総督府が資金を出し、線路も新設された財産も国有に帰属したまま、会社が持ったのは運営と収支の責任だけであった。それでも引き受けたのは、鮮満の連絡が明治四十四年の鴨緑江架橋以来すでに動いており、協定を重ねて他人の線とつなぐより、両側を一つの手で回すほうが速いと踏んでいたからだと思われる。会社は受託した朝鮮鉄道を「会社の一線」として扱いながら、運賃料金や貨物等級の諸規程は従来のままに置いた。
ただ、その形は七年八箇月で解けている。初年度の差引利益四百十三万円余のうち会社に残ったのは六十五万円余で、納付金を会社が補塡した年度もあった。所有せずに回す経営は、線路が伸びても取り分が伸びる仕組みにはなっていない。それでも昭和八年に満洲国国有鉄道と北鮮鉄道の受託が続いたのは、返還された記憶より、多年鉄道経営に習熟した会社という評価のほうが残ったからかもしれない。