1611年〜 武士をやめた家の呉服商から、江戸で買い取った屋号まで(1611〜1910)
- 1611年伊藤祐道が名古屋本町に呉服小間物商を開業
- 1745年京都に仕入店を設置
- 1768年江戸・上野の松坂屋を買収して関東支店とし、松坂屋いとう呉服店と称する
- 1910年株式会社いとう呉服店を設立し、名古屋・栄町に陳列方式の百貨店を開業
松坂屋の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
武士をやめた家が、呉服商として名古屋に残った
伊藤家の始祖祐広は織田信長に仕えた小姓だった。その子祐道は本能寺の変に遭って志を捨てて退き、慶長16年(1611年)、名古屋本町で呉服小間物の小売商を開いた。ただし創業については資料が食い違う。会社が1955年に外部へ示した沿革はこの慶長16年・名古屋本町とするのに対し、16代当主の伊藤次郎左衛門祐茲は自伝で、祐広と祐道はともに大坂の陣で戦死し、それに懲りて武士を嫌った家が万治2年に茶屋町で店を開いたと述べている。48年の開きがあり、祐道が戦死したかどうかまで違う。有価証券報告書の【沿革】は一貫して慶長16年創業を採ってきたので、本稿もこれに従う。戦国の世に武士をやめた家が名古屋に居着いたところから、この店の歴史は始まる。 [1][2][3]
- 会社銀行八十年史(1955年)
- [1]慶長16年(1611年)に伊藤祐道が名古屋本町で呉服小間物の小売商を開業した
- 私の履歴書 経済人3「伊藤次郎左衛門」(日本経済新聞1958年連載)
- [2]16代伊藤次郎左衛門祐茲は自伝で、祐広と祐道はともに大坂の陣で戦死し、万治2年に茶屋町で開業したと述べている
- 有価証券報告書(第161期・2006年)
- [3]有価証券報告書の沿革は慶長16年(1611年)創業と記載している
二代祐基の代に店を名古屋茶屋町へ移し、呉服小間物問屋を兼ねた。元禄年間に店の基礎が固まり、享保年間には問屋業をやめて呉服太物の小売商へ戻している。卸の利幅より店頭の商いを選んだ判断で、以後この家は最後まで小売から離れなかった。延享2年(1745年)には京都に仕入店を置き、産地から直接引く体制をつくっている。江戸期の伊藤家は呉服商にとどまらなかった。尾張藩の呉服御用を命じられ、金銭入帳役を務め、明治維新の直後には府県為替方を担当している。商人としての信用が藩と新政府の双方から使われた形で、名古屋における伊藤家の位置は、店の規模よりも公の仕事を任される度合いに表れていた。 [4][5][6]
- 会社銀行八十年史(1955年)
- [4]享保年間に問屋業を廃して呉服太物の小売商に転換した
- [5]延享2年(1745年)に京都へ仕入店を設置した
- [6]藩の呉服御用・金銭入帳役を務め、明治維新直後には府県為替方を担当した
- 会社銀行八十年史(1955年)
- [1]慶長16年(1611年)に伊藤祐道が名古屋本町で呉服小間物の小売商を開業した
- [4]享保年間に問屋業を廃して呉服太物の小売商に転換した
- [5]延享2年(1745年)に京都へ仕入店を設置した
- [6]藩の呉服御用・金銭入帳役を務め、明治維新直後には府県為替方を担当した
- 私の履歴書 経済人3「伊藤次郎左衛門」(日本経済新聞1958年連載)
- [2]16代伊藤次郎左衛門祐茲は自伝で、祐広と祐道はともに大坂の陣で戦死し、万治2年に茶屋町で開業したと述べている
- 有価証券報告書(第161期・2006年)
- [3]有価証券報告書の沿革は慶長16年(1611年)創業と記載している
買い取った屋号が、そのまま社名になるまで
明和5年(1768年)、伊藤家は江戸・上野の松坂屋を買収して関東支店とし、これを松坂屋いとう呉服店と称した。「松坂屋」は伊藤家がみずから掲げた屋号ではなく、江戸へ出るために買い取った他人の店の名である。名古屋の家が江戸で使ったその看板は、157年後の1925年に会社そのものの商号となり、統合後の2007年まで生き延びた。名古屋では戦前まで「いとうさん」と呼ぶ客が多かったといい、社名と通称は長く並走している。買い取った屋号のほうが本家の名より長持ちしたことになる。江戸の店は寛永寺の僧侶の衣や前田家の御用を務め、藩と寺社に支えられた商いを続けた。名古屋の本店とは客層も品目も異なる二本立てで、この構造は昭和に入っても変わらなかった。 [7][8][9]
- 会社銀行八十年史(1955年)
- [7]明和5年(1768年)に江戸・上野の松坂屋を買収して関東支店とし、松坂屋いとう呉服店と称した
- 有価証券報告書(第161期・2006年)
- [8]1925年(大正14年)2月に商号を株式会社松坂屋へ変更した
- 私の履歴書 経済人3「伊藤次郎左衛門」(日本経済新聞1958年連載)
- [9]名古屋では戦前まで店を「いとうさん」と呼ぶ人が多かった
家の統治には別家という仕組みがあった。伊藤家には恒産を持つ別家が10軒あり、これが最高首脳として店を支えた。別家の長男は伊藤家では使わず外へ出し、別家の長女には伊藤家の番頭のうち秀才を養子に迎える。その養子に娘ができれば、また番頭を養子に取る。血縁ではなく商才で首脳部を再生産する装置で、16代当主は「伊藤家の長く続いたのもこの別家制度に負うところが大いにある」と述べている。制度は明治維新後の長子相続制の施行とともに崩れはじめ、百貨店の開業とともに消えた。300年続いた店が近代企業へ移るとき、最初に失われたのは統治の仕組みだった。 [10][11]
- 私の履歴書 経済人3「伊藤次郎左衛門」(日本経済新聞1958年連載)
- [10]伊藤家には恒産を持つ別家10軒があり、番頭の秀才を別家の長女に養子として迎える仕組みで首脳部を継承した
- [11]別家制度は明治維新後の長子相続制度の施行とともに崩れ、百貨店開業までに消滅した
- 会社銀行八十年史(1955年)
- [7]明和5年(1768年)に江戸・上野の松坂屋を買収して関東支店とし、松坂屋いとう呉服店と称した
- 有価証券報告書(第161期・2006年)
- [8]1925年(大正14年)2月に商号を株式会社松坂屋へ変更した
- 私の履歴書 経済人3「伊藤次郎左衛門」(日本経済新聞1958年連載)
- [9]名古屋では戦前まで店を「いとうさん」と呼ぶ人が多かった
- [10]伊藤家には恒産を持つ別家10軒があり、番頭の秀才を別家の長女に養子として迎える仕組みで首脳部を継承した
- [11]別家制度は明治維新後の長子相続制度の施行とともに崩れ、百貨店開業までに消滅した