三越の起源は、延宝元年(1673年)に三井高利氏が江戸へ開いた呉服商『越後屋』[1]にさかのぼる。開店の地に選んだ本町一丁目は、多くの呉服店が軒を並べる江戸随一の商店街[2]だった。高利氏が借りたのは間口一間半の小さな借家[3]である。屋号の越後屋は、三井家の祖先が近江源氏の嫡流六角佐々木家に仕えた武士[4]だったことに由来する。六角佐々木家が織田信長に滅ぼされると三井越後守高安は伊勢へ移り、その子の高俊が刀を捨てて町人になった[5]。越後屋は三井家の経営にかかり[6]、江戸時代を通じて同じ地で呉服店の商いが続いた[7]。のちに百貨店となる各社はいずれも江戸期の呉服商を前身としており、いとう呉服店は1611年、大丸は1717年、高島屋は1831年の創業[8]にあたる。
店が火災に遭ったのを機に、越後屋は天和三年(1683年)に南隣りの駿河町へ移った[9]。移転にあわせて高利氏は大々的な宣伝を打ち、『現銀掛値なし』と称する新商法[10]を打ち出した。掛値なしとは、客を見て値を上下させず、定価で売る[11]ことをいう。現銀のほうは、当時の慣行だった盆暮れ二回払いの掛売りをやめ、店頭で現金を受け取る[12]売り方を指す。この二つによって越後屋はふりの客を集め[13]、同時に現金収入を得た。高利氏はその後も江戸の大衆の動向を察した新趣向[14]を次々に打ち出し、商いは繁昌した。越後屋は江戸一番の店となり、多い日には一日に1000両の商い[15]があった。当時の江戸では『芝居1000両、魚河岸1000両、越後屋1000両』[引用元][16]と並べて称されている。
駿河町へ移ってのち、越後屋は両替の仕事を始めた[17]。三越と銀行が三井の発祥[18]と呼ばれるのは、高利氏がこの二つを同じ地で兼ねたためである。江戸時代後半の三井は、呉服業である越後屋と両替為替業とを車の両輪[19]として、当時最大の企業へ発展した。三井高利氏は52歳で江戸へ出て、72歳で他界するまでの20年間に7万2000両、時価にして190億円から200億円[20]に達する遺産を残した。家産を一括して管理し運用したのは大元方[21]で、営業規則の制定、決算の監査、経営の指導、主要人事の決定[22]にまで権限が及んだ。家産の半分近くを占めた不動産は『家方』が受け持ち[23]、借地と借家人の選定、地代と店賃の取り立て[24]にあたった。二代目の三井高平氏は『宗竺遺書』の名で家法を遺し、『功ある者よく取立て立身申付け』[25]るべきことを説いている。
江戸時代末期の三井は、表向きの華やかさとは裏腹に台所が火の車[26]だった。不良資産が増え、幕府や大名への御用金など貸付金が固定化し、流動資金は極端に涸渇[27]していた。この危機を救ったのが、番頭の三野村利左衛門氏[28]である。三野村氏はもともと駿河台の旗本小栗家の雇仲間として働く一介の両替商[29]にすぎなかったが、小栗上野介を中心とする幕府の御用金減免工作に功があり[30]、三井の番頭として迎えられた。登用の後も幕府との接触を保ち、幕府公金の導入によって三井の営業分野を広げている[31]。幕末の革命期には豪商がことごとく没落したが、そのなかで鴻池と三井は生き残った[32]。
三井大元方は京都で当主を中心に勤皇派との関係を深め[33]、東西呼応して推移を見守っていた。慶応四年、三井は勤皇派を支持する旗幟を鮮明にした[34]。小野組・島田組とともに明治新政府の必要資金である会計基立金320万両の徴募に応じ[35]、新政府の財政を担うに至る。混乱の極にあった幣制の整理と銀行制度の確立[36]にも役割を負い、これらを推し進めたのも三野村氏だった。1871年6月には、為換座三井組が新貨幣の兌換業務の単独指名[37]を受けている。同じ1871年、三井は海運橋に三井組ハウスを建てた[38]。当時の日本で最も高い建築物にあたり、駿河町の為替バンク三井組[39]の建物がこれに続いた。
単独指名には難問がついていた[40]。呉服業を廃止して銀行業に専念せよ[41]、という条件である。創業以来の本業である呉服業を切り捨てることはできず、三井の内部では議論が分かれたが、三野村氏は決断してこの条件を受け入れた[42]。用意した苦肉の策は、三井家のうち三家を三越家と改姓し、呉服業をその経営へ移す[43]ことだった。これが今日の『三越』の始まり[44]であり、三井と越後屋の双方に由来を持つ名[45]が、ここで生まれている。改姓した三家が呉服業を引き受け、三井家の本体は銀行業に専念した[46]。呉服店は1872年3月に三井家から分離[47]した。
1872年に三井家から離れた呉服店の所属はその後も定まらず、明治26年には商法の施行にあわせて三井が銀行・物産・鉱山および三井呉服店を合名会社へ改組[48][49]した。同じ年の10月には三井家同族会と三井元方が設けられている[50]。ところが明治28年8月、呉服店は以前の形態で三井本家へ復帰した[51]。30年足らずのあいだに、組織の形は分離・改組・復帰と三度変わっている[52]。合名会社の期間に三越は洋式の近代商法を取り入れ、最初の試みとして婦人店員を採用した[53]。商品の輸送に貨物自動車を採った[54]のも、三井呉服店が国内で早い例にあたる。
売り方の改造は明治28年11月に始まり、本店の階上を陳列場へ改築して、わが国最初の呉服陳列販売[55]を採り入れた。翌29年9月には三越呉服店へ改称している[56]。明治32年6月には新橋駅頭に等身大のポスターを掲げ、街頭広告の先鞭[57]をつけた。そして明治33年10月、本店の全階を陳列場として従来の座売りを全廃した[58]。座売りでは店員が客の前に反物を出したが、陳列販売では客が売場を歩いて自分で商品を選ぶ[59]。陳列販売の採用から座売りの全廃までは5年[60]を要している。三越呉服店へ改称した後の10年間には、営業の一切にわたる改革が行われた[61]。
明治37年(1904年)12月10日、資本金50万円で株式会社三越呉服店が設立された[62]。越後屋以来の事業と、東京市日本橋の本店、京都および桐生の仕入れ店の一切を引き継いでいる[63]。設立と同じ月に、三越は『デパートメントストア宣言』を発した[64]。ただし呉服店の名を掲げたままの株式会社化であり、商号から呉服店が外れるのは昭和3年6月[65]である。宣言の時点で扱う商品はなお呉服が中心で、食料品と園芸の売場が入るのは大正3年9月の新館竣工[66]にあわせてであった。設立時の資本金50万円は、その後の6年で200万円まで積み増されている[67]。
株式会社となった三越は新しい組織のもとで、日露戦争後の経済的発展と、いっそう活発になった生活風俗の欧米化[68]に歩調を合わせる方針を採った。呉服以外の販売商品を増やし、明治40年頃からは靴や鞄、履物、洋傘、櫛を売り、食堂と写真撮影部も設けている[69]。同じ明治40年の5月には大阪店を開いた[70]。翌41年には洋風三階建の新建築が完成し、百貨店としての形態を整えている[71]。同年6月に資本金を100万円へ増資し、京城および大連へ出張所を設け[72]、これらはのちに支店となった。明治43年3月には資本金を200万円へ増やし、44年7月に五階建・延4,000坪の建築へ着手する[73]。大正3年9月、ルネッサンス式五階建の本店新館が竣工した[74]。当時の新聞はこれを『スエズ運河以東の大建築』[75]と書きたてている。竣工を機に食料品と園芸の売場を新設し、百貨店としての部門を完備した[76]。
欧州大戦の終結を契機とした好景気を反映し、三越の業績は著しい進展[77]を遂げた。事業の規模も年を追って広がり、大正9年1月には資本金が1,200万円となっている[78]。同じ時期に常設の実用品売場『三越マーケット』を開き[79]、大衆との結びつきを図った。『今日は帝劇、明日は三越』[引用元]という標語が人口に膾炙した[80]のも、このころにあたる。エレベーターと暖房換気の設備に加え、日本で最初のエスカレーターが通じ、全館の天井にスプリンクラーが据え付けられた本店は、一躍『日本の新名所』[81]と呼ばれた。呉服から日用の実用品まで扱う売場を常設した[82]ことで、三越の客層は上得意の外へ広がっている。
大正12年9月の関東大震災で、三越は本店と丸ノ内別館を焼失[83]した。災害の損失は737万5,000円に上り、資本金を700万円へ減らす[84]ほかなかった。応急策として本店の隣接地ほか各所にバラック造りのマーケットを開き[85]、物資不足と交通の不便に悩む市民の生活に応じている[86]。このマーケットが、のちに新宿店と銀座店を開く機縁[87]となった。震災はもう一つの変化をもたらし、従来の下足預り制度を廃したことで三越の売場は一段と大衆に開かれた[88]。震災後の都市計画とあわせて近接郊外地域への交通機関が発達し、三越には復興を超える発展の機会[89]が開けている。
震災の翌年にあたる大正13年10月、三越は資本金を1,500万円へ増やした[90]。資本金は震災直後に700万円まで減っており[91]、増資はその2倍を超える水準にあたる。あわせて東京市内の各マーケットを分店とし、のちの新宿店と銀座店の開設[92]につなげている。復旧の過程で開いた仮設の売場が、そのまま常設の分店へ変わった[93]。昭和2年4月には本店全館の修築が完成し、三越ホールが開場した[94]。同じ年の7月には、食品の製造卸売を手がける二幸商会を設けている[95]。大正12年9月に本店を失ってから、修築の完成までに3年7か月[96]を要している。
昭和3年6月、三越は商号を株式会社三越へ変更し、同じ月に神戸店を開いた[97]。呉服店の名を外したのは、デパートメントストア宣言から24年後[98]にあたる。昭和5年4月に銀座店、同年10月に新宿店を開き、6年3月に高松店、7年5月に札幌店、8年4月に仙台店[99]と続けている。昭和3年から8年にかけての6年間で、三越は6つの支店を置き、信用を全国へ広げた[100]。銀座店と新宿店については、震災の応急マーケットが開設の機縁になっている[101]。昭和6年4月には資本金を3,000万円へ増やし、株式を東株の長期清算市場へ上場した[102]。昭和7年には地下鉄の三越前駅が開設されて地下売場と直結[103]し、昭和10年10月に本店の大増築改修工事が完成している[104]。
昭和12年の百貨店法施行、日華事変の勃発、太平洋戦争への移行が続き、三越は統制の強化と売場の供出[105]を受けた。供出は売場面積の8割[106]に達している。百貨店法により店舗の拡張や新設にも制限がかかり[107]、店を増やして伸びてきた三越の手法はそこで止まった。昭和13年頃からは物資の統制で販売が窮屈になり、電力制限でエスカレーターが運休し、鉄鋼品供出令[108]によってその姿を消した。代用品の開発普及、慰問品や防空用品の売場開設[109]など、時勢の要求に応じる商いへ変わっている。三越はここで、創業以来の最悪期を迎えた[110]。
銀座・高松・仙台の各支店は空襲[111]によって焼失した。終戦にともない大阪と札幌の両支店は接収され、京城と大連の在外支店も失われている[112]。戦前に敷いた支店網は、そのまま戦災と接収の対象になった[113]。昭和20年10月、三越は戦災を免れた日本橋本店の復旧を急いだ[114]。翌21年10月には松山店を開き、23年1月に三越縫製工場を設けている[115]。同じ23年10月には、資本金を9,000万円へ増やしている[116]。生活必需品の配給と物価の安定に協力しながら、三越劇場と展覧会場で催物を開き、財団法人三越診療所も設けている[117]。
昭和24年5月、三越は東京証券取引所の開設と同時に株式を上場した[118]。昭和26年には本店の全館を再び使えるようになり、店舗施設は戦前を上回る水準[119]へ戻っている。朝鮮動乱を契機に消費景気は回復し、三越は店舗施設の拡充と更新投資を続けながら機構の近代化[120]に努めた。同26年の資本金は15億円、年間売上は169億円強、利益は2億9,200万円[121]だった。昭和26年10月に再評価積立金の一部を組み入れて資本金を15億円とし、29年12月には資本組入により18億6,000万円[122]へ引き上げている。戦後の増資は、いずれも再評価積立金の組み入れによるもの[123]だった。
昭和29年(1954年)の三越の年間総売上高は248億円で、全国百貨店の13%強[124]を占めた。商品券の売上高は9億3,000万円に達し、こちらは全国の29%強[125]にあたる。本支店の店舗面積は延4万2,800坪で、全国百貨店の11%強[126]である。売上のシェアが面積のシェアを2ポイント上回り[127]、商品券では3割近くを取っていた。同年12月には本店隣接の土地467坪に、延4,600坪の増築工事へ着手[128]している。完成すれば2万坪強の店舗となり、東洋一の百貨店になる計算[129]だった。当時の社長は岩瀬英一郎氏[130]である。
昭和36年度の売上高は548億円、利益は13億9,100万円で、10年間で売上は3倍強、利益は5倍[131]に伸びた。昭和41年度にはさらに利益28億円、売上高935億円へ達し、26年比では利益が10倍、売上が5.5倍[132]となっている。増資は昭和29年12月以降に5回を数え、42年7月払込みの半額増資で資本金は100億円を超えた[133]。昭和43年の従業員は1万500名、総売場面積は17万平方メートル[134]である。松田伊三雄氏が社長として積極経営を前面に押し出した[135]時期にあたる。昭和43年2月期は歳末の大型消費景気を捉えて半期売上高が500億円を突破し、純益17億円を計上した[136]。
戦後の店舗網はさらに広がり、昭和32年10月に池袋店、43年7月に枚方店を開き、46年6月には海外第一号店としてパリ三越[137]を開いている。一方でスーパーストアやチェーンストアの追い上げを受けて業界は苦境に立ち、三越は関連企業を通じて都市近郊に衛星店を設ける策[138]を採った。それでも昭和47年、ダイエーが売上高3,052億円で3,000億円を突破し、2,924億円にとどまった三越を抜いて[139]小売業の首位に立った。ダイエーの創業から15年での交代[140]である。三越が小売業の売上首位を明け渡したのは、この年[141]にあたる。
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|---|---|---|---|---|
| 1673〜1872年越後屋の現銀掛値なしと、三井から切り離された呉服店 | 三井高利が呉服商「越後屋」を開業 | ★★ | ||
| 本店を駿河町に移転 | ★ | |||
| 「現銀掛値なし」の商法を開始 | ★★★ | |||
| 呉服業が三井家から分離 | ★★ | |||
| 1873〜1923年三井呉服店から三越呉服店へ、座売り全廃とデパートメントストア宣言 | 合名会社に改組 | ★ | ||
| 三井本家に復帰 | ★ | |||
| 呉服の陳列販売を開始 | ★★ | |||
| 三越呉服店に商号変更 | ★★ | |||
| 座売りを全廃 | ★★ | |||
| 越後屋以来の事業を継承して三越呉服店を設立 | ★★ | |||
| 座売りの全廃による陳列販売への転換と、デパートメントストア宣言 明治37年(1904年)12月、三越は資本金50万円で株式会社三越呉服店として設立され、越後屋以来の事業を継承したうえで『デパートメントストア宣言』を発した。呉服以外の商品を扱う百貨店へ移る意思を、会社の形を変えた月に対外へ示した経営判断にあたる。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 靴・鞄・履物・洋傘の販売を開始 | ★★ | |||
| 大阪店を開店 | ★ | |||
| 京城と大連に出張所を開設 | ★ | |||
| 本店新館が竣工 | ★★ | |||
| 食料品と園芸の売場を新設 | ★★ | |||
| 常設の実用品売場「三越マーケット」を開設 | ★★ | |||
| 下足預り制度を廃止 | ★ | |||
| 各所にバラック造りのマーケットを開設 | ★ | |||
| 関東大震災により本店と丸ノ内別館が焼失 | ★★ | |||
| 1924〜1972年支店網の全国化と戦時の受難、東洋一の規模と首位の陥落 | 本店全館の修築が完成 | ★ | ||
| 三越に商号変更 | ★★ | |||
| 銀座店を開店 | ★ | |||
| 新宿店を開店 | ★ | |||
| 東京株式取引所の長期清算取引市場に上場 | ★ | |||
| 地下鉄三越前駅と地下売場が直結 | ★ | |||
| 百貨店法の施行により店舗の拡張・新設が制限 | ★★ | |||
| 銀座店・高松店・仙台店が空襲により焼失 | ★★ | |||
| 大阪店と札幌店が接収 | ★★ | |||
| 日本橋本店の復旧に着手 | ★ | |||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 本店隣接地で増築工事に着手 | ★ | |||
| 岩瀬英一郎 | 池袋店を開店 | ★ | ||
| 松田伊三雄 | パリ三越を開店 | ★★ | ||
| 岡田茂 | 岡田茂氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 岡田茂 | 小売業の売上首位をダイエーに明け渡す | ★★ | ||
| 1973〜2008年押しつけ販売への排除勧告と、のれんを残した統合 | 岡田茂 | 三井グループの社長会「二木会」に加盟 | ★★ | |
| 岡田茂 | 公正取引委員会から排除勧告 | ★★ | ||
| 岡田茂 | オリエンタル中村百貨店が名古屋三越百貨店に商号変更 | ★ | ||
| 市原晃 | 岡田茂氏を社長から解任 | ★★★ | ||
| 市原晃 | 不良在庫の処分損により51億円の欠損を計上 | ★★ | ||
| 坂倉芳明 | 坂倉芳明氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 坂倉芳明 | 「拡・百貨店」路線の採用と、土地取得だけで580億円を投じたゴルフ場開発 1986年に社長に就いた坂倉芳明氏が『拡・百貨店』と称する多角化を掲げ、1988年にゴルフ場開発へ着手した判断。土地取得だけで580億円を投じ、開発向けの融資は子会社を介して行われた。投資は社外にも社内にも伏せられたまま10年続き、1997年10月3日に446億円の特別損失として表面化した。坂倉氏は会長として取締役を退任している。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 津田尚二 | 阪神・淡路大震災により大阪店旧館を閉鎖 | ★ | ||
| 津田尚二 | 大阪店旧館の跡地に新館を開店 | ★ | ||
| 津田尚二 | 福岡三越が開業 | ★ | ||
| 津田尚二 | ゴルフ場開発に伴う446億円の特別損失を計上 | ★★ | ||
| 津田尚二 | 坂倉芳明氏が取締役を退任 | ★ | ||
| 井上和雄 | 最終赤字345億円を計上 | ★★ | ||
| 井上和雄 | 希望退職により1150人が退社 | ★ | ||
| 井上和雄 | 子会社の累損引当などで364億円の特別損失を計上 | ★★ | ||
| 井上和雄 | 上場以来初の無配に転落 | ★★ | ||
| 井上和雄 | 600名の人員削減を含むリストラを発表 | ★★ | ||
| 井上和雄 | 名古屋三越・千葉三越・鹿児島三越・福岡三越と新設合併 | ★★ | ||
| 井上和雄 | 新宿店を「新宿三越アルコット」に業態転換 | ★ | ||
| 石塚邦雄 | 石塚邦雄氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 石塚邦雄 | 早期退職の募集800人に1000人が応募 | ★★ | ||
| 石塚邦雄 | 横浜・大阪・枚方・倉敷4店の同時閉鎖と早期退職の実施、新設合併による連結欠損金の一掃 2005年5月5日、三越が横浜店・大阪店・枚方店・倉敷店の4店を同じ日に閉鎖し、あわせて早期退職を実施した経営判断。中村胤夫社長のもとで決め、対外的な発表は2004年秋であった。4店で年40億円の赤字が慢性化しており、店舗閉鎖は1999年の新宿南館以来であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 石塚邦雄 | 伊勢丹との共同持株会社の設立に合意 | ★★ | ||
| 石塚邦雄 | 伊勢丹と三越の経営統合・三越伊勢丹ホールディングス発足(2008年成立) 2007年8月、百貨店4位の三越と5位の伊勢丹が経営統合で合意し、2008年4月に共同持株会社『三越伊勢丹ホールディングス』を設立。売上高約1兆5000億円の業界首位グループが誕生した案件。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 石塚邦雄 | 株式移転により上場廃止 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(三越)