第2章 年〜年

鈴屋:パリ・シャンゼリゼ店の開業と27店への店舗網

1962年〜盛り場ごとに展開した売り場と、女店員が任された陳列

鈴木義雄氏は1960年にアメリカと西欧を回り、各国の専門店の商いを見て歩いた。大量生産と大量販売で押すアメリカ式より、研ぎ澄ました商品を独特の感覚で売るヨーロッパ式に学ぶところを見て、売上高を伸ばすことより商品の質を上げることを先に置き、社内に研究室を設けてハイセンス商品の開発にあたらせた。1962年秋、上野駅前で洋品雑貨店を開店した初代の鈴木房吉氏が74歳で世を去り、義雄氏が後を継いで社長に就任した。就任時は38歳で、店員は450人を数えた。商売はアイデアで競うもの——独身の若い社長が掲げた流儀である。

  • ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
    • [1]三十五年に義雄さんはアメリカ、西欧を廻って、外国の専門店の生き方を学んできた
    • [2]大量生産販売のアメリカ式商法よりも、とぎすました鋭い商品を独特なセンスで売るヨーロッパ的商法を研究し、売上げより商品の質の向上を痛感、研究室を設けてハイセンス商品の開発に力を入れ出した
    • [3]三十七年の秋、初代房吉さんは七十四歳で天寿をまっとうし、その後を継いで義雄さんが社長となった。房吉氏は明治四十二年に上野の駅前に「鈴木商店」の看板を掲げて開業した人である
    • [4]「鈴屋」四五〇人の店員の総大将鈴木義雄社長は、まだ三十八歳の若さである
    • [5]「商売はアイデイアで勝負する」という三十八歳の独身社長

銀座で買う買い物を上野で、という組み立てで有楽町や丸の内に勤める女性を上野まで通わせ、そのうえで銀座店とスキヤ橋店を出店して中級品からデラックス商品までを置き、続いて池袋店と立川店を構えた。1964年5月には新宿店を出店し、家か勤め先の最寄りで買えるようにと都内の盛り場へ店を並べた。上野の店には、隣に同じ形の店があっても客がその前を通り越して入った。どの店にもスーツ、ブラウス、セーター、スカート、コート、子供服、下着、小物を並べ、ハイティーンからヤングミセスまでを対象に最新のものを厳選した。

  • ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
    • [6]「銀座でのお買物を上野で」というのが初めの狙いで、有楽町・丸の内方面に働くビジネスガールがわざわざ上野まで来てファンになった。専門店として常に新しい生き方をするために銀座店、スキヤ橋店を開いて中級品からデラックス商品を置き、これも成功した
    • [7]今では池袋店、立川店を開いている
    • [8]新宿店(五月開店)というように都内の盛り場に店を出した。お家なり会社なりの最寄りの店で買ってもらうようにとの心からである
    • [9]上野の店は隣りに同じ形の店があるのに、お客さんはその前を通り越して「鈴屋」に入ってしまうほどの人気である
    • [10]各店ともスーツ、ブラウス、セーター、スカート、コート、子供服、下着、小物などのおしゃれ用品をおいており、いずれもハイティーンからヤングミセスにいたるまでを対象に厳選した最新のものばかりである

各売り場の設計、装飾、陳列、商品の選択まで、担当の女店員が知恵を出し合って責任を負った。女性の心理は女性が一番よく知る、という理由からであり、売り場ごとに成績を競うコンクール制を敷いて、売上高の順位に加えて客への応対やサービスの仕方まで点数にした。商品はフランス語で鈴の音を指すソネリエの名を付けた自主企画品を主力に、同じデザインを数多く作らず、種類をそろえた。大売り出しを除いて掛け値も値引きもしない正札販売は、初代の代から変えなかった。バーゲンセールのほかバレンタインデー、パリー祭、クリスマスにも特別セールを置き、月ごとに何かしらの催しを行った。

  • ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
    • [11]「鈴屋」では、各売場の一切の設計、装飾、陳列、それに商品の選択にいたるまで、それぞれの担当の女店員たちが衆智を集め、責任を持ってやっている
    • [12]その狙いは、女性の心理は女性が一番よく知っているからということにある
    • [13]売場毎に成績を競うコンクール制をとっており、売上げ高の順位はもちろん、お客さまへの応待、サービスの仕方まで点数となる
    • [14]フランス語のSONNERIE(鈴の音)からとった名前を付けた「ソネリエ」は鈴屋だけのオリジナル商品で、デザインの同じものを数多く作らず、その代りいろいろなデザインを取り揃える
    • [15]大売出しの時を除いて、うちの商品は父の代から掛け値も値引きもない正札販売である
    • [16]「鈴屋」ではバーゲンセールの他にバレンタインディ、パリー祭、クリスマスなどにも特別セールを行ない、さらに月毎になにかしら催物を開いている
参考文献[1]-[16]
    • [1]三十五年に義雄さんはアメリカ、西欧を廻って、外国の専門店の生き方を学んできた
    • [2]大量生産販売のアメリカ式商法よりも、とぎすました鋭い商品を独特なセンスで売るヨーロッパ的商法を研究し、売上げより商品の質の向上を痛感、研究室を設けてハイセンス商品の開発に力を入れ出した
    • [3]三十七年の秋、初代房吉さんは七十四歳で天寿をまっとうし、その後を継いで義雄さんが社長となった。房吉氏は明治四十二年に上野の駅前に「鈴木商店」の看板を掲げて開業した人である
    • [4]「鈴屋」四五〇人の店員の総大将鈴木義雄社長は、まだ三十八歳の若さである
    • [5]「商売はアイデイアで勝負する」という三十八歳の独身社長
    • [6]「銀座でのお買物を上野で」というのが初めの狙いで、有楽町・丸の内方面に働くビジネスガールがわざわざ上野まで来てファンになった。専門店として常に新しい生き方をするために銀座店、スキヤ橋店を開いて中級品からデラックス商品を置き、これも成功した
    • [7]今では池袋店、立川店を開いている
    • [8]新宿店(五月開店)というように都内の盛り場に店を出した。お家なり会社なりの最寄りの店で買ってもらうようにとの心からである
    • [9]上野の店は隣りに同じ形の店があるのに、お客さんはその前を通り越して「鈴屋」に入ってしまうほどの人気である
    • [10]各店ともスーツ、ブラウス、セーター、スカート、コート、子供服、下着、小物などのおしゃれ用品をおいており、いずれもハイティーンからヤングミセスにいたるまでを対象に厳選した最新のものばかりである
    • [11]「鈴屋」では、各売場の一切の設計、装飾、陳列、それに商品の選択にいたるまで、それぞれの担当の女店員たちが衆智を集め、責任を持ってやっている
    • [12]その狙いは、女性の心理は女性が一番よく知っているからということにある
    • [13]売場毎に成績を競うコンクール制をとっており、売上げ高の順位はもちろん、お客さまへの応待、サービスの仕方まで点数となる
    • [14]フランス語のSONNERIE(鈴の音)からとった名前を付けた「ソネリエ」は鈴屋だけのオリジナル商品で、デザインの同じものを数多く作らず、その代りいろいろなデザインを取り揃える
    • [15]大売出しの時を除いて、うちの商品は父の代から掛け値も値引きもない正札販売である
    • [16]「鈴屋」ではバーゲンセールの他にバレンタインディ、パリー祭、クリスマスなどにも特別セールを行ない、さらに月毎になにかしら催物を開いている

1963年〜商品開発部の4つの経路と本社一括発注、梅田・心斎橋・三宮への出店

1963年2月、鈴屋は商品開発部を新設し、企画会議の方針に沿って品揃えと品質管理、仕入先との提携を受け持たせた。同年6月には下請けの16工場をソネリエ縫製組合として組織し直し、自主企画品の縫製元を固めた。商品を決める材料は4つの経路から集めた。1つは海外のファッション誌の研究、もう1つは18歳から25歳の常連客120人に毎月意見を聞くモニター制度である。残る2つは、問屋を回る仕入部員が他店へ出させない色と柄を押さえる仕組みと、売場の接客で拾った客の声であった。試作品は1種につき6点を各店のウィンドウに約10日間置き、売れ行きのよいものだけを縫製工場へ発注したが、量産の数にも上限を設けた。同じ服の着用者と街で出会わせないための数量の抑えであり、少量多品種の方針を工程の段階で担保したものとみられる。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [17]1963年2月に商品開発部が発足し、商品企画会議の方針にもとづく品揃え・企画立案・品質管理・仕入先との提携強化を任務とした
    • [18]1963年6月、16工場に増えていた下請け縫製工場を「ソネリエ縫製組合」として正式に発足させた
    • [19]商品計画の第1は世界のファッションプレスの研究、第2は常得意から選んだ18〜25歳の客120人に毎月意見を聞くモニター制度であった
    • [20]商品計画の第3は仕入部員が問屋を回り当社以外に売らせない止め色・止め柄を定める仕入れ、第4は売場での客との応対から得た情報をオリジナル製品に生かすことであった
    • [21]ソネリエは縫製部でサンプルを作り、各店に1種6品ずつ約10日間ウィンドウに陳列し、売れ行きのよいものを縫製工場で量産したが、量には一定の上限を設けた

1964年8月に湯島の本社を広げると、各店が縫製工場へ直に出していた3割の発注を本社の一括発注に改め、仕入れを本社に集めた。ただ、店ごとの品揃えの組み方は各店の裁量に残した。1965年4月には18歳から21歳の主流客をT子・M子・S子の3類型に分け、類型ごとに品揃えを組む制度を始めた。同年9月、みゆき店の筋向いに銀座5丁目店を開設し、みゆき店で受けきれない客を引き受けた。この店で初めて男性の店長を置き、新宿と池袋の店にも若い男性店長を配した。1967年11月、紀伊国屋ビル前の地下2階・地上8階のビルを買い取り、手狭になった駅ビルの新宿店に代わる独立店舗とした。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [22]1964年8月に湯島本社が完成し、各店が縫製工場へ独自に出していた30%の発注をすべて本社からの一括注文に切り替え、本社制を確立した
    • [23]本社制の確立後も、各店ごとの個性的なマーチャンダイジングは以前と同じ方法をとった
    • [24]1965年4月、18〜21歳を主流とする客をT子・M子・S子の3種に分類し、それに応じた品揃えをおこなう制度を発足させた
    • [25]1965年9月、みゆき店の筋向いに銀座5丁目店を開き、みゆき店だけではさばき切れなくなった客を吸収した
    • [26]銀座5丁目店の出店時にはじめて男性の店長を任命し、同時に新宿・池袋にも若い男性店長を置いた
    • [27]1967年11月、新宿区角筈1丁目の紀伊国屋ビル前にある地下2階・地上8階、延面積1300平方メートルのビルを買収し、客を収容しきれなくなった新宿駅ビル店に代わる独立店舗とした

1968年4月からの1年間で、自主企画品の出来高は前期の171%にあたる24億円に達し、売上高の51%を占めた。これを受けて1969年5月に資本金を1億円へ増やし、1964年から6年続けての増資となった。同年9月にはパリだけにいた駐在員をニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドンにも置き、4都市から欧米のファッション情報を集める仕組みをWMISと名付けた。11月20日、阪急が梅田駅の地下街へ東京の専門店を呼び込んだ計画に応じて大阪梅田店を開設し、社員も商品も東京から送った。渋谷や池袋の店と同じ年商4億円を見込んだものの、開店翌月には売上目標を引き上げた。1970年3月17日に心斎橋店、4月28日に神戸の三宮店を開設し、関西の店を統括する西部地区長を置いた。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [28]1968年4月〜1969年3月の第8期に、企画商品の出来高は24億円と前年の171%に増え、全売上の51%を占めた
    • [29]1969年5月に資本金を1億円(受権4億円)に増資し、1964年から6年連続の増資となった
    • [30]1969年9月、それまでパリだけだった駐在員をニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドンに置き、欧米のファッション情報を集めるWMIS(ワールドマーケッティングインフォメーションシステム)とした
    • [31]1969年11月20日、阪急が梅田駅拡張にあわせて東京の高級専門店を誘致した地下街に大阪梅田店を開き、社員を東京から派遣し商品も東京から直送した
    • [32]梅田店は東京の渋谷・池袋店なみの年商4億円を予定したが、開店早々から予定を上回り、12月には売上目標を更新した
    • [33]1970年3月17日に大阪心斎橋店、4月28日に神戸三宮店を開き、心斎橋店の開店にあたり西部地区長を任命して関西への展開体制をとった
参考文献[17]-[33]
  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [17]1963年2月に商品開発部が発足し、商品企画会議の方針にもとづく品揃え・企画立案・品質管理・仕入先との提携強化を任務とした
    • [18]1963年6月、16工場に増えていた下請け縫製工場を「ソネリエ縫製組合」として正式に発足させた
    • [19]商品計画の第1は世界のファッションプレスの研究、第2は常得意から選んだ18〜25歳の客120人に毎月意見を聞くモニター制度であった
    • [20]商品計画の第3は仕入部員が問屋を回り当社以外に売らせない止め色・止め柄を定める仕入れ、第4は売場での客との応対から得た情報をオリジナル製品に生かすことであった
    • [21]ソネリエは縫製部でサンプルを作り、各店に1種6品ずつ約10日間ウィンドウに陳列し、売れ行きのよいものを縫製工場で量産したが、量には一定の上限を設けた
    • [22]1964年8月に湯島本社が完成し、各店が縫製工場へ独自に出していた30%の発注をすべて本社からの一括注文に切り替え、本社制を確立した
    • [23]本社制の確立後も、各店ごとの個性的なマーチャンダイジングは以前と同じ方法をとった
    • [24]1965年4月、18〜21歳を主流とする客をT子・M子・S子の3種に分類し、それに応じた品揃えをおこなう制度を発足させた
    • [25]1965年9月、みゆき店の筋向いに銀座5丁目店を開き、みゆき店だけではさばき切れなくなった客を吸収した
    • [26]銀座5丁目店の出店時にはじめて男性の店長を任命し、同時に新宿・池袋にも若い男性店長を置いた
    • [27]1967年11月、新宿区角筈1丁目の紀伊国屋ビル前にある地下2階・地上8階、延面積1300平方メートルのビルを買収し、客を収容しきれなくなった新宿駅ビル店に代わる独立店舗とした
    • [28]1968年4月〜1969年3月の第8期に、企画商品の出来高は24億円と前年の171%に増え、全売上の51%を占めた
    • [29]1969年5月に資本金を1億円(受権4億円)に増資し、1964年から6年連続の増資となった
    • [30]1969年9月、それまでパリだけだった駐在員をニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドンに置き、欧米のファッション情報を集めるWMIS(ワールドマーケッティングインフォメーションシステム)とした
    • [31]1969年11月20日、阪急が梅田駅拡張にあわせて東京の高級専門店を誘致した地下街に大阪梅田店を開き、社員を東京から派遣し商品も東京から直送した
    • [32]梅田店は東京の渋谷・池袋店なみの年商4億円を予定したが、開店早々から予定を上回り、12月には売上目標を更新した
    • [33]1970年3月17日に大阪心斎橋店、4月28日に神戸三宮店を開き、心斎橋店の開店にあたり西部地区長を任命して関西への展開体制をとった

1971年〜シャンゼリゼ店と香港店、年商100億円から43店までの出店

1971年の年度末、社員970人を抱えた鈴屋の年商は前年の130%となり、初めて100億円に達した。同じ年、ドルショックで景気が後退に転じるなかでも、銀座のベルブードアや福岡・札幌の店に先行して資金を投じていた。1972年3月には銀座のブティック鈴屋をベルマリエへ改め、22歳から25、6歳の客に向けたヤングアダルトの専門店とした。18歳から22歳に焦点を合わせた品揃えでは、年齢の上がった客が鈴屋から離れ始めていたためである。1973年9月、部長や課長の職名を置かないまま、人事・管理・営業・店舗開発・海外事業の5部門に最高責任者のGMGを配した。同年10月の熊本店を皮切りに、11月に横浜店、12月に名古屋店を開設した。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [34]1971年度末、970人の社員を擁し、業績は前年比130%で初めて年商100億円に乗った
    • [35]1971年はベルブードアの開店や福岡・札幌への出店に膨大な投資をおこない、同年8月のドルショック後に景気が後退しはじめていた
    • [36]1972年3月、銀座のブティック鈴屋を改称して「ベルマリエ」とし、22〜25、6歳を対象とするヤングアダルト専門店とした
    • [37]18〜22歳に的を絞ってきたが、22歳以上になると鈴屋調を卒業する客も出てきた
    • [38]1973年9月にGMG(ゼネラルマネージャー)体制を確立し、部課長の職級名を持たないまま人事・管理・営業・店舗開発・海外事業の5部門にGMGを置いた
    • [39]全国展開の第1着手として1973年10月10日に熊本店、11月20日に横浜店、12月1日に名古屋店を開いた

海外出店の構想は義雄氏が1960年に欧州を回った時期にさかのぼり、1966年にパリへ社員を常駐させてから5年の調査を重ねた。1971年9月にフランス政府へ事業許可を申請し、1972年2月、資本金100万フランのスズヤインタナショナルをパリに設けた。5月10日に開いたシャンゼリゼ店の売り場は70平方メートルであった。同年10月には近くのギャラリータメナガで海外初のコレクションショウを催し、9割を日本で縫った翌春夏のカジュアル服を200人以上に見せた。1973年2月14日にはパリで流行の発信地とされたサンジェルマン地区に2店目を出店した。同年4月初めの時点で店は海外3店を含めて27店、年商は150億円に上った。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [40]世界展開の構想は1960年に社長(当時専務)が欧州を視察したころに立て、1966年に社員1人をパリに駐在させてから5年の調査を経て出店に至った
    • [41]1971年9月29日にフランス政府へ事業許可を申請し、1972年2月8日に資本金100万フランのスズヤインタナショナル(本社パリ)の登記を完了した
    • [43]1972年10月、シャンゼリゼ店に近いギャラリータメナガで海外初のコレクションショウを開き、90%を日本で製作した1973年春夏のカジュアルを200人以上の来場者に見せた
    • [44]1973年2月14日、パリ本来のファッションの本場とされたサンジェルマン地区にパリの2番目の店を開いた
  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
    • [42]1972年5月10日にパリ・シャンゼリゼ店を開いた。シャンゼリゼ通りの70平方メートルの店である
    • [45]1973年4月時点でチェーン店は海外の3店を含めて27店、年商は150億円

1973年10月の石油危機のあとも出店を続け、同年度の売上高205億円、33店で、日経流通新聞の専門店ランキングの婦人服部門の首位に立った。1974年の年頭、義雄氏は使い捨ての消費から耐久性を重んじる消費へ移る可能性を挙げ、品質を軸に価値の体系を組み立て直す方針を示した。同年9月には新宿のベルアルノにメンズウェアの売り場を加え、30歳前後の装いに関心のある男性という空白の客層に踏み入った。紳士服と婦人服のあいだで互いの知見を行き来させる狙いもあった。1975年4月1日には香港の銅鑼湾に2店目を開き、海外の店は5店となった。同年の会社概要では国内38店・海外5店の計43店、社員は2500人を数えた。

  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [46]1973年10月の石油危機のなかでも着実に店舗展開を続け、日経流通新聞1974年3月6日号のランキングで1973年度の売上高205億円(店舗数33)により婦人服部門の第1位となった
    • [47]1974年初頭、社長は米国型の使い捨て消費から耐久性を重視するヨーロッパ型の消費へ移行することはあり得るとし、品質を重視した新しい価値体系を作ることが大切だと述べた
    • [48]1974年6月に開いた新宿のベルアルノに9月3日メンズウェア部門を併設した。30歳前後のおしゃれをする男性のための店がないという市場的観点からの出店である
    • [49]メンズ進出には、婦人服と紳士服のノウハウを相互に交流させる狙いがあった
    • [50]1975年4月1日、香港コーズウェイベイの松坂屋香港支店に海外5番目の店を開き、海外は計5店となった
    • [51]会社概要で店舗は43店(国内38店、海外5店)、社員数は2500名(1975年4月1日現在)
参考文献[34]-[51]
  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
    • [34]1971年度末、970人の社員を擁し、業績は前年比130%で初めて年商100億円に乗った
    • [35]1971年はベルブードアの開店や福岡・札幌への出店に膨大な投資をおこない、同年8月のドルショック後に景気が後退しはじめていた
    • [36]1972年3月、銀座のブティック鈴屋を改称して「ベルマリエ」とし、22〜25、6歳を対象とするヤングアダルト専門店とした
    • [37]18〜22歳に的を絞ってきたが、22歳以上になると鈴屋調を卒業する客も出てきた
    • [38]1973年9月にGMG(ゼネラルマネージャー)体制を確立し、部課長の職級名を持たないまま人事・管理・営業・店舗開発・海外事業の5部門にGMGを置いた
    • [39]全国展開の第1着手として1973年10月10日に熊本店、11月20日に横浜店、12月1日に名古屋店を開いた
    • [40]世界展開の構想は1960年に社長(当時専務)が欧州を視察したころに立て、1966年に社員1人をパリに駐在させてから5年の調査を経て出店に至った
    • [41]1971年9月29日にフランス政府へ事業許可を申請し、1972年2月8日に資本金100万フランのスズヤインタナショナル(本社パリ)の登記を完了した
    • [43]1972年10月、シャンゼリゼ店に近いギャラリータメナガで海外初のコレクションショウを開き、90%を日本で製作した1973年春夏のカジュアルを200人以上の来場者に見せた
    • [44]1973年2月14日、パリ本来のファッションの本場とされたサンジェルマン地区にパリの2番目の店を開いた
    • [46]1973年10月の石油危機のなかでも着実に店舗展開を続け、日経流通新聞1974年3月6日号のランキングで1973年度の売上高205億円(店舗数33)により婦人服部門の第1位となった
    • [47]1974年初頭、社長は米国型の使い捨て消費から耐久性を重視するヨーロッパ型の消費へ移行することはあり得るとし、品質を重視した新しい価値体系を作ることが大切だと述べた
    • [48]1974年6月に開いた新宿のベルアルノに9月3日メンズウェア部門を併設した。30歳前後のおしゃれをする男性のための店がないという市場的観点からの出店である
    • [49]メンズ進出には、婦人服と紳士服のノウハウを相互に交流させる狙いがあった
    • [50]1975年4月1日、香港コーズウェイベイの松坂屋香港支店に海外5番目の店を開き、海外は計5店となった
    • [51]会社概要で店舗は43店(国内38店、海外5店)、社員数は2500名(1975年4月1日現在)
  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
    • [42]1972年5月10日にパリ・シャンゼリゼ店を開いた。シャンゼリゼ通りの70平方メートルの店である
    • [45]1973年4月時点でチェーン店は海外の3店を含めて27店、年商は150億円

出典・参考

3件
出典・参考
  • 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
  • ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」

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