南満洲鉄道朝鮮総督府管理の国有鉄道の受託経営と、鮮満両鉄道の一体運営

自社線だけを持つか、他者の線を預かって回すか——所有せずに経営だけを引き受けた最初の契約

時期 1917年7月
意思決定者(推定) 國澤新兵衞 理事長
論点 経営受託と鮮満連絡の一体化
概要
大正六年七月、南満洲鉄道が勅令第九十号にもとづき、朝鮮総督府の管理に属する国有鉄道の建設・改良・保存・運輸ならびに附帯業務一切の経営を受託した判断。自社線だけを運営してきた会社が、他者の所有する鉄道を預かって回す形をとった最初の例にあたる。
背景
朝鮮の鉄道は明治三十二年の京仁鉄道に始まり、京釜鉄道株式会社と日露戦役の軍用鉄道として急設された京義線などを政府が統監府に統一し、明治四十三年の朝鮮総督府設置とともにその管理へ移っていた。会社線とは明治四十四年十一月の鴨緑江架橋の竣工以来、連絡輸送が続いていた。
内容
総督府が建設・改良の資金を負担し、保存・運輸および附帯業務一切の経営を会社へ委託する委任契約を結んだ。損益は会社の別勘定とし、利益金のうち所定額を納付し、損失は翌年以後の利益で補塡する。大正七年七月には総督府支出額の百分の六を毎年納付する別契約が加わった。
含意
受託は大正六年七月三十一日から同十四年三月三十一日までの七年八箇月で解除され、朝鮮の鉄道は総督府の管理へ復帰した。ただし所有せずに経営だけを預かる型は残り、昭和八年の満洲国国有鉄道の受託経営と北鮮鉄道の受託へ引き継がれている。
筆者の見解

預かるという形が会社に教えたこと

総督府が資金を出し、線路も新設された財産も国有に帰属したまま、会社が持ったのは運営と収支の責任だけであった。それでも引き受けたのは、鮮満の連絡が明治四十四年の鴨緑江架橋以来すでに動いており、協定を重ねて他人の線とつなぐより、両側を一つの手で回すほうが速いと踏んでいたからだとみられる。会社は受託した朝鮮鉄道を「会社の一線」として扱いながら、運賃料金や貨物等級の諸規程は従来のままに置いた。

ただ、その形は七年八箇月で解けている。初年度の差引利益四百十三万円余のうち会社に残ったのは六十五万円余で、納付金を会社が補塡した年度もあった。所有せずに回す経営は、線路が伸びても取り分が伸びる仕組みにはなっていない。それでも昭和八年に満洲国国有鉄道と北鮮鉄道の受託が続いたのは、返還された記憶より、多年鉄道経営に習熟した会社という評価のほうが残ったからかもしれない。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

総督府の手に集まった半島の線路

朝鮮の鉄道は明治三十二年、京仁鉄道合資会社が京城・仁川間に線路を敷いたのが始まりである。同三十四年には京釜鉄道株式会社が成立して同三十七年に京釜線が開通し、日露戦役の軍用鉄道として急設された京義線その他の主要幹線を、同三十九年に帝国政府が統監府へ統一した。一時は鉄道院の所管に移されたが、同四十三年に朝鮮総督府が設置されると、あらためてその管理に属した[1]

会社線との往来は受託より六年前に始まっていた。明治四十四年十一月に安奉線の広軌が全通すると、朝鮮鉄道局が架けた鴨緑江橋梁の竣工によって朝鮮鉄道との連絡が成り、欧亜交通の要路が結ばれた。同じ月に国有朝鮮鉄道と会社線の各主要駅で連絡輸送の取扱が始まり、翌四十五年四月には朝鮮鉄道を経由して鉄道院線との連絡も完成している。線路はすでにつながっており、残っていたのは誰が回すかという問いであった[2]

決断

勅令第九十号と、経営を統一する必要

大正六年七月、勅令第九十号により、朝鮮総督府の管理に属する国有鉄道の建設、改良、保存および運輸ならびに附帯業務の一切を会社に委託経営させることとなった。会社が業務を預かったのは同年七月三十一日からである。会社の首座がその同じ日に動いており、総裁・副総裁を廃して理事長一人を置く体制へ改まり、國澤新兵衞が理事長に任命された。組織の作り替えと、外の鉄道を預かる決定とが同じ日付に並んでいる[3][4]

会社が挙げた理由は接続の事実そのものであった。朝鮮と満洲は疆土が相接して古来交通経済その他に密接な関係を持ち、年々の交通貿易の発達によって緊密の度は深まり、唇歯輔車の観があった。であるから鮮満両鉄道の経営を統一してその機能を発揮させる必要を認め、総督府と委任契約を締結したのだと記している。連絡協定を重ねるより、両側を一つの手で回すほうが速いという判断であった[5]

所有は渡らず、損益だけを別勘定で背負う

契約の要旨は二点であった。総督府は朝鮮における国有鉄道の建設と改良の資金を負担したうえで、保存、運輸および附帯業務一切の経営を会社に委託する。朝鮮国有鉄道の損益は会社の別勘定とし、利益金のうち所定の金額を納付して、損失が出たときは翌年以後の利益で補塡する。線路も新設の資金も総督府に残り、会社が持ったのは運営と収支の責任だけである。受託後は朝鮮鉄道を会社の一線として取り扱ったが、運賃料金および貨物等級の諸規程は従来のままに据え置いた[6][7]

納付の条件は二度書き換えられた。大正七年七月の別契約で、会社は総督府支出額に対する百分の六に相当する金額を毎年納付し、補充工事は毎年四十万円以下を会社が負担して、生じた財産は国有に帰属するものとされた。大正十年八月の別協定では、十一年度以降の三箇年度について九年度末までの支出額に百分の六、十年度以降の支出額に百分の四という二段の料率に改まっている[8]

結果

京釜線の改良と咸鏡線の建設、そして返還

受託の初年度から工事が動いた。大正六年八月一日から翌七年三月三十一日までの総益金は一千百四十三万七千七百円余、総損金は七百三十万六千九百八十二円余で、差引利益四百十三万七百十八円余のうち三百四十七万九千七百六十五円余を総督府へ納付し、六十五万九百五十三円余が会社の収得金となった。会社の取り分は利益の一割五分ほどで、累年の収支表には納付金を会社が補塡した年度も損として記されている[9][10]

工事の側では、大正六年に受託して以来、京釜線の改良工事と咸鏡線の建設工事が着々と進んだ。平壌炭礦線と美林・勝湖里間の線路を小野田セメント製造株式会社から買収して大正七年にそれぞれ営業を開始し、平壌・元山線は大正十一年度以降十箇年の継続事業に組み込まれた。営業哩数は大正五年度末の千六十六哩一分から、同十三年度末には千三百哩三分へ伸びている[11]

七年八箇月で解け、型だけが残る

受託は大正十四年四月に解除された。会社が業務を預かったのは大正六年七月三十一日から同十四年三月三十一日までの七年八箇月で、施工中の諸工事は委託解除と同時に全部を挙げて総督府へ移され、朝鮮の国有鉄道は再びその管理に復帰した。満史会が戦後にまとめた重要業務記録も、大正六年七月の受託経営と、大正十四年四月の返還を二行で並べている[12][13]

契約は解けても、預かって回す型は会社に残った。昭和八年二月九日、満洲国政府が国有既成鉄道の経営を会社に委託し、会社は三月一日に受託の旨を発表して奉天に鉄路総局を置いた。小鉄道が分立して経営が個々に行われる不利を正すには、多年満洲において鉄道経営に習熟した会社に統一を当たらせるのが最適当である、というのが委任の理由に挙げられている[14]

朝鮮総督府との関係も同じ年に結び直された。昭和八年十月一日、会社は総督の委託を受けて朝鮮国有鉄道咸鏡線のうち輸城・会寧間、清津線、会寧炭礦線および図們線とその附帯業務の経営に当たることとなり、従来の従事員を引き継ぎ、一部の社員を派遣して清津に北鮮鉄道管理局を設置し、即日業務を開始した。延長三百三十粁のC字形の線は、満洲国国有鉄道の京図線を北鮮の海港へつないだ[15]

出典・参考
  • 南満洲鉄道株式会社二十年略史(南満洲鉄道、1927年)
  • 満鉄の概要 1934年版(南満洲鉄道、1934年)
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史(南満洲鉄道、1937年)
  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)

免責事項およびポリシー