南満洲鉄道三呎六吋の狭軌から四呎八吋半への本線改築と、狭広軌併用による営業継続
軍用の狭軌を使い続けるか、大陸の軌間に自らを合わせるか——命令書第二条が課した三年の期限
- 概要
- 1907年5月、南満洲鉄道が本線および撫順・営口両支線の擴軌工事に着手し、戦時に敷き直された三呎六吋の狭軌を四呎八吋半へ改築した経営判断。狭軌の運転を止めずに工事を進め、1908年5月30日に全線で広軌列車の開通をみた。
- 背景
- 大本営は1904年4月、ロシアが敷いた五呎の軌道を三呎六吋へ改修する方針を定め、野戦鉄道提理部が応急に敷き直した。会社が1907年4月1日に引き継いだのはこの狭軌線であり、1906年8月1日交付の命令書第二条は営業開始から満三箇年以内の四呎八吋半への改築を命じていた。
- 内容
- 在来の狭軌の外側に一本または二本の軌条を加える三線式・四線式の狭広軌併用によって輸送を止めずに改築を進め、1908年4月30日に本線の試運転、5月20日から29日にかけて狭軌車輛を送還して広軌列車に入れ替えた。工事費は車輛費と器械場費を除き八百九十二万円余。
- 含意
- 内地の車輛をそのまま転用できる三呎六吋を捨て、清国の京奉線と同じ四呎八吋半へ寄せた選択であった。南の接続は開いたが北の東清鉄道は五呎のまま残り、長春の乗り継ぎが消えるのは京浜線の軌間改築が済んだ1935年である。
何に自らを合わせるかという選択
狭軌のままでも相当の利益は収められる、と会社自身が書いている。それでも三呎六吋を捨てたのは、満鉄線の値打ちが自線の輸送量ではなく、東清線と京奉線のあいだに立つ位置にあると踏んでいたからだとみられる。四呎八吋半への改築は政府命令書が課した義務であったが、期限まで一年十箇月を残して畳み、しかも狭軌の運転を一日も止めずに軌間を移した進め方は、義務の消化とは別の速度で動いていたとみることができる。
ただ、揃えた先が南に限られていたことは、この工事の届かなかった範囲でもあった。北の東清鉄道は五呎のまま残り、長春での乗り継ぎが消えるのは京浜線の軌間狭少工事が済んだ1935年である。八百九十二万円余を投じて手にしたのは、世界交通系統への接続そのものではなく、大陸の南側の軌間へ自らを合わせた位置であった。残る半分は二十七年後、線路の向こう側が動くことでようやく埋まっている。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
軍が敷き直した三呎六吋の線
ロシアが敷いた線路の軌間は五呎であった。大本営は1904年4月に満洲占領地内の東清鉄道を利用する方針を定め、軌道五呎を三呎六吋に改修することとして、6月に野戦鉄道提理部を東京で編成し遼東半島へ派遣した。提理部は大連にあって旅順方面と金州附近の線路から改修に着手し、軍の前進とともに1905年7月には昌図、8月には撫順支線まで及んだが、以後は軍が前進しなかったため昌図以北は改修されないまま講和を迎えた[1]。
昌図以北の線路は、1905年10月30日に福島安正が露国のオラノフスキーと四平街停車場で結んだ議定書に従い、1906年5月11日から8月1日までの間に授受された。提理部は直ちに改修に着手したが、鉄橋の破壊や材料の不備で工程は進まず、9月6日に双廟子、10月1日に公主嶺、11月11日に孟家屯まで列車を動かすのがやっとであった。会社が1907年4月1日に引き継いだのは、こうして応急に敷き直された三呎六吋の狭軌線である[2][3]。
命令書第二条の三年と、営利では説明のつかない任務
1906年8月1日に外務・大蔵・逓信の三大臣が交付した命令書は、第二条で、前条に挙げた鉄道を会社の営業開始の日から起算して満三箇年以内に四呎八吋半の軌間へ改築せよと命じ、あわせて大連蘇家屯間の複線化を求めた。業務開始は1907年4月1日であるから、総哩数六百七十七・七七の七線を作り替える期限は1910年の春に来る。創立直後の当面の問題は、この一条であった[4][5]。
狭軌のままでも商売は成り立つ。会社自身が後年、『南満洲鉄道が単に営利一方の事業であるならば、従来の狭軌線でも相当の利益を収むる事は困難ではない』と書き残している。それでも軌間を替えねばならなかったのは、満鉄線が一方でロシアの東清線と接続し、他方で清韓両国線と連絡して世界交通系統の一部をなすという任務を負っていたからであり、擴軌工事が設立命令書の冒頭に規定された所以もそこにあった。自線の採算だけを取れば、この工事は割に合わない[6]。
決断
運転を止めずに軌間を替える
会社は1907年5月、政府命令書の示すところに拠って本線および支線の擴軌事業に着手した。難しかったのは工事そのものより、狭軌鉄道の運転を休止せずに改築を進めるという条件である。苦心惨憺の末に採られたのは、在来の狭軌の外側に一本または二本の軌条を加える三線式または四線式の狭広軌併用の運転法であった。線路を二重に持つ負担を引き受けてでも、輸送を止めない側を選んだことになる[7]。
工事は材料の延着に悩まされ、氷点下四十度の寒気のなかを万難を排して昼夜兼行で進められた。その結果、着手から一年に満たない1908年4月30日までに、本線の試運転を挙行するところまで漕ぎ着けている。命令書の期限は1910年の春であったから、三年の猶予のうち最初の一年で本線の目処が立った勘定になる。与えられた期間を丸ごと使い切る前提の工程ではなかった[8]。
四呎八吋半という寄せ先
選ばれた四呎八吋半は、ロシアの五呎でもなければ、それまで走っていた三呎六吋でもない。三呎六吋は日本の機関車や客車をそのまま転用できるよう戦時に敷き直された軌間であり、これを捨てることは、内地との車輛の融通を手放すことでもあった。それでも寄せ先に選ばれたのは大陸側の標準の方である。のちに安奉線を改築した際、日清間で調印された覚書は軌道を京奉線と同様とすると定めており、その京奉線の軌間が四呎八吋半である[9]。
車輛の入替は開通に合わせて仕組まれた。本線と撫順・営口両支線の竣工が近づくと、あらかじめ各主要駅へ広軌車輛を廻送しておき、1908年5月20日から29日にかけて長春方面から順次南へ狭軌車輛を送り返し、これに代えて広軌列車を走らせた。5月30日、全線で広軌列車の開通をみる。工事費は車輛費と器械場費を除いて八百九十二万円余であった[10]。
結果
期限を残して畳んだことが次に許したもの
全線の広軌開通は1908年5月30日で、1907年5月の着手から一年一箇月、命令書の期限までなお一年十箇月を残していた。開業初年度にあたる1907年の運輸収入は総額九百七十七万円にすぎなかったが、1917年には約三倍半の三千四百五十万円に達し、1927年には約十倍の一億一千三百万円へ膨らんでいる。八百九十二万円余という工事費は、初年度の運輸収入に近い額であった[11]。
命令書第二条は擴軌と並べて大連蘇家屯間の複線化を命じており、この工事もほとんど同じ1907年5月に着手して1909年10月27日に全部開通し、総額千十八万円余を要した。命令書は安奉線の標準軌改築を、最も緊急を要する大連長春間の擴軌工事と大連蘇家屯間の複線工事の次に着手すべき工事としており、会社は1909年1月から清国との交渉に入る。本線の軌間を揃えることは、その順序の一段目であった[12][13]。
北へ揃うまでの二十七年
四呎八吋半に寄せたことで南は京奉線とつながったが、北の東清鉄道は五呎のまま残った。終点の寛城子停車場をめぐる紛争は1907年4月に露都で成立した協定で決着し、南満洲鉄道の停車場は孟家屯の北方四千米の十里堡に置かれる。南北の鉄道はそこで背中合わせに終わった。満鉄の経営は創業以来おおむね順調であったが、その間には東支鉄道との集荷競争があり、旧東三省政権の利権回収運動にともなう満鉄線包囲政策にも苦しんでいる[14][15]。
軌間が北まで一本に揃うのは1935年である。同年9月1日、旧北鉄の京浜線の軌間狭少工事が完了すると同時に、特別急行アジア号の運転は新京から哈爾浜まで延びた。京浜線の軌間改築にともなう大連・哈爾浜間の直通運転は、従来の乗り継ぎに比べて七、八時間を縮めている。満鉄が1908年に選んだ軌間へ北満の線路の側が寄せられるまでに、二十七年が経っていたことになる[16]。
- 満鉄の概要 1934年版(南満洲鉄道、1934年)
- 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)