鈴屋:青山ベルコモンズの開業と全国約300店への拡大
1976年〜地上11階の青山ベルコモンズと、6月2日から出回ったうわさ
1976年6月、鈴屋は東京・北青山に青山ベルコモンズを開業し、本社も同じ建物へ移した。ビルは地下1階・地上11階で、延べ床面積は1万3900平方メートルに及んだ。6階から上を本社が占め、その下の階は鈴屋が運営と管理を受け持つショッピングセンターに充てた。売場面積は3000平方メートルで、専門店が自ら開発し運営するファッションビルとしては国内で最初の例という。設計は鈴屋が手がけたものの、敷地と建物の所有者は日本不動産銀行系のアサヒ都市開発で、鈴屋は借り手の側に立った。発想は高度成長期にさかのぼり、工事の始まりは低成長期に入ってからとなった。鈴木義雄社長は、このビルを新たな顧客層を掘り起こす実験の場と位置づけた。
- 日経ビジネス 1976年12月6日号
- [1]1976年6月、鈴屋は本社を青山に移転し、同時にベルコモンズを開店した。
- [2]青山ベルコモンズは地下1階、地上11階、延べ床面積1万3900平方メートル。6階以上は鈴屋本社で、残りの部分は鈴屋が運営、管理するショッピングセンター。
- [3]青山ベルコモンズは地下1階、地上11階、延べ床面積1万3900平方メートル。6階以上は鈴屋本社で、残りの部分は鈴屋が運営、管理するショッピングセンター。
- [5]ベルコモンズの設計は鈴屋だが、敷地、建物とも所有は日本不動産銀行系のアサヒ都市開発で、鈴屋はビルを賃借している。
- [6]鈴木氏は青山ベルコモンズを「高度成長期に発想し、着工は低成長期」となったビルと述べた。
- [7]鈴木氏にとって、ベルコモンズはあくまでも「新しい顧客創造の実験の場」である。
- 実業往来 1978年
- [4]1976年6月、「専門店が開発、運営する初のファッション・ビル」とのふれ込みで、売場面積3000平方メートルの青山ベルコモンズが開業した。
開業日の6月2日を境に、鈴屋と鈴木氏をめぐるうわさが業界に出回った。鈴木氏が自殺を図った、あるいは亡くなったという話まで出た。資金が回らず、現金払いを通してきた鈴屋が手形を振り出した、三井物産から人員が差し向けられる、という話も重なった。発端には、ベルコモンズのテナント集めの難航と、建設に60億〜70億円を投じたうえ入居店の売れ行きが振るわないという見方があった。鈴木氏は、建設費は鈴屋が負担したがテナントの保証金も入っており、自社で出した資金は14億〜15億円だと説明した。借入金の総額を問われても非公開を理由に明かさず、額は大きくないとだけ答えた。
- 日経ビジネス 1976年12月6日号
- [8]うわさは6月2日、青山ベルコモンズの開店を機に流れ出した。
- [9]鈴木義雄氏について、自殺未遂どころか死んだという話まで出た。
- [11]鈴木氏は、ベルコモンズでテナント集めに苦労したことは認めた。
- [12]都内で聞いたうわさでは、鈴屋はベルコモンズに60億〜70億円を注ぎこみ、金利負担も大きいうえ、テナントの専門店の売れ行きが悪く撤退したいという店も多いという。
- [13]ビルの建設費は鈴屋が払っているが、鈴木氏によればテナントからの保証金もあり、実際に鈴屋が使った金は14億〜15億円。
- [14]借入金の総額について、鈴木氏は非公開なので言えないが大したことはないと答えた。
- 実業往来 1978年
- [10]「現金払いの鈴屋が資金繰りに窮して手形を切った」「三井物産から人が送られる」といったデマが飛び交った。
うわさが勢いを得た背景には、鈴屋が未上場で財務の数字を公表せず、株主も鈴木氏1人だった事情があった。営業報告書を社外の者が目にする機会も無かった。公表売上高は1975年度に370億円と5年で3倍に増えたが、鈴木氏によれば伸び率は年40%から20%台へ下がっていた。外部に出回った1976年2月期の決算資料は、鈴屋のものとみられた。売上高331億円、経常利益11億円に対し、支払利息が11億7000万円あった。借入金は長短合わせ160億円で、支払手形は無かった。メーンバンクの第一勧業銀行は、拡大策をベルコモンズで一段落させるという了解のうえで支援しているとの見方が金融筋にあった。
- 日経ビジネス 1976年12月6日号
- [15]鈴屋は未上場企業で財務データを公表しない。株主は鈴木義雄氏ただ1人。
- [17]鈴屋は専門店業界で日本一の売上高(1975年度公表370億円)を持ち、5年間で売上高は3倍に増えた。鈴木氏は、これまでの40%の伸びから見れば調子が悪いが20%台はキープしていると述べた。
- [18]取材班が入手した「S社」の1976年2月期の決算は、売上高331億円、経常利益11億円、支払利息11億7000万円。借入金は短期40億円、長期119億6000万円の計160億円で、支払手形はゼロ。記事は鈴屋の決算である可能性が高いとした。
- [19]取材班が入手した「S社」の1976年2月期の決算は、売上高331億円、経常利益11億円、支払利息11億7000万円。借入金は短期40億円、長期119億6000万円の計160億円で、支払手形はゼロ。記事は鈴屋の決算である可能性が高いとした。
- [20]取材班が入手した「S社」の1976年2月期の決算は、売上高331億円、経常利益11億円、支払利息11億7000万円。借入金は短期40億円、長期119億6000万円の計160億円で、支払手形はゼロ。記事は鈴屋の決算である可能性が高いとした。
- [21]金融筋のB氏によれば、メーンバンクの第一勧銀は、鈴屋の拡大政策が青山ベルコモンズで一段落したという了解のもとで支援しているとみられる。
- 実業往来 1978年
- [16]鈴屋は営業報告書すら外部に見せない。
参考文献[1]-[21]
- 日経ビジネス 1976年12月6日号
- [1]1976年6月、鈴屋は本社を青山に移転し、同時にベルコモンズを開店した。
- [2]青山ベルコモンズは地下1階、地上11階、延べ床面積1万3900平方メートル。6階以上は鈴屋本社で、残りの部分は鈴屋が運営、管理するショッピングセンター。
- [3]青山ベルコモンズは地下1階、地上11階、延べ床面積1万3900平方メートル。6階以上は鈴屋本社で、残りの部分は鈴屋が運営、管理するショッピングセンター。
- [5]ベルコモンズの設計は鈴屋だが、敷地、建物とも所有は日本不動産銀行系のアサヒ都市開発で、鈴屋はビルを賃借している。
- [6]鈴木氏は青山ベルコモンズを「高度成長期に発想し、着工は低成長期」となったビルと述べた。
- [7]鈴木氏にとって、ベルコモンズはあくまでも「新しい顧客創造の実験の場」である。
- [8]うわさは6月2日、青山ベルコモンズの開店を機に流れ出した。
- [9]鈴木義雄氏について、自殺未遂どころか死んだという話まで出た。
- [11]鈴木氏は、ベルコモンズでテナント集めに苦労したことは認めた。
- [12]都内で聞いたうわさでは、鈴屋はベルコモンズに60億〜70億円を注ぎこみ、金利負担も大きいうえ、テナントの専門店の売れ行きが悪く撤退したいという店も多いという。
- [13]ビルの建設費は鈴屋が払っているが、鈴木氏によればテナントからの保証金もあり、実際に鈴屋が使った金は14億〜15億円。
- [14]借入金の総額について、鈴木氏は非公開なので言えないが大したことはないと答えた。
- [15]鈴屋は未上場企業で財務データを公表しない。株主は鈴木義雄氏ただ1人。
- [17]鈴屋は専門店業界で日本一の売上高(1975年度公表370億円)を持ち、5年間で売上高は3倍に増えた。鈴木氏は、これまでの40%の伸びから見れば調子が悪いが20%台はキープしていると述べた。
- [18]取材班が入手した「S社」の1976年2月期の決算は、売上高331億円、経常利益11億円、支払利息11億7000万円。借入金は短期40億円、長期119億6000万円の計160億円で、支払手形はゼロ。記事は鈴屋の決算である可能性が高いとした。
- [19]取材班が入手した「S社」の1976年2月期の決算は、売上高331億円、経常利益11億円、支払利息11億7000万円。借入金は短期40億円、長期119億6000万円の計160億円で、支払手形はゼロ。記事は鈴屋の決算である可能性が高いとした。
- [20]取材班が入手した「S社」の1976年2月期の決算は、売上高331億円、経常利益11億円、支払利息11億7000万円。借入金は短期40億円、長期119億6000万円の計160億円で、支払手形はゼロ。記事は鈴屋の決算である可能性が高いとした。
- [21]金融筋のB氏によれば、メーンバンクの第一勧銀は、鈴屋の拡大政策が青山ベルコモンズで一段落したという了解のもとで支援しているとみられる。
- [4]1976年6月、「専門店が開発、運営する初のファッション・ビル」とのふれ込みで、売場面積3000平方メートルの青山ベルコモンズが開業した。
- [10]「現金払いの鈴屋が資金繰りに窮して手形を切った」「三井物産から人が送られる」といったデマが飛び交った。
- [16]鈴屋は営業報告書すら外部に見せない。
1977年〜設立以来初の減益と借入金180億円、400坪の大型店と600余の問屋
1977年2月期、鈴屋の売上高は前期比14%増の378億円となった。一方で経常利益は17%減の9億2000万円にとどまり、会社を興してから初めて利益が前期を下回った。長短の借入金は1977年2月末で180億円に上った。総資産に対する借入依存度は1975年度末で72%に達し、ダイエーの59%(1977年度末)を上回った。前年の秋の時点で、借入金は180億円ほどに達し、預金を取り崩して返済に回していると金融筋はみていた。1977年2月期は金利負担が重くなるとの見通しも、同じ筋から出ていた。前期比14%増から逆算した前期の売上高はおよそ331億円で、外部に出回った鈴屋のものとみられる決算資料の数字と重なっていた。
- 実業往来 1978年
- [22]1977年2月期決算は、売上高378億円(前期比14%増)に対し経常利益は9億2000万円と17%減。鈴屋にとって会社設立以来初めての減益決算だった。
- [23]1977年2月期決算は、売上高378億円(前期比14%増)に対し経常利益は9億2000万円と17%減。鈴屋にとって会社設立以来初めての減益決算だった。
- [24]長短あわせての借入金は1977年2月末で180億円にのぼる。
- [25]鈴屋の借入依存度(対総資産)は1975年度末で72%で、ダイエーの59%(1977年度末)を上回った。
- 日経ビジネス 1976年12月6日号
- [26]B氏によれば、鈴屋の借り入れのピークは1976年8月で180億円ぐらい。その後は預金を取り崩して高金利の借金を返済し、金融費用の切り下げを図っている。
- [27]B氏は、現状でも来年(1977年)2月期決算では金利負担が重くなるのは確実だと述べた。
鈴屋の店舗は売場面積400坪の大型店を基本とし、立地には繁華街の角地を選んだ。1976年度は売場面積を16%広げたのに対し、増収率は14%で、面積の伸びに売上高が届かなかった。新宿ルミネ、天神コア、高崎マミーナへの出店は、競合の厳しい場所へ後から加わる形となった。鹿児島と青山の両ベルコモンズについては、長期戦を前提にした先行投資と会社側が説明した。青山の初年度の年商は、予想の30億円を3億〜4億円上回る見込みと社長室は答えていたが、業界には初年度目標を下回ったとの見方があった。海外店も香港店を除き、見込んだ収益に達しなかった。
- 実業往来 1978年
- [28]鈴屋の店舗政策は売場面積400坪の大型店志向で、立地は繁華街の角地の一等地に執着する高コスト型店舗である。
- [29]1976年度は売場面積16%増に対し、増収率は14%にとどまり、坪効率が低下した。
- [30]新宿ルミネ、天神コア、高崎マミーナは激戦の真っただ中に飛び込んだ出店で、鹿児島ベルコモンズと青山ベルコモンズは「長期戦を覚悟した上での先行投資型」(広報担当)という。
- [31]新宿ルミネ、天神コア、高崎マミーナは激戦の真っただ中に飛び込んだ出店で、鹿児島ベルコモンズと青山ベルコモンズは「長期戦を覚悟した上での先行投資型」(広報担当)という。
- [33]青山ベルコモンズは「同社の初年度目標を下回り、中に入っているテナントも義理で入っているようなもの」(業界筋)という。
- [34]採算第一主義で出店したはずの海外店は、香港店以外で軒並み予想通りの収益をあげていない。
- 日経ビジネス 1976年12月6日号
- [32]ベルコモンズについて、社長室の斉藤敏氏は当初の年商予想30億円を3億〜4億円超えそうだと述べた。
仕入れは600を超える問屋から現金で少しずつ買い付ける方式で、1社あたりの年間取引額は1000万円から5億円ほどまで開きがあった。店舗での仕入れと本部での仕入れはおよそ半々で、オリジナル商品は10〜15%にとどまった。取引先の一珠の柳澤社長は、鈴屋は以前から現金決済だけで、手形も支払日の延期も一度も無かったと話した。売り場には他の専門店より2〜3割多い人員を配し、売り場と商品の管理を細かく行った。人手と一等地にかけた費用を商品の回転の速さで回収する組み立てで、売上高の伸びが鈍れば、回転率の低下がそのまま収益を圧迫する形だったとみられる。
- 実業往来 1978年
- [35]仕入れは徹底した小回り分散主義で、600余りの問屋から、小は年間取引額1000万円、大はおよそ5億円まで現金仕入れで商品を集める。店仕入れと本部仕入れの比率は半々で、オリジナル商品は10〜15%と少ない。
- [36]仕入れは徹底した小回り分散主義で、600余りの問屋から、小は年間取引額1000万円、大はおよそ5億円まで現金仕入れで商品を集める。店仕入れと本部仕入れの比率は半々で、オリジナル商品は10〜15%と少ない。
- [38]各売場には他の専門店に比べて2〜3割増しの人員を投入し、きめ細かな売場管理、商品管理体制をとっている。鈴屋の基本戦略は高コスト=高回転である。
- 日経ビジネス 1976年12月6日号
- [37]一珠の柳澤社長は「鈴屋さんは前から現金決済一本ヤリですからね。手形の話、あるいは支払い日の延期なんて、これっぽっちも出たことありませんよ」と述べた。
参考文献[22]-[38]
- [22]1977年2月期決算は、売上高378億円(前期比14%増)に対し経常利益は9億2000万円と17%減。鈴屋にとって会社設立以来初めての減益決算だった。
- [23]1977年2月期決算は、売上高378億円(前期比14%増)に対し経常利益は9億2000万円と17%減。鈴屋にとって会社設立以来初めての減益決算だった。
- [24]長短あわせての借入金は1977年2月末で180億円にのぼる。
- [25]鈴屋の借入依存度(対総資産)は1975年度末で72%で、ダイエーの59%(1977年度末)を上回った。
- [28]鈴屋の店舗政策は売場面積400坪の大型店志向で、立地は繁華街の角地の一等地に執着する高コスト型店舗である。
- [29]1976年度は売場面積16%増に対し、増収率は14%にとどまり、坪効率が低下した。
- [30]新宿ルミネ、天神コア、高崎マミーナは激戦の真っただ中に飛び込んだ出店で、鹿児島ベルコモンズと青山ベルコモンズは「長期戦を覚悟した上での先行投資型」(広報担当)という。
- [31]新宿ルミネ、天神コア、高崎マミーナは激戦の真っただ中に飛び込んだ出店で、鹿児島ベルコモンズと青山ベルコモンズは「長期戦を覚悟した上での先行投資型」(広報担当)という。
- [33]青山ベルコモンズは「同社の初年度目標を下回り、中に入っているテナントも義理で入っているようなもの」(業界筋)という。
- [34]採算第一主義で出店したはずの海外店は、香港店以外で軒並み予想通りの収益をあげていない。
- [35]仕入れは徹底した小回り分散主義で、600余りの問屋から、小は年間取引額1000万円、大はおよそ5億円まで現金仕入れで商品を集める。店仕入れと本部仕入れの比率は半々で、オリジナル商品は10〜15%と少ない。
- [36]仕入れは徹底した小回り分散主義で、600余りの問屋から、小は年間取引額1000万円、大はおよそ5億円まで現金仕入れで商品を集める。店仕入れと本部仕入れの比率は半々で、オリジナル商品は10〜15%と少ない。
- [38]各売場には他の専門店に比べて2〜3割増しの人員を投入し、きめ細かな売場管理、商品管理体制をとっている。鈴屋の基本戦略は高コスト=高回転である。
- 日経ビジネス 1976年12月6日号
- [26]B氏によれば、鈴屋の借り入れのピークは1976年8月で180億円ぐらい。その後は預金を取り崩して高金利の借金を返済し、金融費用の切り下げを図っている。
- [27]B氏は、現状でも来年(1977年)2月期決算では金利負担が重くなるのは確実だと述べた。
- [32]ベルコモンズについて、社長室の斉藤敏氏は当初の年商予想30億円を3億〜4億円超えそうだと述べた。
- [37]一珠の柳澤社長は「鈴屋さんは前から現金決済一本ヤリですからね。手形の話、あるいは支払い日の延期なんて、これっぽっちも出たことありませんよ」と述べた。
1977年〜5事業部から8事業部への改組と中型店、ピーク時約300店と売上高593億円
1977年5月、鈴屋は鈴屋ニュー路線と名付けた新しい3カ年計画を始め、5事業部を8事業部に組み替えた。新設の第三事業部は、売場面積30〜50坪の中型店を少ない販売員で地方都市と郊外に出す、ローコスト・ロープライスの業態の開発を受け持った。ほかの事業部にはヤングカジュアル、大人向けのトラディショナル、子供服やキャリアウーマンといった客層を振り分けた。1978年には福岡店を閉め、4年前に開いた紳士服のベルアルノ新宿店からも撤退した。同年の新規出店は2〜3店とし、採算の確証が無ければ見送る方針を示した。鈴木氏は1976年の段階で、品ぞろえの議論より先に経営管理と財務を固める必要があるとの考えを示していた。
- 実業往来 1978年
- [39]1977年5月に「鈴屋ニュー路線」と銘打った新三ヵ年計画をスタートさせ、第一弾として社長以下5事業部を8事業部に改編した。
- [40]第三事業部はローコスト・ロープライス店という新しい店舗業態の開発が狙いで、売場面積30〜50坪の中型店を地方都市および郊外へ出店し、1店舗当たりの販売員数も少なくする。
- [41]YCS事業部はヤングカジュアル中心、第一事業部はトラディショナル感覚で大人向き、第二事業部は子供服、15〜16歳、キャリアウーマンやヤングミセス、ヤングアダルトなどを対象とする。
- [42]福岡店のスクラップ化、4年前にオープンした紳士服ベルアルノ新宿店の撤退など、効率を前面に出してきている。
- [43]広報担当は、今年(1978年)は2、3の出店を予定しているが、絶対に採算がとれるという確証がなければ出店はしないと述べた。
- 日経ビジネス 1976年12月6日号
- [44]鈴木氏は、これまで専門店といえばマーチャンダイジングなどソフトの問題ばかり論じていたが、これからは経営管理、財務をしっかりしなければならないと語った。
三愛が1970年代前半に経営不振に陥ったのち、婦人服専門店の首位は鈴屋に移ったという。首位に立った鈴屋は、1983年に台湾の新光グループの小売部門である新光百貨店とフランチャイズ契約を結び、台北市内の同百貨店に1号店を開設した。約50平方メートルの売場にカジュアル単品を並べ、鈴屋はオリジナル商品の供給と店舗運営の手法の提供を受け持った。3年後に15店・年商30億円を目標とし、当面の商品は東京の本部から送る計画だった。1993年には赤城水産と共同で出資し、まぐろ料理の専門店を営むまぐろ屋さんを設立した。海外は自前の店舗を持たない提携で広げ、国内では衣料と関わりのない飲食業へも出資しており、拡大の対象は婦人服店の外へ及んでいたと思われる。
- Decide 1989年 7巻9号(通巻71号)
- [45]三愛は昭和40年代後半に極度の経営不振に陥り、ライバルの鈴屋に業界の王座を譲り渡した。
- 日経ビジネス 1983年6月27日号
- [46]鈴屋は台湾の新光グループの小売業部門である新光百貨店とフランチャイズ契約を結び、台北市内の同百貨店内に第1号店を開いた。売り場面積は約50平方メートルで、カジュアル単品中心の品揃え。鈴屋はオリジナル商品の供給、販売・店舗運営ノウハウの提供を行う。
- [47]鈴屋は台湾の新光グループの小売業部門である新光百貨店とフランチャイズ契約を結び、台北市内の同百貨店内に第1号店を開いた。売り場面積は約50平方メートルで、カジュアル単品中心の品揃え。鈴屋はオリジナル商品の供給、販売・店舗運営ノウハウの提供を行う。
- [48]当面は東京本部から商品を供給し、将来は現地生産も考える。3年後に15店舗、年商30億円を目指す計画。
- Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
- [49]赤城水産との共同出資で、まぐろ料理専門店の株式会社まぐろ屋さんを1993年に設立した。
1976年に海外6店を含め53店だった店舗網は、1978年に国内49店と海外8店となり、のちに最も多い時期で約300店を数えた。売上高は1975年度の公表値370億円から、1992年2月期には約593億円に増え、これが鈴屋の年売上高の最高となった。最盛期には、法人申告所得を毎年5億円前後確保していたという。しかし1992年2月期を境に売上高は減り始め、個人消費の低迷と海外製品の輸入増による値崩れがそこに重なった。1978年の計画にあった地方都市と郊外への中型店が、約300店という規模へ店舗網を広げる道筋になったとみられる。
- 日経ビジネス 1976年12月6日号
- [50]鈴屋の店舗数は1976年時点で53(海外6店を含む)。
- [53]鈴屋の売上高は1975年度の公表値で370億円。
- 実業往来 1978年
- [51]この10年間の積極拡大策で、鈴屋は店舗数49店、海外店8店と専門店業界のトップに立った。
- Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
- [52]鈴屋は婦人服専門チェーンとしてピーク時には約300店の店舗を展開した。
- [54]最盛期の年売上高は1992年2月期の約593億円で、毎年5億円前後の法人申告所得を確保していた。
- [55]最盛期の年売上高は1992年2月期の約593億円で、毎年5億円前後の法人申告所得を確保していた。
- [56]1992年2月期をピークに、鈴屋の売上高は個人消費の低迷と海外製品の輸入増加などによる価格破壊現象と並行して減少の一途をたどった。
参考文献[39]-[56]
- [39]1977年5月に「鈴屋ニュー路線」と銘打った新三ヵ年計画をスタートさせ、第一弾として社長以下5事業部を8事業部に改編した。
- [40]第三事業部はローコスト・ロープライス店という新しい店舗業態の開発が狙いで、売場面積30〜50坪の中型店を地方都市および郊外へ出店し、1店舗当たりの販売員数も少なくする。
- [41]YCS事業部はヤングカジュアル中心、第一事業部はトラディショナル感覚で大人向き、第二事業部は子供服、15〜16歳、キャリアウーマンやヤングミセス、ヤングアダルトなどを対象とする。
- [42]福岡店のスクラップ化、4年前にオープンした紳士服ベルアルノ新宿店の撤退など、効率を前面に出してきている。
- [43]広報担当は、今年(1978年)は2、3の出店を予定しているが、絶対に採算がとれるという確証がなければ出店はしないと述べた。
- [51]この10年間の積極拡大策で、鈴屋は店舗数49店、海外店8店と専門店業界のトップに立った。
- 日経ビジネス 1976年12月6日号
- [44]鈴木氏は、これまで専門店といえばマーチャンダイジングなどソフトの問題ばかり論じていたが、これからは経営管理、財務をしっかりしなければならないと語った。
- [50]鈴屋の店舗数は1976年時点で53(海外6店を含む)。
- [53]鈴屋の売上高は1975年度の公表値で370億円。
- [45]三愛は昭和40年代後半に極度の経営不振に陥り、ライバルの鈴屋に業界の王座を譲り渡した。
- 日経ビジネス 1983年6月27日号
- [46]鈴屋は台湾の新光グループの小売業部門である新光百貨店とフランチャイズ契約を結び、台北市内の同百貨店内に第1号店を開いた。売り場面積は約50平方メートルで、カジュアル単品中心の品揃え。鈴屋はオリジナル商品の供給、販売・店舗運営ノウハウの提供を行う。
- [47]鈴屋は台湾の新光グループの小売業部門である新光百貨店とフランチャイズ契約を結び、台北市内の同百貨店内に第1号店を開いた。売り場面積は約50平方メートルで、カジュアル単品中心の品揃え。鈴屋はオリジナル商品の供給、販売・店舗運営ノウハウの提供を行う。
- [48]当面は東京本部から商品を供給し、将来は現地生産も考える。3年後に15店舗、年商30億円を目指す計画。
- [49]赤城水産との共同出資で、まぐろ料理専門店の株式会社まぐろ屋さんを1993年に設立した。
- [52]鈴屋は婦人服専門チェーンとしてピーク時には約300店の店舗を展開した。
- [54]最盛期の年売上高は1992年2月期の約593億円で、毎年5億円前後の法人申告所得を確保していた。
- [55]最盛期の年売上高は1992年2月期の約593億円で、毎年5億円前後の法人申告所得を確保していた。
- [56]1992年2月期をピークに、鈴屋の売上高は個人消費の低迷と海外製品の輸入増加などによる価格破壊現象と並行して減少の一途をたどった。
出典・参考
5件
- 日経ビジネス 1976年12月6日号
- 日経ビジネス 1983年6月27日号
- Decide 1989年 7巻9号(通巻71号)
- 実業往来 1978年
- Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」