注文を受けてから品を出す商いを、店頭に並べた品で客の欲しさを誘う商いへ切り替えるのは、売り方だけでなく商人の倫理にかかわる問題だった。祐昌氏の見方もそこにあり、客の買う気をあおって売る商いは道に外れると考えていた。当時の呉服商に広く通じる考え方である。祐民氏は議論で打ち負かす方針を取らず、まず上野で試して成功させた。名古屋でも、市が持ちかけてきた栄町の土地を受けて店を建てた。反対を説得ではなく既成事実で越えたところに、この判断の実務的な性格がうかがえる。
ただ、この改組で会社が近代的な株式会社になったわけではない。全株式は伊藤家が保有し、個人商店の色彩は依然として濃く残った。開店時の売場も木造三階建の畳敷きで、陳列方式といっても在来の店の延長にある姿であった。所有の面で決着がついたのは、伊藤産業を合併して株式を公開した1947年12月で、改組から37年が経っている。業態の転換が先に走り、資本の形が後から追いついた順序であったとみられる。