狭軌のままでも相当の利益は収められる、と会社自身が書いている。それでも三呎六吋を捨てたのは、満鉄線の値打ちが自線の輸送量ではなく、東清線と京奉線のあいだに立つ位置にあると踏んでいたからだろう。四呎八吋半への改築は政府命令書が課した義務であったが、期限まで一年十箇月を残して畳み、しかも狭軌の運転を一日も止めずに軌間を移した進め方は、義務の消化とは別の速度で動いていたとみられる。
ただ、揃えた先が南に限られていたことは、この工事の届かなかった範囲でもあった。北の東清鉄道は五呎のまま残り、長春での乗り継ぎが消えるのは京浜線の軌間狭少工事が済んだ1935年である。八百九十二万円余を投じて手にしたのは、世界交通系統への接続そのものではなく、大陸の南側の軌間へ自らを合わせた位置であった。残る半分は二十七年後、線路の向こう側が動くことでようやく埋まっている。