第4章 年〜年

鈴屋:衣料不振による赤字転落と1997年の和議申請

1994年〜売上高593億円からの減収と、鈴屋興産による吸収合併

鈴屋の売上高は1992年2月期の約593億円を頂点に減り続け、1995年2月期には約446億円まで減少した。減収の背景には、個人消費の冷え込みと、海外からの衣料品の輸入増による値下がりがあった。商品の面では、バブル期に売れた品目へ企画を寄せて大量に売り、品ぞろえの一貫性を欠いたとの指摘が出ていた。日本の大手婦人服専門店に共通した売り方は、季節の初めにアパレル会社の製品を多く並べ、売れた品目だけを追って発注するものだった。消費者の好みが細かく分かれると、雑多な品を並べる店は選ばれにくくなり、明確な個性を持つブランドが求められた。鈴屋の減収は、この品ぞろえ型の売り方が通用しなくなった時期と重なっていた。

  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
    • [1]1992年2月期をピーク(約593億円)に、鈴屋の売上高は個人消費の低迷と海外製品の輸入増加などによる価格破壊現象と並行して減少し、1995年2月期には約446億円に下がった。
    • [2]1992年2月期をピーク(約593億円)に、鈴屋の売上高は個人消費の低迷と海外製品の輸入増加などによる価格破壊現象と並行して減少し、1995年2月期には約446億円に下がった。
    • [3]バブル期の売れ筋商品のみを重視した商品企画と大量販売を行い、商品づくりやマーチャンダイジングの一貫性に欠けていたとの声もある。
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [4]日本の大手専門店は、シーズン初めにアパレルが作った商品をたくさん店に並べ、売れる商品だけを急いで追加発注するやり方だった。消費者の好みが細分化し、品揃え型専門店ではなく、明確で個性的なイメージを持つブランドが求められるようになった。
    • [5]日本の大手専門店は、シーズン初めにアパレルが作った商品をたくさん店に並べ、売れる商品だけを急いで追加発注するやり方だった。消費者の好みが細分化し、品揃え型専門店ではなく、明確で個性的なイメージを持つブランドが求められるようになった。

鈴屋の店は1970年代から、繁華街の角地に構える売場面積400坪の大型店を基本とした。販売員も他の専門店より2〜3割多く置いており、費用の重い造りだった。1995年2月期には、有価証券の売却損と閉鎖店舗の固定資産除却損が重なり、当期損失が約10億4700万円に達した。翌1995年3月、グループの物流と配送を担っていた鈴屋興産を存続会社とする合併があり、鈴屋はこれに吸収された。存続した鈴屋興産は商号を鈴屋に改めた。統合の狙いはグループ組織の簡素化にあった。閉店に伴う除却損が出ており、店舗の整理は1994年度のうちに始まっていたと推察される。売上高が減ると、人手と一等地にかけた固定費を吸収できなくなったとみられる。

  • 実業往来 1978年
    • [6]鈴屋の店舗政策は売場面積400坪の大型店志向で、立地は繁華街の角地の一等地。各売場には他の専門店に比べて2〜3割増しの人員を投入する高コスト型店舗である。
  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
    • [7]1995年2月期は、有価証券の売却や店舗閉鎖に伴う固定資産の除却損などから、当期損失約10億4700万円の大幅な赤字決算となった。
    • [8]1995年3月、鈴屋グループの物流・配送部門の鈴屋興産が鈴屋を吸収する形で存続会社となり、同時に商号を鈴屋興産から鈴屋に変更し、企業統合による組織のスリム化を図った。
    • [9]1995年3月、鈴屋グループの物流・配送部門の鈴屋興産が鈴屋を吸収する形で存続会社となり、同時に商号を鈴屋興産から鈴屋に変更し、企業統合による組織のスリム化を図った。
参考文献[1]-[9]
    • [1]1992年2月期をピーク(約593億円)に、鈴屋の売上高は個人消費の低迷と海外製品の輸入増加などによる価格破壊現象と並行して減少し、1995年2月期には約446億円に下がった。
    • [2]1992年2月期をピーク(約593億円)に、鈴屋の売上高は個人消費の低迷と海外製品の輸入増加などによる価格破壊現象と並行して減少し、1995年2月期には約446億円に下がった。
    • [3]バブル期の売れ筋商品のみを重視した商品企画と大量販売を行い、商品づくりやマーチャンダイジングの一貫性に欠けていたとの声もある。
    • [7]1995年2月期は、有価証券の売却や店舗閉鎖に伴う固定資産の除却損などから、当期損失約10億4700万円の大幅な赤字決算となった。
    • [8]1995年3月、鈴屋グループの物流・配送部門の鈴屋興産が鈴屋を吸収する形で存続会社となり、同時に商号を鈴屋興産から鈴屋に変更し、企業統合による組織のスリム化を図った。
    • [9]1995年3月、鈴屋グループの物流・配送部門の鈴屋興産が鈴屋を吸収する形で存続会社となり、同時に商号を鈴屋興産から鈴屋に変更し、企業統合による組織のスリム化を図った。
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [4]日本の大手専門店は、シーズン初めにアパレルが作った商品をたくさん店に並べ、売れる商品だけを急いで追加発注するやり方だった。消費者の好みが細分化し、品揃え型専門店ではなく、明確で個性的なイメージを持つブランドが求められるようになった。
    • [5]日本の大手専門店は、シーズン初めにアパレルが作った商品をたくさん店に並べ、売れる商品だけを急いで追加発注するやり方だった。消費者の好みが細分化し、品揃え型専門店ではなく、明確で個性的なイメージを持つブランドが求められるようになった。
    • [6]鈴屋の店舗政策は売場面積400坪の大型店志向で、立地は繁華街の角地の一等地。各売場には他の専門店に比べて2〜3割増しの人員を投入する高コスト型店舗である。

1995年〜店舗数219店への縮小と、品ぞろえ型チェーンの退潮

1996年2月期の鈴屋の売上高は約317億800万円で、見込みを上回る幅で減った。公表されたグループの売上高は約507億4500万円で、前期の78.1%にとどまった。最盛期のグループ売上高は公表値で約802億7500万円あり、そこから4割近くを失った計算になる。店舗数は219店となり、ピーク時の約300店からおよそ80店を減らした。損益は公表しなかったが、大幅な赤字を出していたという。採算を割る店は一説に全店の半数を占め、なかでも大型店の赤字が売上高と収益を押し下げた。1997年2月の和議申請の後も、鈴屋グループはさらに多くの店を閉じざるをえないとの見方が出た。

  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
    • [10]1996年2月期の売上高は予想以上に大幅に減少し、約317億800万円。公表されたグループ売上高は約507億4500万円で前期比78.1%に落ち込んだ。損益は未公表ながら大幅な赤字を強いられていたようだ。
    • [11]1996年2月期の売上高は予想以上に大幅に減少し、約317億800万円。公表されたグループ売上高は約507億4500万円で前期比78.1%に落ち込んだ。損益は未公表ながら大幅な赤字を強いられていたようだ。
    • [12]鈴屋グループ全体の売上げ規模は最盛期に公表数字で約802億7500万円。1996年2月期のグループ売上高は約507億4500万円。
    • [13]鈴屋はピーク時には約300店の店舗を展開したが、1996年2月期には店舗数が219店に減少した。
    • [14]1996年2月期の売上高は予想以上に大幅に減少し、約317億800万円。公表されたグループ売上高は約507億4500万円で前期比78.1%に落ち込んだ。損益は未公表ながら大幅な赤字を強いられていたようだ。
    • [15]採算割れの赤字店舗は一説では全体の半分を占め、特に大型店舗の採算割れが売上げ不振と収益悪化を招き、鈴屋全体の足を引っ張っていた。
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [16]1997年2月に経営が破綻して和議を申請した鈴屋グループも、多数の店舗を閉めざるをえないだろう。

売上高を落としたのは鈴屋だけではなく、品ぞろえ型の婦人服チェーンに共通していた。鈴丹、三愛、キャビンの売上高は最盛期より30〜40%減り、各社は不採算店の閉鎖を進めた。1997年には鈴丹が100店、キャビンが約70店を閉める計画だった。入れ替わって、香港のジョルダーノなど、商品を自ら企画して生産を委託し、直営店で売る製造小売業の外資系専門店が日本へ進出した。国内でも、製造小売の仕組みを早く取り入れたファイブフォックスは、グループ売上高を1000億円台に乗せていた。日本の大手専門店は個性ある店へ転換できず、海外の製造小売の手法を十分に学ばないまま真似たとの指摘があった。

  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
    • [17]品揃え型の婦人服ナショナルチェーン各社が売上げ不振に悩み、鈴丹・三愛・キャビンも最盛期に比べ売上げが30〜40%減少し、不採算店の多くを閉鎖するなどリストラに取り組んでいる。
    • [18]品揃え型の婦人服ナショナルチェーン各社が売上げ不振に悩み、鈴丹・三愛・キャビンも最盛期に比べ売上げが30〜40%減少し、不採算店の多くを閉鎖するなどリストラに取り組んでいる。
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [19]鈴丹は1997年に100店、キャビンは1997年に約70店を閉める。日本の大手専門店は個性的な店への転換ができず、転換期に海外の製造小売業の手法を、ノウハウを学ぶことなく安易に真似た。
    • [20]ジョルダーノなど香港の製造小売業(SPA)は、自ら商品を企画・立案して外部の縫製工場に生産を発注し、主に直営店で販売する。ファイブフォックスは製造小売業の仕組みを早くから取り入れ、グループ売上高を1000億円台に乗せた。
    • [21]ジョルダーノなど香港の製造小売業(SPA)は、自ら商品を企画・立案して外部の縫製工場に生産を発注し、主に直営店で販売する。ファイブフォックスは製造小売業の仕組みを早くから取り入れ、グループ売上高を1000億円台に乗せた。
    • [22]鈴丹は1997年に100店、キャビンは1997年に約70店を閉める。日本の大手専門店は個性的な店への転換ができず、転換期に海外の製造小売業の手法を、ノウハウを学ぶことなく安易に真似た。
参考文献[10]-[22]
    • [10]1996年2月期の売上高は予想以上に大幅に減少し、約317億800万円。公表されたグループ売上高は約507億4500万円で前期比78.1%に落ち込んだ。損益は未公表ながら大幅な赤字を強いられていたようだ。
    • [11]1996年2月期の売上高は予想以上に大幅に減少し、約317億800万円。公表されたグループ売上高は約507億4500万円で前期比78.1%に落ち込んだ。損益は未公表ながら大幅な赤字を強いられていたようだ。
    • [12]鈴屋グループ全体の売上げ規模は最盛期に公表数字で約802億7500万円。1996年2月期のグループ売上高は約507億4500万円。
    • [13]鈴屋はピーク時には約300店の店舗を展開したが、1996年2月期には店舗数が219店に減少した。
    • [14]1996年2月期の売上高は予想以上に大幅に減少し、約317億800万円。公表されたグループ売上高は約507億4500万円で前期比78.1%に落ち込んだ。損益は未公表ながら大幅な赤字を強いられていたようだ。
    • [15]採算割れの赤字店舗は一説では全体の半分を占め、特に大型店舗の採算割れが売上げ不振と収益悪化を招き、鈴屋全体の足を引っ張っていた。
    • [17]品揃え型の婦人服ナショナルチェーン各社が売上げ不振に悩み、鈴丹・三愛・キャビンも最盛期に比べ売上げが30〜40%減少し、不採算店の多くを閉鎖するなどリストラに取り組んでいる。
    • [18]品揃え型の婦人服ナショナルチェーン各社が売上げ不振に悩み、鈴丹・三愛・キャビンも最盛期に比べ売上げが30〜40%減少し、不採算店の多くを閉鎖するなどリストラに取り組んでいる。
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [16]1997年2月に経営が破綻して和議を申請した鈴屋グループも、多数の店舗を閉めざるをえないだろう。
    • [19]鈴丹は1997年に100店、キャビンは1997年に約70店を閉める。日本の大手専門店は個性的な店への転換ができず、転換期に海外の製造小売業の手法を、ノウハウを学ぶことなく安易に真似た。
    • [20]ジョルダーノなど香港の製造小売業(SPA)は、自ら商品を企画・立案して外部の縫製工場に生産を発注し、主に直営店で販売する。ファイブフォックスは製造小売業の仕組みを早くから取り入れ、グループ売上高を1000億円台に乗せた。
    • [21]ジョルダーノなど香港の製造小売業(SPA)は、自ら商品を企画・立案して外部の縫製工場に生産を発注し、主に直営店で販売する。ファイブフォックスは製造小売業の仕組みを早くから取り入れ、グループ売上高を1000億円台に乗せた。
    • [22]鈴丹は1997年に100店、キャビンは1997年に約70店を閉める。日本の大手専門店は個性的な店への転換ができず、転換期に海外の製造小売業の手法を、ノウハウを学ぶことなく安易に真似た。

1996年〜金融債務325億円と保証債務160億円、再建協議の不調から和議申請へ

鈴屋を行き詰まらせた最大の要因は、在庫ではなく、金融債務と関係会社への保証だった。小売業の破綻では、在庫を抱えた借入の膨張がよく原因に挙がる。鈴屋は仕入れ先に在庫の危険を負わせる強い取引姿勢をとり、在庫による有利子負債はほとんど増えなかったとされる。問屋への支払いは1976年当時から現金決済に限り、手形を切らなかった。負債総額587億4700万円のうち、金融債務は325億円、グループ会社のための保証債務は約160億7700万円だった。関連会社は1996年末に17社あり、鈴屋国際香港とまぐろ屋さんを除く大半が鈴屋の保証で資金を借りていた。それらの子会社の多くは、鈴屋の支えが無ければ運営が成り立たない状態だった。

  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
    • [23]鈴屋を破綻に追い込んだ最大の原因は、325億円にのぼる金融債務と関係会社に対する保証債務だった。負債総額587億4700万円はグループ会社への保証債務を含み、保証債務は約160億7700万円にのぼった。
    • [24]業界では、鈴屋の場合、在庫負担による有利子負債の増加はほとんどないはずとの声が多い。鈴屋は在庫リスクを極力回避する姿勢で、仕入れ先に対する取引姿勢は強かった。
    • [25]業界では、鈴屋の場合、在庫負担による有利子負債の増加はほとんどないはずとの声が多い。鈴屋は在庫リスクを極力回避する姿勢で、仕入れ先に対する取引姿勢は強かった。
    • [27]鈴屋を破綻に追い込んだ最大の原因は、325億円にのぼる金融債務と関係会社に対する保証債務だった。負債総額587億4700万円はグループ会社への保証債務を含み、保証債務は約160億7700万円にのぼった。
    • [28]鈴屋の関連会社は1996年末時点で17社。優良子会社の鈴屋国際香港とまぐろ屋さん以外は鈴屋の保証により資金を借り入れていた。
    • [29]鈴屋の関連会社は1996年末時点で17社。優良子会社の鈴屋国際香港とまぐろ屋さん以外は鈴屋の保証により資金を借り入れていた。
  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [26]取引先の一珠の柳澤社長によれば、鈴屋は前から現金決済一本で、手形の話や支払日の延期は一度も出たことがない。

金融債務を膨らませたもう一つの源は、本業の外での資金運用と不動産だった。1987年6月、鈴屋は関連会社のびすけっとくらぶと共同で鈴屋アセットマネジメントを設立した。この会社はグループの有価証券投資を担い、特定金銭信託で資金を運用した。和議申請の代理人を務めた清水直弁護士は、解約後の損失を約50億円と説明したが、実額はさらに大きいとの説もあった。バブル期には都内を中心に不動産を買い、その借入は約100億円に達した。1991年には、臨海副都心の台場地区で資生堂と並ぶ本社ビルをツインタワーとして建てる計画が決まった。14階建てのビルを1998年以降に建てる予定だったが、バブル崩壊で着工に至らなかった。

  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
    • [30]鈴屋本体の金融債務が拡大したもう一つの理由は財テク失敗による損失補填である。鈴屋アセットマネジメントは1987年6月、グループ企業での有価証券投資を目的に鈴屋とびすけっとくらぶの出資で設立され、特定金銭信託を行っていた。
    • [31]鈴屋本体の金融債務が拡大したもう一つの理由は財テク失敗による損失補填である。鈴屋アセットマネジメントは1987年6月、グループ企業での有価証券投資を目的に鈴屋とびすけっとくらぶの出資で設立され、特定金銭信託を行っていた。
    • [32]鈴屋本体の金融債務が拡大したもう一つの理由は財テク失敗による損失補填である。鈴屋アセットマネジメントは1987年6月、グループ企業での有価証券投資を目的に鈴屋とびすけっとくらぶの出資で設立され、特定金銭信託を行っていた。
    • [33]和議申請代理人の清水直弁護士の会見時の説明では「解約後の損失は約50億円」と公表されたが、損失額はもっと巨額にのぼっていたとの説もある。
    • [34]バブル時に都内を中心に購入した不動産による借入れが約100億円。臨海副都心で98年以降に14階建てビルを建設し、資生堂と鈴屋がそれぞれ本社を移転する計画は、バブル崩壊で未着工のまま。
    • [36]バブル時に都内を中心に購入した不動産による借入れが約100億円。臨海副都心で98年以降に14階建てビルを建設し、資生堂と鈴屋がそれぞれ本社を移転する計画は、バブル崩壊で未着工のまま。
  • Decide 1991年 8巻10号(通巻84号)
    • [35]臨海副都心の台場地区Hブロックには資生堂と鈴屋の本社ビル(ツインタワー)が入ることが決まった。

和議申請までの約1年、鈴屋は住友商事と住金物産など外部の企業が主導する再建を探った。1996年12月には、優良子会社でユニホームの企画と製造を手がけるイスト(旧鈴屋エンタープライズ)の株式を住金物産へ売った。しかし関係者の間の調整は最後までつかず、再建策は実らなかった。1997年2月24日、鈴屋は負債587億4700万円を抱えて東京地方裁判所に和議開始を申し立て、事実上倒産した。申請時の資本金は1億9948万円、従業員は847人で、代表は2代目社長の鈴木義雄氏だった。3月4日の債権者集会でも、保証債務の中身は会社側から最後まで語られなかった。婦人服の専門店チェーンに共通する構造の問題を抱えた破綻として、鈴屋の和議による再建は業界の先行きを占う例とみなされた。

  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」
    • [37]住友商事と住金物産など第三者主導の再建を目指したが、関係者間の調整は最後までつかず、1年間の再建努力の末に和議を選択した。
    • [38]優良子会社のひとつでユニホーム企画製造会社のイスト(旧鈴屋エンタープライズ)は、1996年12月に株式を住金物産に売却された。
    • [39]住友商事と住金物産など第三者主導の再建を目指したが、関係者間の調整は最後までつかず、1年間の再建努力の末に和議を選択した。
    • [40]鈴屋(資本金1億9948万円、代表鈴木義雄氏、従業員847人)は負債587億4700万円で、1997年2月24日、東京地裁に和議開始を申請し事実上倒産した。鈴木義雄氏は2代目社長。
    • [42]鈴屋(資本金1億9948万円、代表鈴木義雄氏、従業員847人)は負債587億4700万円で、1997年2月24日、東京地裁に和議開始を申請し事実上倒産した。鈴木義雄氏は2代目社長。
    • [43]和議開始後の3月4日に開かれた債権者集会でも、保証債務の実態は会社側から最後まで語られなかった。
    • [44]鈴屋の破綻は婦人服ナショナルチェーンの抱える構造問題に直面して倒産した具体的事例であり、和議による再建は業界にとって今後を占う試金石となる。
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [41]鈴屋グループは1997年2月に経営が破綻し、和議を申請した。
参考文献[23]-[44]
    • [23]鈴屋を破綻に追い込んだ最大の原因は、325億円にのぼる金融債務と関係会社に対する保証債務だった。負債総額587億4700万円はグループ会社への保証債務を含み、保証債務は約160億7700万円にのぼった。
    • [24]業界では、鈴屋の場合、在庫負担による有利子負債の増加はほとんどないはずとの声が多い。鈴屋は在庫リスクを極力回避する姿勢で、仕入れ先に対する取引姿勢は強かった。
    • [25]業界では、鈴屋の場合、在庫負担による有利子負債の増加はほとんどないはずとの声が多い。鈴屋は在庫リスクを極力回避する姿勢で、仕入れ先に対する取引姿勢は強かった。
    • [27]鈴屋を破綻に追い込んだ最大の原因は、325億円にのぼる金融債務と関係会社に対する保証債務だった。負債総額587億4700万円はグループ会社への保証債務を含み、保証債務は約160億7700万円にのぼった。
    • [28]鈴屋の関連会社は1996年末時点で17社。優良子会社の鈴屋国際香港とまぐろ屋さん以外は鈴屋の保証により資金を借り入れていた。
    • [29]鈴屋の関連会社は1996年末時点で17社。優良子会社の鈴屋国際香港とまぐろ屋さん以外は鈴屋の保証により資金を借り入れていた。
    • [30]鈴屋本体の金融債務が拡大したもう一つの理由は財テク失敗による損失補填である。鈴屋アセットマネジメントは1987年6月、グループ企業での有価証券投資を目的に鈴屋とびすけっとくらぶの出資で設立され、特定金銭信託を行っていた。
    • [31]鈴屋本体の金融債務が拡大したもう一つの理由は財テク失敗による損失補填である。鈴屋アセットマネジメントは1987年6月、グループ企業での有価証券投資を目的に鈴屋とびすけっとくらぶの出資で設立され、特定金銭信託を行っていた。
    • [32]鈴屋本体の金融債務が拡大したもう一つの理由は財テク失敗による損失補填である。鈴屋アセットマネジメントは1987年6月、グループ企業での有価証券投資を目的に鈴屋とびすけっとくらぶの出資で設立され、特定金銭信託を行っていた。
    • [33]和議申請代理人の清水直弁護士の会見時の説明では「解約後の損失は約50億円」と公表されたが、損失額はもっと巨額にのぼっていたとの説もある。
    • [34]バブル時に都内を中心に購入した不動産による借入れが約100億円。臨海副都心で98年以降に14階建てビルを建設し、資生堂と鈴屋がそれぞれ本社を移転する計画は、バブル崩壊で未着工のまま。
    • [36]バブル時に都内を中心に購入した不動産による借入れが約100億円。臨海副都心で98年以降に14階建てビルを建設し、資生堂と鈴屋がそれぞれ本社を移転する計画は、バブル崩壊で未着工のまま。
    • [37]住友商事と住金物産など第三者主導の再建を目指したが、関係者間の調整は最後までつかず、1年間の再建努力の末に和議を選択した。
    • [38]優良子会社のひとつでユニホーム企画製造会社のイスト(旧鈴屋エンタープライズ)は、1996年12月に株式を住金物産に売却された。
    • [39]住友商事と住金物産など第三者主導の再建を目指したが、関係者間の調整は最後までつかず、1年間の再建努力の末に和議を選択した。
    • [40]鈴屋(資本金1億9948万円、代表鈴木義雄氏、従業員847人)は負債587億4700万円で、1997年2月24日、東京地裁に和議開始を申請し事実上倒産した。鈴木義雄氏は2代目社長。
    • [42]鈴屋(資本金1億9948万円、代表鈴木義雄氏、従業員847人)は負債587億4700万円で、1997年2月24日、東京地裁に和議開始を申請し事実上倒産した。鈴木義雄氏は2代目社長。
    • [43]和議開始後の3月4日に開かれた債権者集会でも、保証債務の実態は会社側から最後まで語られなかった。
    • [44]鈴屋の破綻は婦人服ナショナルチェーンの抱える構造問題に直面して倒産した具体的事例であり、和議による再建は業界にとって今後を占う試金石となる。
  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
    • [26]取引先の一珠の柳澤社長によれば、鈴屋は前から現金決済一本で、手形の話や支払日の延期は一度も出たことがない。
    • [35]臨海副都心の台場地区Hブロックには資生堂と鈴屋の本社ビル(ツインタワー)が入ることが決まった。
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [41]鈴屋グループは1997年2月に経営が破綻し、和議を申請した。

筆者考察

鈴屋の破綻を決めたのは、婦人服が売れなくなったことよりも、売れなくなったあとに借金を減らす手段が残っていなかったことだった。仕入れ先に在庫の危険を負わせ、問屋へ現金で払う鈴屋の仕組みは、在庫から借金が生まれる経路を閉じていた。売上高が593億円から317億円へ縮んでも、それだけなら店を閉じて身を細らせる余地があったはずである。ところが負債587億円の中身は、金融債務325億円と、17社の関係会社のための保証160億円だった。本業の外で積み上がった借金は、店舗網を219店まで縮めても減らず、閉店で浮く資金では追いつかなかった。売場を減らすほど売上高も減り、返済の原資はむしろ細った。

その本業の外の借金は、特定金銭信託の運用損、都内の不動産、台場の本社ビル計画という、バブル期に始めた三つの投資から生まれた。どれも婦人服の品ぞろえとは関わりが無く、衣料の不振が続くかぎり、穴を埋める収益はどこからも来なかった。運用の損失は約50億円とされ、都内の不動産にも約100億円の借入が付いていた。同じ時期、製造小売の外資系専門店が日本へ上陸し、鈴丹やキャビンも店を大量に閉じた。品ぞろえ型の売り方が通じなくなった市場で、鈴屋は新しい売り方を試す前に、住友商事と住金物産を交えた再建の協議で約1年を費やした。和議は、本業の立て直しと債務の整理を同時に迫られた末の選択だった。

鈴屋の売上高 1995年2月期〜1996年2月期(億円)

446 1995年2月期 317.08 1996年2月期
  • 鈴屋単体の年間売上高。1995年2月期は約446億円、1996年2月期は約317億800万円。1995年3月に鈴屋興産が鈴屋を吸収合併して商号を鈴屋に改めたため、1996年2月期は合併後の会社の数字。
  • 最盛期は章の範囲外の1992年2月期で約593億円。
  • 出所は Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」。

出典・参考

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出典・参考
  • 日経ビジネス 1976年12月6日号
  • Decide 1991年 8巻10号(通巻84号)
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
  • 実業往来 1978年
  • Credit & law 1997年「企業倒産最前線(70)構造問題を抱える婦人服専門店業界~「名門」鈴屋の破綻」

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