三越座売りの全廃による陳列販売への転換と、デパートメントストア宣言
呉服だけを売り続けるか、扱う品目を広げるか——売り方の改造が宣言より先にあった十年
- 概要
- 明治37年(1904年)12月、三越は資本金50万円で株式会社三越呉服店として設立され、越後屋以来の事業を継承したうえで「デパートメントストア宣言」を発した。呉服以外の商品を扱う百貨店へ移る意思を、会社の形を変えた月に対外へ示した経営判断にあたる。
- 背景
- 前身の越後屋呉服店は延宝元年(1673年)創業で、三井家からの分離・合名会社への改組・本家への復帰と組織の形を変えながら呉服を売り続けていた。百貨店の主要各社はいずれも江戸期の呉服店を前身とし、創業の古さそのものは差にならなかった。
- 内容
- 明治28年11月に本店の階上を陳列場へ改築してわが国最初の呉服陳列販売を採り入れ、32年6月には新橋駅頭に等身大ポスターを掲げ、33年10月には本店の全階を陳列場として座売りを全廃した。宣言はこの改造を終えた4年後に出ている。
- 含意
- 宣言から百貨店の部門が揃うまでには10年を要し、食料品と園芸の売場が入るのは大正3年9月の新館竣工にあわせてであった。呉服店から百貨店へ移る道筋は各社に共通しており、三越が握ったのは方向ではなく数年の時間差だったといえる。
宣言は、売場が先に出した結論であった
明治33年10月に本店の全階を陳列場とし、座売りを全廃した時点で、三越は呉服以外を並べられる店になっていた。デパートメントストア宣言が出るのはその4年後、株式会社三越呉服店を設立した明治37年12月である。宣言が新しい業態を呼び込んだのではなく、陳列販売を採り入れてから9年かけた売場の改造が、宣言を出せる状態を先に作っていた。日比翁助氏が会社の形を変える月にそれを対外へ示したのは、売り方の改造がひととおり済んだという判断があったからだとみられる。
ただ、宣言から品目が揃うまでには10年を要した。呉服以外を増やすと言ってから、食料品と園芸の売場が入る建物ができるのは大正3年9月であり、意思の表明と売場の実物には長い距離があった。先を行った利も長くは続かず、大正初頭には各百貨店ともデパートメント・ストアーの態勢を整えている。呉服店から百貨店へ移るという道筋そのものは各社に共通しており、三越が握ったのは方向ではなく数年の時間差だったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
呉服を売りながら、所属先だけが変わった三十年
三越の前身である越後屋呉服店は、延宝元年(1673年)に三井家の経営として始まった。創始者の三井高利氏は店頭現金売と定価販売を実行し、客ごとに値と回収期間が違う当時の商慣習から離れた。明治に入ると会社の所属が定まらず、5年3月に三井家から分離し、26年9月に合名会社へ改組したのち、28年8月には以前の形態で三井本家へ復帰する。翌29年9月には三越呉服店と改称した。組織の形が四度変わるあいだも、店が売る品目は呉服のままであった[1]。
呉服店を前身とすることは、三越に限った話ではない。松坂屋の前身いとう呉服店は1611年、白木屋は1662年、越後屋は1673年、大丸は1717年、高島屋は1831年の創業で、著名百貨店の大半が呉服店から転じている。明治維新以後は各店とも洋服部の設置や座売りから商品陳列式売場への転換を進め、店舗も紺のれんを掛けた木造平家建から黒塗り土蔵造りへ移った。創業の古さも変化の方向も各社に共通しており、差がつく余地は移る速さにしか残っていなかった[2]。
座売りを全廃するまでの五年
売り方の改造は明治28年11月に始まる。三越は本店の階上を陳列場へ改築し、わが国最初の呉服陳列販売を採り入れた。32年6月には新橋駅頭に等身大のポスターを掲げ、街頭で客を集める広告に先がけた。当時の呉服の商いは座売りで、客を店座敷に座らせ、番頭が奥から反物を運んで見せる形をとる。一人の客に一人の店員が付くため、店が扱える客数は店員の数で決まり、品目を増やしても見せる手が足りなかった[3]。
明治33年10月、三越は本店の全階を陳列場とし、従来の座売りを全廃して総陳列式の販売へ移った。客が自分で商品を見て選ぶ形になれば、店員一人あたりの応対客数は増え、売場に並べる品目も番頭の熟練から離れる。呉服以外を扱う前提は、宣言の4年前にこの改造で整っていた。『会社銀行八十年史』は明治28年からの一連の動きを「着々新時代に順応する態勢を整えた」と記している[4]。
決断
株式会社化と同じ月に出した宣言
明治37年(1904年)12月10日、三越は資本金50万円で株式会社三越呉服店として設立され、越後屋以来の事業を継承したうえで「デパートメントストア宣言」を発した。創立者は三井銀行の支配人から越後屋呉服店に入った日比翁助氏である。『会社銀行八十年史』は、わが国の百貨店事業の創始をこの設立の時点に置いた。売場の改造を終えた店が、会社の形を変えた月に扱う品目を広げる意思を対外へ示した点に、この判断の要がある[5][6]。
宣言後に採った方針は、日露戦争後の経済的発展と、いっそう活発になった生活風俗の欧米化に歩調を合わせるものであった。三越は呉服以外の販売商品の種類を増やし、41年には洋風三階建の新建築を完成させて百貨店としての形態を整えている。ただし『会社銀行八十年史』は、三越呉服店への改称後の10年間に営業の一切にわたる改革が行われたと記す。宣言は改革の開始を告げるものではなく、すでに終えた売り方の改造を新しい会社の名で確認する行為だったとみられる[7]。
結果
部門が揃うまでの十年
設立後の三越は、増資と店舗の建て替えを並行させた。明治40年に大阪支店を開き、41年6月には資本金を100万円へ増資して京城と大連に出張所を置いた。43年3月に200万円へ増資し、44年7月には五階建延4,000坪の建築へ着手する。宣言から6年余りで資本金を4倍にし、その資金を売場の面積に替えている。品目を増やす意思を実物の売場に移すには、呉服店の規模では足りなかった[8]。
大正3年9月、近代建築が竣工した。三越はこれを機に食料品と園芸の売場を新設し、百貨店としての部門を完備した。宣言から品目が揃うまでに、ちょうど10年が費やされている。呉服の陳列販売を採り入れた明治28年から数えれば19年になる。売り方の改造に5年、宣言までに4年、部門を揃えるのに10年という配分は、業態を替える作業の大半が売場の実物を作ることに費やされたのを示している[9]。
各店が同じ形へ収束した大正初頭
三越が百貨店施設の整備を進めると、各店が日を追ってこれにならった。建物は土蔵造りから鉄筋コンクリートの洋風建築へ改まり、大正初頭には各百貨店ともデパートメント・ストアーとしての態勢を整えるに至る。三越の宣言から10年ほどで、江戸期の呉服店を前身とする各社が同じ形に収束したことになる。ただし土足での出入りが認められるのは関東大震災の後で、当時はなお下足番を置いて上履きに履きかえさせていた[10]。
百貨店の第一の発展期は欧州大戦の前後にあたる。大戦の好景気で高級奢侈品の売行きが伸び、各店は富裕階級の愛顧を受けた。三越が部門を揃え終えた大正3年は、この好況に入る直前にあたる。売場の形を先に作った店が、需要の増えた時期をそのまま迎えた順序になる。その後、常設の実用品売場「三越マーケット」を開いた大正9年ごろには、「今日は帝劇、明日は三越」という標語が広く知られるようになった[11][12]。