鈴屋 の歴史

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創業 1909年
創業者 鈴木房吉
創業地 東京都台東区
創業 1909年、鈴木房吉氏が上野駅に近い上車坂の住まいにミシン1台を据え、肌着の直し
1909年、鈴木房吉氏が上野駅に近い上車坂の住まいにミシン1台を据え、肌着の直しを請ける鈴木屋を始めた。第1次世界大戦の輸出需要で手袋と靴下を縫って経営を安定させ、屋号は鈴木肌着店、震災後の鈴木シャツ店、白衣の受注が伸びた鈴木裁縫店と改めている。戦時は茨城へ疎開し、1945年8月末に上野駅前で鈴木商店の名で商いを再開した。同年11月28日に上野広小路へ店を構えて屋号を鈴屋とし、1951年3月に株式会社鈴屋へ改組した。
決断 男物を捨てて若い女性の服に絞り、その売り場を全国へ広げた会社である。1954年9
男物を捨てて若い女性の服に絞り、その売り場を全国へ広げた会社である。1954年9月に専務となった次男の鈴木義雄氏は、紳士用品を売り切るバーゲンで女性客向けの店へ移し、1960年の欧米視察のあと下請けの縫製工場をソネリエ会に組織した。1964年には各店の発注を本社の一括発注に集め、1972年5月にパリのシャンゼリゼ通りへ出店している。1976年6月に青山ベルコモンズを開業した翌年、初の減益を受けて8事業部へ組み替え、地方都市と郊外に出す中型店の開発に移った。
現況 売上高約593億円の頂点から5年で、鈴屋は和議申請に至った。1992年2月期を境
売上高約593億円の頂点から5年で、鈴屋は和議申請に至った。1992年2月期を境に売上高は減り始め、個人消費の低迷と海外製品の輸入増による値崩れが重なって、1994年には衣料販売の不振で赤字に転落した。1995年8月に渋谷店をサンドラッグ、11月に新宿店をツタヤの店舗へ転換したが、1996年9月に主力取引銀行の第一勧業銀行が支援を打ち切った。住金物産・住友商事・鈴乃屋による再建計画も住友商事の撤回で頓挫し、1997年2月、手形不渡りを受けて負債約526億円で東京地方裁判所に和議を申請した。
競合 婦人服専門店の首位に立ちながら、借入への依存は量販店より重かった。1973年度に
婦人服専門店の首位に立ちながら、借入への依存は量販店より重かった。1973年度に売上高205億円・33店で専門店ランキングの婦人服部門の首位となり、売り場には他の専門店より2〜3割多い人員を配した。一方で1976年以降の新宿ルミネや天神コアへの出店は、競合の厳しい場所へ後から加わる形となった。借入依存度も1975年度末で72%に達し、ダイエーの1977年度末の59%を上回っている。1988年10月には義雄氏が日本専門店協会の初代会長に就任したが、1992年2月期以降は海外製品の輸入増による値崩れで劣位に置かれた。

第1章 1909年〜 上野駅前のガス灯から始まり、男物を捨てて婦人服の鈴屋になるまで

1909年〜上車坂のミシン1台から白衣の納入先を広げた鈴木屋

鈴屋の源流は、1909年に鈴木房吉氏が上野駅に近い上車坂の住まいにミシン1台を据えて始めた鈴木屋にある。福井県今立郡の郷士の分家に生まれた房吉氏は、16歳で上京して下谷の肌着店に奉公したが、ミシンの技術を教わる機会がなく、19歳で独立した。開業当初は肌着の直しを請けながら店先にたばこや石けん、文具を並べたが、隣家が雑貨とたばこの販売を始めて売れ行きは大きく低下した。下谷や神田、浅草へ雑貨の行商にも出たものの1日に2、3点しか売れず、房吉氏と妻の乃婦氏はミシン仕事に戻った。明治から大正へ移るころ、房吉氏は板ガラスを3面に入れた拝見棚、現在のショーウィンドーを店先に設け、夜はガス灯で照らして通行客の目を引いた。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [1]明治42年(1909年)、鈴木房吉氏が上野駅に近い上車坂の桜香横町の家にミシン1台を持ち込み、鈴木屋を創業した。
    • [2]房吉氏は明治22年、福井県今立郡国高村の郷士の分家に生まれた。16歳で上京し下谷西町の高山肌着店に奉公したが、ミシンかけの技術は教えてもらえず、19歳で独立した。
    • [3]創業当初はミシンで肌着の直しをする一方、店の表にタバコ・石けん・化粧品・文具を並べた。隣家の油屋が雑貨店に転業しタバコ販売も始めたため、売れ行きが激減した。
    • [4]房吉氏は石けん、化粧品、足袋などの雑貨を背負って下谷・神田・浅草を行商したが、1日に2、3点しか売れず、ミシン仕事に戻った。房吉氏は明治43年に乃婦氏と結婚していた。
    • [5]明治末から大正初めのころ、房吉氏は3面に板ガラスをはめた西洋式の拝見棚(現在のショーウィンドウ)を設け、夜間の照明にガス灯を使った。
  • ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
    • [6]鈴木商店は他の商店に先駆けて店先に拝見棚(今のショーウィンド)を設け、ガス灯で照明をほどこし、道行く女性の眼をひく明るい店舗だった。

経営が安定したのは第1次世界大戦の輸出需要からで、房吉氏はミシンを増やして手袋を縫わせ、編み機を買い入れて約10人の通勤女工に靴下を編ませた。製品はすべて輸出向けで受注に生産が追いつかず、店の裏手の長屋を工場に転用し、倉庫も別に確保した。続いてネル肌着の縫製販売に進出し、東京で5、6店に限られた同業による和歌山からの共同仕入れを取りまとめ、屋号を鈴木肌着店に改めた。衣料品は客と店主の駆け引きで値が決まるのが通例だったが、店は掛け値を付けない正札販売に切り替え、気に入らないと持ち込まれた品は引き取った。1923年の関東大震災では商品を上野の山へ運び出して焼失を免れ、9月末に上根岸の借家で販売を再開した。10月には上車坂の焼け跡に建てた店を鈴木シャツ店と名付け、2店で営業した。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [7]第1次世界大戦(1914〜18年)の輸出景気のなかで、房吉氏は増設したミシンで手袋を製造させ、編組機を購入して約10名の通勤女工に靴下を織らせた。すべて輸出用で注文に生産が追いつかず、店の裏の長屋を借りて工場とし、その奥に倉庫を持った。
    • [8]第1次世界大戦(1914〜18年)の輸出景気のなかで、房吉氏は増設したミシンで手袋を製造させ、編組機を購入して約10名の通勤女工に靴下を織らせた。すべて輸出用で注文に生産が追いつかず、店の裏の長屋を借りて工場とし、その奥に倉庫を持った。
    • [9]当時東京でネルの肌着を縫製販売していたのは鈴木屋のほか5、6店で、産地の和歌山からの共同仕入れの中心は鈴木屋だった。この時期に名称を「鈴木肌着店」に改めた。
    • [11]大正年間、鈴木肌着店は掛値なしの正札販売を実行していた(大正9年の正札販売のPRが残る)。
    • [13]大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で、房吉氏は商品や布地を上野の山へ避難させた。9月末に上根岸の借家に仮店舗を設け、10月には上車坂町の焼跡にバラックを建てて「鈴木シャツ店」と改称し、2店で営業した。
    • [14]大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で、房吉氏は商品や布地を上野の山へ避難させた。9月末に上根岸の借家に仮店舗を設け、10月には上車坂町の焼跡にバラックを建てて「鈴木シャツ店」と改称し、2店で営業した。
  • ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
    • [10]当時、衣料品を売る店では正札なしの掛け値で商いするのがあたりまえで、客と店主の胸算用で売買が行われていた。房吉氏はこういう商いの仕方が嫌いだった。
    • [12]房吉氏は掛値はもちろん値引きも一切しなかったが、買った客が気にいらないといって返品してきた場合は快く引きとった。

1927年の金融恐慌と1930年の金輸出解禁で不況が深まり、昭和通りの開通と地下鉄の開業で人の流れも変わって、店の客足は細った。房吉氏は女性の洋装の広がりに着目し、1928年にブラジャーにあたる乳バンドを製造して売り出した。特許を出願して宣伝にも力を入れたが、需要の総量が少なく、製品は中断に終わった。代わって伸ばしたのが肌着と並んで縫っていた白衣で、東京で食品製造業者や食堂の従業員に白衣の着用が求められたことが契機になった。注文を募る書状は、妻の乃婦氏の提案で印刷はがきから毛筆の封書に替え、長女の文江氏が書いた。上野駅の食堂や列車食堂を請け負う伯養軒の入札で同業3軒を抑えて落札すると、木村屋や資生堂、不二家からも注文が続き、店名を鈴木裁縫店に改めた。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [15]昭和2年(1927年)の金融恐慌、昭和5年の金輸出解禁で不況が深まった。上車坂は昭和通りに面し、昭和2年12月に開通した地下鉄が人の流れを奪ったため、鈴木シャツ店は客足がまばらになった。
    • [17]房吉氏は女性の洋装の普及に目をつけて乳バンドの縫製を始め、特許の出願もして宣伝販売に力を入れたが、ランジェリーの需要の絶対数が少なく売れ行きが芳しくないため中断した。
    • [19]乳バンドの後まもなく(正確な時期は諸説あり)、東京で食品製造業者や食堂関係に白衣の着用が求められるようになり、房吉氏は白衣の縫製販売を始めた。
    • [20]白衣の注文は店員に東京中の食品・食堂関係の店を調査させて印刷ハガキで取ったが、乃婦氏の提案で毛筆書きの封書に改め、長女文江氏が書いた。
    • [21]上野駅の食堂や全国の列車食堂を請け負っていた伯養軒の白衣・エプロン等の入札に、他の白衣業者3軒とともに応札した鈴木シャツ店が1番札で落札した。以後、木村屋、資生堂、スエヒロ、不二家などから注文が相次ぎ、店名を「鈴木裁縫店」と改めた。
  • 実業往来 1978年
    • [16]創業者が昭和3年(1928年)に「乳バンド」を開発した。房吉氏は新案特許乳バンド、つまりブラジャーの製造販売を始めた。
  • ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
    • [18]鈴木商店は男ものの洋品、Yシャツ、肌着、下着とともに白衣なども作っていた。
参考文献[1]-[21]
    • [1]明治42年(1909年)、鈴木房吉氏が上野駅に近い上車坂の桜香横町の家にミシン1台を持ち込み、鈴木屋を創業した。
    • [2]房吉氏は明治22年、福井県今立郡国高村の郷士の分家に生まれた。16歳で上京し下谷西町の高山肌着店に奉公したが、ミシンかけの技術は教えてもらえず、19歳で独立した。
    • [3]創業当初はミシンで肌着の直しをする一方、店の表にタバコ・石けん・化粧品・文具を並べた。隣家の油屋が雑貨店に転業しタバコ販売も始めたため、売れ行きが激減した。
    • [4]房吉氏は石けん、化粧品、足袋などの雑貨を背負って下谷・神田・浅草を行商したが、1日に2、3点しか売れず、ミシン仕事に戻った。房吉氏は明治43年に乃婦氏と結婚していた。
    • [5]明治末から大正初めのころ、房吉氏は3面に板ガラスをはめた西洋式の拝見棚(現在のショーウィンドウ)を設け、夜間の照明にガス灯を使った。
    • [7]第1次世界大戦(1914〜18年)の輸出景気のなかで、房吉氏は増設したミシンで手袋を製造させ、編組機を購入して約10名の通勤女工に靴下を織らせた。すべて輸出用で注文に生産が追いつかず、店の裏の長屋を借りて工場とし、その奥に倉庫を持った。
    • [8]第1次世界大戦(1914〜18年)の輸出景気のなかで、房吉氏は増設したミシンで手袋を製造させ、編組機を購入して約10名の通勤女工に靴下を織らせた。すべて輸出用で注文に生産が追いつかず、店の裏の長屋を借りて工場とし、その奥に倉庫を持った。
    • [9]当時東京でネルの肌着を縫製販売していたのは鈴木屋のほか5、6店で、産地の和歌山からの共同仕入れの中心は鈴木屋だった。この時期に名称を「鈴木肌着店」に改めた。
    • [11]大正年間、鈴木肌着店は掛値なしの正札販売を実行していた(大正9年の正札販売のPRが残る)。
    • [13]大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で、房吉氏は商品や布地を上野の山へ避難させた。9月末に上根岸の借家に仮店舗を設け、10月には上車坂町の焼跡にバラックを建てて「鈴木シャツ店」と改称し、2店で営業した。
    • [14]大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で、房吉氏は商品や布地を上野の山へ避難させた。9月末に上根岸の借家に仮店舗を設け、10月には上車坂町の焼跡にバラックを建てて「鈴木シャツ店」と改称し、2店で営業した。
    • [15]昭和2年(1927年)の金融恐慌、昭和5年の金輸出解禁で不況が深まった。上車坂は昭和通りに面し、昭和2年12月に開通した地下鉄が人の流れを奪ったため、鈴木シャツ店は客足がまばらになった。
    • [17]房吉氏は女性の洋装の普及に目をつけて乳バンドの縫製を始め、特許の出願もして宣伝販売に力を入れたが、ランジェリーの需要の絶対数が少なく売れ行きが芳しくないため中断した。
    • [19]乳バンドの後まもなく(正確な時期は諸説あり)、東京で食品製造業者や食堂関係に白衣の着用が求められるようになり、房吉氏は白衣の縫製販売を始めた。
    • [20]白衣の注文は店員に東京中の食品・食堂関係の店を調査させて印刷ハガキで取ったが、乃婦氏の提案で毛筆書きの封書に改め、長女文江氏が書いた。
    • [21]上野駅の食堂や全国の列車食堂を請け負っていた伯養軒の白衣・エプロン等の入札に、他の白衣業者3軒とともに応札した鈴木シャツ店が1番札で落札した。以後、木村屋、資生堂、スエヒロ、不二家などから注文が相次ぎ、店名を「鈴木裁縫店」と改めた。
    • [6]鈴木商店は他の商店に先駆けて店先に拝見棚(今のショーウィンド)を設け、ガス灯で照明をほどこし、道行く女性の眼をひく明るい店舗だった。
    • [10]当時、衣料品を売る店では正札なしの掛け値で商いするのがあたりまえで、客と店主の胸算用で売買が行われていた。房吉氏はこういう商いの仕方が嫌いだった。
    • [12]房吉氏は掛値はもちろん値引きも一切しなかったが、買った客が気にいらないといって返品してきた場合は快く引きとった。
    • [18]鈴木商店は男ものの洋品、Yシャツ、肌着、下着とともに白衣なども作っていた。
    • [16]創業者が昭和3年(1928年)に「乳バンド」を開発した。房吉氏は新案特許乳バンド、つまりブラジャーの製造販売を始めた。

1938年〜戦時の白衣生産と茨城への疎開、上野広小路での再出発

日中戦争が長引くと平和産業は軍需へ振り向けられ、繊維も軍需用に調達された。1938年の物品販売価格取締規則、1940年の繊維製品統制規則を経て、1942年には衣料切符制が敷かれ、衣料小売店では転業や廃業が相次いだ。そのなかで鈴木裁縫店は、衛生上欠かせない白衣を扱い、軍医や看護婦向けの納入もあったため、一定量の材料の配給を受けて生産を続けた。1945年3月10日の東京大空襲で上野一帯は多くの家屋を失ったが、鈴木裁縫店の建物は焼け残り、人的な被害も出なかった。それでも東京での生活は続けられないと判断した房吉氏は、商品と材料を携え、一家で茨城県東茨城郡上野合村へ移った。

  • ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
    • [22]満州事変、日中戦争、太平洋戦争と戦争が続き、平和産業は軍需産業へ切り換えられた。繊維も例外ではなく、あらゆる繊維は軍需用に調達された。
    • [24]鈴木商店は戦時下の情勢のなかで商品が乏しく、やがて切符による衣料の配給制が始まった。
  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [23]昭和13年(1938年)5月に物品販売価格取締規則、15年2月に繊維製品統制規則、17年2月に衣料切符制が実施され、衣料小売店には転廃業が続出した。
    • [25]白衣は衛生上無視できず、軍医・看護婦関係の納品もあったため、一定量の材料の配給が確保されて生産が続けられた。
    • [26]昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で上野一帯にも多数の焼失家屋が出たが、鈴木裁縫店は焼け残り人命の被害もなかった。房吉氏は疎開を決意し、商品・材料とともに家族で茨城県東茨城郡上野合村へ移った。
    • [27]昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で上野一帯にも多数の焼失家屋が出たが、鈴木裁縫店は焼け残り人命の被害もなかった。房吉氏は疎開を決意し、商品・材料とともに家族で茨城県東茨城郡上野合村へ移った。

終戦から半月後の1945年8月末、房吉氏は疎開先に置いた商品と材料を携えて東京へ戻った。焼け残った昭和通りの店は使わず、上野駅前に小さな店舗を借りて鈴木商店の名で商いを再開し、長女の文江氏ら姉弟5人が両親を手伝った。同年11月28日には、のちの上野店の所在地である上野広小路に木造2階建ての店を構えて屋号を鈴屋とした。品ぞろえは男性向けのワイシャツや肌着、靴下に、たばこやライターを加えたものだった。1946年3月には広小路を挟んで松坂屋の向かいに呉服店の鈴乃屋を開業し、房吉氏が社長を兼ね、運営は次女の小泉清子氏が担った。清子氏は呉服問屋に嫁いだが夫を戦争で失っており、店名は鈴屋の2字の間に母の乃婦氏の名から1字を入れて付けた。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [28]終戦の半月後の昭和20年8月末、房吉氏は疎開地の商品・材料とともに帰京した。焼け残っていた昭和通りの店ではなく上野駅前の小店舗を借りて「鈴木商店」として再出発し、長女文江氏を頭に姉弟5人が両親を助けた。
    • [29]終戦の半月後の昭和20年8月末、房吉氏は疎開地の商品・材料とともに帰京した。焼け残っていた昭和通りの店ではなく上野駅前の小店舗を借りて「鈴木商店」として再出発し、長女文江氏を頭に姉弟5人が両親を助けた。
    • [30]昭和20年11月28日、上野広小路に木造2階建ての店を構え、「鈴屋」という新しい店名で開店した。現在の上野店の場所である。商品はワイシャツ、肌着、靴下などの紳士用品とタバコ、喫煙用具だった。
    • [31]昭和20年11月28日、上野広小路に木造2階建ての店を構え、「鈴屋」という新しい店名で開店した。現在の上野店の場所である。商品はワイシャツ、肌着、靴下などの紳士用品とタバコ、喫煙用具だった。
    • [32]昭和21年(1946年)3月、上野松坂屋と広小路通りをはさんだ西正面に呉服専門店「鈴乃屋」を開店した。鈴屋の2字に乃婦氏の「乃」を入れた店名で、房吉氏が社長を兼ね、運営には次女清子氏があたった。
    • [34]昭和21年(1946年)3月、上野松坂屋と広小路通りをはさんだ西正面に呉服専門店「鈴乃屋」を開店した。鈴屋の2字に乃婦氏の「乃」を入れた店名で、房吉氏が社長を兼ね、運営には次女清子氏があたった。
  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
    • [33]小泉清子氏は呉服問屋に嫁いだものの、主人の戦死で未亡人となっていた。
    • [35]小泉清子氏の呉服小売店の店名は、鈴屋に実母の名前の一字を間に入れて鈴乃屋とした。

衣料の統制が続いた数年間、店の売り上げはワイシャツや肌着の製造販売、雑貨、毛糸の販売で成り立っていた。男物の品ぞろえの間に置いた手編み用の毛糸は、衣料の不足から家庭で編む人が多く、1949年ごろから商品に占める比重を増した。愛知県尾西地方のメーカーに羊毛の混合率を指定した独自の毛糸を売り、編む途中で買い足す客のために製品に製造年月日を記した。店頭には本物の鈴を収めた箱の周りをネオンの小さな鈴が回る看板を掲げ、音の出るネオンとして新聞に取り上げられた。1950年の朝鮮戦争の特需で業績が伸び、1951年3月には資本金100万円で株式会社鈴屋に改組し、房吉氏が社長に就任した。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [36]衣料切符制が廃止される昭和24年までの数年間は、切符制の商品販売、ワイシャツ・肌着類の製造販売、雑貨、毛糸の販売などが経営を支えた。
    • [38]衣料事情が回復せず家庭で毛糸の手編みをする風潮が広がっていたため、昭和24〜25年ごろには商品のなかで毛糸の比重が次第に増えた。
    • [39]愛知県西部(尾西)のメーカーに製品ごとの羊毛の混合率を指示した自社開発の毛糸を発売し、編む途中で買い増しに来る客のため製造年月日を表示した。
    • [40]店のシンボルマークを鈴とし、本物の大きな鈴を木箱に入れてその周囲をネオンの小鈴が回るしかけの看板を掲げた。日本初の「音入りネオン」として新聞に取り上げられた。
    • [41]昭和25年の朝鮮動乱の特需で業績が急伸した。昭和26年(1951年)3月30日に株式会社鈴屋に改組し、資本金100万円、代表取締役社長は鈴木房吉氏だった。
  • 商魂の記録 アイデアと根性の20人(1967年)「鈴屋」
    • [37]鈴木義雄氏が継ぐ前の鈴屋でも、男性用品に混じって手編み毛糸などの雑貨を扱っていた。
参考文献[22]-[41]
    • [22]満州事変、日中戦争、太平洋戦争と戦争が続き、平和産業は軍需産業へ切り換えられた。繊維も例外ではなく、あらゆる繊維は軍需用に調達された。
    • [24]鈴木商店は戦時下の情勢のなかで商品が乏しく、やがて切符による衣料の配給制が始まった。
    • [23]昭和13年(1938年)5月に物品販売価格取締規則、15年2月に繊維製品統制規則、17年2月に衣料切符制が実施され、衣料小売店には転廃業が続出した。
    • [25]白衣は衛生上無視できず、軍医・看護婦関係の納品もあったため、一定量の材料の配給が確保されて生産が続けられた。
    • [26]昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で上野一帯にも多数の焼失家屋が出たが、鈴木裁縫店は焼け残り人命の被害もなかった。房吉氏は疎開を決意し、商品・材料とともに家族で茨城県東茨城郡上野合村へ移った。
    • [27]昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で上野一帯にも多数の焼失家屋が出たが、鈴木裁縫店は焼け残り人命の被害もなかった。房吉氏は疎開を決意し、商品・材料とともに家族で茨城県東茨城郡上野合村へ移った。
    • [28]終戦の半月後の昭和20年8月末、房吉氏は疎開地の商品・材料とともに帰京した。焼け残っていた昭和通りの店ではなく上野駅前の小店舗を借りて「鈴木商店」として再出発し、長女文江氏を頭に姉弟5人が両親を助けた。
    • [29]終戦の半月後の昭和20年8月末、房吉氏は疎開地の商品・材料とともに帰京した。焼け残っていた昭和通りの店ではなく上野駅前の小店舗を借りて「鈴木商店」として再出発し、長女文江氏を頭に姉弟5人が両親を助けた。
    • [30]昭和20年11月28日、上野広小路に木造2階建ての店を構え、「鈴屋」という新しい店名で開店した。現在の上野店の場所である。商品はワイシャツ、肌着、靴下などの紳士用品とタバコ、喫煙用具だった。
    • [31]昭和20年11月28日、上野広小路に木造2階建ての店を構え、「鈴屋」という新しい店名で開店した。現在の上野店の場所である。商品はワイシャツ、肌着、靴下などの紳士用品とタバコ、喫煙用具だった。
    • [32]昭和21年(1946年)3月、上野松坂屋と広小路通りをはさんだ西正面に呉服専門店「鈴乃屋」を開店した。鈴屋の2字に乃婦氏の「乃」を入れた店名で、房吉氏が社長を兼ね、運営には次女清子氏があたった。
    • [34]昭和21年(1946年)3月、上野松坂屋と広小路通りをはさんだ西正面に呉服専門店「鈴乃屋」を開店した。鈴屋の2字に乃婦氏の「乃」を入れた店名で、房吉氏が社長を兼ね、運営には次女清子氏があたった。
    • [36]衣料切符制が廃止される昭和24年までの数年間は、切符制の商品販売、ワイシャツ・肌着類の製造販売、雑貨、毛糸の販売などが経営を支えた。
    • [38]衣料事情が回復せず家庭で毛糸の手編みをする風潮が広がっていたため、昭和24〜25年ごろには商品のなかで毛糸の比重が次第に増えた。
    • [39]愛知県西部(尾西)のメーカーに製品ごとの羊毛の混合率を指示した自社開発の毛糸を発売し、編む途中で買い増しに来る客のため製造年月日を表示した。
    • [40]店のシンボルマークを鈴とし、本物の大きな鈴を木箱に入れてその周囲をネオンの小鈴が回るしかけの看板を掲げた。日本初の「音入りネオン」として新聞に取り上げられた。
    • [41]昭和25年の朝鮮動乱の特需で業績が急伸した。昭和26年(1951年)3月30日に株式会社鈴屋に改組し、資本金100万円、代表取締役社長は鈴木房吉氏だった。
  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
    • [33]小泉清子氏は呉服問屋に嫁いだものの、主人の戦死で未亡人となっていた。
    • [35]小泉清子氏の呉服小売店の店名は、鈴屋に実母の名前の一字を間に入れて鈴乃屋とした。
    • [37]鈴木義雄氏が継ぐ前の鈴屋でも、男性用品に混じって手編み毛糸などの雑貨を扱っていた。

1954年〜男物を捨てて女性客に絞った専門店への切り替え

1954年9月、房吉氏の次男で、繊維商社の伊藤萬で貿易と染色の部門に勤めていた鈴木義雄氏が同社を退き、専務に就任した。義雄氏はかねて洋品店は女物に絞らなければ伸びないと父に説いており、就任にあたって経営の一切を任されることを求め、房吉氏はこれを受け入れた。当時の店は毛糸とセーターで客を集め、紳士物も売れていたが、義雄氏は扱う品をすべて若い女性向けの衣料品に絞る方針を立てた。取引先の問屋からは男物を続けるほうが安全だとの忠告もあった。義雄氏は婦人洋装店や百貨店の婦人売場で売れ方と客の装いを調べたうえで、紳士用品を売り切るバーゲンセールを開き、女性客に的を絞った店へ移行した。

  • ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
    • [42]義雄氏は慶応大学を出て繊維商社の伊藤万に勤めていたが、昭和29年(1954年)に伊藤万を退社し、専務として新しい店づくりに打ち込み出した。
    • [44]鈴木義雄氏は伊藤万に勤めていたころ、「やはり洋品店は、女物専門でなければ本当に伸びない」と父の房吉氏に進言した。
    • [50]女性のお客を掴むことができたと判断した義雄氏は、全面的に女性洋品に切り換えた。
  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [43]鈴木義雄氏は伊藤萬の貿易部から染色部に移って勤めた後、昭和29年(1954年)9月、房吉氏の強い希望で専務に就任した。就任にあたり経営の一切を任せるよう求め、房吉氏はそれを約束し、以後経営に口出ししなかった。
    • [45]鈴木義雄氏は伊藤萬の貿易部から染色部に移って勤めた後、昭和29年(1954年)9月、房吉氏の強い希望で専務に就任した。就任にあたり経営の一切を任せるよう求め、房吉氏はそれを約束し、以後経営に口出ししなかった。
    • [47]当時の鈴屋は毛糸とセーターの店で紳士物の売れ行きも悪くなかったが、義雄専務は全商品を若い女性向けの2次製品に絞ることにした。婦人洋装店やデパートの婦人物売場で売れ方や客の服装を観察したのち、紳士用品を一掃するためのバーゲンセールを行った。
    • [49]当時の鈴屋は毛糸とセーターの店で紳士物の売れ行きも悪くなかったが、義雄専務は全商品を若い女性向けの2次製品に絞ることにした。婦人洋装店やデパートの婦人物売場で売れ方や客の服装を観察したのち、紳士用品を一掃するためのバーゲンセールを行った。
  • 商魂の記録 アイデアと根性の20人(1967年)「鈴屋」
    • [46]義雄氏は家業を継ぐにあたり「店のいっさいを任せてくれるか」と条件をつけ、父は了承した(昭和29年)。問屋のなかには「男物の方が安全ですよ」と忠告する者もあった。
    • [48]義雄氏は家業を継ぐにあたり「店のいっさいを任せてくれるか」と条件をつけ、父は了承した(昭和29年)。問屋のなかには「男物の方が安全ですよ」と忠告する者もあった。

切り替え後も常連の求めに応じて毛糸は売り続け、1956年からは鈴の音を指すフランス語にちなむソネリエを自社製品の名に用いた。1955年には買い取った隣家と合わせて間口を4間に広げ、ショーウィンドーの商品の配置を毎日替えた。宣伝では開局まもないラジオ東京にスポットを流し、その料金は切り替えたばかりの店の売り上げに見合わなかった。しばらくしてテレビCMにも出稿し、1956年7月に避暑地へ出した夏季限定の軽井沢店も、採算より店の名を若い客に広めることを狙った。店頭では義雄氏自身が店員と並んで客に応対し、切り替えから1年ほどで業界でおしゃれの店の草分けとみなされた。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [51]女性専科の店となった後も常連客の要望で毛糸の販売を続けた。オリジナル製品のブランド「ソネリエ」は「鈴の音」のフランス語に由来し、昭和31年(1956年)から採用した。
    • [52]昭和29年6月と30年春に買収した隣家をあわせ、昭和30年8月に店舗を拡張して間口を4間とした。ショウウインドウを拡大し、商品の配置換えを毎日1、2回行った。
    • [55]義雄専務の就任後しばらくしてテレビCMも使うようになった。昭和31年7月、夏季だけのリゾートウェア専門の軽井沢店を開いたが、当初から採算は期待せず、鈴屋のイメージアップを狙った。
  • ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
    • [53]義雄氏は宣伝に力を入れ、その頃開局したばかりのラジオ東京(現在の東京放送)を使ってスポットを流した。
    • [54]何十万もするスポット料は、切り換えたばかりの鈴屋の売上げに見合わず、採算を度外視してやるほかなかった。
    • [56]義雄氏は店員教育に力を入れ、店員と一緒に店頭へ出て自ら接客し、その接客態度を店員たちに学んでもらった。
    • [57]女性洋品への切り換えから1年後ぐらいには、鈴屋は業界から「おしゃれの店のパイオニア」といわれるようになった。

義雄氏が上野の店で狙ったのは銀座へ向かう買い物客を上野で受け止めることで、有楽町や丸の内に勤める女性が上野まで足を運んだ。1957年7月にはスキヤ橋ショッピングセンターに銀座地区で最初の店を出し、同年度の年商は初めて1億円に達した。1959年には毛糸の販売をやめて全商品を衣料品に切り替えた。1960年2月には義雄氏が欧米の専門店を視察し、流行はパリに、売り方の仕組みは米国に学ぶ方針を固めた。帰国後は自社製品を縫う下請けの縫製工場を整え、これらをソネリエ会として組織した。同年9月には銀座みゆき通りに銀座店を開設し、1961年10月には木造だった上野店を鉄筋5階建てのビルに建て替えた。

  • ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
    • [58]義雄氏は「銀座でのお買物を上野でというのが初めの狙いでした」と語っている。
    • [59]有楽町、丸の内方面に働くビジネスガールがわざわざ上野まで来て鈴屋のファンになった。
    • [62]昭和35年(1960年)に義雄氏はアメリカ、西欧を廻って外国の専門店の生き方を学んできた。
    • [66]専門店として常に新しい生き方をしていくために、銀座店、スキヤ橋店を開いた。
  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [60]昭和32年(1957年)7月、スキヤ橋ショッピングセンターの中にスキヤ橋店(当初は銀座店の名)を開いた。32年度の年商がはじめて1億円に乗った。
    • [61]昭和34年(1959年)に2次製品の売れ行きが毛糸をしのぎ、毛糸をやめて全商品を2次製品に切りかえた。
    • [63]昭和35年2月、義雄専務はMMM(近代小売業研究会)のセミナー参加を兼ねて最初の欧米視察に出発し、「ファッションはパリ、ビジネスは米国」という方向を得た。
    • [64]海外視察から帰った義雄専務は、オリジナル製品ソネリエの下請け縫製工場を整備し、これらを統合する団体としてソネリエ会を組織した。
    • [65]昭和35年(1960年)9月1日、銀座みゆき通りと銀座西五番街の交差する角に銀座店を開き、従来の銀座店をスキヤ橋店と改称した。
    • [67]木造3階の上野店を、昭和36年7月に着工し3か月後の10月に鉄筋5階建てのビルとして完成させた。
  • 商魂の記録 アイデアと根性の20人(1967年)「鈴屋」
    • [68]昭和36年に上野店を木造から鉄筋五階建てに改めた。
参考文献[42]-[68]
    • [42]義雄氏は慶応大学を出て繊維商社の伊藤万に勤めていたが、昭和29年(1954年)に伊藤万を退社し、専務として新しい店づくりに打ち込み出した。
    • [44]鈴木義雄氏は伊藤万に勤めていたころ、「やはり洋品店は、女物専門でなければ本当に伸びない」と父の房吉氏に進言した。
    • [50]女性のお客を掴むことができたと判断した義雄氏は、全面的に女性洋品に切り換えた。
    • [53]義雄氏は宣伝に力を入れ、その頃開局したばかりのラジオ東京(現在の東京放送)を使ってスポットを流した。
    • [54]何十万もするスポット料は、切り換えたばかりの鈴屋の売上げに見合わず、採算を度外視してやるほかなかった。
    • [56]義雄氏は店員教育に力を入れ、店員と一緒に店頭へ出て自ら接客し、その接客態度を店員たちに学んでもらった。
    • [57]女性洋品への切り換えから1年後ぐらいには、鈴屋は業界から「おしゃれの店のパイオニア」といわれるようになった。
    • [58]義雄氏は「銀座でのお買物を上野でというのが初めの狙いでした」と語っている。
    • [59]有楽町、丸の内方面に働くビジネスガールがわざわざ上野まで来て鈴屋のファンになった。
    • [62]昭和35年(1960年)に義雄氏はアメリカ、西欧を廻って外国の専門店の生き方を学んできた。
    • [66]専門店として常に新しい生き方をしていくために、銀座店、スキヤ橋店を開いた。
    • [43]鈴木義雄氏は伊藤萬の貿易部から染色部に移って勤めた後、昭和29年(1954年)9月、房吉氏の強い希望で専務に就任した。就任にあたり経営の一切を任せるよう求め、房吉氏はそれを約束し、以後経営に口出ししなかった。
    • [45]鈴木義雄氏は伊藤萬の貿易部から染色部に移って勤めた後、昭和29年(1954年)9月、房吉氏の強い希望で専務に就任した。就任にあたり経営の一切を任せるよう求め、房吉氏はそれを約束し、以後経営に口出ししなかった。
    • [47]当時の鈴屋は毛糸とセーターの店で紳士物の売れ行きも悪くなかったが、義雄専務は全商品を若い女性向けの2次製品に絞ることにした。婦人洋装店やデパートの婦人物売場で売れ方や客の服装を観察したのち、紳士用品を一掃するためのバーゲンセールを行った。
    • [49]当時の鈴屋は毛糸とセーターの店で紳士物の売れ行きも悪くなかったが、義雄専務は全商品を若い女性向けの2次製品に絞ることにした。婦人洋装店やデパートの婦人物売場で売れ方や客の服装を観察したのち、紳士用品を一掃するためのバーゲンセールを行った。
    • [51]女性専科の店となった後も常連客の要望で毛糸の販売を続けた。オリジナル製品のブランド「ソネリエ」は「鈴の音」のフランス語に由来し、昭和31年(1956年)から採用した。
    • [52]昭和29年6月と30年春に買収した隣家をあわせ、昭和30年8月に店舗を拡張して間口を4間とした。ショウウインドウを拡大し、商品の配置換えを毎日1、2回行った。
    • [55]義雄専務の就任後しばらくしてテレビCMも使うようになった。昭和31年7月、夏季だけのリゾートウェア専門の軽井沢店を開いたが、当初から採算は期待せず、鈴屋のイメージアップを狙った。
    • [60]昭和32年(1957年)7月、スキヤ橋ショッピングセンターの中にスキヤ橋店(当初は銀座店の名)を開いた。32年度の年商がはじめて1億円に乗った。
    • [61]昭和34年(1959年)に2次製品の売れ行きが毛糸をしのぎ、毛糸をやめて全商品を2次製品に切りかえた。
    • [63]昭和35年2月、義雄専務はMMM(近代小売業研究会)のセミナー参加を兼ねて最初の欧米視察に出発し、「ファッションはパリ、ビジネスは米国」という方向を得た。
    • [64]海外視察から帰った義雄専務は、オリジナル製品ソネリエの下請け縫製工場を整備し、これらを統合する団体としてソネリエ会を組織した。
    • [65]昭和35年(1960年)9月1日、銀座みゆき通りと銀座西五番街の交差する角に銀座店を開き、従来の銀座店をスキヤ橋店と改称した。
    • [67]木造3階の上野店を、昭和36年7月に着工し3か月後の10月に鉄筋5階建てのビルとして完成させた。
    • [46]義雄氏は家業を継ぐにあたり「店のいっさいを任せてくれるか」と条件をつけ、父は了承した(昭和29年)。問屋のなかには「男物の方が安全ですよ」と忠告する者もあった。
    • [48]義雄氏は家業を継ぐにあたり「店のいっさいを任せてくれるか」と条件をつけ、父は了承した(昭和29年)。問屋のなかには「男物の方が安全ですよ」と忠告する者もあった。
    • [68]昭和36年に上野店を木造から鉄筋五階建てに改めた。

第2章 1962年〜 上野から新宿、シャンゼリゼ通りへ延ばした27店の売り場

1962年〜盛り場ごとに置いた売り場と、女店員が任された陳列

鈴木義雄氏は1960年にアメリカと西欧を回り、各国の専門店の商いを見て歩いた。大量生産と大量販売で押すアメリカ式より、研ぎ澄ました商品を独特の感覚で売るヨーロッパ式に学ぶところを見て、売上高を伸ばすことより商品の質を上げることを先に置き、社内に研究室を設けてハイセンス商品の開発にあたらせた。1962年秋、上野駅前で洋品雑貨店を開店した初代の鈴木房吉氏が74歳で世を去り、義雄氏が後を継いで社長に就任した。就任時は38歳で、店員は450人を数えた。商売はアイデアで競うもの——独身の若い社長が掲げた流儀である。

  • ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
    • [69]三十五年に義雄さんはアメリカ、西欧を廻って、外国の専門店の生き方を学んできた
    • [70]大量生産販売のアメリカ式商法よりも、とぎすました鋭い商品を独特なセンスで売るヨーロッパ的商法を研究し、売上げより商品の質の向上を痛感、研究室を設けてハイセンス商品の開発に力を入れ出した
    • [71]三十七年の秋、初代房吉さんは七十四歳で天寿をまっとうし、その後を継いで義雄さんが社長となった。房吉氏は明治四十二年に上野の駅前に「鈴木商店」の看板を掲げて開業した人である
    • [72]「鈴屋」四五〇人の店員の総大将鈴木義雄社長は、まだ三十八歳の若さである
    • [73]「商売はアイデイアで勝負する」という三十八歳の独身社長

銀座で買う買い物を上野で、という組み立てで有楽町や丸の内に勤める女性を上野まで通わせ、そのうえで銀座店とスキヤ橋店を出店して中級品からデラックス商品までを置き、続いて池袋店と立川店を構えた。1964年5月には新宿店を出店し、家か勤め先の最寄りで買えるようにと都内の盛り場へ店を並べた。上野の店には、隣に同じ形の店があっても客がその前を通り越して入った。どの店にもスーツ、ブラウス、セーター、スカート、コート、子供服、下着、小物を並べ、ハイティーンからヤングミセスまでを対象に最新のものを厳選した。

  • ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
    • [74]「銀座でのお買物を上野で」というのが初めの狙いで、有楽町・丸の内方面に働くビジネスガールがわざわざ上野まで来てファンになった。専門店として常に新しい生き方をするために銀座店、スキヤ橋店を開いて中級品からデラックス商品を置き、これも成功した
    • [75]今では池袋店、立川店を開いている
    • [76]新宿店(五月開店)というように都内の盛り場に店を出した。お家なり会社なりの最寄りの店で買ってもらうようにとの心からである
    • [77]上野の店は隣りに同じ形の店があるのに、お客さんはその前を通り越して「鈴屋」に入ってしまうほどの人気である
    • [78]各店ともスーツ、ブラウス、セーター、スカート、コート、子供服、下着、小物などのおしゃれ用品をおいており、いずれもハイティーンからヤングミセスにいたるまでを対象に厳選した最新のものばかりである

各売り場の設計、装飾、陳列、商品の選択まで、担当の女店員が知恵を出し合って責任を負った。女性の心理は女性が一番よく知る、という理由からであり、売り場ごとに成績を競うコンクール制を敷いて、売上高の順位に加えて客への応対やサービスの仕方まで点数にした。商品はフランス語で鈴の音を指すソネリエの名を付けた自主企画品を主力に、同じデザインを数多く作らず、種類をそろえた。大売り出しを除いて掛け値も値引きもしない正札販売は、初代の代から変えなかった。バーゲンセールのほかバレンタインデー、パリー祭、クリスマスにも特別セールを置き、月ごとに何かしらの催しを行った。

  • ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
    • [79]「鈴屋」では、各売場の一切の設計、装飾、陳列、それに商品の選択にいたるまで、それぞれの担当の女店員たちが衆智を集め、責任を持ってやっている
    • [80]その狙いは、女性の心理は女性が一番よく知っているからということにある
    • [81]売場毎に成績を競うコンクール制をとっており、売上げ高の順位はもちろん、お客さまへの応待、サービスの仕方まで点数となる
    • [82]フランス語のSONNERIE(鈴の音)からとった名前を付けた「ソネリエ」は鈴屋だけのオリジナル商品で、デザインの同じものを数多く作らず、その代りいろいろなデザインを取り揃える
    • [83]大売出しの時を除いて、うちの商品は父の代から掛け値も値引きもない正札販売である
    • [84]「鈴屋」ではバーゲンセールの他にバレンタインディ、パリー祭、クリスマスなどにも特別セールを行ない、さらに月毎になにかしら催物を開いている
参考文献[69]-[84]
    • [69]三十五年に義雄さんはアメリカ、西欧を廻って、外国の専門店の生き方を学んできた
    • [70]大量生産販売のアメリカ式商法よりも、とぎすました鋭い商品を独特なセンスで売るヨーロッパ的商法を研究し、売上げより商品の質の向上を痛感、研究室を設けてハイセンス商品の開発に力を入れ出した
    • [71]三十七年の秋、初代房吉さんは七十四歳で天寿をまっとうし、その後を継いで義雄さんが社長となった。房吉氏は明治四十二年に上野の駅前に「鈴木商店」の看板を掲げて開業した人である
    • [72]「鈴屋」四五〇人の店員の総大将鈴木義雄社長は、まだ三十八歳の若さである
    • [73]「商売はアイデイアで勝負する」という三十八歳の独身社長
    • [74]「銀座でのお買物を上野で」というのが初めの狙いで、有楽町・丸の内方面に働くビジネスガールがわざわざ上野まで来てファンになった。専門店として常に新しい生き方をするために銀座店、スキヤ橋店を開いて中級品からデラックス商品を置き、これも成功した
    • [75]今では池袋店、立川店を開いている
    • [76]新宿店(五月開店)というように都内の盛り場に店を出した。お家なり会社なりの最寄りの店で買ってもらうようにとの心からである
    • [77]上野の店は隣りに同じ形の店があるのに、お客さんはその前を通り越して「鈴屋」に入ってしまうほどの人気である
    • [78]各店ともスーツ、ブラウス、セーター、スカート、コート、子供服、下着、小物などのおしゃれ用品をおいており、いずれもハイティーンからヤングミセスにいたるまでを対象に厳選した最新のものばかりである
    • [79]「鈴屋」では、各売場の一切の設計、装飾、陳列、それに商品の選択にいたるまで、それぞれの担当の女店員たちが衆智を集め、責任を持ってやっている
    • [80]その狙いは、女性の心理は女性が一番よく知っているからということにある
    • [81]売場毎に成績を競うコンクール制をとっており、売上げ高の順位はもちろん、お客さまへの応待、サービスの仕方まで点数となる
    • [82]フランス語のSONNERIE(鈴の音)からとった名前を付けた「ソネリエ」は鈴屋だけのオリジナル商品で、デザインの同じものを数多く作らず、その代りいろいろなデザインを取り揃える
    • [83]大売出しの時を除いて、うちの商品は父の代から掛け値も値引きもない正札販売である
    • [84]「鈴屋」ではバーゲンセールの他にバレンタインディ、パリー祭、クリスマスなどにも特別セールを行ない、さらに月毎になにかしら催物を開いている

1963年〜商品開発部の4つの経路と本社一括発注、梅田・心斎橋・三宮への出店

1963年2月、鈴屋は商品開発部を新設し、企画会議の方針に沿って品揃えと品質管理、仕入先との提携を受け持たせた。同年6月には下請けの16工場をソネリエ縫製組合として組織し直し、自主企画品の縫製元を固めた。商品を決める材料は4つの経路から集めた。1つは海外のファッション誌の研究、もう1つは18歳から25歳の常連客120人に毎月意見を聞くモニター制度である。残る2つは、問屋を回る仕入部員が他店へ出させない色と柄を押さえる仕組みと、売場の接客で拾った客の声であった。試作品は1種につき6点を各店のウィンドウに約10日間置き、売れ行きのよいものだけを縫製工場へ発注したが、量産の数にも上限を設けた。同じ服の着用者と街で出会わせないための数量の抑えであり、少量多品種の方針を工程の段階で担保したものとみられる。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [85]1963年2月に商品開発部が発足し、商品企画会議の方針にもとづく品揃え・企画立案・品質管理・仕入先との提携強化を任務とした
    • [86]1963年6月、16工場に増えていた下請け縫製工場を「ソネリエ縫製組合」として正式に発足させた
    • [87]商品計画の第1は世界のファッションプレスの研究、第2は常得意から選んだ18〜25歳の客120人に毎月意見を聞くモニター制度であった
    • [88]商品計画の第3は仕入部員が問屋を回り当社以外に売らせない止め色・止め柄を定める仕入れ、第4は売場での客との応対から得た情報をオリジナル製品に生かすことであった
    • [89]ソネリエは縫製部でサンプルを作り、各店に1種6品ずつ約10日間ウィンドウに陳列し、売れ行きのよいものを縫製工場で量産したが、量には一定の上限を設けた

1964年8月に湯島の本社を広げると、各店が縫製工場へ直に出していた3割の発注を本社の一括発注に改め、仕入れを本社に集めた。ただ、店ごとの品揃えの組み方は各店の裁量に残した。1965年4月には18歳から21歳の主流客をT子・M子・S子の3類型に分け、類型ごとに品揃えを組む制度を始めた。同年9月、みゆき店の筋向いに銀座5丁目店を開設し、みゆき店で受けきれない客を引き受けた。この店で初めて男性の店長を置き、新宿と池袋の店にも若い男性店長を配した。1967年11月、紀伊国屋ビル前の地下2階・地上8階のビルを買い取り、手狭になった駅ビルの新宿店に代わる独立店舗とした。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [90]1964年8月に湯島本社が完成し、各店が縫製工場へ独自に出していた30%の発注をすべて本社からの一括注文に切り替え、本社制を確立した
    • [91]本社制の確立後も、各店ごとの個性的なマーチャンダイジングは以前と同じ方法をとった
    • [92]1965年4月、18〜21歳を主流とする客をT子・M子・S子の3種に分類し、それに応じた品揃えをおこなう制度を発足させた
    • [93]1965年9月、みゆき店の筋向いに銀座5丁目店を開き、みゆき店だけではさばき切れなくなった客を吸収した
    • [94]銀座5丁目店の出店時にはじめて男性の店長を任命し、同時に新宿・池袋にも若い男性店長を置いた
    • [95]1967年11月、新宿区角筈1丁目の紀伊国屋ビル前にある地下2階・地上8階、延面積1300平方メートルのビルを買収し、客を収容しきれなくなった新宿駅ビル店に代わる独立店舗とした

1968年4月からの1年間で、自主企画品の出来高は前期の171%にあたる24億円に達し、売上高の51%を占めた。これを受けて1969年5月に資本金を1億円へ増やし、1964年から6年続けての増資となった。同年9月にはパリだけにいた駐在員をニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドンにも置き、4都市から欧米のファッション情報を集める仕組みをWMISと名付けた。11月20日、阪急が梅田駅の地下街へ東京の専門店を呼び込んだ計画に応じて大阪梅田店を開設し、社員も商品も東京から送った。渋谷や池袋の店と同じ年商4億円を見込んだものの、開店翌月には売上目標を引き上げた。1970年3月17日に心斎橋店、4月28日に神戸の三宮店を開設し、関西の店を統括する西部地区長を置いた。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [96]1968年4月〜1969年3月の第8期に、企画商品の出来高は24億円と前年の171%に増え、全売上の51%を占めた
    • [97]1969年5月に資本金を1億円(受権4億円)に増資し、1964年から6年連続の増資となった
    • [98]1969年9月、それまでパリだけだった駐在員をニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドンに置き、欧米のファッション情報を集めるWMIS(ワールドマーケッティングインフォメーションシステム)とした
    • [99]1969年11月20日、阪急が梅田駅拡張にあわせて東京の高級専門店を誘致した地下街に大阪梅田店を開き、社員を東京から派遣し商品も東京から直送した
    • [100]梅田店は東京の渋谷・池袋店なみの年商4億円を予定したが、開店早々から予定を上回り、12月には売上目標を更新した
    • [101]1970年3月17日に大阪心斎橋店、4月28日に神戸三宮店を開き、心斎橋店の開店にあたり西部地区長を任命して関西への展開体制をとった
参考文献[85]-[101]
  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [85]1963年2月に商品開発部が発足し、商品企画会議の方針にもとづく品揃え・企画立案・品質管理・仕入先との提携強化を任務とした
    • [86]1963年6月、16工場に増えていた下請け縫製工場を「ソネリエ縫製組合」として正式に発足させた
    • [87]商品計画の第1は世界のファッションプレスの研究、第2は常得意から選んだ18〜25歳の客120人に毎月意見を聞くモニター制度であった
    • [88]商品計画の第3は仕入部員が問屋を回り当社以外に売らせない止め色・止め柄を定める仕入れ、第4は売場での客との応対から得た情報をオリジナル製品に生かすことであった
    • [89]ソネリエは縫製部でサンプルを作り、各店に1種6品ずつ約10日間ウィンドウに陳列し、売れ行きのよいものを縫製工場で量産したが、量には一定の上限を設けた
    • [90]1964年8月に湯島本社が完成し、各店が縫製工場へ独自に出していた30%の発注をすべて本社からの一括注文に切り替え、本社制を確立した
    • [91]本社制の確立後も、各店ごとの個性的なマーチャンダイジングは以前と同じ方法をとった
    • [92]1965年4月、18〜21歳を主流とする客をT子・M子・S子の3種に分類し、それに応じた品揃えをおこなう制度を発足させた
    • [93]1965年9月、みゆき店の筋向いに銀座5丁目店を開き、みゆき店だけではさばき切れなくなった客を吸収した
    • [94]銀座5丁目店の出店時にはじめて男性の店長を任命し、同時に新宿・池袋にも若い男性店長を置いた
    • [95]1967年11月、新宿区角筈1丁目の紀伊国屋ビル前にある地下2階・地上8階、延面積1300平方メートルのビルを買収し、客を収容しきれなくなった新宿駅ビル店に代わる独立店舗とした
    • [96]1968年4月〜1969年3月の第8期に、企画商品の出来高は24億円と前年の171%に増え、全売上の51%を占めた
    • [97]1969年5月に資本金を1億円(受権4億円)に増資し、1964年から6年連続の増資となった
    • [98]1969年9月、それまでパリだけだった駐在員をニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドンに置き、欧米のファッション情報を集めるWMIS(ワールドマーケッティングインフォメーションシステム)とした
    • [99]1969年11月20日、阪急が梅田駅拡張にあわせて東京の高級専門店を誘致した地下街に大阪梅田店を開き、社員を東京から派遣し商品も東京から直送した
    • [100]梅田店は東京の渋谷・池袋店なみの年商4億円を予定したが、開店早々から予定を上回り、12月には売上目標を更新した
    • [101]1970年3月17日に大阪心斎橋店、4月28日に神戸三宮店を開き、心斎橋店の開店にあたり西部地区長を任命して関西への展開体制をとった

1971年〜シャンゼリゼ店と香港店、年商100億円から43店までの出店

1971年の年度末、社員970人を抱えた鈴屋の年商は前年の130%となり、初めて100億円に達した。同じ年、ドルショックで景気が後退に転じるなかでも、銀座のベルブードアや福岡・札幌の店に先行して資金を投じていた。1972年3月には銀座のブティック鈴屋をベルマリエへ改め、22歳から25、6歳の客に向けたヤングアダルトの専門店とした。18歳から22歳に焦点を合わせた品揃えでは、年齢の上がった客が鈴屋から離れ始めていたためである。1973年9月、部長や課長の職名を置かないまま、人事・管理・営業・店舗開発・海外事業の5部門に最高責任者のGMGを配した。同年10月の熊本店を皮切りに、11月に横浜店、12月に名古屋店を開設した。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [102]1971年度末、970人の社員を擁し、業績は前年比130%で初めて年商100億円に乗った
    • [103]1971年はベルブードアの開店や福岡・札幌への出店に膨大な投資をおこない、同年8月のドルショック後に景気が後退しはじめていた
    • [104]1972年3月、銀座のブティック鈴屋を改称して「ベルマリエ」とし、22〜25、6歳を対象とするヤングアダルト専門店とした
    • [105]18〜22歳に的を絞ってきたが、22歳以上になると鈴屋調を卒業する客も出てきた
    • [106]1973年9月にGMG(ゼネラルマネージャー)体制を確立し、部課長の職級名を持たないまま人事・管理・営業・店舗開発・海外事業の5部門にGMGを置いた
    • [107]全国展開の第1着手として1973年10月10日に熊本店、11月20日に横浜店、12月1日に名古屋店を開いた

海外出店の構想は義雄氏が1960年に欧州を回った時期にさかのぼり、1966年にパリへ社員を常駐させてから5年の調査を重ねた。1971年9月にフランス政府へ事業許可を申請し、1972年2月、資本金100万フランのスズヤインタナショナルをパリに設けた。5月10日に開いたシャンゼリゼ店の売り場は70平方メートルであった。同年10月には近くのギャラリータメナガで海外初のコレクションショウを催し、9割を日本で縫った翌春夏のカジュアル服を200人以上に見せた。1973年2月14日にはパリで流行の発信地とされたサンジェルマン地区に2店目を出店した。同年4月初めの時点で店は海外3店を含めて27店、年商は150億円に上った。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [108]世界展開の構想は1960年に社長(当時専務)が欧州を視察したころに立て、1966年に社員1人をパリに駐在させてから5年の調査を経て出店に至った
    • [109]1971年9月29日にフランス政府へ事業許可を申請し、1972年2月8日に資本金100万フランのスズヤインタナショナル(本社パリ)の登記を完了した
    • [111]1972年10月、シャンゼリゼ店に近いギャラリータメナガで海外初のコレクションショウを開き、90%を日本で製作した1973年春夏のカジュアルを200人以上の来場者に見せた
    • [112]1973年2月14日、パリ本来のファッションの本場とされたサンジェルマン地区にパリの2番目の店を開いた
  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
    • [110]1972年5月10日にパリ・シャンゼリゼ店を開いた。シャンゼリゼ通りの70平方メートルの店である
    • [113]1973年4月時点でチェーン店は海外の3店を含めて27店、年商は150億円

1973年10月の石油危機のあとも出店を続け、同年度の売上高205億円、33店で、日経流通新聞の専門店ランキングの婦人服部門の首位に立った。1974年の年頭、義雄氏は使い捨ての消費から耐久性を重んじる消費へ移る可能性を挙げ、品質を軸に価値の体系を組み立て直す方針を示した。同年9月には新宿のベルアルノにメンズウェアの売り場を加え、30歳前後の装いに関心のある男性という空白の客層に踏み入った。紳士服と婦人服のあいだで互いの知見を行き来させる狙いもあった。1975年4月1日には香港の銅鑼湾に2店目を開き、海外の店は5店となった。同年の会社概要では国内38店・海外5店の計43店、社員は2500人を数えた。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [114]1973年10月の石油危機のなかでも着実に店舗展開を続け、日経流通新聞1974年3月6日号のランキングで1973年度の売上高205億円(店舗数33)により婦人服部門の第1位となった
    • [115]1974年初頭、社長は米国型の使い捨て消費から耐久性を重視するヨーロッパ型の消費へ移行することはあり得るとし、品質を重視した新しい価値体系を作ることが大切だと述べた
    • [116]1974年6月に開いた新宿のベルアルノに9月3日メンズウェア部門を併設した。30歳前後のおしゃれをする男性のための店がないという市場的観点からの出店である
    • [117]メンズ進出には、婦人服と紳士服のノウハウを相互に交流させる狙いがあった
    • [118]1975年4月1日、香港コーズウェイベイの松坂屋香港支店に海外5番目の店を開き、海外は計5店となった
    • [119]会社概要で店舗は43店(国内38店、海外5店)、社員数は2500名(1975年4月1日現在)
参考文献[102]-[119]
  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [102]1971年度末、970人の社員を擁し、業績は前年比130%で初めて年商100億円に乗った
    • [103]1971年はベルブードアの開店や福岡・札幌への出店に膨大な投資をおこない、同年8月のドルショック後に景気が後退しはじめていた
    • [104]1972年3月、銀座のブティック鈴屋を改称して「ベルマリエ」とし、22〜25、6歳を対象とするヤングアダルト専門店とした
    • [105]18〜22歳に的を絞ってきたが、22歳以上になると鈴屋調を卒業する客も出てきた
    • [106]1973年9月にGMG(ゼネラルマネージャー)体制を確立し、部課長の職級名を持たないまま人事・管理・営業・店舗開発・海外事業の5部門にGMGを置いた
    • [107]全国展開の第1着手として1973年10月10日に熊本店、11月20日に横浜店、12月1日に名古屋店を開いた
    • [108]世界展開の構想は1960年に社長(当時専務)が欧州を視察したころに立て、1966年に社員1人をパリに駐在させてから5年の調査を経て出店に至った
    • [109]1971年9月29日にフランス政府へ事業許可を申請し、1972年2月8日に資本金100万フランのスズヤインタナショナル(本社パリ)の登記を完了した
    • [111]1972年10月、シャンゼリゼ店に近いギャラリータメナガで海外初のコレクションショウを開き、90%を日本で製作した1973年春夏のカジュアルを200人以上の来場者に見せた
    • [112]1973年2月14日、パリ本来のファッションの本場とされたサンジェルマン地区にパリの2番目の店を開いた
    • [114]1973年10月の石油危機のなかでも着実に店舗展開を続け、日経流通新聞1974年3月6日号のランキングで1973年度の売上高205億円(店舗数33)により婦人服部門の第1位となった
    • [115]1974年初頭、社長は米国型の使い捨て消費から耐久性を重視するヨーロッパ型の消費へ移行することはあり得るとし、品質を重視した新しい価値体系を作ることが大切だと述べた
    • [116]1974年6月に開いた新宿のベルアルノに9月3日メンズウェア部門を併設した。30歳前後のおしゃれをする男性のための店がないという市場的観点からの出店である
    • [117]メンズ進出には、婦人服と紳士服のノウハウを相互に交流させる狙いがあった
    • [118]1975年4月1日、香港コーズウェイベイの松坂屋香港支店に海外5番目の店を開き、海外は計5店となった
    • [119]会社概要で店舗は43店(国内38店、海外5店)、社員数は2500名(1975年4月1日現在)
  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
    • [110]1972年5月10日にパリ・シャンゼリゼ店を開いた。シャンゼリゼ通りの70平方メートルの店である
    • [113]1973年4月時点でチェーン店は海外の3店を含めて27店、年商は150億円

第3章 1976年〜 北青山のベルコモンズ開業から、初の減益と事業部の組み替えを経てピーク時約300店に至るまで

1976年〜地上11階の青山ベルコモンズと、6月2日から出回ったうわさ

1976年6月、鈴屋は東京・北青山に青山ベルコモンズを開業し、本社も同じ建物へ移した。ビルは地下1階・地上11階で、延べ床面積は1万3900平方メートルに及んだ。6階から上を本社が占め、その下の階は鈴屋が運営と管理を受け持つショッピングセンターに充てた。売場面積は3000平方メートルで、専門店が自ら開発し運営するファッションビルとしては国内で最初の例という。設計は鈴屋が手がけたものの、敷地と建物の所有者は日本不動産銀行系のアサヒ都市開発で、鈴屋は借り手の側に立った。発想は高度成長期にさかのぼり、工事の始まりは低成長期に入ってからとなった。鈴木義雄社長は、このビルを新たな顧客層を掘り起こす実験の場と位置づけた。

  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [120]1976年6月、鈴屋は本社を青山に移転し、同時にベルコモンズを開店した。
    • [121]青山ベルコモンズは地下1階、地上11階、延べ床面積1万3900平方メートル。6階以上は鈴屋本社で、残りの部分は鈴屋が運営、管理するショッピングセンター。
    • [122]青山ベルコモンズは地下1階、地上11階、延べ床面積1万3900平方メートル。6階以上は鈴屋本社で、残りの部分は鈴屋が運営、管理するショッピングセンター。
    • [124]ベルコモンズの設計は鈴屋だが、敷地、建物とも所有は日本不動産銀行系のアサヒ都市開発で、鈴屋はビルを賃借している。
    • [125]鈴木氏は青山ベルコモンズを「高度成長期に発想し、着工は低成長期」となったビルと述べた。
    • [126]鈴木氏にとって、ベルコモンズはあくまでも「新しい顧客創造の実験の場」である。
  • 実業往来 1978年
    • [123]1976年6月、「専門店が開発、運営する初のファッション・ビル」とのふれ込みで、売場面積3000平方メートルの青山ベルコモンズが開業した。

開業日の6月2日を境に、鈴屋と鈴木氏をめぐるうわさが業界に出回った。鈴木氏が自殺を図った、あるいは亡くなったという話まで出た。資金が回らず、現金払いを通してきた鈴屋が手形を振り出した、三井物産から人員が差し向けられる、という話も重なった。発端には、ベルコモンズのテナント集めの難航と、建設に60億〜70億円を投じたうえ入居店の売れ行きが振るわないという見方があった。鈴木氏は、建設費は鈴屋が負担したがテナントの保証金も入っており、自社で出した資金は14億〜15億円だと説明した。借入金の総額を問われても非公開を理由に明かさず、額は大きくないとだけ答えた。

  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [127]うわさは6月2日、青山ベルコモンズの開店を機に流れ出した。
    • [128]鈴木義雄氏について、自殺未遂どころか死んだという話まで出た。
    • [130]鈴木氏は、ベルコモンズでテナント集めに苦労したことは認めた。
    • [131]都内で聞いたうわさでは、鈴屋はベルコモンズに60億〜70億円を注ぎこみ、金利負担も大きいうえ、テナントの専門店の売れ行きが悪く撤退したいという店も多いという。
    • [132]ビルの建設費は鈴屋が払っているが、鈴木氏によればテナントからの保証金もあり、実際に鈴屋が使った金は14億〜15億円。
    • [133]借入金の総額について、鈴木氏は非公開なので言えないが大したことはないと答えた。
  • 実業往来 1978年
    • [129]「現金払いの鈴屋が資金繰りに窮して手形を切った」「三井物産から人が送られる」といったデマが飛び交った。

うわさが勢いを得た背景には、鈴屋が未上場で財務の数字を公表せず、株主も鈴木氏1人だった事情があった。営業報告書を社外の者が目にする機会も無かった。公表売上高は1975年度に370億円と5年で3倍に増えたが、鈴木氏によれば伸び率は年40%から20%台へ下がっていた。外部に出回った1976年2月期の決算資料は、鈴屋のものとみられた。売上高331億円、経常利益11億円に対し、支払利息が11億7000万円あった。借入金は長短合わせ160億円で、支払手形は無かった。メーンバンクの第一勧業銀行は、拡大策をベルコモンズで一段落させるという了解のうえで支援しているとの見方が金融筋にあった。

  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [134]鈴屋は未上場企業で財務データを公表しない。株主は鈴木義雄氏ただ1人。
    • [136]鈴屋は専門店業界で日本一の売上高(1975年度公表370億円)を持ち、5年間で売上高は3倍に増えた。鈴木氏は、これまでの40%の伸びから見れば調子が悪いが20%台はキープしていると述べた。
    • [137]取材班が入手した「S社」の1976年2月期の決算は、売上高331億円、経常利益11億円、支払利息11億7000万円。借入金は短期40億円、長期119億6000万円の計160億円で、支払手形はゼロ。記事は鈴屋の決算である可能性が高いとした。
    • [138]取材班が入手した「S社」の1976年2月期の決算は、売上高331億円、経常利益11億円、支払利息11億7000万円。借入金は短期40億円、長期119億6000万円の計160億円で、支払手形はゼロ。記事は鈴屋の決算である可能性が高いとした。
    • [139]取材班が入手した「S社」の1976年2月期の決算は、売上高331億円、経常利益11億円、支払利息11億7000万円。借入金は短期40億円、長期119億6000万円の計160億円で、支払手形はゼロ。記事は鈴屋の決算である可能性が高いとした。
    • [140]金融筋のB氏によれば、メーンバンクの第一勧銀は、鈴屋の拡大政策が青山ベルコモンズで一段落したという了解のもとで支援しているとみられる。
  • 実業往来 1978年
    • [135]鈴屋は営業報告書すら外部に見せない。
参考文献[120]-[140]
  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [120]1976年6月、鈴屋は本社を青山に移転し、同時にベルコモンズを開店した。
    • [121]青山ベルコモンズは地下1階、地上11階、延べ床面積1万3900平方メートル。6階以上は鈴屋本社で、残りの部分は鈴屋が運営、管理するショッピングセンター。
    • [122]青山ベルコモンズは地下1階、地上11階、延べ床面積1万3900平方メートル。6階以上は鈴屋本社で、残りの部分は鈴屋が運営、管理するショッピングセンター。
    • [124]ベルコモンズの設計は鈴屋だが、敷地、建物とも所有は日本不動産銀行系のアサヒ都市開発で、鈴屋はビルを賃借している。
    • [125]鈴木氏は青山ベルコモンズを「高度成長期に発想し、着工は低成長期」となったビルと述べた。
    • [126]鈴木氏にとって、ベルコモンズはあくまでも「新しい顧客創造の実験の場」である。
    • [127]うわさは6月2日、青山ベルコモンズの開店を機に流れ出した。
    • [128]鈴木義雄氏について、自殺未遂どころか死んだという話まで出た。
    • [130]鈴木氏は、ベルコモンズでテナント集めに苦労したことは認めた。
    • [131]都内で聞いたうわさでは、鈴屋はベルコモンズに60億〜70億円を注ぎこみ、金利負担も大きいうえ、テナントの専門店の売れ行きが悪く撤退したいという店も多いという。
    • [132]ビルの建設費は鈴屋が払っているが、鈴木氏によればテナントからの保証金もあり、実際に鈴屋が使った金は14億〜15億円。
    • [133]借入金の総額について、鈴木氏は非公開なので言えないが大したことはないと答えた。
    • [134]鈴屋は未上場企業で財務データを公表しない。株主は鈴木義雄氏ただ1人。
    • [136]鈴屋は専門店業界で日本一の売上高(1975年度公表370億円)を持ち、5年間で売上高は3倍に増えた。鈴木氏は、これまでの40%の伸びから見れば調子が悪いが20%台はキープしていると述べた。
    • [137]取材班が入手した「S社」の1976年2月期の決算は、売上高331億円、経常利益11億円、支払利息11億7000万円。借入金は短期40億円、長期119億6000万円の計160億円で、支払手形はゼロ。記事は鈴屋の決算である可能性が高いとした。
    • [138]取材班が入手した「S社」の1976年2月期の決算は、売上高331億円、経常利益11億円、支払利息11億7000万円。借入金は短期40億円、長期119億6000万円の計160億円で、支払手形はゼロ。記事は鈴屋の決算である可能性が高いとした。
    • [139]取材班が入手した「S社」の1976年2月期の決算は、売上高331億円、経常利益11億円、支払利息11億7000万円。借入金は短期40億円、長期119億6000万円の計160億円で、支払手形はゼロ。記事は鈴屋の決算である可能性が高いとした。
    • [140]金融筋のB氏によれば、メーンバンクの第一勧銀は、鈴屋の拡大政策が青山ベルコモンズで一段落したという了解のもとで支援しているとみられる。
    • [123]1976年6月、「専門店が開発、運営する初のファッション・ビル」とのふれ込みで、売場面積3000平方メートルの青山ベルコモンズが開業した。
    • [129]「現金払いの鈴屋が資金繰りに窮して手形を切った」「三井物産から人が送られる」といったデマが飛び交った。
    • [135]鈴屋は営業報告書すら外部に見せない。

1977年〜設立以来初の減益と借入金180億円、400坪の大型店と600余の問屋

1977年2月期、鈴屋の売上高は前期比14%増の378億円となった。一方で経常利益は17%減の9億2000万円にとどまり、会社を興してから初めて利益が前期を下回った。長短の借入金は1977年2月末で180億円に上った。総資産に対する借入依存度は1975年度末で72%に達し、ダイエーの59%(1977年度末)を上回った。前年の秋の時点で、借入金は180億円ほどに達し、預金を取り崩して返済に回していると金融筋はみていた。1977年2月期は金利負担が重くなるとの見通しも、同じ筋から出ていた。前期比14%増から逆算した前期の売上高はおよそ331億円で、外部に出回った鈴屋のものとみられる決算資料の数字と重なっていた。

  • 実業往来 1978年
    • [141]1977年2月期決算は、売上高378億円(前期比14%増)に対し経常利益は9億2000万円と17%減。鈴屋にとって会社設立以来初めての減益決算だった。
    • [142]1977年2月期決算は、売上高378億円(前期比14%増)に対し経常利益は9億2000万円と17%減。鈴屋にとって会社設立以来初めての減益決算だった。
    • [143]長短あわせての借入金は1977年2月末で180億円にのぼる。
    • [144]鈴屋の借入依存度(対総資産)は1975年度末で72%で、ダイエーの59%(1977年度末)を上回った。
  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [145]B氏によれば、鈴屋の借り入れのピークは1976年8月で180億円ぐらい。その後は預金を取り崩して高金利の借金を返済し、金融費用の切り下げを図っている。
    • [146]B氏は、現状でも来年(1977年)2月期決算では金利負担が重くなるのは確実だと述べた。

鈴屋の店舗は売場面積400坪の大型店を基本とし、立地には繁華街の角地を選んだ。1976年度は売場面積を16%広げたのに対し、増収率は14%で、面積の伸びに売上高が届かなかった。新宿ルミネ、天神コア、高崎マミーナへの出店は、競合の厳しい場所へ後から加わる形となった。鹿児島と青山の両ベルコモンズについては、長期戦を前提にした先行投資と会社側が説明した。青山の初年度の年商は、予想の30億円を3億〜4億円上回る見込みと社長室は答えていたが、業界には初年度目標を下回ったとの見方があった。海外店も香港店を除き、見込んだ収益に達しなかった。

  • 実業往来 1978年
    • [147]鈴屋の店舗政策は売場面積400坪の大型店志向で、立地は繁華街の角地の一等地に執着する高コスト型店舗である。
    • [148]1976年度は売場面積16%増に対し、増収率は14%にとどまり、坪効率が低下した。
    • [149]新宿ルミネ、天神コア、高崎マミーナは激戦の真っただ中に飛び込んだ出店で、鹿児島ベルコモンズと青山ベルコモンズは「長期戦を覚悟した上での先行投資型」(広報担当)という。
    • [150]新宿ルミネ、天神コア、高崎マミーナは激戦の真っただ中に飛び込んだ出店で、鹿児島ベルコモンズと青山ベルコモンズは「長期戦を覚悟した上での先行投資型」(広報担当)という。
    • [152]青山ベルコモンズは「同社の初年度目標を下回り、中に入っているテナントも義理で入っているようなもの」(業界筋)という。
    • [153]採算第一主義で出店したはずの海外店は、香港店以外で軒並み予想通りの収益をあげていない。
  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [151]ベルコモンズについて、社長室の斉藤敏氏は当初の年商予想30億円を3億〜4億円超えそうだと述べた。

仕入れは600を超える問屋から現金で少しずつ買い付ける方式で、1社あたりの年間取引額は1000万円から5億円ほどまで開きがあった。店舗での仕入れと本部での仕入れはおよそ半々で、オリジナル商品は10〜15%にとどまった。取引先の一珠の柳澤社長は、鈴屋は以前から現金決済だけで、手形も支払日の延期も一度も無かったと話した。売り場には他の専門店より2〜3割多い人員を配し、売り場と商品の管理を細かく行った。人手と一等地にかけた費用を商品の回転の速さで回収する組み立てで、売上高の伸びが鈍れば、回転率の低下がそのまま収益を圧迫する形だったとみられる。

  • 実業往来 1978年
    • [154]仕入れは徹底した小回り分散主義で、600余りの問屋から、小は年間取引額1000万円、大はおよそ5億円まで現金仕入れで商品を集める。店仕入れと本部仕入れの比率は半々で、オリジナル商品は10〜15%と少ない。
    • [155]仕入れは徹底した小回り分散主義で、600余りの問屋から、小は年間取引額1000万円、大はおよそ5億円まで現金仕入れで商品を集める。店仕入れと本部仕入れの比率は半々で、オリジナル商品は10〜15%と少ない。
    • [157]各売場には他の専門店に比べて2〜3割増しの人員を投入し、きめ細かな売場管理、商品管理体制をとっている。鈴屋の基本戦略は高コスト=高回転である。
  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [156]一珠の柳澤社長は「鈴屋さんは前から現金決済一本ヤリですからね。手形の話、あるいは支払い日の延期なんて、これっぽっちも出たことありませんよ」と述べた。
参考文献[141]-[157]
    • [141]1977年2月期決算は、売上高378億円(前期比14%増)に対し経常利益は9億2000万円と17%減。鈴屋にとって会社設立以来初めての減益決算だった。
    • [142]1977年2月期決算は、売上高378億円(前期比14%増)に対し経常利益は9億2000万円と17%減。鈴屋にとって会社設立以来初めての減益決算だった。
    • [143]長短あわせての借入金は1977年2月末で180億円にのぼる。
    • [144]鈴屋の借入依存度(対総資産)は1975年度末で72%で、ダイエーの59%(1977年度末)を上回った。
    • [147]鈴屋の店舗政策は売場面積400坪の大型店志向で、立地は繁華街の角地の一等地に執着する高コスト型店舗である。
    • [148]1976年度は売場面積16%増に対し、増収率は14%にとどまり、坪効率が低下した。
    • [149]新宿ルミネ、天神コア、高崎マミーナは激戦の真っただ中に飛び込んだ出店で、鹿児島ベルコモンズと青山ベルコモンズは「長期戦を覚悟した上での先行投資型」(広報担当)という。
    • [150]新宿ルミネ、天神コア、高崎マミーナは激戦の真っただ中に飛び込んだ出店で、鹿児島ベルコモンズと青山ベルコモンズは「長期戦を覚悟した上での先行投資型」(広報担当)という。
    • [152]青山ベルコモンズは「同社の初年度目標を下回り、中に入っているテナントも義理で入っているようなもの」(業界筋)という。
    • [153]採算第一主義で出店したはずの海外店は、香港店以外で軒並み予想通りの収益をあげていない。
    • [154]仕入れは徹底した小回り分散主義で、600余りの問屋から、小は年間取引額1000万円、大はおよそ5億円まで現金仕入れで商品を集める。店仕入れと本部仕入れの比率は半々で、オリジナル商品は10〜15%と少ない。
    • [155]仕入れは徹底した小回り分散主義で、600余りの問屋から、小は年間取引額1000万円、大はおよそ5億円まで現金仕入れで商品を集める。店仕入れと本部仕入れの比率は半々で、オリジナル商品は10〜15%と少ない。
    • [157]各売場には他の専門店に比べて2〜3割増しの人員を投入し、きめ細かな売場管理、商品管理体制をとっている。鈴屋の基本戦略は高コスト=高回転である。
  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [145]B氏によれば、鈴屋の借り入れのピークは1976年8月で180億円ぐらい。その後は預金を取り崩して高金利の借金を返済し、金融費用の切り下げを図っている。
    • [146]B氏は、現状でも来年(1977年)2月期決算では金利負担が重くなるのは確実だと述べた。
    • [151]ベルコモンズについて、社長室の斉藤敏氏は当初の年商予想30億円を3億〜4億円超えそうだと述べた。
    • [156]一珠の柳澤社長は「鈴屋さんは前から現金決済一本ヤリですからね。手形の話、あるいは支払い日の延期なんて、これっぽっちも出たことありませんよ」と述べた。

1977年〜5事業部から8事業部への改組と中型店、ピーク時約300店と売上高593億円

1977年5月、鈴屋は鈴屋ニュー路線と名付けた新しい3カ年計画を始め、5事業部を8事業部に組み替えた。新設の第三事業部は、売場面積30〜50坪の中型店を少ない販売員で地方都市と郊外に出す、ローコスト・ロープライスの業態の開発を受け持った。ほかの事業部にはヤングカジュアル、大人向けのトラディショナル、子供服やキャリアウーマンといった客層を振り分けた。1978年には福岡店を閉め、4年前に開いた紳士服のベルアルノ新宿店からも撤退した。同年の新規出店は2〜3店とし、採算の確証が無ければ見送る方針を示した。鈴木氏は1976年の段階で、品ぞろえの議論より先に経営管理と財務を固める必要があるとの考えを示していた。

  • 実業往来 1978年
    • [158]1977年5月に「鈴屋ニュー路線」と銘打った新三ヵ年計画をスタートさせ、第一弾として社長以下5事業部を8事業部に改編した。
    • [159]第三事業部はローコスト・ロープライス店という新しい店舗業態の開発が狙いで、売場面積30〜50坪の中型店を地方都市および郊外へ出店し、1店舗当たりの販売員数も少なくする。
    • [160]YCS事業部はヤングカジュアル中心、第一事業部はトラディショナル感覚で大人向き、第二事業部は子供服、15〜16歳、キャリアウーマンやヤングミセス、ヤングアダルトなどを対象とする。
    • [161]福岡店のスクラップ化、4年前にオープンした紳士服ベルアルノ新宿店の撤退など、効率を前面に出してきている。
    • [162]広報担当は、今年(1978年)は2、3の出店を予定しているが、絶対に採算がとれるという確証がなければ出店はしないと述べた。
  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [163]鈴木氏は、これまで専門店といえばマーチャンダイジングなどソフトの問題ばかり論じていたが、これからは経営管理、財務をしっかりしなければならないと語った。

三愛が1970年代前半に経営不振に陥ったのち、婦人服専門店の首位は鈴屋に移ったという。首位に立った鈴屋は、1983年に台湾の新光グループの小売部門である新光百貨店とフランチャイズ契約を結び、台北市内の同百貨店に1号店を開設した。約50平方メートルの売場にカジュアル単品を並べ、鈴屋はオリジナル商品の供給と店舗運営の手法の提供を受け持った。3年後に15店・年商30億円を目標とし、当面の商品は東京の本部から送る計画だった。1993年には赤城水産と共同で出資し、まぐろ料理の専門店を営むまぐろ屋さんを設立した。海外は自前の店舗を持たない提携で広げ、国内では衣料と関わりのない飲食業へも出資しており、拡大の対象は婦人服店の外へ及んでいたと思われる。

  • Decide 1989年 7巻9号(通巻71号)
    • [164]三愛は昭和40年代後半に極度の経営不振に陥り、ライバルの鈴屋に業界の王座を譲り渡した。
  • 日経ビジネス 1983年6月27日号
    • [165]鈴屋は台湾の新光グループの小売業部門である新光百貨店とフランチャイズ契約を結び、台北市内の同百貨店内に第1号店を開いた。売り場面積は約50平方メートルで、カジュアル単品中心の品揃え。鈴屋はオリジナル商品の供給、販売・店舗運営ノウハウの提供を行う。
    • [166]鈴屋は台湾の新光グループの小売業部門である新光百貨店とフランチャイズ契約を結び、台北市内の同百貨店内に第1号店を開いた。売り場面積は約50平方メートルで、カジュアル単品中心の品揃え。鈴屋はオリジナル商品の供給、販売・店舗運営ノウハウの提供を行う。
    • [167]当面は東京本部から商品を供給し、将来は現地生産も考える。3年後に15店舗、年商30億円を目指す計画。
  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
    • [168]赤城水産との共同出資で、まぐろ料理専門店の株式会社まぐろ屋さんを1993年に設立した。

1976年に海外6店を含め53店だった店舗網は、1978年に国内49店と海外8店となり、のちに最も多い時期で約300店を数えた。売上高は1975年度の公表値370億円から、1992年2月期には約593億円に増え、これが鈴屋の年売上高の最高となった。最盛期には、法人申告所得を毎年5億円前後確保していたという。しかし1992年2月期を境に売上高は減り始め、個人消費の低迷と海外製品の輸入増による値崩れがそこに重なった。1978年の計画にあった地方都市と郊外への中型店が、約300店という規模へ店舗網を広げる道筋になったとみられる。

  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [169]鈴屋の店舗数は1976年時点で53(海外6店を含む)。
    • [172]鈴屋の売上高は1975年度の公表値で370億円。
  • 実業往来 1978年
    • [170]この10年間の積極拡大策で、鈴屋は店舗数49店、海外店8店と専門店業界のトップに立った。
  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
    • [171]鈴屋は婦人服専門チェーンとしてピーク時には約300店の店舗を展開した。
    • [173]最盛期の年売上高は1992年2月期の約593億円で、毎年5億円前後の法人申告所得を確保していた。
    • [174]最盛期の年売上高は1992年2月期の約593億円で、毎年5億円前後の法人申告所得を確保していた。
    • [175]1992年2月期をピークに、鈴屋の売上高は個人消費の低迷と海外製品の輸入増加などによる価格破壊現象と並行して減少の一途をたどった。
参考文献[158]-[175]
    • [158]1977年5月に「鈴屋ニュー路線」と銘打った新三ヵ年計画をスタートさせ、第一弾として社長以下5事業部を8事業部に改編した。
    • [159]第三事業部はローコスト・ロープライス店という新しい店舗業態の開発が狙いで、売場面積30〜50坪の中型店を地方都市および郊外へ出店し、1店舗当たりの販売員数も少なくする。
    • [160]YCS事業部はヤングカジュアル中心、第一事業部はトラディショナル感覚で大人向き、第二事業部は子供服、15〜16歳、キャリアウーマンやヤングミセス、ヤングアダルトなどを対象とする。
    • [161]福岡店のスクラップ化、4年前にオープンした紳士服ベルアルノ新宿店の撤退など、効率を前面に出してきている。
    • [162]広報担当は、今年(1978年)は2、3の出店を予定しているが、絶対に採算がとれるという確証がなければ出店はしないと述べた。
    • [170]この10年間の積極拡大策で、鈴屋は店舗数49店、海外店8店と専門店業界のトップに立った。
  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [163]鈴木氏は、これまで専門店といえばマーチャンダイジングなどソフトの問題ばかり論じていたが、これからは経営管理、財務をしっかりしなければならないと語った。
    • [169]鈴屋の店舗数は1976年時点で53(海外6店を含む)。
    • [172]鈴屋の売上高は1975年度の公表値で370億円。
    • [164]三愛は昭和40年代後半に極度の経営不振に陥り、ライバルの鈴屋に業界の王座を譲り渡した。
  • 日経ビジネス 1983年6月27日号
    • [165]鈴屋は台湾の新光グループの小売業部門である新光百貨店とフランチャイズ契約を結び、台北市内の同百貨店内に第1号店を開いた。売り場面積は約50平方メートルで、カジュアル単品中心の品揃え。鈴屋はオリジナル商品の供給、販売・店舗運営ノウハウの提供を行う。
    • [166]鈴屋は台湾の新光グループの小売業部門である新光百貨店とフランチャイズ契約を結び、台北市内の同百貨店内に第1号店を開いた。売り場面積は約50平方メートルで、カジュアル単品中心の品揃え。鈴屋はオリジナル商品の供給、販売・店舗運営ノウハウの提供を行う。
    • [167]当面は東京本部から商品を供給し、将来は現地生産も考える。3年後に15店舗、年商30億円を目指す計画。
    • [168]赤城水産との共同出資で、まぐろ料理専門店の株式会社まぐろ屋さんを1993年に設立した。
    • [171]鈴屋は婦人服専門チェーンとしてピーク時には約300店の店舗を展開した。
    • [173]最盛期の年売上高は1992年2月期の約593億円で、毎年5億円前後の法人申告所得を確保していた。
    • [174]最盛期の年売上高は1992年2月期の約593億円で、毎年5億円前後の法人申告所得を確保していた。
    • [175]1992年2月期をピークに、鈴屋の売上高は個人消費の低迷と海外製品の輸入増加などによる価格破壊現象と並行して減少の一途をたどった。

第4章 1994年〜 売上高446億円への縮小と鈴屋興産への統合から、金融債務と保証債務を抱えた負債587億円の和議申請まで

筆者考察y.sugiura, author

鈴屋の破綻を決めたのは、婦人服が売れなくなったことよりも、売れなくなったあとに借金を減らす手段が残っていなかったことだった。仕入れ先に在庫の危険を負わせ、問屋へ現金で払う鈴屋の仕組みは、在庫から借金が生まれる経路を閉じていた。売上高が593億円から317億円へ縮んでも、それだけなら店を閉じて身を細らせる余地があったはずである。ところが負債587億円の中身は、金融債務325億円と、17社の関係会社のための保証160億円だった。本業の外で積み上がった借金は、店舗網を219店まで縮めても減らず、閉店で浮く資金では追いつかなかった。売場を減らすほど売上高も減り、返済の原資はむしろ細った。

その本業の外の借金は、特定金銭信託の運用損、都内の不動産、台場の本社ビル計画という、バブル期に手を広げた三つの投資から生まれた。どれも婦人服の品ぞろえとは関わりが無く、衣料の不振が続くかぎり、穴を埋める収益はどこからも来なかった。運用の損失は約50億円とされ、都内の不動産にも約100億円の借入が付いていた。同じ時期、製造小売の外資系専門店が日本へ上陸し、鈴丹やキャビンも店を大量に閉じた。品ぞろえ型の売り方が通じなくなった市場で、鈴屋は新しい売り方を試す前に、住友商事と住金物産を交えた再建の協議で約1年を費やした。和議は、本業の立て直しと債務の整理を同時に迫られた末の選択だった。

鈴屋の売上高 1995年2月期〜1996年2月期(億円)

446 1995年2月期 317.08 1996年2月期
  • 鈴屋単体の年間売上高。1995年2月期は約446億円、1996年2月期は約317億800万円。1995年3月に鈴屋興産が鈴屋を吸収合併して商号を鈴屋に改めたため、1996年2月期は合併後の会社の数字。
  • 最盛期は章の範囲外の1992年2月期で約593億円。
  • 出所は Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」。

1994年〜売上高593億円からの減収と、鈴屋興産による吸収合併

鈴屋の売上高は1992年2月期の約593億円を頂点に減り続け、1995年2月期には約446億円まで減少した。減収の背景には、個人消費の冷え込みと、海外からの衣料品の輸入増による値下がりがあった。商品の面では、バブル期に売れた品目へ企画を寄せて大量に売り、品ぞろえの一貫性を欠いたとの指摘が出ていた。日本の大手婦人服専門店に共通した売り方は、季節の初めにアパレル会社の製品を多く並べ、売れた品目だけを追って発注するものだった。消費者の好みが細かく分かれると、雑多な品を並べる店は選ばれにくくなり、明確な個性を持つブランドが求められた。鈴屋の減収は、この品ぞろえ型の売り方が通用しなくなった時期と重なっていた。

  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
    • [176]1992年2月期をピーク(約593億円)に、鈴屋の売上高は個人消費の低迷と海外製品の輸入増加などによる価格破壊現象と並行して減少し、1995年2月期には約446億円に下がった。
    • [177]1992年2月期をピーク(約593億円)に、鈴屋の売上高は個人消費の低迷と海外製品の輸入増加などによる価格破壊現象と並行して減少し、1995年2月期には約446億円に下がった。
    • [178]バブル期の売れ筋商品のみを重視した商品企画と大量販売を行い、商品づくりやマーチャンダイジングの一貫性に欠けていたとの声もある。
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [179]日本の大手専門店は、シーズン初めにアパレルが作った商品をたくさん店に並べ、売れる商品だけを急いで追加発注するやり方だった。消費者の好みが細分化し、品揃え型専門店ではなく、明確で個性的なイメージを持つブランドが求められるようになった。
    • [180]日本の大手専門店は、シーズン初めにアパレルが作った商品をたくさん店に並べ、売れる商品だけを急いで追加発注するやり方だった。消費者の好みが細分化し、品揃え型専門店ではなく、明確で個性的なイメージを持つブランドが求められるようになった。

鈴屋の店は1970年代から、繁華街の角地に構える売場面積400坪の大型店を基本とした。販売員も他の専門店より2〜3割多く置いており、費用の重い造りだった。1995年2月期には、有価証券の売却損と閉鎖店舗の固定資産除却損が重なり、当期損失が約10億4700万円に達した。翌1995年3月、グループの物流と配送を担っていた鈴屋興産を存続会社とする合併があり、鈴屋はこれに吸収された。存続した鈴屋興産は商号を鈴屋に改めた。統合の狙いはグループ組織の簡素化にあった。閉店に伴う除却損が出ており、店舗の整理は1994年度のうちに始まっていたと推察される。売上高が減ると、人手と一等地にかけた固定費を吸収できなくなったとみられる。

  • 実業往来 1978年
    • [181]鈴屋の店舗政策は売場面積400坪の大型店志向で、立地は繁華街の角地の一等地。各売場には他の専門店に比べて2〜3割増しの人員を投入する高コスト型店舗である。
  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
    • [182]1995年2月期は、有価証券の売却や店舗閉鎖に伴う固定資産の除却損などから、当期損失約10億4700万円の大幅な赤字決算となった。
    • [183]1995年3月、鈴屋グループの物流・配送部門の鈴屋興産が鈴屋を吸収する形で存続会社となり、同時に商号を鈴屋興産から鈴屋に変更し、企業統合による組織のスリム化を図った。
    • [184]1995年3月、鈴屋グループの物流・配送部門の鈴屋興産が鈴屋を吸収する形で存続会社となり、同時に商号を鈴屋興産から鈴屋に変更し、企業統合による組織のスリム化を図った。
参考文献[176]-[184]
    • [176]1992年2月期をピーク(約593億円)に、鈴屋の売上高は個人消費の低迷と海外製品の輸入増加などによる価格破壊現象と並行して減少し、1995年2月期には約446億円に下がった。
    • [177]1992年2月期をピーク(約593億円)に、鈴屋の売上高は個人消費の低迷と海外製品の輸入増加などによる価格破壊現象と並行して減少し、1995年2月期には約446億円に下がった。
    • [178]バブル期の売れ筋商品のみを重視した商品企画と大量販売を行い、商品づくりやマーチャンダイジングの一貫性に欠けていたとの声もある。
    • [182]1995年2月期は、有価証券の売却や店舗閉鎖に伴う固定資産の除却損などから、当期損失約10億4700万円の大幅な赤字決算となった。
    • [183]1995年3月、鈴屋グループの物流・配送部門の鈴屋興産が鈴屋を吸収する形で存続会社となり、同時に商号を鈴屋興産から鈴屋に変更し、企業統合による組織のスリム化を図った。
    • [184]1995年3月、鈴屋グループの物流・配送部門の鈴屋興産が鈴屋を吸収する形で存続会社となり、同時に商号を鈴屋興産から鈴屋に変更し、企業統合による組織のスリム化を図った。
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [179]日本の大手専門店は、シーズン初めにアパレルが作った商品をたくさん店に並べ、売れる商品だけを急いで追加発注するやり方だった。消費者の好みが細分化し、品揃え型専門店ではなく、明確で個性的なイメージを持つブランドが求められるようになった。
    • [180]日本の大手専門店は、シーズン初めにアパレルが作った商品をたくさん店に並べ、売れる商品だけを急いで追加発注するやり方だった。消費者の好みが細分化し、品揃え型専門店ではなく、明確で個性的なイメージを持つブランドが求められるようになった。
    • [181]鈴屋の店舗政策は売場面積400坪の大型店志向で、立地は繁華街の角地の一等地。各売場には他の専門店に比べて2〜3割増しの人員を投入する高コスト型店舗である。

1995年〜店舗数219店への縮小と、品ぞろえ型チェーンの退潮

1996年2月期の鈴屋の売上高は約317億800万円で、見込みを上回る幅で減った。公表されたグループの売上高は約507億4500万円で、前期の78.1%にとどまった。最盛期のグループ売上高は公表値で約802億7500万円あり、そこから4割近くを失った計算になる。店舗数は219店となり、ピーク時の約300店からおよそ80店を減らした。損益は公表しなかったが、大幅な赤字を出していたという。採算を割る店は一説に全店の半数を占め、なかでも大型店の赤字が売上高と収益を押し下げた。1997年2月の和議申請の後も、鈴屋グループはさらに多くの店を閉じざるをえないとの見方が出た。

  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
    • [185]1996年2月期の売上高は予想以上に大幅に減少し、約317億800万円。公表されたグループ売上高は約507億4500万円で前期比78.1%に落ち込んだ。損益は未公表ながら大幅な赤字を強いられていたようだ。
    • [186]1996年2月期の売上高は予想以上に大幅に減少し、約317億800万円。公表されたグループ売上高は約507億4500万円で前期比78.1%に落ち込んだ。損益は未公表ながら大幅な赤字を強いられていたようだ。
    • [187]鈴屋グループ全体の売上げ規模は最盛期に公表数字で約802億7500万円。1996年2月期のグループ売上高は約507億4500万円。
    • [188]鈴屋はピーク時には約300店の店舗を展開したが、1996年2月期には店舗数が219店に減少した。
    • [189]1996年2月期の売上高は予想以上に大幅に減少し、約317億800万円。公表されたグループ売上高は約507億4500万円で前期比78.1%に落ち込んだ。損益は未公表ながら大幅な赤字を強いられていたようだ。
    • [190]採算割れの赤字店舗は一説では全体の半分を占め、特に大型店舗の採算割れが売上げ不振と収益悪化を招き、鈴屋全体の足を引っ張っていた。
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [191]1997年2月に経営が破綻して和議を申請した鈴屋グループも、多数の店舗を閉めざるをえないだろう。

売上高を落としたのは鈴屋だけではなく、品ぞろえ型の婦人服チェーンに共通していた。鈴丹、三愛、キャビンの売上高は最盛期より30〜40%減り、各社は不採算店の閉鎖を進めた。1997年には鈴丹が100店、キャビンが約70店を閉める計画だった。入れ替わって、香港のジョルダーノなど、商品を自ら企画して生産を委託し、直営店で売る製造小売業の外資系専門店が日本へ進出した。国内でも、製造小売の仕組みを早く取り入れたファイブフォックスは、グループ売上高を1000億円台に乗せていた。日本の大手専門店は個性ある店へ転換できず、海外の製造小売の手法を十分に学ばないまま真似たとの指摘があった。

  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
    • [192]品揃え型の婦人服ナショナルチェーン各社が売上げ不振に悩み、鈴丹・三愛・キャビンも最盛期に比べ売上げが30〜40%減少し、不採算店の多くを閉鎖するなどリストラに取り組んでいる。
    • [193]品揃え型の婦人服ナショナルチェーン各社が売上げ不振に悩み、鈴丹・三愛・キャビンも最盛期に比べ売上げが30〜40%減少し、不採算店の多くを閉鎖するなどリストラに取り組んでいる。
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [194]鈴丹は1997年に100店、キャビンは1997年に約70店を閉める。日本の大手専門店は個性的な店への転換ができず、転換期に海外の製造小売業の手法を、ノウハウを学ぶことなく安易に真似た。
    • [195]ジョルダーノなど香港の製造小売業(SPA)は、自ら商品を企画・立案して外部の縫製工場に生産を発注し、主に直営店で販売する。ファイブフォックスは製造小売業の仕組みを早くから取り入れ、グループ売上高を1000億円台に乗せた。
    • [196]ジョルダーノなど香港の製造小売業(SPA)は、自ら商品を企画・立案して外部の縫製工場に生産を発注し、主に直営店で販売する。ファイブフォックスは製造小売業の仕組みを早くから取り入れ、グループ売上高を1000億円台に乗せた。
    • [197]鈴丹は1997年に100店、キャビンは1997年に約70店を閉める。日本の大手専門店は個性的な店への転換ができず、転換期に海外の製造小売業の手法を、ノウハウを学ぶことなく安易に真似た。
参考文献[185]-[197]
    • [185]1996年2月期の売上高は予想以上に大幅に減少し、約317億800万円。公表されたグループ売上高は約507億4500万円で前期比78.1%に落ち込んだ。損益は未公表ながら大幅な赤字を強いられていたようだ。
    • [186]1996年2月期の売上高は予想以上に大幅に減少し、約317億800万円。公表されたグループ売上高は約507億4500万円で前期比78.1%に落ち込んだ。損益は未公表ながら大幅な赤字を強いられていたようだ。
    • [187]鈴屋グループ全体の売上げ規模は最盛期に公表数字で約802億7500万円。1996年2月期のグループ売上高は約507億4500万円。
    • [188]鈴屋はピーク時には約300店の店舗を展開したが、1996年2月期には店舗数が219店に減少した。
    • [189]1996年2月期の売上高は予想以上に大幅に減少し、約317億800万円。公表されたグループ売上高は約507億4500万円で前期比78.1%に落ち込んだ。損益は未公表ながら大幅な赤字を強いられていたようだ。
    • [190]採算割れの赤字店舗は一説では全体の半分を占め、特に大型店舗の採算割れが売上げ不振と収益悪化を招き、鈴屋全体の足を引っ張っていた。
    • [192]品揃え型の婦人服ナショナルチェーン各社が売上げ不振に悩み、鈴丹・三愛・キャビンも最盛期に比べ売上げが30〜40%減少し、不採算店の多くを閉鎖するなどリストラに取り組んでいる。
    • [193]品揃え型の婦人服ナショナルチェーン各社が売上げ不振に悩み、鈴丹・三愛・キャビンも最盛期に比べ売上げが30〜40%減少し、不採算店の多くを閉鎖するなどリストラに取り組んでいる。
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [191]1997年2月に経営が破綻して和議を申請した鈴屋グループも、多数の店舗を閉めざるをえないだろう。
    • [194]鈴丹は1997年に100店、キャビンは1997年に約70店を閉める。日本の大手専門店は個性的な店への転換ができず、転換期に海外の製造小売業の手法を、ノウハウを学ぶことなく安易に真似た。
    • [195]ジョルダーノなど香港の製造小売業(SPA)は、自ら商品を企画・立案して外部の縫製工場に生産を発注し、主に直営店で販売する。ファイブフォックスは製造小売業の仕組みを早くから取り入れ、グループ売上高を1000億円台に乗せた。
    • [196]ジョルダーノなど香港の製造小売業(SPA)は、自ら商品を企画・立案して外部の縫製工場に生産を発注し、主に直営店で販売する。ファイブフォックスは製造小売業の仕組みを早くから取り入れ、グループ売上高を1000億円台に乗せた。
    • [197]鈴丹は1997年に100店、キャビンは1997年に約70店を閉める。日本の大手専門店は個性的な店への転換ができず、転換期に海外の製造小売業の手法を、ノウハウを学ぶことなく安易に真似た。

1996年〜金融債務325億円と保証債務160億円、再建協議の不調から和議申請へ

鈴屋を行き詰まらせた最大の要因は、在庫ではなく、金融債務と関係会社への保証だった。小売業の破綻では、在庫を抱えた借入の膨張がよく原因に挙がる。鈴屋は仕入れ先に在庫の危険を負わせる強い取引姿勢をとり、在庫による有利子負債はほとんど増えなかったとされる。問屋への支払いは1976年当時から現金決済に限り、手形を切らなかった。負債総額587億4700万円のうち、金融債務は325億円、グループ会社のための保証債務は約160億7700万円だった。関連会社は1996年末に17社あり、鈴屋国際香港とまぐろ屋さんを除く大半が鈴屋の保証で資金を借りていた。それらの子会社の多くは、鈴屋の支えが無ければ運営が成り立たない状態だった。

  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
    • [198]鈴屋を破綻に追い込んだ最大の原因は、325億円にのぼる金融債務と関係会社に対する保証債務だった。負債総額587億4700万円はグループ会社への保証債務を含み、保証債務は約160億7700万円にのぼった。
    • [199]業界では、鈴屋の場合、在庫負担による有利子負債の増加はほとんどないはずとの声が多い。鈴屋は在庫リスクを極力回避する姿勢で、仕入れ先に対する取引姿勢は強かった。
    • [200]業界では、鈴屋の場合、在庫負担による有利子負債の増加はほとんどないはずとの声が多い。鈴屋は在庫リスクを極力回避する姿勢で、仕入れ先に対する取引姿勢は強かった。
    • [202]鈴屋を破綻に追い込んだ最大の原因は、325億円にのぼる金融債務と関係会社に対する保証債務だった。負債総額587億4700万円はグループ会社への保証債務を含み、保証債務は約160億7700万円にのぼった。
    • [203]鈴屋の関連会社は1996年末時点で17社。優良子会社の鈴屋国際香港とまぐろ屋さん以外は鈴屋の保証により資金を借り入れていた。
    • [204]鈴屋の関連会社は1996年末時点で17社。優良子会社の鈴屋国際香港とまぐろ屋さん以外は鈴屋の保証により資金を借り入れていた。
  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [201]取引先の一珠の柳澤社長によれば、鈴屋は前から現金決済一本で、手形の話や支払日の延期は一度も出たことがない。

金融債務を膨らませたもう一つの源は、本業の外での資金運用と不動産だった。1987年6月、鈴屋は関連会社のびすけっとくらぶと共同で鈴屋アセットマネジメントを設立した。この会社はグループの有価証券投資を担い、特定金銭信託で資金を運用した。和議申請の代理人を務めた清水直弁護士は、解約後の損失を約50億円と説明したが、実額はさらに大きいとの説もあった。バブル期には都内を中心に不動産を買い、その借入は約100億円に達した。1991年には、臨海副都心の台場地区で資生堂と並ぶ本社ビルをツインタワーとして建てる計画が決まった。14階建てのビルを1998年以降に建てる予定だったが、バブル崩壊で着工に至らなかった。

  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
    • [205]鈴屋本体の金融債務が拡大したもう一つの理由は財テク失敗による損失補填である。鈴屋アセットマネジメントは1987年6月、グループ企業での有価証券投資を目的に鈴屋とびすけっとくらぶの出資で設立され、特定金銭信託を行っていた。
    • [206]鈴屋本体の金融債務が拡大したもう一つの理由は財テク失敗による損失補填である。鈴屋アセットマネジメントは1987年6月、グループ企業での有価証券投資を目的に鈴屋とびすけっとくらぶの出資で設立され、特定金銭信託を行っていた。
    • [207]鈴屋本体の金融債務が拡大したもう一つの理由は財テク失敗による損失補填である。鈴屋アセットマネジメントは1987年6月、グループ企業での有価証券投資を目的に鈴屋とびすけっとくらぶの出資で設立され、特定金銭信託を行っていた。
    • [208]和議申請代理人の清水直弁護士の会見時の説明では「解約後の損失は約50億円」と公表されたが、損失額はもっと巨額にのぼっていたとの説もある。
    • [209]バブル時に都内を中心に購入した不動産による借入れが約100億円。臨海副都心で98年以降に14階建てビルを建設し、資生堂と鈴屋がそれぞれ本社を移転する計画は、バブル崩壊で未着工のまま。
    • [211]バブル時に都内を中心に購入した不動産による借入れが約100億円。臨海副都心で98年以降に14階建てビルを建設し、資生堂と鈴屋がそれぞれ本社を移転する計画は、バブル崩壊で未着工のまま。
  • Decide 1991年 8巻10号(通巻84号)
    • [210]臨海副都心の台場地区Hブロックには資生堂と鈴屋の本社ビル(ツインタワー)が入ることが決まった。

和議申請までの約1年、鈴屋は住友商事と住金物産など外部の企業が主導する再建を探った。1996年12月には、優良子会社でユニホームの企画と製造を手がけるイスト(旧鈴屋エンタープライズ)の株式を住金物産へ売った。しかし関係者の間の調整は最後までつかず、再建策は実らなかった。1997年2月24日、鈴屋は負債587億4700万円を抱えて東京地方裁判所に和議開始を申し立て、事実上倒産した。申請時の資本金は1億9948万円、従業員は847人で、代表は2代目社長の鈴木義雄氏だった。3月4日の債権者集会でも、保証債務の中身は会社側から最後まで語られなかった。婦人服の専門店チェーンに共通する構造の問題を抱えた破綻として、鈴屋の和議による再建は業界の先行きを占う例とみなされた。

  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
    • [212]住友商事と住金物産など第三者主導の再建を目指したが、関係者間の調整は最後までつかず、1年間の再建努力の末に和議を選択した。
    • [213]優良子会社のひとつでユニホーム企画製造会社のイスト(旧鈴屋エンタープライズ)は、1996年12月に株式を住金物産に売却された。
    • [214]住友商事と住金物産など第三者主導の再建を目指したが、関係者間の調整は最後までつかず、1年間の再建努力の末に和議を選択した。
    • [215]鈴屋(資本金1億9948万円、代表鈴木義雄氏、従業員847人)は負債587億4700万円で、1997年2月24日、東京地裁に和議開始を申請し事実上倒産した。鈴木義雄氏は2代目社長。
    • [217]鈴屋(資本金1億9948万円、代表鈴木義雄氏、従業員847人)は負債587億4700万円で、1997年2月24日、東京地裁に和議開始を申請し事実上倒産した。鈴木義雄氏は2代目社長。
    • [218]和議開始後の3月4日に開かれた債権者集会でも、保証債務の実態は会社側から最後まで語られなかった。
    • [219]鈴屋の破綻は婦人服ナショナルチェーンの抱える構造問題に直面して倒産した具体的事例であり、和議による再建は業界にとって今後を占う試金石となる。
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [216]鈴屋グループは1997年2月に経営が破綻し、和議を申請した。
参考文献[198]-[219]
    • [198]鈴屋を破綻に追い込んだ最大の原因は、325億円にのぼる金融債務と関係会社に対する保証債務だった。負債総額587億4700万円はグループ会社への保証債務を含み、保証債務は約160億7700万円にのぼった。
    • [199]業界では、鈴屋の場合、在庫負担による有利子負債の増加はほとんどないはずとの声が多い。鈴屋は在庫リスクを極力回避する姿勢で、仕入れ先に対する取引姿勢は強かった。
    • [200]業界では、鈴屋の場合、在庫負担による有利子負債の増加はほとんどないはずとの声が多い。鈴屋は在庫リスクを極力回避する姿勢で、仕入れ先に対する取引姿勢は強かった。
    • [202]鈴屋を破綻に追い込んだ最大の原因は、325億円にのぼる金融債務と関係会社に対する保証債務だった。負債総額587億4700万円はグループ会社への保証債務を含み、保証債務は約160億7700万円にのぼった。
    • [203]鈴屋の関連会社は1996年末時点で17社。優良子会社の鈴屋国際香港とまぐろ屋さん以外は鈴屋の保証により資金を借り入れていた。
    • [204]鈴屋の関連会社は1996年末時点で17社。優良子会社の鈴屋国際香港とまぐろ屋さん以外は鈴屋の保証により資金を借り入れていた。
    • [205]鈴屋本体の金融債務が拡大したもう一つの理由は財テク失敗による損失補填である。鈴屋アセットマネジメントは1987年6月、グループ企業での有価証券投資を目的に鈴屋とびすけっとくらぶの出資で設立され、特定金銭信託を行っていた。
    • [206]鈴屋本体の金融債務が拡大したもう一つの理由は財テク失敗による損失補填である。鈴屋アセットマネジメントは1987年6月、グループ企業での有価証券投資を目的に鈴屋とびすけっとくらぶの出資で設立され、特定金銭信託を行っていた。
    • [207]鈴屋本体の金融債務が拡大したもう一つの理由は財テク失敗による損失補填である。鈴屋アセットマネジメントは1987年6月、グループ企業での有価証券投資を目的に鈴屋とびすけっとくらぶの出資で設立され、特定金銭信託を行っていた。
    • [208]和議申請代理人の清水直弁護士の会見時の説明では「解約後の損失は約50億円」と公表されたが、損失額はもっと巨額にのぼっていたとの説もある。
    • [209]バブル時に都内を中心に購入した不動産による借入れが約100億円。臨海副都心で98年以降に14階建てビルを建設し、資生堂と鈴屋がそれぞれ本社を移転する計画は、バブル崩壊で未着工のまま。
    • [211]バブル時に都内を中心に購入した不動産による借入れが約100億円。臨海副都心で98年以降に14階建てビルを建設し、資生堂と鈴屋がそれぞれ本社を移転する計画は、バブル崩壊で未着工のまま。
    • [212]住友商事と住金物産など第三者主導の再建を目指したが、関係者間の調整は最後までつかず、1年間の再建努力の末に和議を選択した。
    • [213]優良子会社のひとつでユニホーム企画製造会社のイスト(旧鈴屋エンタープライズ)は、1996年12月に株式を住金物産に売却された。
    • [214]住友商事と住金物産など第三者主導の再建を目指したが、関係者間の調整は最後までつかず、1年間の再建努力の末に和議を選択した。
    • [215]鈴屋(資本金1億9948万円、代表鈴木義雄氏、従業員847人)は負債587億4700万円で、1997年2月24日、東京地裁に和議開始を申請し事実上倒産した。鈴木義雄氏は2代目社長。
    • [217]鈴屋(資本金1億9948万円、代表鈴木義雄氏、従業員847人)は負債587億4700万円で、1997年2月24日、東京地裁に和議開始を申請し事実上倒産した。鈴木義雄氏は2代目社長。
    • [218]和議開始後の3月4日に開かれた債権者集会でも、保証債務の実態は会社側から最後まで語られなかった。
    • [219]鈴屋の破綻は婦人服ナショナルチェーンの抱える構造問題に直面して倒産した具体的事例であり、和議による再建は業界にとって今後を占う試金石となる。
  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [201]取引先の一珠の柳澤社長によれば、鈴屋は前から現金決済一本で、手形の話や支払日の延期は一度も出たことがない。
    • [210]臨海副都心の台場地区Hブロックには資生堂と鈴屋の本社ビル(ツインタワー)が入ることが決まった。
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [216]鈴屋グループは1997年2月に経営が破綻し、和議を申請した。

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歴史年表 1909〜1997年

鈴屋の沿革1909〜1997年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1909〜1961年上野駅前のガス灯から始まり、男物を捨てて婦人服の鈴屋になるまで鈴木房吉氏が東京市下谷区で鈴木シャツ被服店を開業★★★
鈴木房吉株式会社に改組★★
鈴木房吉鈴木義雄氏が専務に就任し婦人服専門店に転換★★★
鈴木房吉婦人服ブランド「SUZUYA」を開始し社名を鈴屋に変更★★
1962〜1975年上野から新宿、シャンゼリゼ通りへ延ばした27店の売り場鈴木義雄鈴木義雄氏が社長に就任★★
鈴木義雄パリ・シャンゼリゼ店を開業★★
鈴木義雄香港店を開業★
1976〜1993年青山ベルコモンズの開業と全国約300店への拡大、日本専門店協会の設立鈴木義雄東京・北青山にファッションビル青山ベルコモンズを開業★★★
鈴木義雄店舗数が全国約300店に到達★★
鈴木義雄日本専門店協会の設立にともない鈴木義雄氏が初代会長に就任★
1994〜1997年衣料不振による赤字と店舗転換、第一勧銀の支援打ち切りと和議申請鈴木義雄衣料販売の不振により赤字に転落★★
鈴木義雄渋谷店をサンドラッグの店舗に転換★
鈴木義雄新宿店をツタヤの店舗に転換★
鈴木義雄住金物産・住友商事・鈴乃屋による再建計画が住友商事の撤回で頓挫★★
鈴木義雄主力取引銀行の第一勧業銀行が支援を打ち切り★★
鈴木義雄手形不渡りにより東京地方裁判所に和議を申請★★★
出典・参考 11件
出典・参考
  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
  • 日経ビジネス 1983年6月27日号
  • Decide 1989年 7巻9号(通巻71号)
  • Decide 1991年 8巻10号(通巻84号)
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
  • ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
  • 商魂の記録 アイデアと根性の20人(1967年)「鈴屋」
  • 実業往来 1978年
  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」

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