鈴屋:鈴木シャツ被服店の開業と婦人服専門店への転換
1909年〜上車坂のミシン1台から白衣の納入先を拡大した鈴木屋
鈴屋の源流は、1909年に鈴木房吉氏が上野駅に近い上車坂の住まいにミシン1台を据えて始めた鈴木屋にある。福井県今立郡の郷士の分家に生まれた房吉氏は、16歳で上京して下谷の肌着店に奉公したが、ミシンの技術を教わる機会がなく、19歳で独立した。開業当初は肌着の直しを請けながら店先にたばこや石けん、文具を並べたが、隣家が雑貨とたばこの販売を始めて売れ行きは大きく低下した。下谷や神田、浅草へ雑貨の行商にも出たものの1日に2、3点しか売れず、房吉氏と妻の乃婦氏はミシン仕事に戻った。明治から大正へ移るころ、房吉氏は板ガラスを3面に入れた拝見棚、現在のショーウィンドーを店先に設け、夜はガス灯で照らして通行客の目を引いた。
- 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
- [1]明治42年(1909年)、鈴木房吉氏が上野駅に近い上車坂の桜香横町の家にミシン1台を持ち込み、鈴木屋を創業した。
- [2]房吉氏は明治22年、福井県今立郡国高村の郷士の分家に生まれた。16歳で上京し下谷西町の高山肌着店に奉公したが、ミシンかけの技術は教えてもらえず、19歳で独立した。
- [3]創業当初はミシンで肌着の直しをする一方、店の表にタバコ・石けん・化粧品・文具を並べた。隣家の油屋が雑貨店に転業しタバコ販売も始めたため、売れ行きが激減した。
- [4]房吉氏は石けん、化粧品、足袋などの雑貨を背負って下谷・神田・浅草を行商したが、1日に2、3点しか売れず、ミシン仕事に戻った。房吉氏は明治43年に乃婦氏と結婚していた。
- [5]明治末から大正初めのころ、房吉氏は3面に板ガラスをはめた西洋式の拝見棚(現在のショーウィンドウ)を設け、夜間の照明にガス灯を使った。
- ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
- [6]鈴木商店は他の商店に先駆けて店先に拝見棚(今のショーウィンド)を設け、ガス灯で照明をほどこし、道行く女性の眼をひく明るい店舗だった。
経営が安定したのは第1次世界大戦の輸出需要からで、房吉氏はミシンを増やして手袋を縫わせ、編み機を買い入れて約10人の通勤女工に靴下を編ませた。製品はすべて輸出向けで受注に生産が追いつかず、店の裏手の長屋を工場に転用し、倉庫も別に確保した。続いてネル肌着の縫製販売に進出し、東京で5、6店に限られた同業による和歌山からの共同仕入れを取りまとめ、屋号を鈴木肌着店に改めた。衣料品は客と店主の駆け引きで値が決まるのが通例だったが、店は掛け値を付けない正札販売に切り替え、気に入らないと持ち込まれた品は引き取った。1923年の関東大震災では商品を上野の山へ運び出して焼失を免れ、9月末に上根岸の借家で販売を再開した。10月には上車坂の焼け跡に建てた店を鈴木シャツ店と名付け、2店で営業した。
- 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
- [7]第1次世界大戦(1914〜18年)の輸出景気のなかで、房吉氏は増設したミシンで手袋を製造させ、編組機を購入して約10名の通勤女工に靴下を織らせた。すべて輸出用で注文に生産が追いつかず、店の裏の長屋を借りて工場とし、その奥に倉庫を持った。
- [8]第1次世界大戦(1914〜18年)の輸出景気のなかで、房吉氏は増設したミシンで手袋を製造させ、編組機を購入して約10名の通勤女工に靴下を織らせた。すべて輸出用で注文に生産が追いつかず、店の裏の長屋を借りて工場とし、その奥に倉庫を持った。
- [9]当時東京でネルの肌着を縫製販売していたのは鈴木屋のほか5、6店で、産地の和歌山からの共同仕入れの中心は鈴木屋だった。この時期に名称を「鈴木肌着店」に改めた。
- [11]大正年間、鈴木肌着店は掛値なしの正札販売を実行していた(大正9年の正札販売のPRが残る)。
- [13]大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で、房吉氏は商品や布地を上野の山へ避難させた。9月末に上根岸の借家に仮店舗を設け、10月には上車坂町の焼跡にバラックを建てて「鈴木シャツ店」と改称し、2店で営業した。
- [14]大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で、房吉氏は商品や布地を上野の山へ避難させた。9月末に上根岸の借家に仮店舗を設け、10月には上車坂町の焼跡にバラックを建てて「鈴木シャツ店」と改称し、2店で営業した。
- ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
- [10]当時、衣料品を売る店では正札なしの掛け値で商いするのがあたりまえで、客と店主の胸算用で売買が行われていた。房吉氏はこういう商いの仕方が嫌いだった。
- [12]房吉氏は掛値はもちろん値引きも一切しなかったが、買った客が気にいらないといって返品してきた場合は快く引きとった。
1927年の金融恐慌と1930年の金輸出解禁で不況が深まり、昭和通りの開通と地下鉄の開業で人の流れも変わって、店の客足は細った。房吉氏は女性の洋装の広がりに着目し、1928年にブラジャーにあたる乳バンドを製造して売り出した。特許を出願して宣伝にも力を入れたが、需要の総量が少なく、製品は中断に終わった。代わって伸ばしたのが肌着と並んで縫っていた白衣で、東京で食品製造業者や食堂の従業員に白衣の着用が求められたことが契機になった。注文を募る書状は、妻の乃婦氏の提案で印刷はがきから毛筆の封書に替え、長女の文江氏が書いた。上野駅の食堂や列車食堂を請け負う伯養軒の入札で同業3軒を抑えて落札すると、木村屋や資生堂、不二家からも注文が続き、店名を鈴木裁縫店に改めた。
- 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
- [15]昭和2年(1927年)の金融恐慌、昭和5年の金輸出解禁で不況が深まった。上車坂は昭和通りに面し、昭和2年12月に開通した地下鉄が人の流れを奪ったため、鈴木シャツ店は客足がまばらになった。
- [17]房吉氏は女性の洋装の普及に目をつけて乳バンドの縫製を始め、特許の出願もして宣伝販売に力を入れたが、ランジェリーの需要の絶対数が少なく売れ行きが芳しくないため中断した。
- [19]乳バンドの後まもなく(正確な時期は諸説あり)、東京で食品製造業者や食堂関係に白衣の着用が求められるようになり、房吉氏は白衣の縫製販売を始めた。
- [20]白衣の注文は店員に東京中の食品・食堂関係の店を調査させて印刷ハガキで取ったが、乃婦氏の提案で毛筆書きの封書に改め、長女文江氏が書いた。
- [21]上野駅の食堂や全国の列車食堂を請け負っていた伯養軒の白衣・エプロン等の入札に、他の白衣業者3軒とともに応札した鈴木シャツ店が1番札で落札した。以後、木村屋、資生堂、スエヒロ、不二家などから注文が相次ぎ、店名を「鈴木裁縫店」と改めた。
- 実業往来 1978年
- [16]創業者が昭和3年(1928年)に「乳バンド」を開発した。房吉氏は新案特許乳バンド、つまりブラジャーの製造販売を始めた。
- ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
- [18]鈴木商店は男ものの洋品、Yシャツ、肌着、下着とともに白衣なども作っていた。
参考文献[1]-[21]
- [1]明治42年(1909年)、鈴木房吉氏が上野駅に近い上車坂の桜香横町の家にミシン1台を持ち込み、鈴木屋を創業した。
- [2]房吉氏は明治22年、福井県今立郡国高村の郷士の分家に生まれた。16歳で上京し下谷西町の高山肌着店に奉公したが、ミシンかけの技術は教えてもらえず、19歳で独立した。
- [3]創業当初はミシンで肌着の直しをする一方、店の表にタバコ・石けん・化粧品・文具を並べた。隣家の油屋が雑貨店に転業しタバコ販売も始めたため、売れ行きが激減した。
- [4]房吉氏は石けん、化粧品、足袋などの雑貨を背負って下谷・神田・浅草を行商したが、1日に2、3点しか売れず、ミシン仕事に戻った。房吉氏は明治43年に乃婦氏と結婚していた。
- [5]明治末から大正初めのころ、房吉氏は3面に板ガラスをはめた西洋式の拝見棚(現在のショーウィンドウ)を設け、夜間の照明にガス灯を使った。
- [7]第1次世界大戦(1914〜18年)の輸出景気のなかで、房吉氏は増設したミシンで手袋を製造させ、編組機を購入して約10名の通勤女工に靴下を織らせた。すべて輸出用で注文に生産が追いつかず、店の裏の長屋を借りて工場とし、その奥に倉庫を持った。
- [8]第1次世界大戦(1914〜18年)の輸出景気のなかで、房吉氏は増設したミシンで手袋を製造させ、編組機を購入して約10名の通勤女工に靴下を織らせた。すべて輸出用で注文に生産が追いつかず、店の裏の長屋を借りて工場とし、その奥に倉庫を持った。
- [9]当時東京でネルの肌着を縫製販売していたのは鈴木屋のほか5、6店で、産地の和歌山からの共同仕入れの中心は鈴木屋だった。この時期に名称を「鈴木肌着店」に改めた。
- [11]大正年間、鈴木肌着店は掛値なしの正札販売を実行していた(大正9年の正札販売のPRが残る)。
- [13]大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で、房吉氏は商品や布地を上野の山へ避難させた。9月末に上根岸の借家に仮店舗を設け、10月には上車坂町の焼跡にバラックを建てて「鈴木シャツ店」と改称し、2店で営業した。
- [14]大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で、房吉氏は商品や布地を上野の山へ避難させた。9月末に上根岸の借家に仮店舗を設け、10月には上車坂町の焼跡にバラックを建てて「鈴木シャツ店」と改称し、2店で営業した。
- [15]昭和2年(1927年)の金融恐慌、昭和5年の金輸出解禁で不況が深まった。上車坂は昭和通りに面し、昭和2年12月に開通した地下鉄が人の流れを奪ったため、鈴木シャツ店は客足がまばらになった。
- [17]房吉氏は女性の洋装の普及に目をつけて乳バンドの縫製を始め、特許の出願もして宣伝販売に力を入れたが、ランジェリーの需要の絶対数が少なく売れ行きが芳しくないため中断した。
- [19]乳バンドの後まもなく(正確な時期は諸説あり)、東京で食品製造業者や食堂関係に白衣の着用が求められるようになり、房吉氏は白衣の縫製販売を始めた。
- [20]白衣の注文は店員に東京中の食品・食堂関係の店を調査させて印刷ハガキで取ったが、乃婦氏の提案で毛筆書きの封書に改め、長女文江氏が書いた。
- [21]上野駅の食堂や全国の列車食堂を請け負っていた伯養軒の白衣・エプロン等の入札に、他の白衣業者3軒とともに応札した鈴木シャツ店が1番札で落札した。以後、木村屋、資生堂、スエヒロ、不二家などから注文が相次ぎ、店名を「鈴木裁縫店」と改めた。
- [6]鈴木商店は他の商店に先駆けて店先に拝見棚(今のショーウィンド)を設け、ガス灯で照明をほどこし、道行く女性の眼をひく明るい店舗だった。
- [10]当時、衣料品を売る店では正札なしの掛け値で商いするのがあたりまえで、客と店主の胸算用で売買が行われていた。房吉氏はこういう商いの仕方が嫌いだった。
- [12]房吉氏は掛値はもちろん値引きも一切しなかったが、買った客が気にいらないといって返品してきた場合は快く引きとった。
- [18]鈴木商店は男ものの洋品、Yシャツ、肌着、下着とともに白衣なども作っていた。
- [16]創業者が昭和3年(1928年)に「乳バンド」を開発した。房吉氏は新案特許乳バンド、つまりブラジャーの製造販売を始めた。
1938年〜戦時の白衣生産と茨城への疎開、上野広小路での再出発
日中戦争が長引くと平和産業は軍需へ振り向けられ、繊維も軍需用に調達された。1938年の物品販売価格取締規則、1940年の繊維製品統制規則を経て、1942年には衣料切符制が敷かれ、衣料小売店では転業や廃業が相次いだ。そのなかで鈴木裁縫店は、衛生上欠かせない白衣を扱い、軍医や看護婦向けの納入もあったため、一定量の材料の配給を受けて生産を続けた。1945年3月10日の東京大空襲で上野一帯は多くの家屋を失ったが、鈴木裁縫店の建物は焼け残り、人的な被害も出なかった。それでも東京での生活は続けられないと判断した房吉氏は、商品と材料を携え、一家で茨城県東茨城郡上野合村へ移った。
- ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
- [22]満州事変、日中戦争、太平洋戦争と戦争が続き、平和産業は軍需産業へ切り換えられた。繊維も例外ではなく、あらゆる繊維は軍需用に調達された。
- [24]鈴木商店は戦時下の情勢のなかで商品が乏しく、やがて切符による衣料の配給制が始まった。
- 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
- [23]昭和13年(1938年)5月に物品販売価格取締規則、15年2月に繊維製品統制規則、17年2月に衣料切符制が実施され、衣料小売店には転廃業が続出した。
- [25]白衣は衛生上無視できず、軍医・看護婦関係の納品もあったため、一定量の材料の配給が確保されて生産が続けられた。
- [26]昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で上野一帯にも多数の焼失家屋が出たが、鈴木裁縫店は焼け残り人命の被害もなかった。房吉氏は疎開を決意し、商品・材料とともに家族で茨城県東茨城郡上野合村へ移った。
- [27]昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で上野一帯にも多数の焼失家屋が出たが、鈴木裁縫店は焼け残り人命の被害もなかった。房吉氏は疎開を決意し、商品・材料とともに家族で茨城県東茨城郡上野合村へ移った。
終戦から半月後の1945年8月末、房吉氏は疎開先に置いた商品と材料を携えて東京へ戻った。焼け残った昭和通りの店は使わず、上野駅前に小さな店舗を借りて鈴木商店の名で商いを再開し、長女の文江氏ら姉弟5人が両親を手伝った。同年11月28日には、のちの上野店の所在地である上野広小路に木造2階建ての店を構えて屋号を鈴屋とした。品ぞろえは男性向けのワイシャツや肌着、靴下に、たばこやライターを加えたものだった。1946年3月には広小路を挟んで松坂屋の向かいに呉服店の鈴乃屋を開業し、房吉氏が社長を兼ね、運営は次女の小泉清子氏が担った。清子氏は呉服問屋に嫁いだが夫を戦争で失っており、店名は鈴屋の2字の間に母の乃婦氏の名から1字を入れて付けた。
- 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
- [28]終戦の半月後の昭和20年8月末、房吉氏は疎開地の商品・材料とともに帰京した。焼け残っていた昭和通りの店ではなく上野駅前の小店舗を借りて「鈴木商店」として再出発し、長女文江氏を頭に姉弟5人が両親を助けた。
- [29]終戦の半月後の昭和20年8月末、房吉氏は疎開地の商品・材料とともに帰京した。焼け残っていた昭和通りの店ではなく上野駅前の小店舗を借りて「鈴木商店」として再出発し、長女文江氏を頭に姉弟5人が両親を助けた。
- [30]昭和20年11月28日、上野広小路に木造2階建ての店を構え、「鈴屋」という新しい店名で開店した。現在の上野店の場所である。商品はワイシャツ、肌着、靴下などの紳士用品とタバコ、喫煙用具だった。
- [31]昭和20年11月28日、上野広小路に木造2階建ての店を構え、「鈴屋」という新しい店名で開店した。現在の上野店の場所である。商品はワイシャツ、肌着、靴下などの紳士用品とタバコ、喫煙用具だった。
- [32]昭和21年(1946年)3月、上野松坂屋と広小路通りをはさんだ西正面に呉服専門店「鈴乃屋」を開店した。鈴屋の2字に乃婦氏の「乃」を入れた店名で、房吉氏が社長を兼ね、運営には次女清子氏があたった。
- [34]昭和21年(1946年)3月、上野松坂屋と広小路通りをはさんだ西正面に呉服専門店「鈴乃屋」を開店した。鈴屋の2字に乃婦氏の「乃」を入れた店名で、房吉氏が社長を兼ね、運営には次女清子氏があたった。
- 日経ビジネス 1973年4月2日号
- [33]小泉清子氏は呉服問屋に嫁いだものの、主人の戦死で未亡人となっていた。
- [35]小泉清子氏の呉服小売店の店名は、鈴屋に実母の名前の一字を間に入れて鈴乃屋とした。
衣料の統制が続いた数年間、店の売り上げはワイシャツや肌着の製造販売、雑貨、毛糸の販売で成り立っていた。男物の品ぞろえの間に置いた手編み用の毛糸は、衣料の不足から家庭で編む人が多く、1949年ごろから商品に占める比重を増した。愛知県尾西地方のメーカーに羊毛の混合率を指定した独自の毛糸を売り、編む途中で買い足す客のために製品に製造年月日を記した。店頭には本物の鈴を収めた箱の周りをネオンの小さな鈴が回る看板を掲げ、音の出るネオンとして新聞に取り上げられた。1950年の朝鮮戦争の特需で業績が伸び、1951年3月には資本金100万円で株式会社鈴屋に改組し、房吉氏が社長に就任した。
- 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
- [36]衣料切符制が廃止される昭和24年までの数年間は、切符制の商品販売、ワイシャツ・肌着類の製造販売、雑貨、毛糸の販売などが経営を支えた。
- [38]衣料事情が回復せず家庭で毛糸の手編みをする風潮が広がっていたため、昭和24〜25年ごろには商品のなかで毛糸の比重が次第に増えた。
- [39]愛知県西部(尾西)のメーカーに製品ごとの羊毛の混合率を指示した自社開発の毛糸を発売し、編む途中で買い増しに来る客のため製造年月日を表示した。
- [40]店のシンボルマークを鈴とし、本物の大きな鈴を木箱に入れてその周囲をネオンの小鈴が回るしかけの看板を掲げた。日本初の「音入りネオン」として新聞に取り上げられた。
- [41]昭和25年の朝鮮動乱の特需で業績が急伸した。昭和26年(1951年)3月30日に株式会社鈴屋に改組し、資本金100万円、代表取締役社長は鈴木房吉氏だった。
- 商魂の記録 アイデアと根性の20人(1967年)「鈴屋」
- [37]鈴木義雄氏が継ぐ前の鈴屋でも、男性用品に混じって手編み毛糸などの雑貨を扱っていた。
参考文献[22]-[41]
- [22]満州事変、日中戦争、太平洋戦争と戦争が続き、平和産業は軍需産業へ切り換えられた。繊維も例外ではなく、あらゆる繊維は軍需用に調達された。
- [24]鈴木商店は戦時下の情勢のなかで商品が乏しく、やがて切符による衣料の配給制が始まった。
- [23]昭和13年(1938年)5月に物品販売価格取締規則、15年2月に繊維製品統制規則、17年2月に衣料切符制が実施され、衣料小売店には転廃業が続出した。
- [25]白衣は衛生上無視できず、軍医・看護婦関係の納品もあったため、一定量の材料の配給が確保されて生産が続けられた。
- [26]昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で上野一帯にも多数の焼失家屋が出たが、鈴木裁縫店は焼け残り人命の被害もなかった。房吉氏は疎開を決意し、商品・材料とともに家族で茨城県東茨城郡上野合村へ移った。
- [27]昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で上野一帯にも多数の焼失家屋が出たが、鈴木裁縫店は焼け残り人命の被害もなかった。房吉氏は疎開を決意し、商品・材料とともに家族で茨城県東茨城郡上野合村へ移った。
- [28]終戦の半月後の昭和20年8月末、房吉氏は疎開地の商品・材料とともに帰京した。焼け残っていた昭和通りの店ではなく上野駅前の小店舗を借りて「鈴木商店」として再出発し、長女文江氏を頭に姉弟5人が両親を助けた。
- [29]終戦の半月後の昭和20年8月末、房吉氏は疎開地の商品・材料とともに帰京した。焼け残っていた昭和通りの店ではなく上野駅前の小店舗を借りて「鈴木商店」として再出発し、長女文江氏を頭に姉弟5人が両親を助けた。
- [30]昭和20年11月28日、上野広小路に木造2階建ての店を構え、「鈴屋」という新しい店名で開店した。現在の上野店の場所である。商品はワイシャツ、肌着、靴下などの紳士用品とタバコ、喫煙用具だった。
- [31]昭和20年11月28日、上野広小路に木造2階建ての店を構え、「鈴屋」という新しい店名で開店した。現在の上野店の場所である。商品はワイシャツ、肌着、靴下などの紳士用品とタバコ、喫煙用具だった。
- [32]昭和21年(1946年)3月、上野松坂屋と広小路通りをはさんだ西正面に呉服専門店「鈴乃屋」を開店した。鈴屋の2字に乃婦氏の「乃」を入れた店名で、房吉氏が社長を兼ね、運営には次女清子氏があたった。
- [34]昭和21年(1946年)3月、上野松坂屋と広小路通りをはさんだ西正面に呉服専門店「鈴乃屋」を開店した。鈴屋の2字に乃婦氏の「乃」を入れた店名で、房吉氏が社長を兼ね、運営には次女清子氏があたった。
- [36]衣料切符制が廃止される昭和24年までの数年間は、切符制の商品販売、ワイシャツ・肌着類の製造販売、雑貨、毛糸の販売などが経営を支えた。
- [38]衣料事情が回復せず家庭で毛糸の手編みをする風潮が広がっていたため、昭和24〜25年ごろには商品のなかで毛糸の比重が次第に増えた。
- [39]愛知県西部(尾西)のメーカーに製品ごとの羊毛の混合率を指示した自社開発の毛糸を発売し、編む途中で買い増しに来る客のため製造年月日を表示した。
- [40]店のシンボルマークを鈴とし、本物の大きな鈴を木箱に入れてその周囲をネオンの小鈴が回るしかけの看板を掲げた。日本初の「音入りネオン」として新聞に取り上げられた。
- [41]昭和25年の朝鮮動乱の特需で業績が急伸した。昭和26年(1951年)3月30日に株式会社鈴屋に改組し、資本金100万円、代表取締役社長は鈴木房吉氏だった。
- 日経ビジネス 1973年4月2日号
- [33]小泉清子氏は呉服問屋に嫁いだものの、主人の戦死で未亡人となっていた。
- [35]小泉清子氏の呉服小売店の店名は、鈴屋に実母の名前の一字を間に入れて鈴乃屋とした。
- [37]鈴木義雄氏が継ぐ前の鈴屋でも、男性用品に混じって手編み毛糸などの雑貨を扱っていた。
1954年〜男物を捨てて女性客に特化した専門店への切り替え
1954年9月、房吉氏の次男で、繊維商社の伊藤萬で貿易と染色の部門に勤めていた鈴木義雄氏が同社を退き、専務に就任した。義雄氏はかねて洋品店は女物に絞らなければ伸びないと父に説いており、就任にあたって経営の一切を任されることを求め、房吉氏はこれを受け入れた。当時の店は毛糸とセーターで客を集め、紳士物も売れていたが、義雄氏は扱う品をすべて若い女性向けの衣料品に絞る方針を立てた。取引先の問屋からは男物を続けるほうが安全だとの忠告もあった。義雄氏は婦人洋装店や百貨店の婦人売場で売れ方と客の装いを調べたうえで、紳士用品を売り切るバーゲンセールを開き、女性客に的を絞った店へ移行した。
- ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
- [42]義雄氏は慶応大学を出て繊維商社の伊藤万に勤めていたが、昭和29年(1954年)に伊藤万を退社し、専務として新しい店づくりに打ち込み出した。
- [44]鈴木義雄氏は伊藤万に勤めていたころ、「やはり洋品店は、女物専門でなければ本当に伸びない」と父の房吉氏に進言した。
- [50]女性のお客を掴むことができたと判断した義雄氏は、全面的に女性洋品に切り換えた。
- 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
- [43]鈴木義雄氏は伊藤萬の貿易部から染色部に移って勤めた後、昭和29年(1954年)9月、房吉氏の強い希望で専務に就任した。就任にあたり経営の一切を任せるよう求め、房吉氏はそれを約束し、以後経営に口出ししなかった。
- [45]鈴木義雄氏は伊藤萬の貿易部から染色部に移って勤めた後、昭和29年(1954年)9月、房吉氏の強い希望で専務に就任した。就任にあたり経営の一切を任せるよう求め、房吉氏はそれを約束し、以後経営に口出ししなかった。
- [47]当時の鈴屋は毛糸とセーターの店で紳士物の売れ行きも悪くなかったが、義雄専務は全商品を若い女性向けの2次製品に絞ることにした。婦人洋装店やデパートの婦人物売場で売れ方や客の服装を観察したのち、紳士用品を一掃するためのバーゲンセールを行った。
- [49]当時の鈴屋は毛糸とセーターの店で紳士物の売れ行きも悪くなかったが、義雄専務は全商品を若い女性向けの2次製品に絞ることにした。婦人洋装店やデパートの婦人物売場で売れ方や客の服装を観察したのち、紳士用品を一掃するためのバーゲンセールを行った。
- 商魂の記録 アイデアと根性の20人(1967年)「鈴屋」
- [46]義雄氏は家業を継ぐにあたり「店のいっさいを任せてくれるか」と条件をつけ、父は了承した(昭和29年)。問屋のなかには「男物の方が安全ですよ」と忠告する者もあった。
- [48]義雄氏は家業を継ぐにあたり「店のいっさいを任せてくれるか」と条件をつけ、父は了承した(昭和29年)。問屋のなかには「男物の方が安全ですよ」と忠告する者もあった。
切り替え後も常連の求めに応じて毛糸は売り続け、1956年からは鈴の音を指すフランス語にちなむソネリエを自社製品の名に用いた。1955年には買い取った隣家と合わせて間口を4間に広げ、ショーウィンドーの商品の配置を毎日替えた。宣伝では開局まもないラジオ東京にスポットを流し、その料金は切り替えたばかりの店の売り上げに見合わなかった。しばらくしてテレビCMにも出稿し、1956年7月に避暑地へ出した夏季限定の軽井沢店も、採算より店の名を若い客に広めることを狙った。店頭では義雄氏自身が店員と並んで客に応対し、切り替えから1年ほどで業界でおしゃれの店の草分けとみなされた。
- 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
- [51]女性専科の店となった後も常連客の要望で毛糸の販売を続けた。オリジナル製品のブランド「ソネリエ」は「鈴の音」のフランス語に由来し、昭和31年(1956年)から採用した。
- [52]昭和29年6月と30年春に買収した隣家をあわせ、昭和30年8月に店舗を拡張して間口を4間とした。ショウウインドウを拡大し、商品の配置換えを毎日1、2回行った。
- [55]義雄専務の就任後しばらくしてテレビCMも使うようになった。昭和31年7月、夏季だけのリゾートウェア専門の軽井沢店を開いたが、当初から採算は期待せず、鈴屋のイメージアップを狙った。
- ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
- [53]義雄氏は宣伝に力を入れ、その頃開局したばかりのラジオ東京(現在の東京放送)を使ってスポットを流した。
- [54]何十万もするスポット料は、切り換えたばかりの鈴屋の売上げに見合わず、採算を度外視してやるほかなかった。
- [56]義雄氏は店員教育に力を入れ、店員と一緒に店頭へ出て自ら接客し、その接客態度を店員たちに学んでもらった。
- [57]女性洋品への切り換えから1年後ぐらいには、鈴屋は業界から「おしゃれの店のパイオニア」といわれるようになった。
義雄氏が上野の店で狙ったのは銀座へ向かう買い物客を上野で受け止めることで、有楽町や丸の内に勤める女性が上野まで足を運んだ。1957年7月にはスキヤ橋ショッピングセンターに銀座地区で最初の店を出し、同年度の年商は初めて1億円に達した。1959年には毛糸の販売をやめて全商品を衣料品に切り替えた。1960年2月には義雄氏が欧米の専門店を視察し、流行はパリに、売り方の仕組みは米国に学ぶ方針を固めた。帰国後は自社製品を縫う下請けの縫製工場を整え、これらをソネリエ会として組織した。同年9月には銀座みゆき通りに銀座店を開設し、1961年10月には木造だった上野店を鉄筋5階建てのビルに建て替えた。
- ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
- [58]義雄氏は「銀座でのお買物を上野でというのが初めの狙いでした」と語っている。
- [59]有楽町、丸の内方面に働くビジネスガールがわざわざ上野まで来て鈴屋のファンになった。
- [62]昭和35年(1960年)に義雄氏はアメリカ、西欧を廻って外国の専門店の生き方を学んできた。
- [66]専門店として常に新しい生き方をしていくために、銀座店、スキヤ橋店を開いた。
- 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
- [60]昭和32年(1957年)7月、スキヤ橋ショッピングセンターの中にスキヤ橋店(当初は銀座店の名)を開いた。32年度の年商がはじめて1億円に乗った。
- [61]昭和34年(1959年)に2次製品の売れ行きが毛糸をしのぎ、毛糸をやめて全商品を2次製品に切りかえた。
- [63]昭和35年2月、義雄専務はMMM(近代小売業研究会)のセミナー参加を兼ねて最初の欧米視察に出発し、「ファッションはパリ、ビジネスは米国」という方向を得た。
- [64]海外視察から帰った義雄専務は、オリジナル製品ソネリエの下請け縫製工場を整備し、これらを統合する団体としてソネリエ会を組織した。
- [65]昭和35年(1960年)9月1日、銀座みゆき通りと銀座西五番街の交差する角に銀座店を開き、従来の銀座店をスキヤ橋店と改称した。
- [67]木造3階の上野店を、昭和36年7月に着工し3か月後の10月に鉄筋5階建てのビルとして完成させた。
- 商魂の記録 アイデアと根性の20人(1967年)「鈴屋」
- [68]昭和36年に上野店を木造から鉄筋五階建てに改めた。
参考文献[42]-[68]
- [42]義雄氏は慶応大学を出て繊維商社の伊藤万に勤めていたが、昭和29年(1954年)に伊藤万を退社し、専務として新しい店づくりに打ち込み出した。
- [44]鈴木義雄氏は伊藤万に勤めていたころ、「やはり洋品店は、女物専門でなければ本当に伸びない」と父の房吉氏に進言した。
- [50]女性のお客を掴むことができたと判断した義雄氏は、全面的に女性洋品に切り換えた。
- [53]義雄氏は宣伝に力を入れ、その頃開局したばかりのラジオ東京(現在の東京放送)を使ってスポットを流した。
- [54]何十万もするスポット料は、切り換えたばかりの鈴屋の売上げに見合わず、採算を度外視してやるほかなかった。
- [56]義雄氏は店員教育に力を入れ、店員と一緒に店頭へ出て自ら接客し、その接客態度を店員たちに学んでもらった。
- [57]女性洋品への切り換えから1年後ぐらいには、鈴屋は業界から「おしゃれの店のパイオニア」といわれるようになった。
- [58]義雄氏は「銀座でのお買物を上野でというのが初めの狙いでした」と語っている。
- [59]有楽町、丸の内方面に働くビジネスガールがわざわざ上野まで来て鈴屋のファンになった。
- [62]昭和35年(1960年)に義雄氏はアメリカ、西欧を廻って外国の専門店の生き方を学んできた。
- [66]専門店として常に新しい生き方をしていくために、銀座店、スキヤ橋店を開いた。
- [43]鈴木義雄氏は伊藤萬の貿易部から染色部に移って勤めた後、昭和29年(1954年)9月、房吉氏の強い希望で専務に就任した。就任にあたり経営の一切を任せるよう求め、房吉氏はそれを約束し、以後経営に口出ししなかった。
- [45]鈴木義雄氏は伊藤萬の貿易部から染色部に移って勤めた後、昭和29年(1954年)9月、房吉氏の強い希望で専務に就任した。就任にあたり経営の一切を任せるよう求め、房吉氏はそれを約束し、以後経営に口出ししなかった。
- [47]当時の鈴屋は毛糸とセーターの店で紳士物の売れ行きも悪くなかったが、義雄専務は全商品を若い女性向けの2次製品に絞ることにした。婦人洋装店やデパートの婦人物売場で売れ方や客の服装を観察したのち、紳士用品を一掃するためのバーゲンセールを行った。
- [49]当時の鈴屋は毛糸とセーターの店で紳士物の売れ行きも悪くなかったが、義雄専務は全商品を若い女性向けの2次製品に絞ることにした。婦人洋装店やデパートの婦人物売場で売れ方や客の服装を観察したのち、紳士用品を一掃するためのバーゲンセールを行った。
- [51]女性専科の店となった後も常連客の要望で毛糸の販売を続けた。オリジナル製品のブランド「ソネリエ」は「鈴の音」のフランス語に由来し、昭和31年(1956年)から採用した。
- [52]昭和29年6月と30年春に買収した隣家をあわせ、昭和30年8月に店舗を拡張して間口を4間とした。ショウウインドウを拡大し、商品の配置換えを毎日1、2回行った。
- [55]義雄専務の就任後しばらくしてテレビCMも使うようになった。昭和31年7月、夏季だけのリゾートウェア専門の軽井沢店を開いたが、当初から採算は期待せず、鈴屋のイメージアップを狙った。
- [60]昭和32年(1957年)7月、スキヤ橋ショッピングセンターの中にスキヤ橋店(当初は銀座店の名)を開いた。32年度の年商がはじめて1億円に乗った。
- [61]昭和34年(1959年)に2次製品の売れ行きが毛糸をしのぎ、毛糸をやめて全商品を2次製品に切りかえた。
- [63]昭和35年2月、義雄専務はMMM(近代小売業研究会)のセミナー参加を兼ねて最初の欧米視察に出発し、「ファッションはパリ、ビジネスは米国」という方向を得た。
- [64]海外視察から帰った義雄専務は、オリジナル製品ソネリエの下請け縫製工場を整備し、これらを統合する団体としてソネリエ会を組織した。
- [65]昭和35年(1960年)9月1日、銀座みゆき通りと銀座西五番街の交差する角に銀座店を開き、従来の銀座店をスキヤ橋店と改称した。
- [67]木造3階の上野店を、昭和36年7月に着工し3か月後の10月に鉄筋5階建てのビルとして完成させた。
- [46]義雄氏は家業を継ぐにあたり「店のいっさいを任せてくれるか」と条件をつけ、父は了承した(昭和29年)。問屋のなかには「男物の方が安全ですよ」と忠告する者もあった。
- [48]義雄氏は家業を継ぐにあたり「店のいっさいを任せてくれるか」と条件をつけ、父は了承した(昭和29年)。問屋のなかには「男物の方が安全ですよ」と忠告する者もあった。
- [68]昭和36年に上野店を木造から鉄筋五階建てに改めた。
出典・参考
5件
- 鈴屋65年史(鈴屋, 1975年)
- 日経ビジネス 1973年4月2日号
- ドレスショップ 1964年「おしゃれの店のパイオニア「鈴屋」繁栄の秘密」
- 商魂の記録 アイデアと根性の20人(1967年)「鈴屋」
- 実業往来 1978年