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  "title": "三越の歴史概略",
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      "start_year": 1673,
      "end_year": 1923,
      "main_title": "越後屋から三越呉服店へ、現金正価と陳列販売の二つの改革",
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        {
          "title": "三井家の越後屋と、本家からの分離と復帰",
          "text": "三越の起源は延宝元年（1673年）、三井高利氏が江戸に開いた呉服商「越後屋」にさかのぼる。越後屋は三井家の経営にかかり、高利氏は当時の商慣習を破って店頭現金売と定価販売を実行した。『会社銀行八十年史』はこれを「古い商慣習を打破して店頭現金売、定価販売の実行等、合理的経営方針を採り」と記した。何を打破したのかは同書に書かれていないが、店頭で現金と定価で売るという二点がその内容にあたる。もっとも、同じ改革は同業も後に採る。松坂屋の前身いとう呉服店は1611年、大丸は1717年に創業しており、百貨店の主要各社はいずれも江戸期の呉服商を前身に持つ。創業の古さそのものは各社の差にならず、差がついたのは呉服店から百貨店へ移る速さだった。\n\n明治に入ると、越後屋の身分は三井家の内と外を往復する。明治5年3月に三井家から分離し、26年9月に合名会社へ改組したが、28年8月には以前の形態で三井本家へ復帰した。翌29年9月に三越呉服店と改称し、37年に株式会社として独立する。30年余りのあいだに分離・改組・復帰・改称と組織形態が四度変わっており、この時期の三越は商いの中身よりも所属先を決めることに手間をかけていたように見える。のちに三越が「三井発祥の企業」と呼ばれ、節目ごとに三井銀行から人を迎える関係の原型は、この往復のなかで固まった。",
          "references": [
            {
              "title": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
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            {
              "title": "有価証券報告書（株式会社三越・第5期）【沿革】",
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                "fact": "延宝元年（1673年）創業の越後屋呉服店を起源とし、三井家の経営にかかった。創始者の三井高利は店頭現金売・定価販売を実行した",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
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                "fact": "「創始者三井高利氏は、古い商慣習を打破して店頭現金売、定価販売の実行等、合理的経営方針を採り、除々に経済的基盤を固めた」",
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                "fact": "呉服店起源の系譜はいとう呉服店（松坂屋の前身）1611年、越後屋（三越の前身）1673年、大丸1717年、高島屋1831年",
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                "fact": "明治5年3月に三井家より分離、26年9月に合名会社へ改組、28年8月に再び三井本家へ復帰、29年9月に三越呉服店と改称、37年に株式会社として独立",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
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        {
          "title": "座売りの全廃と、デパートメントストア宣言",
          "text": "百貨店への転換は売り方の改造から始まった。明治28年11月に本店の階上を陳列場へ改築し、日本で最初の呉服陳列販売を採り入れた。32年6月には新橋駅頭に等身大のポスターを掲げて街頭広告の先鞭をつけ、33年10月には本店の全階を陳列場として従来の座売りを全廃した。同書は業界全体の変化を「座売りから商品陳列式売場への転換」と要約している。陳列販売は、客が自分で商品を見て選ぶ形に売り方を変える。以後の三越が不特定多数をさばけるようになった前提は、この5年間に置かれている。売る側が客の前に立って反物を出す関係から、客が売場を歩いて選ぶ関係へ変わった。\n\n明治37年12月10日、資本金50万円で株式会社三越呉服店が設立され、あわせて「デパートメントストア宣言」を発した。宣言は呉服以外の商品を扱う意思の表明にあたり、実際に販売商品の種類を増やし、41年には洋風3階建の新建築を完成させて百貨店としての形態を整えた。売場の内容が先に変わり、会社の形と宣言が後から追いついた順序になる。三越呉服店へ改称した後の10年間に営業の一切にわたる改革が行われ、近代的百貨店化への芽ばえが確立されたと同書は記す。宣言は改革の開始ではなく、すでに始まっていた改革の対外的な確認だったと読める。",
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              "title": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
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              "title": "有価証券報告書（株式会社三越・第5期）【沿革】",
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                "fact": "明治28年11月に本店階上を陳列場に改築してわが国最初の呉服陳列販売を採用、32年6月に新橋駅頭へ等身大ポスターを掲示、33年10月に本店全階を陳列場として座売りを全廃した",
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          "title": "「今日は帝劇、明日は三越」と関東大震災の損失",
          "text": "明治40年に大阪支店を開き、41年6月には資本金を100万円へ増資して京城と大連に出張所を設けた。43年3月に200万円へ増資、44年7月に5階建延4,000坪の建築へ着手し、大正3年9月の竣工にあわせて食料品と園芸の売場を新設して百貨店の部門を揃えた。第一次大戦後の好景気を受けて大正9年1月には資本金1,200万円に達し、常設の実用品売場「三越マーケット」を開いて大衆客との接点を作った。「今日は帝劇、明日は三越」という標語が広く知られたのはこの時期である。帝国劇場と並べて名を出せたことは、三越が物を買う場所であると同時に、都市の娯楽の一部として扱われていたことを示している。呉服商から出発した会社が、20年で東京の生活文化を代表する名前になっていた。\n\n大正12年9月の関東大震災で本店と丸ノ内別館を焼失した。災害損失は737万5,000円に上り、資本金を1,200万円から700万円へ減資している。応急策として市内各地にマーケットを開き、物資不足と交通の不便に置かれた市民へ日用品を売ったが、この応急店がのちに新宿・銀座両支店を開設する機縁になった。震災はもう一つの変化ももたらした。それまで店に入る客の履物を預かっていた下足預り制度を廃したことで、来店の敷居が下がった。焼失と減資という損失の側から、支店網の起こりと大衆化という二つの帰結が同時に出ている。",
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      "start_year": 1924,
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      "main_title": "支店網の全国化と、戦後に取り戻した「東洋一」の規模",
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          "title": "商号変更と、6年間で6店を置いた支店網",
          "text": "震災後の復興と郊外への交通機関の発達が重なり、三越は復興を超える拡大に向かう。大正13年10月に資本金1,500万円へ増資し、昭和2年4月に本店全館の修築を終え、翌3年6月に商号を株式会社三越へ改めた。呉服店の名を外したのは、デパートメントストア宣言から24年が経ってからにあたる。商号変更と同じ月に神戸店を開き、以後8年までに銀座・新宿・高松・札幌・仙台へ支店を置いた。6年間で6店という速さで支店網を敷いたことにより、三越の信用は全国に広がった。この6店のうち銀座と新宿は、震災の応急マーケットが開設の機縁になった店にあたる。損失の処理として始めた仮設の売場が、7年ほどで本格店舗の開設につながっている。\n\n昭和10年10月には本店の大増築改修工事が完成し、三越は業界のなかで確固たる地位を占めるに至った。呉服の陳列販売を始めてから40年、株式会社となってから31年での到達にあたる。この時期までの三越の歩みは、売り方の改革（現金正価・陳列販売）、業種の拡張（デパートメントストア宣言）、立地の拡張（支店網）という三つが順に積み重なる形をとっている。どれか一つだけでは百貨店にならず、順序を入れ替えても同じ結果にはならなかったであろう。売り方を変えたから扱う品目を増やせ、品目が増えたから地方にも同じ店を置けた。",
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              "title": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
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                "fact": "大正13年10月に資本金1,500万円へ増資、昭和2年4月に本店全館修築完成、昭和3年6月に商号を株式会社三越へ変更し神戸店を開店。昭和3年から8年にかけて新宿・銀座・神戸・高松・仙台・札幌に支店を開設した",
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        {
          "title": "百貨店法と戦火、売場の8割供出と接収",
          "text": "昭和12年の百貨店法施行、日華事変の勃発、太平洋戦争への移行が続き、三越は統制の強化と売場の供出を受ける。供出は売場面積の8割に達し、銀座・高松・仙台の各支店は空襲で焼失した。終戦にともなって大阪と札幌の両支店は接収され、京城・大連の在外支店は失われた。売場を8割取り上げられた百貨店に残るものは少なく、『会社銀行八十年史』はこの時期を「受難時代」と記している。戦前に敷いた支店網は、そのまま戦災と接収の対象になった。百貨店法により店舗の拡張や新設に制限を受けることとなり、店を増やして成長してきた三越の手法はそこで止まった。統制・戦災・接収の三つはいずれも会社の外から来たもので、経営の判断で避けられる種類のものではない。ただし、店舗を増やすことに成長を託した会社ほど、この時期の打撃は大きく出た。\n\n戦後の三越は、生活必需品の配給と物価の安定に協力しながら店舗の復旧を進めた。昭和21年10月に松山支店を開き、26年には本店の全館を再び使えるようになる。この間に三越劇場と展覧会場で催事を開き、財団法人三越診療所も設けた。増資は昭和23年10月の9,000万円、26年10月の15億円、29年12月の18億6,000万円と続き、24年5月には東京証券取引所の開設と同時に株式を上場している。物を売る場所を戦争で失った会社が、催事と医療という売場以外の機能を先に戻した順序が残っている。",
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              "title": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
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            {
              "title": "有価証券報告書（株式会社三越・第5期）【沿革】",
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                "fact": "「十二年の百貨店法施行日華事変の勃発、太平洋戦争への移行と戦火が拡大されるに及んで統制の強化、売場の供出(売場面積の八〇%)等受難時代を迎え、銀座、高松、仙台の各支店は空襲により焼失した」",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
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                "fact": "昭和23年10月に9,000万円、26年10月に15億円、29年12月に18億6,000万円へ増資。昭和21年に松山支店を開設し、26年に本店全館の使用を回復した",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
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          "text": "昭和29年（1954年）の三越の年間総売上高は248億円で、全国百貨店の13%強を占めた。商品券の売上高は9億3,000万円に達し、こちらは全国の29%強にあたる。本支店の店舗面積は延4万2,800坪で全国百貨店の11%強である。売上シェアが面積シェアを2ポイント上回り、商品券では3割近くを取っていた点に、この時期の三越の性格が出ている。売場の広さではなく、贈答の宛先として選ばれる名前の力で売っていた。同年12月には本店隣接地に延4,600坪の増築工事へ着工しており、完成後は「東洋一の百貨店」になると同書は書いた。社長は岩瀬英一郎氏で、戦後復興のなかで商売の基盤を築いた三井銀行出身の経営者にあたる。\n\n戦後の店舗網はさらに広がる。昭和32年10月に池袋店、43年7月に枚方店、46年6月には海外第一号店としてパリ三越を開いた。48年には広島店と横浜店が続く。ただし、この時期に増やした店の多くは後年の閉鎖対象になる。枚方店と横浜店は2005年に閉鎖されている。拡大の記録と撤退の記録は、同じ店名の上に重なっている。1954年に全国百貨店の13%を売り、店舗面積では11%を持っていた会社が、なぜ50年後に4店を同時に閉じる側へ回ったのか。答えは店の数ではなく、店を増やす以外の手段を持たなかったことにある。以後の三越は、支店を置く速さで得た地位を、支店を閉じる痛みとして払い戻した。",
          "references": [
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              "title": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
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                "fact": "昭和29年の年間総売上高248億円（全国百貨店の13%強）、商品券売上高9億3,000万円（同29%強）、本支店の店舗面積は延4万2,800坪（同11%強）",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
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                "source": "週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の１０年」",
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                "fact": "昭和32年10月に池袋店、43年7月に枚方店、46年6月に海外第一号店パリ三越（フランス三越S.A.S.）、48年4月に広島店、48年11月に横浜店を開店した",
                "source": "有価証券報告書（株式会社三越・第5期）【沿革】",
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                "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
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      "start_year": 1974,
      "end_year": 1997,
      "main_title": "ワンマン経営の二代と、446億円で表面化した秘密主義",
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          "title": "岡田茂氏の急成長と、1982年の電撃解任",
          "text": "1972年から1982年まで社長を務めた岡田茂氏は、宣伝畑の出身で、三越に急成長をもたらした経営者だった。同時に会社の私物化が進み、乱脈経理と商品納入をめぐるスキャンダルから1982年に解任・逮捕される。解任を告げられた際の「なぜだ」の一言は広く知られた。解任にあたっては三井銀行の小山五郎氏が重要な役回りを務めており、ここでも三井の世話人が危機の処理に入っている。戦後50年間で社長の交代は5回しかなく、三越の歴史は長期のワンマン政権と重なっていた。もっとも、岡田氏の在任を失敗だけで括ることはできない。急成長を果たしたのは事実であり、宣伝とイベントで客を集める手法は当時の百貨店で有効に働いた。誤算はその裏側にある。改装などの店舗投資には極端なほど臆病で、すでに出来上がった全国店舗網に乗ったまま、商品政策には手をつけなかった。\n\n岡田氏の失敗を、個人の資質だけに帰すのは正確でない。役員の任期は明確でなく定年制もないため長期政権が生まれやすく、会長と社長の判が先に押された伺い書が回されるという意思決定の順序も残っていた。稟議が下から積み上がる会社では上位者の決裁が最後に来るが、三越では逆だった。同じ仕組みのもとでは誰が社長でも同様の結果に近づいたであろう。事実、私物化への批判を受けて経営の近代化に努めたはずの三越で、15年後に再び秘密主義が表面化する。1997年の特別損失に際して労働組合は経営刷新のビジョンを翌年1月までに作るよう要求したが、経営側が発足させた「経営改革推進委員会」は役員で構成された。委員会の顔ぶれを決める段階で、変える側と変えられる側が同じ人々になっている。",
          "references": [
            {
              "title": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
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              "title": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
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            {
              "title": "週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の１０年」",
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                "fact": "岡田茂は1972年から1982年まで三越社長を務め、会社の私物化で解任に追い込まれたが、在任中は急成長を果たした。戦後50年間で社長の交代は5回だけだった",
                "source": "週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の１０年」",
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          "text": "岡田氏と対立して三越を追われ、西武百貨店の社長を経て戻った坂倉芳明氏は、1986年から1995年まで社長、1997年まで会長を務めた。掲げた路線は「拡百貨店」と称する多角化で、ホテル・スポーツ・輸入車販売へ手を広げ、海外出店とゴルフ場開発にも進んだ。1980年代後半のバブル期には総合生活産業を目指す動きが流行しており、坂倉氏の路線は当時の同業の方向と揃っていた。判断そのものが時代から外れていたわけではない。誤算は、周辺事業に資本を割いた10年のあいだ、本業の収益構造に手が入らなかったことにある。\n\nゴルフ場開発は坂倉氏の社長時代の1988年に始まり、土地取得だけで580億円を投じた。三越は用地買収への支障を理由に、開発向けの融資を子会社を介して行い、外部に漏れない形をとった。伏せられていた相手は外部にとどまらない。労働組合が特別損失を知らされたのは1997年9月末で、坂倉氏の前任社長であり開発着手時には取締役会長だった市原晃氏も、発表まで開発を知らなかったと述べている。前任の会長が知らない投資が10年続いた事実は、意思決定の記録が残らない会社の姿を示している。開発物件と開発業者について三越は特損の発表後も一切コメントせず、株主には損失が発表された範囲で収まるのかを判断する手がかりが渡らなかった。秘密の相手は競合ではなく、株主と自社の組合と前任経営者だった。",
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            {
              "title": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
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        {
          "title": "本店が利益の75%を稼ぐ構造と、446億円の特別損失",
          "text": "1997年10月3日、三越はゴルフ場開発に伴う446億円の特別損失を計上し、1998年2月期に320億円の最終赤字へ転落すると発表した。責任を追及する声を受けて坂倉芳明氏は取締役を退任した。三越は前期まで7期連続の連結赤字で累積損失36億円を抱えており、子会社の整理が進んだことでこの期は連結黒字化の見通しだったが、特損により累損は拡大し、連結の株主資本比率は一ケタ台へ落ち込む見込みとなった。連結・持分法適用の64社のうち24社が経常赤字にあり、累積損失を抱えた子会社も多く、損失は本業以外に広く散っていた。三越が本業で稼いだ利益は、この年まで見えない場所で目減りしていた。子会社を介した融資という手法が、その目減りを決算の表から遠ざけていた面もある。\n\n特損の背後には、本業の収益が一点に集まる構造があった。日本橋本店の年商は3,000億円強で単店の売上高は日本一、全体の売上高に占める比率は40%以上、利益では75%ほどを本店が稼いでいた。本店の強みは三井グループを背景にした法人外商と、ツケでの購入を認めた上得意客「御帳場」の多さにある。この構造は好調な時期には収益資産として働くが、危機感を薄める作用も持つ。1997年の記事はこれを「最大の負の資産になりかねない」と書いた。高島屋が新宿へ出店したことで、日本橋地区の売上シェアは前年比1.4%減となり、東京圏で最も影響を受けた地区になった。\n\n同じ時期に三越は福岡三越を開業している。1997年10月1日の開店で、投資負担は総額600億円、初年度の売上目標は410億円、単年度黒字化は7年後という計算だった。前年11月には大阪駅前の国鉄跡地入札に失敗しており、提示価格はヨドバシカメラだけでなく二番札のパルコより低かった。関西に拠点を持てないまま九州へ600億円を投じた順序は、拠点配置の優先順位が定まっていなかったことを示している。経営陣は特損の計上後も「大阪出店は全社的な悲願。出店の意思は今でも変わらない」（井上和雄専務）と述べ、本店依存の是正には大阪出店が必要という立場を崩さなかった。本店以外の収益源を作る必要は正しく認識されていた。その手段が、店を新しく建てることに限られていた。",
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              "title": "週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の１０年」",
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                "fact": "1997年10月3日にゴルフ場開発に伴う446億円の特別損失を計上し、1998年2月期に320億円の最終赤字に転落すると発表。坂倉芳明会長は取締役を退任した。連結・持分法適用64社のうち24社が経常赤字だった",
                "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
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      "start_year": 1998,
      "end_year": 2008,
      "main_title": "「空白の10年」と、のれんを残すために選んだ統合",
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        {
          "title": "8期連続の連結赤字と、上場初の無配",
          "text": "1999年2月期、三越は子会社の累損引き当てなどで364億円の特別損失を計上し、260億円の最終赤字となった。前期にもゴルフ場開発に伴い345億円の最終赤字に陥っており、2期連続の大幅赤字である。単体では1998年2月期と1999年2月期の2期で計593億円の赤字を計上し、上場以来初めての無配に転落した。1999年3月の報道は連結で8期連続の最終赤字と伝えており、連結の株主資本比率は3%を割った。株価は金融危機のさなかに200円台まで下がっている。同年2月に600名の人員削減を含むリストラを発表した井上和雄社長は、1982年の三越事件よりも「今回のほうがダメージが大きい」と語った。\n\n特別損失の原因は多角化の失敗にあったが、凋落の原因はそれだけではない。三越の強みだった法人外商は法人需要の構造的な減少で大幅に落ち込み、御帳場制による個人外商も顧客の高齢化で先細りに向かった。御帳場は一人の顧客に人を張り付ける売り方で、大口顧客を引き留める一方、社員の高齢化と高コスト構造をもたらす。従業員のパート比率は伊勢丹や高島屋が40%以上に対し、三越は15%程度（1998年度中間期）だった。売上が落ちるとき、この差はそのまま固定費の重さの差として出る。1999年2月期は売上6.9%減のなかで外商売上が二ケタ近く減り、業績の足を引いている。中村胤夫専務は「法人需要は今後増えていくことはないだろう」と述べた。強みだった売り方が、そのまま重荷に転じていた。\n\nのれんの価値が外から測り直されていたことを示す例が、1999年3月にある。仏高級婦人服ブランド「イネス」は1996年に三越と大丸が商品提携をした際の目玉として導入されたが、三越では成果が出ず、関係を解消したうえで伊勢丹新宿本店のリニューアルで導入された。伊勢丹は「以前からうちに出店したいというアプローチを受けていた」と述べている。取引先が三越の看板に払う対価は、この時点ですでに下がっていた。8年後に三越が伊勢丹へ統合を申し入れる関係は、売場に入るブランドの移動として先に現れている。",
          "references": [
            {
              "title": "週刊東洋経済 1999年3月27日号「三越 老舗「のれん」の虚像 “三井発祥”企業の凋落」",
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              "title": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
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              "title": "週刊東洋経済 2007年8月11日号「百貨店三越・伊勢丹 経営統合交渉の見えない終着点」",
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        {
          "title": "新設合併で消した負の遺産と、4店の同時閉鎖",
          "text": "2003年9月1日、三越本体と名古屋三越・千葉三越・福岡三越・鹿児島三越の子会社4社が合併し、商号を引き継いだ新会社が発足した。採った形式は、既存5社が解散して新会社が各社と合併する新設合併である。この形式には効率化とは別の目的があった。新設合併なら被合併会社となる三越本体の含み益を時価で評価替えでき、評価益によって連結欠損金133億円を一掃したうえ、退職給付債務や固定資産の含み損など計数百億円に上る子会社の負の遺産を帳消しにできる。2006年2月期からの減損会計導入に備えた措置でもあった。証券コードが小売業の8000番台から2000番台へ移ったのもこのときからである。\n\n含み資産で過去を清算するこの手法には、社内からも異論が出ている。三越OBは「先輩たちがこつこつ蓄えてきた含み。こんなに安直に使っていいのか」と述べた。含み頼みは一度で終わらず、2005年7月の時点でも同期の大阪店舗の売却特益を見込んでいた。業界で最も豊富な含み資産を持つことが、改革を遅らせる方向に働いた面は否定しがたい。1954年に全国百貨店の13%を売っていた会社が、50年後には過去に蓄えた土地の評価益で欠損を埋めていた。4店を閉じる判断も業界では以前から既定と見られながら、発表は2004年秋まで待たれた。2005年4月には2003年に公約した中期5カ年計画を見直し、最終年度の連結営業利益を300億円から215億円へ引き下げた。この年の連結営業利益予想は三越162億円に対し高島屋305億円、規模で下回る伊勢丹でも250億円で、三越は規模で勝りながら効率で劣る位置に移っていた。\n\n2005年5月5日、三越は横浜店・大阪店・枚方店・倉敷店の4店を同時に閉鎖した。4店で年40億円の赤字が慢性化していた。大阪店は日本橋本店に次ぐ315年の歴史を持つ店で、横浜店は30年で幕を下ろし、建物にはその年の11月からヨドバシカメラが進出すると報じられた。店舗閉鎖は1999年の新宿南館以来である。同年2月には早期退職を募集し、800人の枠に対して半月で1,000人が応募した。前期末の単体従業員の12%を超える人数で、1999年の1,150人に続く2度目の希望退職にあたる。店舗の統廃合を年中行事とするスーパーとは違い、店数の少ない百貨店で閉店は重く、地元の抵抗も小さくない。それでも4店で年40億円の赤字を抱えたまま維持する余裕は残っていなかった。",
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                "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
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                "fact": "2005年度の連結営業利益予想は三越162億円、高島屋305億円、伊勢丹250億円。三越の株主資本比率は20%超で3社中最低、前期末の単体従業員数は7,900人余りで最大だった",
                "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
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                "fact": "2005年5月5日に横浜店・大阪店・枚方店・倉敷店の4店を閉鎖。4店で年40億円の赤字が慢性化していた。大阪店は315年、横浜店は30年の歴史を持つ",
                "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
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                "fact": "2005年2月の早期退職募集は800人の枠に対し半月で1,000人が応募し、前期末の単体従業員の12%超に当たった。1999年の希望退職では1,150人が退社していた",
                "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
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        },
        {
          "title": "単独改革の断念と、58年で終わった上場",
          "text": "2005年に社長となった石塚邦雄氏は、粗利率の向上を狙ってセールを中止し、三越自身が品揃えを行う自主編集売場の強化にも取り組んだ。どちらも百貨店としては正論にあたるが、結果は逆に出た。セール分の売上を補えず、日常的に来店していた客の足が遠のいた。自主編集売場も売れ筋を切らして運営できなかった。2007年の第1四半期は前年同期比6割の減益で、営業利益の水準は伊勢丹や大丸の半分以下に落ちている。石塚氏は同年8月23日の会見で「2年前から実施してきた改革は、会社全体の成果に至っていない。スピードも合格点とは言えない」と述べた。\n\n2007年8月に浮上した伊勢丹との交渉は、両社の温度差を伴っていた。伊勢丹側は商品情報システムを他社へ提供する業務提携を名鉄百貨店や東急百貨店と結んでおり、幹部の発言からは三越との間でも提携の水準しか考えていないように受け取れた。伊勢丹にとってシステム統合は情報提供料を得られる事業であり、経営統合まで進む必要は薄い。統合すれば合計売上高は1.5兆円を超えて国内最大の百貨店グループになるが、日本の百貨店は商品の8割が委託仕入れで各店が独自に品揃えする個店主義が強く、規模の利益は限られる。交渉が三越の救済を求める色彩を帯びていたのは、この非対称による。\n\n三越が統合を選んだ理由は一つではない。単独改革が成果に届かなかったこと、大阪・梅田店の開業を目玉とする6カ年計画で1,800億円の投資を見込みながら現在のキャッシュフローでは1,000億円程度しか確保できなかったこと、土地の含み益を持ちながら株価が低迷し買収の標的とされたこと、そして三井グループの論理で救われる時代が終わっていたことが重なる。三井住友銀行の奧正之頭取は「企業が生き残るためなら統合もやむをえない」と述べ、かつての世話人の役を引き受けなかった。どれか一つが欠ければ、この時期の統合には至らなかったであろう。2007年11月の臨時株主総会で承認を受け、2008年4月1日に共同株式移転で株式会社三越伊勢丹ホールディングスが設立され、三越は完全子会社となって58年余の上場を終えた。会社としての三越は2011年4月1日に伊勢丹と合併し、株式会社三越伊勢丹となって法人としても姿を消した。",
          "references": [
            {
              "title": "週刊東洋経済 1999年3月27日号「三越 老舗「のれん」の虚像 “三井発祥”企業の凋落」",
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            {
              "title": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
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            },
            {
              "title": "週刊東洋経済 2007年8月11日号「百貨店三越・伊勢丹 経営統合交渉の見えない終着点」",
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            {
              "title": "週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の１０年」",
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            {
              "title": "有価証券報告書（三越伊勢丹ホールディングス）【沿革】",
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              {
                "fact": "「２年前から実施してきた改革は、会社全体の成果に至っていない。スピードも合格点とは言えない」（2007年8月23日の会見での石塚邦雄社長の発言）",
                "source": "週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の１０年」",
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                "fact": "粗利率向上を狙ったセール中止はセール分の売上をカバーできず常連客の足も遠のいた。自主編集売り場の強化も売れ筋を切らしてうまく運営できなかった",
                "source": "週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の１０年」",
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                "fact": "三越の営業利益水準は伊勢丹や大丸の半分以下で、2007年度第1四半期は前年同期比6割の減益だった",
                "source": "週刊東洋経済 2007年8月11日号「百貨店三越・伊勢丹 経営統合交渉の見えない終着点」",
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                "source": "週刊東洋経済 2007年8月11日号「百貨店三越・伊勢丹 経営統合交渉の見えない終着点」",
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                "source": "週刊東洋経済 2007年8月11日号「百貨店三越・伊勢丹 経営統合交渉の見えない終着点」",
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                "fact": "大阪・梅田店の開業を目玉とする6カ年計画では1,800億円の投資を見込むが、当時のキャッシュフロー水準で確保できるのは1,000億円程度にすぎなかった",
                "source": "週刊東洋経済 2007年8月11日号「百貨店三越・伊勢丹 経営統合交渉の見えない終着点」",
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                "source": "週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の１０年」",
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                "fact": "膨大な土地の含み益がありながら三越の株価は低迷し、買収の標的とされる噂が絶えなかった。長年のライバルに救済を求めた背景には買収防衛の一面もあった",
                "source": "週刊東洋経済 2007年8月11日号「百貨店三越・伊勢丹 経営統合交渉の見えない終着点」",
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                "source": "有価証券報告書（三越伊勢丹ホールディングス）【沿革】",
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                "source": "有価証券報告書（三越伊勢丹ホールディングス）【沿革】",
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  "summary": {
    "title": "サマリー",
    "text": "",
    "qa": [
      {
        "q": "なぜ三越は1904年の「デパートメントストア宣言」より先に座売りを全廃していたのか",
        "a": "三越が1904年12月の「デパートメントストア宣言」より先に売り方を変えていたのは、陳列販売でなければ不特定多数の客をさばけなかったからである。明治28年11月に本店階上を陳列場へ改築し、33年10月には全階を陳列場として座売りを全廃した。座売りは一人の客に一人の店員が張り付く売り方で、扱う品目を増やすほど人が足りなくなる。宣言は改革の開始ではなく、すでに終えた改革の対外的な確認だった。",
        "factBasis": [
          {
            "fact": "明治28年11月に本店階上を陳列場に改築してわが国最初の呉服陳列販売を採用し、33年10月に本店全階を陳列場として座売りを全廃した",
            "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
            "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
            "genbun": "明治28年11月に本店階上を陳列場へ改築し、33年10月には全階を陳列場として座売りを全廃した。"
          },
          {
            "fact": "「三越呉服店に改称後の十年間には、営業の一切にわたつて改革が行われ、近代的百貨店化への芽ばえが確立された」",
            "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
            "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
            "genbun": "宣言は改革の開始ではなく、すでに終えた改革の対外的な確認だった。"
          },
          {
            "fact": "明治37年12月に資本金50万円で株式会社三越呉服店として設立し、「デパートメントストア宣言」を発した",
            "source": "有価証券報告書（株式会社三越・第5期）【沿革】",
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            "genbun": "三越が1904年12月の「デパートメントストア宣言」より先に売り方を変えていたのは、陳列販売でなければ不特定多数の客をさばけなかったからである。"
          }
        ]
      },
      {
        "q": "なぜ三越は1997年まで日本橋本店に利益の75%を頼る構造を変えられなかったのか",
        "a": "三越が本店依存を変えられなかったのは、その構造が同時に最大の収益源だったからである。1997年時点で日本橋本店は年商3,000億円強で単店売上日本一、全体の売上の40%以上と利益の75%ほどを稼いでいた。強みは三井グループを背景にした法人外商と、ツケでの購入を認めた上得意客「御帳場」の多さにあった。だが法人需要は構造的に減り、御帳場は顧客の高齢化と社員の高コスト構造をもたらした。",
        "factBasis": [
          {
            "fact": "日本橋本店の年商は3,000億円強で単店売上高日本一。売上高で全体の40%以上、利益では75%ほどを本店で稼いでいた",
            "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
            "url": null,
            "genbun": "1997年時点で日本橋本店は年商3,000億円強で単店売上日本一、全体の売上の40%以上と利益の75%ほどを稼いでいた。"
          },
          {
            "fact": "「逆に老舗、巨艦本店という収益資産が危機感を希薄化するという意味で、最大の負の資産になりかねない」",
            "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
            "url": null,
            "genbun": "三越が本店依存を変えられなかったのは、その構造が同時に最大の収益源だったからである。"
          },
          {
            "fact": "「これまで三越ではお帳場制という一対一の顧客対応に多くの人を張りつけてきた。それが大口顧客を引き留めたが、結果的に社員の高齢化、高コスト構造をもたらした」",
            "source": "週刊東洋経済 1999年3月27日号「三越 老舗「のれん」の虚像 “三井発祥”企業の凋落」",
            "url": null,
            "genbun": "だが法人需要は構造的に減り、御帳場は顧客の高齢化と社員の高コスト構造をもたらした。"
          }
        ]
      },
      {
        "q": "なぜ三越は2007年に単独での再建をやめて伊勢丹との統合を選んだのか",
        "a": "三越が単独再建をやめて伊勢丹との統合を選んだのは、理由が一つではなく複数重なったからである。セール中止と自主編集売場という2年の改革は成果に届かず、営業利益は伊勢丹や大丸の半分以下に落ちた。大阪・梅田店を目玉とする6カ年計画は1,800億円の投資を要したが、当時のキャッシュフローで確保できるのは1,000億円程度だった。含み益を抱えながら株価は低迷し、買収の標的とされる噂も絶えなかった。",
        "factBasis": [
          {
            "fact": "「２年前から実施してきた改革は、会社全体の成果に至っていない。スピードも合格点とは言えない」（2007年8月23日の会見での石塚邦雄社長の発言）",
            "source": "週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の１０年」",
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            "genbun": "セール中止と自主編集売場という2年の改革は成果に届かず、営業利益は伊勢丹や大丸の半分以下に落ちた。"
          },
          {
            "fact": "大阪・梅田店の開業を目玉とする6カ年計画では1,800億円の投資を見込むが、当時のキャッシュフロー水準で確保できるのは1,000億円程度にすぎなかった",
            "source": "週刊東洋経済 2007年8月11日号「百貨店三越・伊勢丹 経営統合交渉の見えない終着点」",
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            "genbun": "大阪・梅田店を目玉とする6カ年計画は1,800億円の投資を要したが、当時のキャッシュフローで確保できるのは1,000億円程度だった。"
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          {
            "fact": "膨大な土地の含み益がありながら三越の株価は低迷し、買収の標的とされているとの噂が絶えなかった",
            "source": "週刊東洋経済 2007年8月11日号「百貨店三越・伊勢丹 経営統合交渉の見えない終着点」",
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            "genbun": "含み益を抱えながら株価は低迷し、買収の標的とされる噂も絶えなかった。"
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      }
    ]
  }
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