松坂屋株式会社いとう呉服店への改組と、座売りを廃した名古屋・栄町での陳列方式の百貨店開業
得意先に品を届ける商いか、店頭に品を並べる商いか——三百年続いた呉服商が株式会社に変わるまで
- 概要
- 1910年(明治43年)2月、伊藤家が慶長16年(1611年)創業のいとう呉服店を改組し、300年にわたる営業の一切を継承して、百貨店業を主目的とする資本金50万円の株式会社いとう呉服店を設立した経営判断。本店を名古屋市栄町に置き、従来の座売りを廃して陳列方式の売場を開いた。
- 背景
- 15代伊藤次郎左衛門にあたる伊藤祐民氏は1909年8月、渡米実業団の一員として約3ヵ月外遊し、そこで初めて外国の百貨店を知った。帰国するとすぐ上野の店の切り替えに着手したが、父の祐昌氏は「購買力を挑発して売るような商業道はだめだ」といって反対した。
- 内容
- 名古屋市が焼失した市役所の建設資金を工面するため市有地の買い取りを打診し、伊藤家は栄町の土地を取得して店を建てた。創立当時は木造三階建で五百坪ほど、売場は畳敷きであった。米国に女店員がいると聞いた祐民氏は、別家の娘や未亡人を売場に置いた。
- 含意
- 別家十軒が最高首脳を務めた伊藤家独特の統治機構は、明治の長子相続制度で崩れはじめ、百貨店化とともに消えた。一方で全株式は伊藤家が保有し続けたため個人商店の色彩は濃く残り、株式が公開されたのは1947年12月であった。
反対を説得ではなく既成事実で越えた手順
購買力を挑発して売るような商業道はだめだ、という祐昌氏の言葉は、当時の呉服商の常識をよく表している。得意先の求めに応じて品を出す商いから、店頭に品を並べて客の欲しさを引き出す商いへ移ることは、売り方の変更にとどまらず、商人の倫理に触れる話であった。祐民氏はその議論に正面から勝とうとせず、上野で試して成功させ、名古屋では市が持ちかけてきた栄町の土地を受けて店を建てた。反対を説得ではなく既成事実で越えたところに、この判断の実務的な性格がうかがえる。
ただ、この改組で会社が近代的な株式会社になったわけではない。全株式は伊藤家が保有し、個人商店の色彩は依然として濃く残った。開店時の売場も木造三階建の畳敷きで、陳列方式といっても在来の店の延長にある姿であった。所有の面で決着がついたのは、伊藤産業を合併して株式を公開した1947年12月で、改組から37年が経っている。業態の転換が先に走り、資本の形が後から追いついた順序であったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
三百年の呉服商と、座売りの売場
伊藤家の商いは、慶長16年に名古屋本町で開いた呉服小間物の小売商・伊藤屋に始まる。二代祐基氏の代に店を茶屋町へ移して問屋を兼ねたが、享保年間には問屋業を廃して呉服太物の小売へ戻した。延享2年には京都に仕入店を置き、明和5年には江戸・上野の松坂屋を買収して関東支店とした。以後は藩の呉服御用や金銭入帳役を命ぜられ、明治維新の直後には府県為替方を担うまでになっていた[1]。
その売場は、明治に入っても座売りであった。客が注文すると前掛け姿の小僧が品名を歌のように節をつけて読み上げながら倉番まで取りに行き、倉番がそろえた品を小僧の手で客に渡す。16代伊藤次郎左衛門祐茲氏が子供のころに見ていた店は、そういう仕組みで動いていた。得意先も限られており、上野の店であれば寛永寺の僧侶の衣や前田家などの御用を務める呉服店として営まれていた[2]。
渡米実業団の見聞と、父の反対
転機は外遊であった。伊藤祐民氏は1909年(明治42年)8月、渡米実業団の一員として約3ヵ月米国を回り、そのとき初めて外国の百貨店を知った。帰国するとすぐ、上野の店をそれにならって切り替えようとした。決まった得意先の求めに応じて品を出す商いから、店頭に多くの品を並べて客に選ばせる商いへ移す構想であり、扱う品目も呉服の外へ広がる話であった[3]。
反対したのは父の祐昌氏であった。維新を経てきた祐昌氏は尊皇攘夷の思想に凝り固まり、百貨店を建てるという話に対して、購買力を挑発して売るような商業道はだめだといって退けた。両者は次郎左衛門の名を継ぐかどうかでも長く折り合わず、祐民氏が襲名したのはかなり晩年で、名乗った期間は五、六年にすぎなかったと祐茲氏は記している[4]。
決断
上野での試行と、栄町の市有地
祐民氏は父を正面から説き伏せる道を採らなかった。上野の店で百貨店の売り方をひそかに試し、それが成功したうえで名古屋へ持ち込んだ。名古屋側の発端は土地であった。市役所が火災で焼け、その建設資金を工面するため、名古屋市が市有地である栄町の土地を買ってくれないかと伊藤家に持ちかけてきた。伊藤家はその土地を買い取り、そこで百貨店を始めることにした[5]。
1910年(明治43年)2月、伊藤家は慶長16年創業のいとう呉服店を改組し、300年にわたる営業の一切を継承して、百貨店業を主目的とする資本金50万円の株式会社いとう呉服店を設立した。設立日は同月3日である。本店を名古屋市栄町に置き、支店を東京上野と京都に設けた。八十年史はこのほか岡崎と岐阜にも支店を置いたと記しており、その両店は開業の翌年から順に廃止されている[6][7]。
座売りを廃し、陳列方式を採る
本店には三階建の新社屋を建て、従来の座売りを廃して陳列方式を採用した。屋根に頂いた三個のドームは、その後長く名古屋名所の一つに数えられた。もっとも創立当時の建物は木造三階建で五百坪ほどにすぎず、開店当初の売場は畳敷きであった。百貨店という言葉自体が通じず、いなかから来た客が「デパートというハトはどこにいますか」と尋ねた笑話も残っている[8][9]。
売場に立つ人も変えた。当時の日本の店に女店員はいなかったが、祐民氏は米国には女店員がいるからといって、別家の娘や未亡人を狩り出して売場に置いた。祐茲氏はこれをわが国における女店員のはしりと書いている。座売りでは番頭が畳の上で客と向き合ったのに対し、品を並べて選ばせる売場では応対に立つ人手の数も性質も変わる。米国で見た店の姿を、人の配置まで含めて写したものだとみられる[10]。
結果
別家制度の消滅と、所有に残った個人商店の色彩
百貨店への改組は、伊藤家の統治機構も終わらせた。伊藤家には別家が十軒あり、それぞれ恒産を持って伊藤家の最高首脳者の地位にあった。別家の長男は伊藤家では使わずに外へ出し、別家の長女には伊藤家の番頭のうちの秀才を養子に迎える。血ではなく家の継続を優先する仕組みである。この制度は明治維新以後の長子相続制度の施行とともに崩れはじめ、百貨店ができるまで続いて、やがて消えた[11]。
一方で、会社の形は変わっても所有は動かなかった。全株式は伊藤家が保有したままで、個人商店の色彩は依然として濃かった。名古屋の店が1925年2月に商号を松坂屋へ統一しても、株主の顔ぶれは同じである。株式が公開されたのは1947年12月で、同年7月に伊藤家の事業として株式を保有していた伊藤産業を吸収合併したうえでの公開であった。これで長年にわたる個人会社的存在に終止符が打たれた[12][13]。
- 会社銀行八十年史(1955年)
- 私の履歴書 経済人3(伊藤次郎左衛門)
- 松坂屋 有価証券報告書(第161期)【沿革】