨とたばこの販売を始めて売れ行きは大きく低下した。下谷や神田、浅草へ雑貨の行商にも出たものの1日に2、3点しか売れず、房吉氏と妻の乃婦氏はミシン仕事に戻った。明治から大正へ移るころ、房吉氏は板ガラスを3面に入れた拝見棚、現在のショーウィンドーを店先に設け、夜はガス灯で照らして通行客の目を引いた。
経営が安定したのは第1次世界大戦の輸出需要からで、房吉氏はミシンを増やして手袋を縫わせ、編み機を買い入れて約10人の通勤女工に靴下を編ませた。製品はすべて輸出向けで受注に生産が追いつかず、店の裏手の長屋を工場に転用し、倉庫も別に確保した。続いてネル肌着の縫製販売に進出し、東京で5、6店に限られた同業による和歌山からの共同仕入れを取りまとめ、屋号を鈴木肌着店に改めた。衣料品は客と店主の駆け引きで値が決まるのが通例だったが、店は掛け値を付けない正札販売に切り替え、気に入らないと持ち込まれた品は引き取った。1923年の関東大震災では商品を上野の山へ運び出して焼失を免れ、9月末に上根岸の借家で販売を再開した。10月には上車坂の焼け跡に建てた店を鈴木シャツ店と名付け、2店で営業した。
1927年の金融恐慌と1930年の金輸出解禁で不況が深まり、昭和通りの開通と地下鉄の開業で人の流れも変わって、店の客足は細った。房吉氏は女性の洋装の広がりに着目し、1928年にブラジャーにあたる乳バンドを製造して売り出した。特許を出願して宣伝にも力を入れたが、需要の総量が少なく、製品は中断に終わった。代わって伸ばしたのが肌着と並んで縫っていた白衣で、東京で食品製造業者や食堂の従業員に白衣の着用が求められたことが契機になった。注文を募る書状は、妻の乃婦氏の提案で印刷はがきから毛筆の封書に替え、長女の文江氏が書いた。上野駅の食堂や列車食堂を請け負う伯養軒の入札で同業3軒を抑えて落札すると、木村屋や資生堂、不二家からも注文が続き、店名を鈴木裁縫店に改めた。
日中戦争が長引くと平和産業は軍需へ振り向けられ、繊維も軍需用に調達された。1938年の物品販売価格取締規則、1940年の繊維製品統制規則を経て、1942年には衣料切符制が敷かれ、衣料小売店では転業や廃業が相次いだ。そのなかで鈴木裁縫店は、衛生上欠かせない白衣を扱い、軍医や看護婦向けの納入もあったため、一定量の材料の配給を受けて生産を続けた。1945年3月10日の東京大空襲で上野一帯は多くの家屋を失ったが、鈴木裁縫店の建物は焼け残り、人的な被害も出なかった。それでも東京での生活は続けられないと判断した房吉氏は、商品と材料を携え、一家で茨城県東茨城郡上野合村へ移った。
終戦から半月後の1945年8月末、房吉氏は疎開先に置いた商品と材料を携えて東京へ戻った。焼け残った昭和通りの店は使わず、上野駅前に小さな店舗を借りて鈴木商店の名で商いを再開し、長女の文江氏ら姉弟5人が両親を手伝った。同年11月28日には、のちの上野店の所在地である上野広小路に木造2階建ての店を構えて屋号を鈴屋とした。品ぞろえは男性向けのワイシャツや肌着、靴下に、たばこやライターを加えたものだった。1946年3月には広小路を挟んで松坂屋の向かいに呉服店の鈴乃屋を開業し、房吉氏が社長を兼ね、運営は次女の小泉清子氏が担った。清子氏は呉服問屋に嫁いだが夫を戦争で失っており、店名は鈴屋の2字の間に母の乃婦氏の名から1字を入れて付けた。
衣料の統制が続いた数年間、店の売り上げはワイシャツや肌着の製造販売、雑貨、毛糸の販売で成り立っていた。男物の品ぞろえの間に置いた手編み用の毛糸は、衣料の不足から家庭で編む人が多く、1949年ごろから商品に占める比重を増した。愛知県尾西地方のメーカーに羊毛の混合率を指定した独自の毛糸を売り、編む途中で買い足す客のために製品に製造年月日を記した。店頭には本物の鈴を収めた箱の周りをネオンの小さな鈴が回る看板を掲げ、音の出るネオンとして新聞に取り上げられた。1950年の朝鮮戦争の特需で業績が伸び、1951年3月には資本金100万円で株式会社鈴屋に改組し、房吉氏が社長に就任した。
1954年9月、房吉氏の次男で、繊維商社の伊藤萬で貿易と染色の部門に勤めていた鈴木義雄氏が同社を退き、専務に就任した。義雄氏はかねて洋品店は女物に絞らなければ伸びないと父に説いており、就任にあたって経営の一切を任されることを求め、房吉氏はこれを受け入れた。当時の店は毛糸とセーターで客を集め、紳士物も売れていたが、義雄氏は扱う品をすべて若い女性向けの衣料品に絞る方針を立てた。取引先の問屋からは男物を続けるほうが安全だとの忠告もあった。義雄氏は婦人洋装店や百貨店の婦人売場で売れ方と客の装いを調べたうえで、紳士用品を売り切るバーゲンセールを開き、女性客に的を絞った店へ移行した。
切り替え後も常連の求めに応じて毛糸は売り続け、1956年からは鈴の音を指すフランス語にちなむソネリエを自社製品の名に用いた。1955年には買い取った隣家と合わせて間口を4間に広げ、ショーウィンドーの商品の配置を毎日替えた。宣伝では開局まもないラジオ東京にスポットを流し、その料金は切り替えたばかりの店の売り上げに見合わなかった。しばらくしてテレビCMにも出稿し、1956年7月に避暑地へ出した夏季限定の軽井沢店も、採算より店の名を若い客に広めることを狙った。店頭では義雄氏自身が店員と並んで客に応対し、切り替えから1年ほどで業界でおしゃれの店の草分けとみなされた。
義雄氏が上野の店で狙ったのは銀座へ向かう買い物客を上野で受け止めることで、有楽町や丸の内に勤める女性が上野まで足を運んだ。1957年7月にはスキヤ橋ショッピングセンターに銀座地区で最初の店を出し、同年度の年商は初めて1億円に達した。1959年には毛糸の販売をやめて全商品を衣料品に切り替えた。1960年2月には義雄氏が欧米の専門店を視察し、流行はパリに、売り方の仕組みは米国に学ぶ方針を固めた。帰国後は自社製品を縫う下請けの縫製工場を整え、これらをソネリエ会として組織した。同年9月には銀座みゆき通りに銀座店を開設し、1961年10月には木造だった上野店を鉄筋5階建てのビルに建て替えた。
鈴木義雄氏は1960年にアメリカと西欧を回り、各国の専門店の商いを見て歩いた。大量生産と大量販売で押すアメリカ式より、研ぎ澄ました商品を独特の感覚で売るヨーロッパ式に学ぶところを見て、売上高を伸ばすことより商品の質を上げることを先に置き、社内に研究室を設けてハイセンス商品の開発にあたらせた。1962年秋、上野駅前で洋品雑貨店を開店した初代の鈴木房吉氏が74歳で世を去り、義雄氏が後を継いで社長に就任した。就任時は38歳で、店員は450人を数えた。商売はアイデアで競うもの——独身の若い社長が掲げた流儀である。
銀座で買う買い物を上野で、という組み立てで有楽町や丸の内に勤める女性を上野まで通わせ、そのうえで銀座店とスキヤ橋店を出店して中級品からデラックス商品までを置き、続いて池袋店と立川店を構えた。1964年5月には新宿店を出店し、家か勤め先の最寄りで買えるようにと都内の盛り場へ店を並べた。上野の店には、隣に同じ形の店があっても客がその前を通り越して入った。どの店にもスーツ、ブラウス、セーター、スカート、コート、子供服、下着、小物を並べ、ハイティーンからヤングミセスまでを対象に最新のものを厳選した。
各売り場の設計、装飾、陳列、商品の選択まで、担当の女店員が知恵を出し合って責任を負った。女性の心理は女性が一番よく知る、という理由からであり、売り場ごとに成績を競うコンクール制を敷いて、売上高の順位に加えて客への応対やサービスの仕方まで点数にした。商品はフランス語で鈴の音を指すソネリエの名を付けた自主企画品を主力に、同じデザインを数多く作らず、種類をそろえた。大売り出しを除いて掛け値も値引きもしない正札販売は、初代の代から変えなかった。バーゲンセールのほかバレンタインデー、パリー祭、クリスマスにも特別セールを置き、月ごとに何かしらの催しを行った。
1963年2月、鈴屋は商品開発部を新設し、企画会議の方針に沿って品揃えと品質管理、仕入先との提携を受け持たせた。同年6月には下請けの16工場をソネリエ縫製組合として組織し直し、自主企画品の縫製元を固めた。商品を決める材料は4つの経路から集めた。1つは海外のファッション誌の研究、もう1つは18歳から25歳の常連客120人に毎月意見を聞くモニター制度である。残る2つは、問屋を回る仕入部員が他店へ出させない色と柄を押さえる仕組みと、売場の接客で拾った客の声であった。試作品は1種につき6点を各店のウィンドウに約10日間置き、売れ行きのよいものだけを縫製工場へ発注したが、量産の数にも上限を設けた。同じ服の着用者と街で出会わせないための数量の抑えであり、少量多品種の方針を工程の段階で担保したものとみられる。
1964年8月に湯島の本社を広げると、各店が縫製工場へ直に出していた3割の発注を本社の一括発注に改め、仕入れを本社に集めた。ただ、店ごとの品揃えの組み方は各店の裁量に残した。1965年4月には18歳から21歳の主流客をT子・M子・S子の3類型に分け、類型ごとに品揃えを組む制度を始めた。同年9月、みゆき店の筋向いに銀座5丁目店を開設し、みゆき店で受けきれない客を引き受けた。この店で初めて男性の店長を置き、新宿と池袋の店にも若い男性店長を配した。1967年11月、紀伊国屋ビル前の地下2階・地上8階のビルを買い取り、手狭になった駅ビルの新宿店に代わる独立店舗とした。
1968年4月からの1年間で、自主企画品の出来高は前期の171%にあたる24億円に達し、売上高の51%を占めた。これを受けて1969年5月に資本金を1億円へ増やし、1964年から6年続けての増資となった。同年9月にはパリだけにいた駐在員をニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドンにも置き、4都市から欧米のファッション情報を集める仕組みをWMISと名付けた。11月20日、阪急が梅田駅の地下街へ東京の専門店を呼び込んだ計画に応じて大阪梅田店を開設し、社員も商品も東京から送った。渋谷や池袋の店と同じ年商4億円を見込んだものの、開店翌月には売上目標を引き上げた。1970年3月17日に心斎橋店、4月28日に神戸の三宮店を開設し、関西の店を統括する西部地区長を置いた。
1971年の年度末、社員970人を抱えた鈴屋の年商は前年の130%となり、初めて100億円に達した。同じ年、ドルショックで景気が後退に転じるなかでも、銀座のベルブードアや福岡・札幌の店に先行して資金を投じていた。1972年3月には銀座のブティック鈴屋をベルマリエへ改め、22歳から25、6歳の客に向けたヤングアダルトの専門店とした。18歳から22歳に焦点を合わせた品揃えでは、年齢の上がった客が鈴屋から離れ始めていたためである。1973年9月、部長や課長の職名を置かないまま、人事・管理・営業・店舗開発・海外事業の5部門に最高責任者のGMGを配した。同年10月の熊本店を皮切りに、11月に横浜店、12月に名古屋店を開設した。
海外出店の構想は義雄氏が1960年に欧州を回った時期にさかのぼり、1966年にパリへ社員を常駐させてから5年の調査を重ねた。1971年9月にフランス政府へ事業許可を申請し、1972年2月、資本金100万フランのスズヤインタナショナルをパリに設けた。5月10日に開いたシャンゼリゼ店の売り場は70平方メートルであった。同年10月には近くのギャラリータメナガで海外初のコレクションショウを催し、9割を日本で縫った翌春夏のカジュアル服を200人以上に見せた。1973年2月14日にはパリで流行の発信地とされたサンジェルマン地区に2店目を出店した。同年4月初めの時点で店は海外3店を含めて27店、年商は150億円に上った。
1973年10月の石油危機のあとも出店を続け、同年度の売上高205億円、33店で、日経流通新聞の専門店ランキングの婦人服部門の首位に立った。1974年の年頭、義雄氏は使い捨ての消費から耐久性を重んじる消費へ移る可能性を挙げ、品質を軸に価値の体系を組み立て直す方針を示した。同年9月には新宿のベルアルノにメンズウェアの売り場を加え、30歳前後の装いに関心のある男性という空白の客層に踏み入った。紳士服と婦人服のあいだで互いの知見を行き来させる狙いもあった。1975年4月1日には香港の銅鑼湾に2店目を開き、海外の店は5店となった。同年の会社概要では国内38店・海外5店の計43店、社員は2500人を数えた。
1976年6月、鈴屋は東京・北青山に青山ベルコモンズを開業し、本社も同じ建物へ移した。ビルは地下1階・地上11階で、延べ床面積は1万3900平方メートルに及んだ。6階から上を本社が占め、その下の階は鈴屋が運営と管理を受け持つショッピングセンターに充てた。売場面積は3000平方メートルで、専門店が自ら開発し運営するファッションビルとしては国内で最初の例という。設計は鈴屋が手がけたものの、敷地と建物の所有者は日本不動産銀行系のアサヒ都市開発で、鈴屋は借り手の側に立った。発想は高度成長期にさかのぼり、工事の始まりは低成長期に入ってからとなった。鈴木義雄社長は、このビルを新たな顧客層を掘り起こす実験の場と位置づけた。
開業日の6月2日を境に、鈴屋と鈴木氏をめぐるうわさが業界に出回った。鈴木氏が自殺を図った、あるいは亡くなったという話まで出た。資金が回らず、現金払いを通してきた鈴屋が手形を振り出した、三井物産から人員が差し向けられる、という話も重なった。発端には、ベルコモンズのテナント集めの難航と、建設に60億〜70億円を投じたうえ入居店の売れ行きが振るわないという見方があった。鈴木氏は、建設費は鈴屋が負担したがテナントの保証金も入っており、自社で出した資金は14億〜15億円だと説明した。借入金の総額を問われても非公開を理由に明かさず、額は大きくないとだけ答えた。
うわさが勢いを得た背景には、鈴屋が未上場で財務の数字を公表せず、株主も鈴木氏1人だった事情があった。営業報告書を社外の者が目にする機会も無かった。公表売上高は1975年度に370億円と5年で3倍に増えたが、鈴木氏によれば伸び率は年40%から20%台へ下がっていた。外部に出回った1976年2月期の決算資料は、鈴屋のものとみられた。売上高331億円、経常利益11億円に対し、支払利息が11億7000万円あった。借入金は長短合わせ160億円で、支払手形は無かった。メーンバンクの第一勧業銀行は、拡大策をベルコモンズで一段落させるという了解のうえで支援しているとの見方が金融筋にあった。
1977年2月期、鈴屋の売上高は前期比14%増の378億円となった。一方で経常利益は17%減の9億2000万円にとどまり、会社を興してから初めて利益が前期を下回った。長短の借入金は1977年2月末で180億円に上った。総資産に対する借入依存度は1975年度末で72%に達し、ダイエーの59%(1977年度末)を上回った。前年の秋の時点で、借入金は180億円ほどに達し、預金を取り崩して返済に回していると金融筋はみていた。1977年2月期は金利負担が重くなるとの見通しも、同じ筋から出ていた。前期比14%増から逆算した前期の売上高はおよそ331億円で、外部に出回った鈴屋のものとみられる決算資料の数字と重なっていた。
鈴屋の店舗は売場面積400坪の大型店を基本とし、立地には繁華街の角地を選んだ。1976年度は売場面積を16%広げたのに対し、増収率は14%で、面積の伸びに売上高が届かなかった。新宿ルミネ、天神コア、高崎マミーナへの出店は、競合の厳しい場所へ後から加わる形となった。鹿児島と青山の両ベルコモンズについては、長期戦を前提にした先行投資と会社側が説明した。青山の初年度の年商は、予想の30億円を3億〜4億円上回る見込みと社長室は答えていたが、業界には初年度目標を下回ったとの見方があった。海外店も香港店を除き、見込んだ収益に達しなかった。
仕入れは600を超える問屋から現金で少しずつ買い付ける方式で、1社あたりの年間取引額は1000万円から5億円ほどまで開きがあった。店舗での仕入れと本部での仕入れはおよそ半々で、オリジナル商品は10〜15%にとどまった。取引先の一珠の柳澤社長は、鈴屋は以前から現金決済だけで、手形も支払日の延期も一度も無かったと話した。売り場には他の専門店より2〜3割多い人員を配し、売り場と商品の管理を細かく行った。人手と一等地にかけた費用を商品の回転の速さで回収する組み立てで、売上高の伸びが鈍れば、回転率の低下がそのまま収益を圧迫する形だったとみられる。
1977年5月、鈴屋は鈴屋ニュー路線と名付けた新しい3カ年計画を始め、5事業部を8事業部に組み替えた。新設の第三事業部は、売場面積30〜50坪の中型店を少ない販売員で地方都市と郊外に出す、ローコスト・ロープライスの業態の開発を受け持った。ほかの事業部にはヤングカジュアル、大人向けのトラディショナル、子供服やキャリアウーマンといった客層を振り分けた。1978年には福岡店を閉め、4年前に開いた紳士服のベルアルノ新宿店からも撤退した。同年の新規出店は2〜3店とし、採算の確証が無ければ見送る方針を示した。鈴木氏は1976年の段階で、品ぞろえの議論より先に経営管理と財務を固める必要があるとの考えを示していた。
三愛が1970年代前半に経営不振に陥ったのち、婦人服専門店の首位は鈴屋に移ったという。首位に立った鈴屋は、1983年に台湾の新光グループの小売部門である新光百貨店とフランチャイズ契約を結び、台北市内の同百貨店に1号店を開設した。約50平方メートルの売場にカジュアル単品を並べ、鈴屋はオリジナル商品の供給と店舗運営の手法の提供を受け持った。3年後に15店・年商30億円を目標とし、当面の商品は東京の本部から送る計画だった。1993年には赤城水産と共同で出資し、まぐろ料理の専門店を営むまぐろ屋さんを設立した。海外は自前の店舗を持たない提携で広げ、国内では衣料と関わりのない飲食業へも出資しており、拡大の対象は婦人服店の外へ及んでいたと思われる。
1976年に海外6店を含め53店だった店舗網は、1978年に国内49店と海外8店となり、のちに最も多い時期で約300店を数えた。売上高は1975年度の公表値370億円から、1992年2月期には約593億円に増え、これが鈴屋の年売上高の最高となった。最盛期には、法人申告所得を毎年5億円前後確保していたという。しかし1992年2月期を境に売上高は減り始め、個人消費の低迷と海外製品の輸入増による値崩れがそこに重なった。1978年の計画にあった地方都市と郊外への中型店が、約300店という規模へ店舗網を広げる道筋になったとみられる。
鈴屋の破綻を決めたのは、婦人服が売れなくなったことよりも、売れなくなったあとに借金を減らす手段が残っていなかったことだった。仕入れ先に在庫の危険を負わせ、問屋へ現金で払う鈴屋の仕組みは、在庫から借金が生まれる経路を閉じていた。売上高が593億円から317億円へ縮んでも、それだけなら店を閉じて身を細らせる余地があったはずである。ところが負債587億円の中身は、金融債務325億円と、17社の関係会社のための保証160億円だった。本業の外で積み上がった借金は、店舗網を219店まで縮めても減らず、閉店で浮く資金では追いつかなかった。売場を減らすほど売上高も減り、返済の原資はむしろ細った。
その本業の外の借金は、特定金銭信託の運用損、都内の不動産、台場の本社ビル計画という、バブル期に手を広げた三つの投資から生まれた。どれも婦人服の品ぞろえとは関わりが無く、衣料の不振が続くかぎり、穴を埋める収益はどこからも来なかった。運用の損失は約50億円とされ、都内の不動産にも約100億円の借入が付いていた。同じ時期、製造小売の外資系専門店が日本へ上陸し、鈴丹やキャビンも店を大量に閉じた。品ぞろえ型の売り方が通じなくなった市場で、鈴屋は新しい売り方を試す前に、住友商事と住金物産を交えた再建の協議で約1年を費やした。和議は、本業の立て直しと債務の整理を同時に迫られた末の選択だった。
鈴屋の売上高は1992年2月期の約593億円を頂点に減り続け、1995年2月期には約446億円まで減少した。減収の背景には、個人消費の冷え込みと、海外からの衣料品の輸入増による値下がりがあった。商品の面では、バブル期に売れた品目へ企画を寄せて大量に売り、品ぞろえの一貫性を欠いたとの指摘が出ていた。日本の大手婦人服専門店に共通した売り方は、季節の初めにアパレル会社の製品を多く並べ、売れた品目だけを追って発注するものだった。消費者の好みが細かく分かれると、雑多な品を並べる店は選ばれにくくなり、明確な個性を持つブランドが求められた。鈴屋の減収は、この品ぞろえ型の売り方が通用しなくなった時期と重なっていた。
鈴屋の店は1970年代から、繁華街の角地に構える売場面積400坪の大型店を基本とした。販売員も他の専門店より2〜3割多く置いており、費用の重い造りだった。1995年2月期には、有価証券の売却損と閉鎖店舗の固定資産除却損が重なり、当期損失が約10億4700万円に達した。翌1995年3月、グループの物流と配送を担っていた鈴屋興産を存続会社とする合併があり、鈴屋はこれに吸収された。存続した鈴屋興産は商号を鈴屋に改めた。統合の狙いはグループ組織の簡素化にあった。閉店に伴う除却損が出ており、店舗の整理は1994年度のうちに始まっていたと推察される。売上高が減ると、人手と一等地にかけた固定費を吸収できなくなったとみられる。
1996年2月期の鈴屋の売上高は約317億800万円で、見込みを上回る幅で減った。公表されたグループの売上高は約507億4500万円で、前期の78.1%にとどまった。最盛期のグループ売上高は公表値で約802億7500万円あり、そこから4割近くを失った計算になる。店舗数は219店となり、ピーク時の約300店からおよそ80店を減らした。損益は公表しなかったが、大幅な赤字を出していたという。採算を割る店は一説に全店の半数を占め、なかでも大型店の赤字が売上高と収益を押し下げた。1997年2月の和議申請の後も、鈴屋グループはさらに多くの店を閉じざるをえないとの見方が出た。
売上高を落としたのは鈴屋だけではなく、品ぞろえ型の婦人服チェーンに共通していた。鈴丹、三愛、キャビンの売上高は最盛期より30〜40%減り、各社は不採算店の閉鎖を進めた。1997年には鈴丹が100店、キャビンが約70店を閉める計画だった。入れ替わって、香港のジョルダーノなど、商品を自ら企画して生産を委託し、直営店で売る製造小売業の外資系専門店が日本へ進出した。国内でも、製造小売の仕組みを早く取り入れたファイブフォックスは、グループ売上高を1000億円台に乗せていた。日本の大手専門店は個性ある店へ転換できず、海外の製造小売の手法を十分に学ばないまま真似たとの指摘があった。
鈴屋を行き詰まらせた最大の要因は、在庫ではなく、金融債務と関係会社への保証だった。小売業の破綻では、在庫を抱えた借入の膨張がよく原因に挙がる。鈴屋は仕入れ先に在庫の危険を負わせる強い取引姿勢をとり、在庫による有利子負債はほとんど増えなかったとされる。問屋への支払いは1976年当時から現金決済に限り、手形を切らなかった。負債総額587億4700万円のうち、金融債務は325億円、グループ会社のための保証債務は約160億7700万円だった。関連会社は1996年末に17社あり、鈴屋国際香港とまぐろ屋さんを除く大半が鈴屋の保証で資金を借りていた。それらの子会社の多くは、鈴屋の支えが無ければ運営が成り立たない状態だった。
金融債務を膨らませたもう一つの源は、本業の外での資金運用と不動産だった。1987年6月、鈴屋は関連会社のびすけっとくらぶと共同で鈴屋アセットマネジメントを設立した。この会社はグループの有価証券投資を担い、特定金銭信託で資金を運用した。和議申請の代理人を務めた清水直弁護士は、解約後の損失を約50億円と説明したが、実額はさらに大きいとの説もあった。バブル期には都内を中心に不動産を買い、その借入は約100億円に達した。1991年には、臨海副都心の台場地区で資生堂と並ぶ本社ビルをツインタワーとして建てる計画が決まった。14階建てのビルを1998年以降に建てる予定だったが、バブル崩壊で着工に至らなかった。
和議申請までの約1年、鈴屋は住友商事と住金物産など外部の企業が主導する再建を探った。1996年12月には、優良子会社でユニホームの企画と製造を手がけるイスト(旧鈴屋エンタープライズ)の株式を住金物産へ売った。しかし関係者の間の調整は最後までつかず、再建策は実らなかった。1997年2月24日、鈴屋は負債587億4700万円を抱えて東京地方裁判所に和議開始を申し立て、事実上倒産した。申請時の資本金は1億9948万円、従業員は847人で、代表は2代目社長の鈴木義雄氏だった。3月4日の債権者集会でも、保証債務の中身は会社側から最後まで語られなかった。婦人服の専門店チェーンに共通する構造の問題を抱えた破綻として、鈴屋の和議による再建は業界の先行きを占う例とみなされた。
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|---|---|---|---|---|
| 1909〜1961年上野駅前のガス灯から始まり、男物を捨てて婦人服の鈴屋になるまで | 鈴木房吉氏が東京市下谷区で鈴木シャツ被服店を開業 | ★★★ | ||
| 鈴木房吉 | 株式会社に改組 | ★★ | ||
| 鈴木房吉 | 鈴木義雄氏が専務に就任し婦人服専門店に転換 | ★★★ | ||
| 鈴木房吉 | 婦人服ブランド「SUZUYA」を開始し社名を鈴屋に変更 | ★★ | ||
| 1962〜1975年上野から新宿、シャンゼリゼ通りへ延ばした27店の売り場 | 鈴木義雄 | 鈴木義雄氏が社長に就任 | ★★ | |
| 鈴木義雄 | パリ・シャンゼリゼ店を開業 | ★★ | ||
| 鈴木義雄 | 香港店を開業 | ★ | ||
| 1976〜1993年青山ベルコモンズの開業と全国約300店への拡大、日本専門店協会の設立 | 鈴木義雄 | 東京・北青山にファッションビル青山ベルコモンズを開業 | ★★★ | |
| 鈴木義雄 | 店舗数が全国約300店に到達 | ★★ | ||
| 鈴木義雄 | 日本専門店協会の設立にともない鈴木義雄氏が初代会長に就任 | ★ | ||
| 1994〜1997年衣料不振による赤字と店舗転換、第一勧銀の支援打ち切りと和議申請 | 鈴木義雄 | 衣料販売の不振により赤字に転落 | ★★ | |
| 鈴木義雄 | 渋谷店をサンドラッグの店舗に転換 | ★ | ||
| 鈴木義雄 | 新宿店をツタヤの店舗に転換 | ★ | ||
| 鈴木義雄 | 住金物産・住友商事・鈴乃屋による再建計画が住友商事の撤回で頓挫 | ★★ | ||
| 鈴木義雄 | 主力取引銀行の第一勧業銀行が支援を打ち切り | ★★ | ||
| 鈴木義雄 | 手形不渡りにより東京地方裁判所に和議を申請 | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(鈴屋)