南満洲鉄道国営論と日米共同経営案の不採用、半官半民の特殊会社としての設立

国が直に営むか、米国資本と分け合うか——ポーツマス条約第七条が閉ざした国営の道

時期 1906年6月
意思決定者(推定) 児玉源太郎・小村寿太郎・後藤新平 参謀総長・設立委員長・外務大臣・総裁
論点 経営形態と国策の担い方
概要
1906年6月7日の勅令第百四十二号により、日露講和条約でロシアから譲り受けた長春旅順口間の鉄道を、政府直轄でも日米共同経営でもなく、半官半民の特殊会社に営ませることが公布された。形式は民営の株式会社、実体は国家の別働隊という東清鉄道会社型の設計である。
背景
引き継ぐ対象はロシアが八千万ルーブルを投じて建設し戦火で荒廃した鉄道で、改軌と車輛整備には新設と変わらぬ投資を要した。東清鉄道は1903年の開業以来、年々一〇〇〇万から一五〇〇万ルーブルの欠損を続けており、鉄道投資が採算に乗る見込みは薄かった。
内容
児玉源太郎・後藤新平が唱えた政府直轄の満州鉄道庁案は、ポーツマス条約第七条が満州鉄道を商工業目的に限ると定めたため実現困難となった。ハリマンとの日米共同経営の予備協定は小村寿太郎の反対で破棄され、京釜鉄道の前例に倣った特殊会社の形式に落着した。
含意
総裁・副総裁は勅裁を経て政府が任命し、株主総会が選ぶのは監事だけであった。一方で東清鉄道が一手に握っていた経営権・行政権・警察権・守備権は複数の機関に分割され、三頭政治とも四頭政治とも呼ばれる統一を欠いた体制が残った。
筆者の見解

条約の内側に国策を収めるという設計

ロシアが敷き、戦争の講和によって無償で移された鉄道である。事業を起こしたのではなく、荒廃した路線と年々一〇〇〇万ルーブル規模の欠損を引き受けたところから満鉄は始まった。児玉源太郎が構想した政府直轄の満州鉄道庁は、条約第七条が満州鉄道を商工業の目的に限ると縛った以上そのままでは置けない。形式を民営の会社とし実体を国家の別働隊とする解は、条文を満たしながら国営論の中身を温存する設計であり、国策を条約の内側へ収める作業だったとみることができる。

ただ、その設計は最初から歪みを抱えていた。後藤新平が東印度会社のような一元的な地位を求め、容れられぬまま条件付きで総裁に就いたことが示すように、東清鉄道が一手に握っていた経営権・行政権・警察権・守備権は満鉄と関東長官と領事と関東都督に分けられ、会社が担えたのは満州経営の一部だった。総裁人事も監督も政府が握りながら、その政府の側が一つにまとまっていない。国営を選べなかった代償は、会社の内側ではなく、満州経営そのものの統一を欠く形で残ったのかもしれない。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

戦勝で譲り受けた、ロシアの鉄道

1905年9月5日にアメリカ・ポーツマスで締結された日露講和条約は、第六条で長春(寛城子)旅順口間の鉄道および一切の支線と、同地方でこれに附属する一切の権利・特権・財産、該鉄道に属する炭礦を、無償で日本へ譲り渡すと定めた。第五条の関東州租借権と併せ、日本が満州で持つ権益の二大支柱がここで固まる。譲渡には清国政府の承認が条件として付いており、小村寿太郎外相が北京で慶親王と交渉を重ね、同年12月に北京条約の締結をみた[1]

引き継ぐのは、ロシアが八千万ルーブルを投じて建設し、戦火で荒廃した路線であった。軌幅が異なるため改軌と車輛整備には新設と変わらぬ新規投資を要し、その資本と資材はすべて外国からの供給に頼らざるを得ない。東清鉄道は1903年の開業以来、年々一〇〇〇万から一五〇〇万ルーブルの欠損を続けていた。当時の満州は経済的には漠然たる一種の可能性にすぎず、鉄道投資が容易に採算へ乗るとは考えられていなかった[2]

ロシアの復仇を前提にした経営論

戦後の満州をどう経営するかは、戦局が有利に展開しはじめた頃から各方面で討議されていた。鉄道の経営が根幹になるという一点で見解は一致していたが、経営の基本方策と、したがってその形態については意見が種々に岐れた。議論には二つの想定が強く影響している。一つはロシアの復仇必至論であり、いま一つは満州の経営が日本の経済国力に合わぬ巨大な負担になりはしないかという懸念であった[3]

復仇の予想は杞憂と言い切れるものではなかった。戦後ロシアの外交主導権はウィッテ、ローゼンら対日和協派が握っていたものの、軍部を中心とする膨脹主義の一派は依然として相当の勢力を持ち、ポーツマス条約は一種の休戦条約であり、国力の恢復を待って対日報復の一戦を起こすまでの手段にすぎないと公言して憚らぬ者さえいた。日露戦後の日本の国策はすべて第二次対露戦を前提としており、満州の経営とは予想戦場への戦略的展開に他ならなかった[4]

決断

政府直轄の満州鉄道庁という国営論

参謀総長児玉源太郎の国営論は、その前提に立つ代表であった。ポーツマス条約締結以前に立案された『満州経営策梗概』で児玉は、鉄道経営の仮面を装いつつ陰で百般の施設を実行することを戦後満州経営の要訣だとし、租借地内の統治機関と鉄道の経営機関を全く別個に置くよう説いた。想定したのは政府直轄の満州鉄道庁で、鉄道の営業のほか線路の守備、鉱山の採掘、移民の奨励、地方の警察、露清との交渉、軍事的諜報勤務までをそこに整理させるとした[5]

児玉とともに満鉄の設立を企画し、請われて初代総裁となった後藤新平も、就任の事由書で同じ地平に立っている。日露の戦争は満州の一戦で終わるものではなく第二の戦争がいずれ来る、日本は満州で常に主をもって客を制する地歩を占めねばならず、その成否は鉄道経営の巧拙にかかる、と後藤は述べた。そのための計として第一に鉄道の経営、第二に炭礦開発、第三に移民、第四に牧畜諸業の施設を挙げ、なかでも移民を要務とせよと説いている[6]

日米共同経営案とその破棄

もう一つの構想は、満鉄を第三国と共同経営して有事の際にその介入仲裁を期待し、併せて鉄道の再建と整備に要する尨大な資金・資材と、予想される巨大な赤字の分担を一挙に解決しようとするものであった。満鉄買収の意図をあらわにしたアメリカの鉄道王ハリマンが1905年8月に来日した折、横浜埠頭には朝野の名士や銀行界の巨頭が揃って出迎えた。戦後財政の整理に悩んだ井上侯爵が本気で交渉に応じたのも、この構想の延長にある[7]

1905年10月12日、ハリマンと日本政府代表の桂太郎首相との間に予備協定が成立する。買収した財産は両当事者が共同平等に所有し、経営は当面日本の管理下に置くが、事情の許す限り代表権と管理権を平等にしていく内容であった。だがハリマンの離日と入れかわりに帰国した講和会議の全権小村寿太郎が、国民の血をもって購った満州の地を国際資本の競争場裡に委ねるのは忍びがたいとして頑強に反対し、予備協約は破棄される。覚書無効の通告は1906年1月5日であった[8]

東清鉄道会社型の特殊会社へ

日米共営論が表面から消えた一方で、国営案もそのままでは立ち行かなくなっていた。ポーツマス条約第七条は、日露両国が各自の鉄道を全く商工業の目的に限り経営すると約している。政府直轄の鉄道庁を置けば、この条文と正面から衝突する。そこで形式を民営の会社とし、その実体は国家の別働隊とするという東清鉄道会社型に落着かざるを得なかった。設立委員長には現職の陸軍大臣が座り、半官半民の特殊会社が生まれることになる[9]

手本は京釜鉄道株式会社にあった。外国で国策的使命を持つ鉄道事業を営む会社の前例であり、満鉄の設立にはこのときの形式と手順がほぼ踏襲される。京釜のために公布された法律第八十七号を準拠法とし、新設会社は普通商法によらず勅令で特別規定を設けうるものとして、1906年6月7日に勅令第百四十二号が公布された。政府は自ら設立委員を置いて設立事務の一切を処理させ、社長および副社長——のちに総裁および副総裁と改称される——は勅裁を経て政府が任命することとされた[10]

結果

会社の中に置かれた政府と、分裂した監督権

会社に残された株主の権限は限られていた。総裁・副総裁は勅裁を経て政府が任命し、理事も株主のなかから政府が任命する。株主総会が選ぶのは監事だけである。勅令第十二条は監理官を置いて業務を監視させ、続く条文は命令権・決議取消権・役員解職権を政府に与えた。事業や出資関係、保護・保障事項、監督命令関係を網羅した三大臣命令書は、本来なら勅令や定款で定めるべき内容でありながら、対外関係への顧慮から公表を避けてこの形式を採ったといわれる[11]

監督権の所在は、設立以前から最大の政治問題であった。後藤新平は満鉄の地位を英国の東印度会社の如きものとし、それが叶わぬなら武官を総裁に充てることを希望したが容れられず、総裁は関東都督府の下に立つと同時に都督府顧問として外務大臣の監督下に立つという条件を付して1906年11月13日に就任した。東清鉄道が一手に握っていた経営権・付属地行政権・警察権・鉄道守備権は、満鉄と関東長官と領事と関東都督に分割され、三頭政治とも四頭政治とも呼ばれた[12][13]

出典・参考
  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
  • 満鉄の概要 1934年版(南満洲鉄道、1934年)

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