三越 の歴史

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創業 1673年
創業者 三井高利
創業地 江戸日本橋
創業
1673年、三井高利氏が江戸本町一丁目に呉服商『越後屋』を創業した。1683年に駿河町へ移ると、客を見て値を変えない定価販売と、盆暮れ払いをやめた店頭現金取引を『現銀掛値なし』として打ち出し、多い日で一日1000両を商う江戸一番の店となる。1871年、為換座三井組が新貨幣の兌換業務で単独指名を受ける条件として呉服業の廃止を求められ、番頭の三野村利左衛門氏は三井家のうち三家を三越家と改姓し、呉服業をそちらへ移した。『三越』の名はここで生まれ、呉服店は1872年3月に三井家から分離した。銀行と呉服の二輪で回っていた商いは、片方を切り離すことで残った。
決断
改革を終えてから宣言し、宣言のあとは店の数で伸びた。1895年11月に本店の階上を陳列場へ改築し、1900年10月には全階を陳列場として座売りを全廃した。そのうえで1904年12月に資本金50万円の株式会社となり、デパートメントストア宣言を発した。1928年6月に商号を三越へ改め、そこから1933年までの6年で神戸・銀座・新宿・高松・札幌・仙台の6店を置いている。戦後も1957年に池袋店、1968年に枚方店、1971年にパリ三越と広げた。ところが1988年には売場の中身ではなく店の外へ向かい、土地取得だけで580億円のゴルフ場開発へ進んだ。伸ばす手段を店の数から店の外へ移した時点で、百貨店としての改革は止まった。
現況
最後の10年は、店を開設するのではなく閉鎖することで数字を作った。2004年10月に新設合併で連結欠損金を一掃し、横浜・大阪・枚方・倉敷の4店を同時に閉じている。連結売上高は2005年2月期の8,878億円から2008年2月期の7,740億円へ3期で1,138億円減り、営業利益も152億円から85億円へ減少した。最終期の百貨店業は売上7,379億円に対し営業利益59億円で、売上の95%を占めながら利益率は0.8%にとどまる。不動産管理業は売上224億円で利益15億円と、売上が33分の1でも利益は4分の1を出していた。三越は58年余の上場を2008年4月に終え、2011年4月に伊勢丹と合併した。
競合
三越が失ったのは百貨店の順位ではなく、小売業そのものの順位だった。1954年の年間売上高248億円は全国百貨店の13%、商品券では29%を占め、店舗面積のシェア11%を上回っていた。1966年度の売上935億円・利益28億円は1951年比で5.5倍と10倍にあたる。ところが1972年、創業15年のダイエーが定価販売に価格破壊で挑んで売上高3,052億円へ達し、2,924億円の三越を抜いて小売業の首位が百貨店から離れた。百貨店が小売販売額に占める比率も1974年の11.0%から1985年に7.6%へ下がる。同じ縮小に対し、伊勢丹が1933年に新宿の一店へ資源を集めたのに対して、三越は支店網を抱えたまま2008年の統合を迎えた。
三越:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1979年2月期2008年2月期

創業ストーリー 越後屋の現銀掛値なしと、三井から切り離された呉服店 (1673年〜)

越後屋の現銀掛値なしと、三井から切り離された呉服店

越後屋の創業と、現銀掛値なしが生んだ江戸一番の店

三越の起源は、延宝元年(1673年)に三井高利氏が江戸へ開いた呉服商『越後屋』[1]にさかのぼる。開店の地に選んだ本町一丁目は、多くの呉服店が軒を並べる江戸随一の商店街[2]だった。高利氏が借りたのは間口一間半の小さな借家[3]である。屋号の越後屋は、三井家の祖先が近江源氏の嫡流六角佐々木家に仕えた武士[4]だったことに由来する。六角佐々木家が織田信長に滅ぼされると三井越後守高安は伊勢へ移り、その子の高俊が刀を捨てて町人になった[5]。越後屋は三井家の経営にかかり[6]、江戸時代を通じて同じ地で呉服店の商いが続いた[7]。のちに百貨店となる各社はいずれも江戸期の呉服商を前身としており、いとう呉服店は1611年、大丸は1717年、高島屋は1831年の創業[8]にあたる。

店が火災に遭ったのを機に、越後屋は天和三年(1683年)に南隣りの駿河町へ移った[9]。移転にあわせて高利氏は大々的な宣伝を打ち、『現銀掛値なし』と称する新商法[10]を打ち出した。掛値なしとは、客を見て値を上下させず、定価で売る[11]ことをいう。現銀のほうは、当時の慣行だった盆暮れ二回払いの掛売りをやめ、店頭で現金を受け取る[12]売り方を指す。この二つによって越後屋はふりの客を集め[13]、同時に現金収入を得た。高利氏はその後も江戸の大衆の動向を察した新趣向[14]を次々に打ち出し、商いは繁昌した。越後屋は江戸一番の店となり、多い日には一日に1000両の商い[15]があった。当時の江戸では『芝居1000両、魚河岸1000両、越後屋1000両』[引用元][16]と並べて称されている。

駿河町へ移ってのち、越後屋は両替の仕事を始めた[17]。三越と銀行が三井の発祥[18]と呼ばれるのは、高利氏がこの二つを同じ地で兼ねたためである。江戸時代後半の三井は、呉服業である越後屋と両替為替業とを車の両輪[19]として、当時最大の企業へ発展した。三井高利氏は52歳で江戸へ出て、72歳で他界するまでの20年間に7万2000両、時価にして190億円から200億円[20]に達する遺産を残した。家産を一括して管理し運用したのは大元方[21]で、営業規則の制定、決算の監査、経営の指導、主要人事の決定[22]にまで権限が及んだ。家産の半分近くを占めた不動産は『家方』が受け持ち[23]、借地と借家人の選定、地代と店賃の取り立て[24]にあたった。二代目の三井高平氏は『宗竺遺書』の名で家法を遺し、『功ある者よく取立て立身申付け』[25]るべきことを説いている。

  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [1]延宝元年(1673年) 三井高利氏が呉服商「越後屋」を創業
    • [2]開店地の本町一丁目は多くの呉服店が軒を並べる江戸随一の商店街
    • [3]開店時の店舗は間口一間半の借家
    • [4]屋号「越後屋」の由来 三井家の祖先は近江源氏嫡流六角佐々木家に仕えた武士
    • [5]六角佐々木家の滅亡後、三井越後守高安が伊勢へ移り、子の高俊が町人となった
    • [9]天和3年(1683年) 火災を機に南隣りの駿河町へ移転
    • [10]駿河町移転を機に大々的に宣伝し「現銀掛値なし」の新商法を打ち出した
    • [12]当時の慣行は盆暮れの二回払い。越後屋はこれをやめ店頭で現金を受け取った
    • [13]「現銀掛値なし」でふりの客を集め現金収入を得た
    • [14]三井高利氏は江戸の大衆の動向を察した新趣向を次々に打ち出した
    • [15]越後屋は江戸一番の店となり多い日は一日1000両の商い
    • [16]「芝居一〇〇〇両、魚河岸一〇〇〇両、越後屋一〇〇〇両」
    • [17]駿河町移転後に両替業を開始
    • [18]三越と銀行が三井の発祥といわれる由来
    • [20]三井高利氏は52歳で江戸へ出て72歳で他界するまでの20年間に遺産7万2000両(時価190〜200億円)を残した
    • [6]越後屋は三井家の経営にかかった
    • [11]越後屋の商法は店頭現金売と定価販売
    • [7]江戸時代を通じて同地で呉服店の経営を継続
    • [8]呉服店起源の系譜 いとう呉服店1611年・越後屋1673年・大丸1717年・高島屋1831年
    • [19]江戸時代後半の三井は呉服業と両替為替業を車の両輪として最大の企業に発展
    • [21]三井家の家産を一括管理・運用したのは大元方
    • [22]大元方の権限は営業規則の制定・決算の監査・経営の指導・主要人事の決定に及んだ
    • [23]家産の半分近くを占めた不動産を担当したのが「家方」
    • [24]家方の職掌は借地・借家人の選定、地代・店賃の取り立て
    • [25]二代目の三井高平氏が「宗竺遺書」の名で遺した家法の一節「功ある者よく取立て立身申付け」

三野村利左衛門氏の決断と「三越」の名の始まり

江戸時代末期の三井は、表向きの華やかさとは裏腹に台所が火の車[26]だった。不良資産が増え、幕府や大名への御用金など貸付金が固定化し、流動資金は極端に涸渇[27]していた。この危機を救ったのが、番頭の三野村利左衛門氏[28]である。三野村氏はもともと駿河台の旗本小栗家の雇仲間として働く一介の両替商[29]にすぎなかったが、小栗上野介を中心とする幕府の御用金減免工作に功があり[30]、三井の番頭として迎えられた。登用の後も幕府との接触を保ち、幕府公金の導入によって三井の営業分野を広げている[31]。幕末の革命期には豪商がことごとく没落したが、そのなかで鴻池と三井は生き残った[32]

    • [26]江戸末期の三井は表面の華やかさに反して台所が火の車だった
    • [27]不良資産の増大と幕府・大名の御用金による貸付金固定化で流動資金が涸渇
    • [28]経営危機を救った番頭 三野村利左衛門氏
    • [29]三野村は駿河台の旗本小栗家の雇仲間で一介の両替商。御用金減免工作の功で三井にスカウトされた
    • [30]小栗上野介を中心とする幕府の御用金減免工作に功があった
    • [31]登用後も幕府と接触し、幕府公金の導入で三井の営業分野を開拓した
    • [32]幕末の革命期に豪商が没落するなか鴻池と三井が生き残った

三井大元方は京都で当主を中心に勤皇派との関係を深め[33]、東西呼応して推移を見守っていた。慶応四年、三井は勤皇派を支持する旗幟を鮮明にした[34]。小野組・島田組とともに明治新政府の必要資金である会計基立金320万両の徴募に応じ[35]、新政府の財政を担うに至る。混乱の極にあった幣制の整理と銀行制度の確立[36]にも役割を負い、これらを推し進めたのも三野村氏だった。1871年6月には、為換座三井組が新貨幣の兌換業務の単独指名[37]を受けている。同じ1871年、三井は海運橋に三井組ハウスを建てた[38]。当時の日本で最も高い建築物にあたり、駿河町の為替バンク三井組[39]の建物がこれに続いた。

    • [33]三井大元方は京都で当主を中心に勤皇派と関係を深め、東西呼応して推移を見守った
    • [34]慶応4年 三井が勤皇派支持の旗幟を鮮明にした
    • [35]小野組・島田組とともに会計基立金320万両の徴募に応じ、新政府の財政を担当
    • [36]幣制の整理と銀行制度の確立を推進したのも三野村
    • [37]明治4年6月 為換座三井組が新貨幣の兌換業務の単独指名を受けた
    • [38]明治4年 海運橋三井組ハウスを建設
    • [39]海運橋三井組ハウスは日本一の高層建築。次いで駿河町の為替バンク三井組を建設

単独指名には難問がついていた[40]。呉服業を廃止して銀行業に専念せよ[41]、という条件である。創業以来の本業である呉服業を切り捨てることはできず、三井の内部では議論が分かれたが、三野村氏は決断してこの条件を受け入れた[42]。用意した苦肉の策は、三井家のうち三家を三越家と改姓し、呉服業をその経営へ移す[43]ことだった。これが今日の『三越』の始まり[44]であり、三井と越後屋の双方に由来を持つ名[45]が、ここで生まれている。改姓した三家が呉服業を引き受け、三井家の本体は銀行業に専念した[46]。呉服店は1872年3月に三井家から分離[47]した。

    • [26]江戸末期の三井は表面の華やかさに反して台所が火の車だった
    • [27]不良資産の増大と幕府・大名の御用金による貸付金固定化で流動資金が涸渇
    • [28]経営危機を救った番頭 三野村利左衛門氏
    • [29]三野村は駿河台の旗本小栗家の雇仲間で一介の両替商。御用金減免工作の功で三井にスカウトされた
    • [30]小栗上野介を中心とする幕府の御用金減免工作に功があった
    • [31]登用後も幕府と接触し、幕府公金の導入で三井の営業分野を開拓した
    • [32]幕末の革命期に豪商が没落するなか鴻池と三井が生き残った
    • [33]三井大元方は京都で当主を中心に勤皇派と関係を深め、東西呼応して推移を見守った
    • [34]慶応4年 三井が勤皇派支持の旗幟を鮮明にした
    • [35]小野組・島田組とともに会計基立金320万両の徴募に応じ、新政府の財政を担当
    • [36]幣制の整理と銀行制度の確立を推進したのも三野村
    • [37]明治4年6月 為換座三井組が新貨幣の兌換業務の単独指名を受けた
    • [38]明治4年 海運橋三井組ハウスを建設
    • [39]海運橋三井組ハウスは日本一の高層建築。次いで駿河町の為替バンク三井組を建設
    • [40]兌換業務の単独指名には条件が付いていた
    • [41]条件は「呉服業を廃止して、銀行業に専念せよ」
    • [42]本業切り捨てに三井内の議論は分かれたが三野村利左衛門氏が決断して条件を受け入れた
    • [43]三野村利左衛門氏の苦肉の策 三井家のうち三家を三越家と改姓し呉服業をその経営へ移した
    • [44]これが今日の「三越」の始まり
    • [46]改姓した三家が呉服業を担い、三井本体は銀行業に専念した
    • [45]「三越」の名は越後屋とその後身である三井呉服店との関連でできた
    • [47]明治5年3月 呉服店が三井家より分離

三井呉服店から三越呉服店へ、座売り全廃とデパートメントストア宣言

合名会社への改組と、わが国最初の呉服陳列販売

1872年に三井家から離れた呉服店の所属はその後も定まらず、明治26年には商法の施行にあわせて三井が銀行・物産・鉱山および三井呉服店を合名会社へ改組[48][49]した。同じ年の10月には三井家同族会と三井元方が設けられている[50]。ところが明治28年8月、呉服店は以前の形態で三井本家へ復帰した[51]。30年足らずのあいだに、組織の形は分離・改組・復帰と三度変わっている[52]。合名会社の期間に三越は洋式の近代商法を取り入れ、最初の試みとして婦人店員を採用した[53]。商品の輸送に貨物自動車を採った[54]のも、三井呉服店が国内で早い例にあたる。

売り方の改造は明治28年11月に始まり、本店の階上を陳列場へ改築して、わが国最初の呉服陳列販売[55]を採り入れた。翌29年9月には三越呉服店へ改称している[56]。明治32年6月には新橋駅頭に等身大のポスターを掲げ、街頭広告の先鞭[57]をつけた。そして明治33年10月、本店の全階を陳列場として従来の座売りを全廃した[58]。座売りでは店員が客の前に反物を出したが、陳列販売では客が売場を歩いて自分で商品を選ぶ[59]。陳列販売の採用から座売りの全廃までは5年[60]を要している。三越呉服店へ改称した後の10年間には、営業の一切にわたる改革が行われた[61]

    • [55]明治28年11月 本店階上を陳列場に改築し、わが国最初の呉服陳列販売を採用
    • [56]明治29年9月 三越呉服店へ改称
    • [57]明治32年6月 新橋駅頭に等身大ポスターを掲示し街頭広告の先鞭をつけた
    • [58]明治33年10月 本店全階を陳列場とし座売りを全廃
    • [59]座売りから商品陳列式売場への転換
    • [60]明治28年11月の陳列販売採用から明治33年10月の座売り全廃まで5年
    • [61]三越呉服店への改称後10年間に営業の一切にわたる改革を実施

株式会社三越呉服店の設立とデパートメントストア宣言

明治37年(1904年)12月10日、資本金50万円で株式会社三越呉服店が設立された[62]。越後屋以来の事業と、東京市日本橋の本店、京都および桐生の仕入れ店の一切を引き継いでいる[63]。設立と同じ月に、三越は『デパートメントストア宣言』を発した[64]。ただし呉服店の名を掲げたままの株式会社化であり、商号から呉服店が外れるのは昭和3年6月[65]である。宣言の時点で扱う商品はなお呉服が中心で、食料品と園芸の売場が入るのは大正3年9月の新館竣工[66]にあわせてであった。設立時の資本金50万円は、その後の6年で200万円まで積み増されている[67]

株式会社となった三越は新しい組織のもとで、日露戦争後の経済的発展と、いっそう活発になった生活風俗の欧米化[68]に歩調を合わせる方針を採った。呉服以外の販売商品を増やし、明治40年頃からは靴や鞄、履物、洋傘、櫛を売り、食堂と写真撮影部も設けている[69]。同じ明治40年の5月には大阪店を開いた[70]。翌41年には洋風三階建の新建築が完成し、百貨店としての形態を整えている[71]。同年6月に資本金を100万円へ増資し、京城および大連へ出張所を設け[72]、これらはのちに支店となった。明治43年3月には資本金を200万円へ増やし、44年7月に五階建・延4,000坪の建築へ着手する[73]。大正3年9月、ルネッサンス式五階建の本店新館が竣工した[74]。当時の新聞はこれを『スエズ運河以東の大建築』[75]と書きたてている。竣工を機に食料品と園芸の売場を新設し、百貨店としての部門を完備した[76]

    • [68]日露戦争後の経済的発展と生活風俗の欧米化に歩調を合わせる方針
    • [71]明治41年 洋風三階建の新建築が完成し百貨店としての形態を整えた
    • [72]明治41年6月 資本金100万円へ増資し京城・大連に出張所を開設(のち支店)
    • [73]明治43年3月 資本金200万円へ増資、明治44年7月 五階建延4,000坪の建築に着手
    • [76]新館竣工を機に食料品・園芸売場を新設し百貨店としての部門を完備
    • [69]明治40年頃から靴・鞄・履物・洋傘・櫛へ商品を拡張し、食堂と写真撮影部を開設
    • [74]大正3年9月 ルネッサンス式五階建の本店新館が竣工
    • [75]当時の新聞が「スエズ運河以東の大建築」と報じた
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [70]明治40年5月 大阪店開店
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [62]明治37年12月10日 資本金50万円で株式会社三越呉服店を設立
    • [64]設立と同月に「デパートメントストア宣言」を発した
    • [65]昭和3年6月 商号を株式会社三越へ変更
    • [70]明治40年5月 大阪店開店
    • [63]東京市日本橋の本店、京都および桐生の仕入れ店など一切を引き継いだ
    • [69]明治40年頃から靴・鞄・履物・洋傘・櫛へ商品を拡張し、食堂と写真撮影部を開設
    • [74]大正3年9月 ルネッサンス式五階建の本店新館が竣工
    • [75]当時の新聞が「スエズ運河以東の大建築」と報じた
    • [66]大正3年9月の新館竣工にあわせ食料品・園芸売場を新設
    • [67]明治41年6月に100万円、明治43年3月に200万円へ増資
    • [68]日露戦争後の経済的発展と生活風俗の欧米化に歩調を合わせる方針
    • [71]明治41年 洋風三階建の新建築が完成し百貨店としての形態を整えた
    • [72]明治41年6月 資本金100万円へ増資し京城・大連に出張所を開設(のち支店)
    • [73]明治43年3月 資本金200万円へ増資、明治44年7月 五階建延4,000坪の建築に着手
    • [76]新館竣工を機に食料品・園芸売場を新設し百貨店としての部門を完備

三越マーケットの開設と、関東大震災による本店全焼

欧州大戦の終結を契機とした好景気を反映し、三越の業績は著しい進展[77]を遂げた。事業の規模も年を追って広がり、大正9年1月には資本金が1,200万円となっている[78]。同じ時期に常設の実用品売場『三越マーケット』を開き[79]、大衆との結びつきを図った。『今日は帝劇、明日は三越』[引用元]という標語が人口に膾炙した[80]のも、このころにあたる。エレベーターと暖房換気の設備に加え、日本で最初のエスカレーターが通じ、全館の天井にスプリンクラーが据え付けられた本店は、一躍『日本の新名所』[81]と呼ばれた。呉服から日用の実用品まで扱う売場を常設した[82]ことで、三越の客層は上得意の外へ広がっている。

大正12年9月の関東大震災で、三越は本店と丸ノ内別館を焼失[83]した。災害の損失は737万5,000円に上り、資本金を700万円へ減らす[84]ほかなかった。応急策として本店の隣接地ほか各所にバラック造りのマーケットを開き[85]、物資不足と交通の不便に悩む市民の生活に応じている[86]。このマーケットが、のちに新宿店と銀座店を開く機縁[87]となった。震災はもう一つの変化をもたらし、従来の下足預り制度を廃したことで三越の売場は一段と大衆に開かれた[88]。震災後の都市計画とあわせて近接郊外地域への交通機関が発達し、三越には復興を超える発展の機会[89]が開けている。

    • [77]欧州大戦終結を契機とした好景気を反映して業績が著しく進展
    • [78]大正9年1月 資本金1,200万円
    • [79]常設の実用品売場「三越マーケット」を開設し大衆との結びつきを図った
    • [80]「今日は帝劇、明日は三越」の標語が人口に膾炙した
    • [82]実用品売場の常設により客層が広がった
    • [84]震災の災害損失737万5,000円、700万円へ減資
    • [86]応急マーケットが物資不足と交通不便に悩む市民生活の安定に寄与
    • [87]震災の応急マーケットが新宿・銀座両支店開設の機縁となった
    • [88]震災を機に下足預り制度を廃止し一段と大衆化された
    • [89]震災後の都市計画と近接郊外地域への交通機関の発達により復興以上の発展の機会に恵まれた
    • [81]本店はエレベーター・暖房換気設備、日本初のエスカレーター、全館スプリンクラーを備え「日本の新名所」となった
    • [85]本店隣接地ほか各所にバラック造りのマーケットを開設して復旧に努めた
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [83]大正12年9月 関東大震災により本店全焼

支店網の全国化と戦時の受難、東洋一の規模と首位の陥落

商号変更と、六年で六店を置いた支店網

震災の翌年にあたる大正13年10月、三越は資本金を1,500万円へ増やした[90]。資本金は震災直後に700万円まで減っており[91]、増資はその2倍を超える水準にあたる。あわせて東京市内の各マーケットを分店とし、のちの新宿店と銀座店の開設[92]につなげている。復旧の過程で開いた仮設の売場が、そのまま常設の分店へ変わった[93]。昭和2年4月には本店全館の修築が完成し、三越ホールが開場した[94]。同じ年の7月には、食品の製造卸売を手がける二幸商会を設けている[95]。大正12年9月に本店を失ってから、修築の完成までに3年7か月[96]を要している。

昭和3年6月、三越は商号を株式会社三越へ変更し、同じ月に神戸店を開いた[97]。呉服店の名を外したのは、デパートメントストア宣言から24年後[98]にあたる。昭和5年4月に銀座店、同年10月に新宿店を開き、6年3月に高松店、7年5月に札幌店、8年4月に仙台店[99]と続けている。昭和3年から8年にかけての6年間で、三越は6つの支店を置き、信用を全国へ広げた[100]。銀座店と新宿店については、震災の応急マーケットが開設の機縁になっている[101]。昭和6年4月には資本金を3,000万円へ増やし、株式を東株の長期清算市場へ上場した[102]。昭和7年には地下鉄の三越前駅が開設されて地下売場と直結[103]し、昭和10年10月に本店の大増築改修工事が完成している[104]

  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [97]昭和3年6月 商号を株式会社三越へ変更、神戸店開店
    • [98]明治37年12月のデパートメントストア宣言から昭和3年6月の商号変更まで24年
    • [99]昭和5年4月銀座店・5年10月新宿店・6年3月高松店・7年5月札幌店・8年4月仙台店を開設
    • [100]昭和3年から8年にかけて新宿・銀座・神戸・高松・仙台・札幌に支店を開設し、支店網の確立により信用を全国に広めた
    • [101]震災の応急マーケットが新宿・銀座両支店開設の機縁
    • [104]昭和10年10月 本店の大増築改修工事が完成
    • [102]昭和6年4月 資本金3,000万円へ増資し東株の長期清算市場へ上場
    • [103]昭和7年 地下鉄「三越前駅」開設で地下売場と直結
    • [90]大正13年10月 資本金1,500万円へ増資
    • [92]東京市内の各マーケットを分店とし、新宿支店・銀座支店の開設につながった
    • [93]震災の応急マーケットが常設の分店に転じた
    • [102]昭和6年4月 資本金3,000万円へ増資し東株の長期清算市場へ上場
    • [103]昭和7年 地下鉄「三越前駅」開設で地下売場と直結
    • [91]震災の損害補填で資本金を700万円へ減額していた
    • [100]昭和3年から8年にかけて新宿・銀座・神戸・高松・仙台・札幌に支店を開設し、支店網の確立により信用を全国に広めた
    • [101]震災の応急マーケットが新宿・銀座両支店開設の機縁
    • [104]昭和10年10月 本店の大増築改修工事が完成
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [94]昭和2年4月 本店修築完成、三越ホール開場
    • [95]昭和2年7月 食品製造卸売の株式会社二幸商会を設立
    • [96]大正12年9月の本店全焼から昭和2年4月の本店修築完成まで3年7か月
    • [97]昭和3年6月 商号を株式会社三越へ変更、神戸店開店
    • [98]明治37年12月のデパートメントストア宣言から昭和3年6月の商号変更まで24年
    • [99]昭和5年4月銀座店・5年10月新宿店・6年3月高松店・7年5月札幌店・8年4月仙台店を開設

百貨店法と戦時統制、売場八割の供出

昭和12年の百貨店法施行、日華事変の勃発、太平洋戦争への移行が続き、三越は統制の強化と売場の供出[105]を受けた。供出は売場面積の8割[106]に達している。百貨店法により店舗の拡張や新設にも制限がかかり[107]、店を増やして伸びてきた三越の手法はそこで止まった。昭和13年頃からは物資の統制で販売が窮屈になり、電力制限でエスカレーターが運休し、鉄鋼品供出令[108]によってその姿を消した。代用品の開発普及、慰問品や防空用品の売場開設[109]など、時勢の要求に応じる商いへ変わっている。三越はここで、創業以来の最悪期を迎えた[110]

銀座・高松・仙台の各支店は空襲[111]によって焼失した。終戦にともない大阪と札幌の両支店は接収され、京城と大連の在外支店も失われている[112]。戦前に敷いた支店網は、そのまま戦災と接収の対象になった[113]。昭和20年10月、三越は戦災を免れた日本橋本店の復旧を急いだ[114]。翌21年10月には松山店を開き、23年1月に三越縫製工場を設けている[115]。同じ23年10月には、資本金を9,000万円へ増やしている[116]。生活必需品の配給と物価の安定に協力しながら、三越劇場と展覧会場で催物を開き、財団法人三越診療所も設けている[117]

昭和24年5月、三越は東京証券取引所の開設と同時に株式を上場した[118]。昭和26年には本店の全館を再び使えるようになり、店舗施設は戦前を上回る水準[119]へ戻っている。朝鮮動乱を契機に消費景気は回復し、三越は店舗施設の拡充と更新投資を続けながら機構の近代化[120]に努めた。同26年の資本金は15億円、年間売上は169億円強、利益は2億9,200万円[121]だった。昭和26年10月に再評価積立金の一部を組み入れて資本金を15億円とし、29年12月には資本組入により18億6,000万円[122]へ引き上げている。戦後の増資は、いずれも再評価積立金の組み入れによるもの[123]だった。

    • [105]「十二年の百貨店法施行日華事変の勃発、太平洋戦争への移行と戦火が拡大されるに及んで統制の強化、売場の供出(売場面積の八〇%)等受難時代を迎え」
    • [106]売場の供出は売場面積の80%
    • [107]百貨店法により店舗の拡張・新設に制限を受けた
    • [111]銀座・高松・仙台の各支店が空襲により焼失
    • [112]終戦にともない大阪・札幌の両支店が接収され、在外支店を喪失
    • [113]戦前に確立した支店網が戦災・接収の対象となった
    • [116]昭和23年10月 資本金9,000万円へ増資
    • [117]生活必需品の配給・物価安定に協力し、三越劇場と展覧会場で催物、財団法人三越診療所を設置
    • [119]昭和26年 本店全館の使用を回復し、店舗施設が戦前を上回る水準に復活
    • [122]昭和26年10月 再評価積立金の一部組入で15億円、昭和29年12月 資本組入で18億6,000万円
    • [123]戦後の増資は再評価積立金の組み入れによるもの
    • [108]昭和13年頃から物資統制で販売が窮屈になり、電力制限でエスカレーター運休、鉄鋼品供出令で撤去された
    • [109]代用品の開発普及、慰問品・防空用品売場の開設など時勢の要求に即応した
    • [110]戦時期は創業以来の最悪期にあたる
    • [114]昭和20年10月 戦災を免れた日本橋本店の復旧を急いだ
    • [120]朝鮮動乱を契機に消費景気が回復し、店舗施設の拡充・更新投資と機構近代化を継続
    • [121]昭和26年 資本金15億円・年間売上169億円強・利益2億9,200万円
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [115]昭和21年10月 松山店開店、昭和23年1月 三越縫製工場設立
    • [118]昭和24年5月 東京証券取引所の開設と同時に株式を上場

東洋一の規模と、ダイエーに明け渡した首位

昭和29年(1954年)の三越の年間総売上高は248億円で、全国百貨店の13%強[124]を占めた。商品券の売上高は9億3,000万円に達し、こちらは全国の29%強[125]にあたる。本支店の店舗面積は延4万2,800坪で、全国百貨店の11%強[126]である。売上のシェアが面積のシェアを2ポイント上回り[127]、商品券では3割近くを取っていた。同年12月には本店隣接の土地467坪に、延4,600坪の増築工事へ着手[128]している。完成すれば2万坪強の店舗となり、東洋一の百貨店になる計算[129]だった。当時の社長は岩瀬英一郎氏[130]である。

    • [124]昭和29年 年間総売上高248億円(全国百貨店の13%強)
    • [125]昭和29年 商品券売上高9億3,000万円(全国の29%強)
    • [126]本支店の店舗面積は延4万2,800坪(全国百貨店の11%強)
    • [127]売上シェア13%強に対し面積シェアは11%強、商品券は29%強
    • [128]昭和29年12月 本店隣接地467坪に延4,600坪の増築工事へ着工
    • [129]増築完成後は2万坪強の店舗となり東洋一の百貨店となる見込み
    • [130]1955年時点の社長は岩瀬英一郎

昭和36年度の売上高は548億円、利益は13億9,100万円で、10年間で売上は3倍強、利益は5倍[131]に伸びた。昭和41年度にはさらに利益28億円、売上高935億円へ達し、26年比では利益が10倍、売上が5.5倍[132]となっている。増資は昭和29年12月以降に5回を数え、42年7月払込みの半額増資で資本金は100億円を超えた[133]。昭和43年の従業員は1万500名、総売場面積は17万平方メートル[134]である。松田伊三雄氏が社長として積極経営を前面に押し出した[135]時期にあたる。昭和43年2月期は歳末の大型消費景気を捉えて半期売上高が500億円を突破し、純益17億円を計上した[136]

    • [131]昭和36年度 売上548億円・利益13億9,100万円(10年で売上3倍強・利益5倍)
    • [132]昭和41年度 利益28億円・売上高935億円(昭和26年比で利益10倍・売上5.5倍)
    • [133]昭和29年12月以降5回の増資、昭和42年7月払込みの半額増資で資本金100億円を突破
    • [134]従業員1万500名、総売場面積17万平方メートル
    • [135]松田伊三雄社長の陣頭指揮のもと積極経営を前面に押し出した
    • [136]昭和43年2月期 歳末の大型消費景気で半期売上高500億円突破・純益17億円

戦後の店舗網はさらに広がり、昭和32年10月に池袋店、43年7月に枚方店を開き、46年6月には海外第一号店としてパリ三越[137]を開いている。一方でスーパーストアやチェーンストアの追い上げを受けて業界は苦境に立ち、三越は関連企業を通じて都市近郊に衛星店を設ける策[138]を採った。それでも昭和47年、ダイエーが売上高3,052億円で3,000億円を突破し、2,924億円にとどまった三越を抜いて[139]小売業の首位に立った。ダイエーの創業から15年での交代[140]である。三越が小売業の売上首位を明け渡したのは、この年[141]にあたる。

    • [124]昭和29年 年間総売上高248億円(全国百貨店の13%強)
    • [125]昭和29年 商品券売上高9億3,000万円(全国の29%強)
    • [126]本支店の店舗面積は延4万2,800坪(全国百貨店の11%強)
    • [127]売上シェア13%強に対し面積シェアは11%強、商品券は29%強
    • [128]昭和29年12月 本店隣接地467坪に延4,600坪の増築工事へ着工
    • [129]増築完成後は2万坪強の店舗となり東洋一の百貨店となる見込み
    • [130]1955年時点の社長は岩瀬英一郎
    • [131]昭和36年度 売上548億円・利益13億9,100万円(10年で売上3倍強・利益5倍)
    • [132]昭和41年度 利益28億円・売上高935億円(昭和26年比で利益10倍・売上5.5倍)
    • [133]昭和29年12月以降5回の増資、昭和42年7月払込みの半額増資で資本金100億円を突破
    • [134]従業員1万500名、総売場面積17万平方メートル
    • [135]松田伊三雄社長の陣頭指揮のもと積極経営を前面に押し出した
    • [136]昭和43年2月期 歳末の大型消費景気で半期売上高500億円突破・純益17億円
    • [138]スーパー・チェーンストアの追い上げで業界は苦境に立ち、関連企業を通じ都市近郊に衛星店を展開
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [137]昭和32年10月 池袋店、昭和43年7月 枚方店、昭和46年6月 海外第一号店パリ三越を開店
    • [139]昭和47年 ダイエーが売上高3,052億円で2,924億円の三越を抜き小売業首位
    • [140]ダイエーは昭和32年の創業以来わずか15年で首位に立った
    • [141]昭和47年に三越が小売業の売上首位を明け渡した

押しつけ販売への排除勧告と、のれんを残した統合

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三越の沿革1673〜2008年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1673〜1872年越後屋の現銀掛値なしと、三井から切り離された呉服店三井高利が呉服商「越後屋」を開業★★
本店を駿河町に移転
「現銀掛値なし」の商法を開始★★★
呉服業が三井家から分離★★
1873〜1923年三井呉服店から三越呉服店へ、座売り全廃とデパートメントストア宣言合名会社に改組
三井本家に復帰
呉服の陳列販売を開始★★
三越呉服店に商号変更★★
座売りを全廃★★
越後屋以来の事業を継承して三越呉服店を設立★★
座売りの全廃による陳列販売への転換と、デパートメントストア宣言

明治37年(1904年)12月、三越は資本金50万円で株式会社三越呉服店として設立され、越後屋以来の事業を継承したうえで『デパートメントストア宣言』を発した。呉服以外の商品を扱う百貨店へ移る意思を、会社の形を変えた月に対外へ示した経営判断にあたる。

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★★★
靴・鞄・履物・洋傘の販売を開始★★
大阪店を開店
京城と大連に出張所を開設
本店新館が竣工★★
食料品と園芸の売場を新設★★
常設の実用品売場「三越マーケット」を開設★★
下足預り制度を廃止
各所にバラック造りのマーケットを開設
関東大震災により本店と丸ノ内別館が焼失★★
1924〜1972年支店網の全国化と戦時の受難、東洋一の規模と首位の陥落本店全館の修築が完成
三越に商号変更★★
銀座店を開店
新宿店を開店
東京株式取引所の長期清算取引市場に上場
地下鉄三越前駅と地下売場が直結
百貨店法の施行により店舗の拡張・新設が制限★★
銀座店・高松店・仙台店が空襲により焼失★★
大阪店と札幌店が接収★★
日本橋本店の復旧に着手
東京証券取引所に上場
本店隣接地で増築工事に着手
岩瀬英一郎池袋店を開店
松田伊三雄パリ三越を開店★★
岡田茂岡田茂氏が社長に就任★★
岡田茂小売業の売上首位をダイエーに明け渡す★★
1973〜2008年押しつけ販売への排除勧告と、のれんを残した統合岡田茂三井グループの社長会「二木会」に加盟★★
岡田茂公正取引委員会から排除勧告★★
岡田茂オリエンタル中村百貨店が名古屋三越百貨店に商号変更
市原晃岡田茂氏を社長から解任★★★
市原晃不良在庫の処分損により51億円の欠損を計上★★
坂倉芳明坂倉芳明氏が社長に就任★★
坂倉芳明「拡・百貨店」路線の採用と、土地取得だけで580億円を投じたゴルフ場開発

1986年に社長に就いた坂倉芳明氏が『拡・百貨店』と称する多角化を掲げ、1988年にゴルフ場開発へ着手した判断。土地取得だけで580億円を投じ、開発向けの融資は子会社を介して行われた。投資は社外にも社内にも伏せられたまま10年続き、1997年10月3日に446億円の特別損失として表面化した。坂倉氏は会長として取締役を退任している。

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★★★
津田尚二阪神・淡路大震災により大阪店旧館を閉鎖
津田尚二大阪店旧館の跡地に新館を開店
津田尚二福岡三越が開業
津田尚二ゴルフ場開発に伴う446億円の特別損失を計上★★
津田尚二坂倉芳明氏が取締役を退任
井上和雄最終赤字345億円を計上★★
井上和雄希望退職により1150人が退社
井上和雄子会社の累損引当などで364億円の特別損失を計上★★
井上和雄上場以来初の無配に転落★★
井上和雄600名の人員削減を含むリストラを発表★★
井上和雄名古屋三越・千葉三越・鹿児島三越・福岡三越と新設合併★★
井上和雄新宿店を「新宿三越アルコット」に業態転換
石塚邦雄石塚邦雄氏が社長に就任★★
石塚邦雄早期退職の募集800人に1000人が応募★★
石塚邦雄横浜・大阪・枚方・倉敷4店の同時閉鎖と早期退職の実施、新設合併による連結欠損金の一掃

2005年5月5日、三越が横浜店・大阪店・枚方店・倉敷店の4店を同じ日に閉鎖し、あわせて早期退職を実施した経営判断。中村胤夫社長のもとで決め、対外的な発表は2004年秋であった。4店で年40億円の赤字が慢性化しており、店舗閉鎖は1999年の新宿南館以来であった。

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★★★
石塚邦雄伊勢丹との共同持株会社の設立に合意★★
石塚邦雄伊勢丹と三越の経営統合・三越伊勢丹ホールディングス発足(2008年成立)

2007年8月、百貨店4位の三越と5位の伊勢丹が経営統合で合意し、2008年4月に共同持株会社『三越伊勢丹ホールディングス』を設立。売上高約1兆5000億円の業界首位グループが誕生した案件。

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★★★
石塚邦雄株式移転により上場廃止
出典・参考

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