1906年〜 鉄道と炭鉱の引継から附属地の経営までを担った創業期
南満洲鉄道の業績推移:単体
- 1906年 国営論と日米共同経営案の不採用、半官半民の特殊会社としての設立 国が直に営むか、米国資本と分け合うか——ポーツマス条約第七条が閉ざした国営の道
- 1906年 募集9万9000株に対する1億664万株の応募
- 1906年 後藤新平の初代総裁就任
- 1906年 設立登記の完了
- 1907年 鉄道と撫順・煙台炭坑の引継と大連本社での営業開始
- 1907年 三呎六吋の狭軌から四呎八吋半への本線改築と、狭広軌併用による営業継続 軍用の狭軌を使い続けるか、大陸の軌間に自らを合わせるか——命令書第二条が課した三年の期限
- 1908年 本線と撫順・営口支線の全線広軌列車開通
勅令と命令書が定めた鉄道七線と附帯事業の範囲
南満洲鉄道の営業権は、会社が発足する前から売買と国際交渉の対象になった。日露媾和条約第六条は、長春(寛城子)旅順口間の鉄道と一切の支線、これに附属する権利・特権・財産、および鉄道の利益のために経営される一切の炭坑を、補償を受けることなく清国政府の承諾をもって日本へ移転譲渡すると定めた[1]。譲渡が固まらないうちに米国の鉄道経営者ハリマンが買収を持ちかけ、1905年10月12日付で桂太郎との予備覚書が成立したが、帰朝した外相小村寿太郎が反対して取消となった[2]。米国はその後も国務卿ノックスを通じて、満洲の諸鉄道を清国に買収させて中立の地位に置き、列強六国で共同監督にあたる案を英・独・仏・日・露へ通達したが、日露両国政府は1910年1月21日に拒絶の回答を発した[3]。
- 満鉄の概要 1934年版 二、會社の創立事情
- [1]日露媾和条約第六条は、長春(寛城子)旅順口間の鉄道と一切の支線、附属する権利・特権・財産、および鉄道の利益のために経営される一切の炭坑を、補償を受けることなく清国政府の承諾をもって日本へ移転譲渡すると定めた。
- 満鉄の概要 1934年版 一、滿鐵中心の外交
- [2]米国の鉄道王ハリマンが満鉄買収を策し、1905年10月12日付で日本政府代表桂太郎との間に予備覚書が成立したが、ポーツマス条約を携えて帰朝した外相小村寿太郎が反対し、覚書は取消と定められた。
- [3]国務卿ノックスが英・独・仏・日・露の五国に対し、満洲の諸鉄道を清国に買収させて中立の地位に置き、列強六国で共同監督にあたる案を提議したが、日露両国政府は1910年1月21日に拒絶の回答を発した。
鉄道が日本の手に残ったのち、政府は経営を国家が直接担うか会社に委ねるかを議論し、株式会社組織を採った[4]。南満洲鉄道株式会社設立の件と題する勅令第百四十二号は1906年6月7日に公布され、満洲地方で鉄道運輸業を営ませること、株式をすべて記名として日清両国政府および日清両国人に限り所有できること、日本政府が満洲の鉄道・附属財産・炭坑をもって出資に充てうることを定め、総裁一人・理事四人以上・監事三人ないし五人を置くとした[5]。7月13日、陸軍大将児玉源太郎が設立委員長を、あわせて八十名が設立委員を命じられたが、児玉大将は7月24日に薨去し、翌25日、陸軍大臣寺内正毅が設立委員長を引き継いだ[6]。
- 満鉄の概要 1934年版 二、會社の創立事情
- [4]本鉄道の経営を国家経営とするか会社事業とするかについて議論があったが、結局、株式会社組織を採用した。
- [5]1906年6月7日、勅令第百四十二号「南満洲鉄道株式会社設立の件」を公布。第一条で満洲地方の鉄道運輸業、第二条で株式は総て記名とし日清両国政府及び日清両国人に限り所有、第三条で日本政府が満洲の鉄道・附属財産・炭坑を出資に充当、第七条で総裁一人・理事四人以上・監事三人ないし五人を規定した。
- [6]1906年7月13日、陸軍大将児玉源太郎が設立委員長を仰付けられ、同時に八十名の設立委員も任命された。児玉大将は7月24日に薨去し、25日に陸軍大臣寺内正毅が設立委員長を仰付けられた。
1906年8月1日、外務・大蔵・逓信の三大臣が設立委員長に命令書を交付した。第一条は大連長春間、南関嶺旅順間、大房身柳樹屯間、大石橋営口間、煙台煙台炭坑間、蘇家屯撫順間、奉天安東県間の総哩数六七七・七七の運輸業を命じ、第二条は営業開始の日から満三年以内に四呎八吋半の軌間へ改築すること、大連蘇家屯間を複線とすることを求めた[7]。第四条は鉄道の便益のための附帯事業として、撫順および煙台の炭坑採掘を含む鉱業、水運業、電気業、倉庫業、鉄道附属地における土地および家屋の経営を挙げ、第五条は用地内の土木・教育・衛生に関する施設を、第六条は用地内の居住民からの手数料徴収と費用の分賦を認めた[8]。
- 満鉄の概要 1934年版 二、會社の創立事情
- [7]1906年8月1日、外務・大蔵・逓信大臣より命令書が交付された。第一条は大連長春間・南関嶺旅順間・大房身柳樹屯間・大石橋営口間・煙台煙台炭坑間・蘇家屯撫順間・奉天安東県間(総哩数六七七・七七)の運輸業、第二条は営業開始の日より満三箇年以内に四呎八吋半の軌間へ改築し、大連蘇家屯間を複線とすることを定めた。
- [8]命令書第四条は附帯事業として鉱業(殊に撫順及び煙台の炭坑採掘)・水運業・電気業・倉庫業・鉄道附属地における土地及び家屋の経営等を掲げ、第五条は用地内の土木・教育・衛生等に関する施設、第六条はその経費を支弁するため用地内居住民からの手数料徴収と費用分賦を認めた。
- 満鉄の概要 1934年版 二、會社の創立事情
- [1]日露媾和条約第六条は、長春(寛城子)旅順口間の鉄道と一切の支線、附属する権利・特権・財産、および鉄道の利益のために経営される一切の炭坑を、補償を受けることなく清国政府の承諾をもって日本へ移転譲渡すると定めた。
- [4]本鉄道の経営を国家経営とするか会社事業とするかについて議論があったが、結局、株式会社組織を採用した。
- [5]1906年6月7日、勅令第百四十二号「南満洲鉄道株式会社設立の件」を公布。第一条で満洲地方の鉄道運輸業、第二条で株式は総て記名とし日清両国政府及び日清両国人に限り所有、第三条で日本政府が満洲の鉄道・附属財産・炭坑を出資に充当、第七条で総裁一人・理事四人以上・監事三人ないし五人を規定した。
- [6]1906年7月13日、陸軍大将児玉源太郎が設立委員長を仰付けられ、同時に八十名の設立委員も任命された。児玉大将は7月24日に薨去し、25日に陸軍大臣寺内正毅が設立委員長を仰付けられた。
- [7]1906年8月1日、外務・大蔵・逓信大臣より命令書が交付された。第一条は大連長春間・南関嶺旅順間・大房身柳樹屯間・大石橋営口間・煙台煙台炭坑間・蘇家屯撫順間・奉天安東県間(総哩数六七七・七七)の運輸業、第二条は営業開始の日より満三箇年以内に四呎八吋半の軌間へ改築し、大連蘇家屯間を複線とすることを定めた。
- [8]命令書第四条は附帯事業として鉱業(殊に撫順及び煙台の炭坑採掘)・水運業・電気業・倉庫業・鉄道附属地における土地及び家屋の経営等を掲げ、第五条は用地内の土木・教育・衛生等に関する施設、第六条はその経費を支弁するため用地内居住民からの手数料徴収と費用分賦を認めた。
- 満鉄の概要 1934年版 一、滿鐵中心の外交
- [2]米国の鉄道王ハリマンが満鉄買収を策し、1905年10月12日付で日本政府代表桂太郎との間に予備覚書が成立したが、ポーツマス条約を携えて帰朝した外相小村寿太郎が反対し、覚書は取消と定められた。
- [3]国務卿ノックスが英・独・仏・日・露の五国に対し、満洲の諸鉄道を清国に買収させて中立の地位に置き、列強六国で共同監督にあたる案を提議したが、日露両国政府は1910年1月21日に拒絶の回答を発した。
応募一億六百六十万株と大連本社での営業開始
命令書は資本総額を二億円と定め、うち一億円を日本政府の出資に充てた。政府出資は既成の鉄道とこれに附属する一切の財産、撫順および煙台の炭坑から成り、日本政府は創立後十五箇年間を限り年六分の利益配当を保証した[9]。一株の金額は当初二百円で、1915年に百円へ改められた[10]。会社は1906年9月10日に第一回株式十万株、二千万円の募集を開始し、10月5日の締切までに、重役持株の千株を除く所要高九万九千株に対して一億六百六十四万三千四百十八株、一万千四百六十七人の申込を集め、按分比例と抽籤によって分配するほかなくなった[11]。11月7日には、募集金額の十分の一にあたる一株二十円、総額二百万円の第一回払込と、政府出資財産の価格一億円の払込手続を終えた[12]。
- 満鉄の概要 1934年版 二、會社の創立事情
- [9]命令書第七条は資本総額を二億円とし、うち一億円を帝国政府の出資と定めた。第八条により政府出資は既成の鉄道、その鉄道に附属する一切の財産、撫順及び煙台の炭坑から成る。創立後十五箇年間を限り日本政府が年六分の利益配当を保証した。
- [10]各株式の金額は当初二百円であったが、大正四年に百円に改正された。
- [11]1906年9月10日に第一回株式十万株(二千万円)の募集を開始し、10月5日に締め切ったところ、所要高九万九千株(千株は重役持株)に対し総申込株数一億六百六十四万三千四百十八株、総申込人一万千四百六十七人となり、按分比例および抽籤等の方法により分配した。
- [12]1906年11月7日、十万株に対する第一回払込として募集金額の十分の一にあたる一株二十円、総額二百万円と、政府の出資財産価格一億円の払込手続を了えた。
初代総裁となった後藤新平氏は、就任を容易に承知しなかった。満鉄経営の中心は鉄道でなければならないのに会社を統理する中心点が定まらず、一方で関東都督の監督を受け、他方で外務大臣の指揮を仰ぐ三頭の体制では植民地経営の大任を果たせない、というのが後藤新平氏の言い分だった[13]。畏敬する児玉大将の訃報に接した後藤新平氏は、満鉄総裁は関東都督の下に立つと同時に都督府顧問として外務大臣の監督下に立ち、都督府行政の一切に与るという条件を付けて8月1日に承諾し、その経緯を8月22日、山県元帥・西園寺首相・林外相へ回覧した満鉄総裁就職情由書に記した[14]。後藤新平氏は台湾総督府民政長官から転じ、11月13日に総裁を仰せ付けられた[15]。
- 満鉄の概要 1934年版 三、滿鐵と後藤總裁
- [13]後藤新平は当初、満鉄経営の中心は鉄道でなければならないのに会社統理の中心点が明らかでなく、一方に関東都督の監督を受けるとともに他方で外務大臣の指揮を仰ぐようでは満鉄総裁として植民地経営の大任を全うできないとして、三頭政治の弊を挙げ就任を肯んじなかった。
- [14]畏敬する児玉大将の訃に遭い、後藤新平は「満鉄総裁は関東都督の下に立つと同時に都督府顧問として外務大臣監督の下に立ち都督府行政の一切を与り聴くべし」との条件で8月1日に就任を承諾した。この経緯は1906年8月22日に山県元帥・西園寺首相・林外相の回覧に供した満鉄総裁就職情由書に詳述されている。
- [15]初代総裁後藤新平は1906年11月13日付で台湾総督府民政長官より転じて満鉄総裁に就任した。
11月26日の創立総会では、寺内委員長が監事五名を指名し、後藤新平総裁と副総裁の中村是公氏および各理事を株主に紹介した。翌27日、会社は東京市麻布区狸穴町四番地に本社を置き、寺内委員長代理の関宗喜委員と後藤新平総裁代理の中村是公氏が、設立事務所で一切の事務と財産目録の授受を終えた[16]。12月7日には設立の登記を完了し、会社は成立をみた[17]。中村是公氏は12月20日、六理事とともに満洲の状況視察と引継準備のため東京を発ち、翌年2月11日に仮事務所を開いた[18]。1907年3月には勅令が改正されて本社を大連、支社を東京に置くこととなり、会社は野戦鉄道提理部などの官憲から鉄道その他の引継を受け、大連の本社事務所で4月1日から業務を開始した[19]。
- 満鉄の概要 1934年版 二、會社の創立事情
- [16]1906年11月26日の創立総会で寺内委員長が監事五名を指名し、後藤総裁・中村是公副総裁及び各理事を株主に紹介した。11月27日に本社を東京市麻布区狸穴町四番地に設置し、寺内委員長代理関宗喜委員と後藤総裁代理中村副総裁が設立事務所で一切の事務及び財産目録の接受を結了した。
- [19]1907年3月に勅令が改正され、会社は本社を大連に、支社を東京に置くこととなった。会社は野戦提理部等の官憲より鉄道その他の引継を受け、大連に本社事務所を設置して1907年4月1日より業務を開始した。
- 南満洲鉄道株式会社三十年略史 會社の成立
- [17]1906年12月7日、会社設立の登記を了し、ここに会社は完全に成立を見た。
- [18]1906年12月20日、中村副総裁は六理事とともに満洲の状況視察と引継準備のため東京を出発し、翌年2月11日に初めて仮事務所を開設した。
- 満鉄の概要 1934年版 二、會社の創立事情
- [9]命令書第七条は資本総額を二億円とし、うち一億円を帝国政府の出資と定めた。第八条により政府出資は既成の鉄道、その鉄道に附属する一切の財産、撫順及び煙台の炭坑から成る。創立後十五箇年間を限り日本政府が年六分の利益配当を保証した。
- [10]各株式の金額は当初二百円であったが、大正四年に百円に改正された。
- [11]1906年9月10日に第一回株式十万株(二千万円)の募集を開始し、10月5日に締め切ったところ、所要高九万九千株(千株は重役持株)に対し総申込株数一億六百六十四万三千四百十八株、総申込人一万千四百六十七人となり、按分比例および抽籤等の方法により分配した。
- [12]1906年11月7日、十万株に対する第一回払込として募集金額の十分の一にあたる一株二十円、総額二百万円と、政府の出資財産価格一億円の払込手続を了えた。
- [16]1906年11月26日の創立総会で寺内委員長が監事五名を指名し、後藤総裁・中村是公副総裁及び各理事を株主に紹介した。11月27日に本社を東京市麻布区狸穴町四番地に設置し、寺内委員長代理関宗喜委員と後藤総裁代理中村副総裁が設立事務所で一切の事務及び財産目録の接受を結了した。
- [19]1907年3月に勅令が改正され、会社は本社を大連に、支社を東京に置くこととなった。会社は野戦提理部等の官憲より鉄道その他の引継を受け、大連に本社事務所を設置して1907年4月1日より業務を開始した。
- 満鉄の概要 1934年版 三、滿鐵と後藤總裁
- [13]後藤新平は当初、満鉄経営の中心は鉄道でなければならないのに会社統理の中心点が明らかでなく、一方に関東都督の監督を受けるとともに他方で外務大臣の指揮を仰ぐようでは満鉄総裁として植民地経営の大任を全うできないとして、三頭政治の弊を挙げ就任を肯んじなかった。
- [14]畏敬する児玉大将の訃に遭い、後藤新平は「満鉄総裁は関東都督の下に立つと同時に都督府顧問として外務大臣監督の下に立ち都督府行政の一切を与り聴くべし」との条件で8月1日に就任を承諾した。この経緯は1906年8月22日に山県元帥・西園寺首相・林外相の回覧に供した満鉄総裁就職情由書に詳述されている。
- [15]初代総裁後藤新平は1906年11月13日付で台湾総督府民政長官より転じて満鉄総裁に就任した。
- 南満洲鉄道株式会社三十年略史 會社の成立
- [17]1906年12月7日、会社設立の登記を了し、ここに会社は完全に成立を見た。
- [18]1906年12月20日、中村副総裁は六理事とともに満洲の状況視察と引継準備のため東京を出発し、翌年2月11日に初めて仮事務所を開設した。
炭鉱と移民を見据えた方針と三年の期限が課した改築
後藤新平総裁が引き受けた事業の輪郭は、設立委員長の児玉源太郎大将が描いていた。就職情由書に引かれた児玉大将の構想は、第二の日露戦争を予想してその成否は鉄道経営の巧拙にかかるとし、第一に鉄道の経営、第二に炭礦開発、第三に移民、第四に牧畜諸業の施設を挙げ、なかでも移民を要務に据えた。鉄道経営によって十年のうちに五十万の国民を満洲へ移入できれば、露国も容易に戦端を開けないという筋立てであった[20]。後藤新平総裁は副総裁以下の人選を一任され、最年長の副総裁の中村是公氏が四十一、二歳、国沢新兵衛や岡松参太郎ら理事八名はいずれも三十三、四歳から四十歳未満という陣容を組んだ[21]。就任から一年九箇月を経た1908年7月14日、後藤新平総裁は桂内閣の逓信大臣として入閣し、勅令一七九号で満鉄の監督権が逓信大臣へ移ったのを見届けて総裁を辞した[22]。
- 満鉄の概要 1934年版 三、滿鐵と後藤總裁
- [20]満鉄総裁就職情由書に記された設立委員長児玉源太郎大将の構想は、第二の日露戦争を予想し、その成敗は一に鉄道経営の巧拙にあるとして、第一に鉄道の経営、第二に炭礦開発、第三に移民、第四に牧畜諸業の施設を挙げ、なかでも移民を要務とし、鉄道経営により十年を出でずに五十万の国民を満洲へ移入できれば露国も漫に戦端を開けないとした。
- [21]後藤初代総裁は就任にあたり副総裁はじめ理事の人選を一任され、副総裁中村是公の四十一、二歳を最年長とし、理事国沢新兵衛・久保田政周・清野長太郎・犬塚信太郎・田中清次郎・久保田勝美・野々村金五郎・岡松参太郎の八氏はいずれも三十三、四歳より四十歳未満であった。
- [22]就任以来一年九箇月を経た1908年7月14日、後藤総裁は桂内閣の逓信大臣として入閣し、勅令一七九号により満鉄の監督権が逓信大臣に移管されるに及んで満鉄総裁を辞した。
引き継いだ線路は三呎六吋の狭軌で、戦時輸送のために日本の機関車や客車をそのまま転用できるよう応急的に改築されていた。会社は1907年5月に本線と支線の擴軌工事へ着手し、狭軌の運転を止めずに改築を進めるため、在来の軌条の外側に一本または二本を足す三線式と四線式の狭広軌併用の運転法を採った[23]。氷点下四十度の寒気のなかを昼夜兼行で工事を進めて1908年4月30日までに本線の試運転にこぎ着け、5月20日から29日にかけて長春方面から順に狭軌車輛を送還して、5月30日に全線の広軌列車開通をみた。工事費は車輛費と器械場費を除いて八百九十二万円余となった[24]。大連蘇家屯間の複線工事も同じ1907年5月に始まり、1909年10月27日に全部が開通した。総額は千十八万円余に上った[25]。
- 満鉄の概要 1934年版 五、擴軌及複線工事
- [23]会社創立直後の当面の問題は命令書第二条により三箇年以内に全線を四呎八吋半の広軌式に改築することであった。引き継いだ南満洲鉄道は戦時輸送用として日本の機関車・客車をそのまま転用しうるよう応急的に改築された三呎六吋の狭軌線であり、会社は1907年5月に擴軌事業へ着手し、狭軌鉄道の運転を休止せず改築を進めるため在来の狭軌の外側に一本または二本の軌条を加えた三線式・四線式の狭広軌併用の運転法を採用した。
- [24]氷点下四十度の寒気を物ともせず昼夜兼行で工事を進め、1908年4月30日までに本線の試運転を挙行し、5月20日から29日にわたり長春方面より順次南方に狭軌車輛を送還して広軌列車に代え、5月30日に全線広軌列車の開通を見た。工事費は車輛費及び器械場費を除き八百九十二万円余である。
- [25]大連蘇家屯間の複線工事も広軌改築工事とほぼ同じく1907年5月に着手し、1909年10月27日に全部開通した。工事に要した費用の総額は千十八万円余である。
安奉線は、日露戦争中に第一軍の軍器糧秣を運ぶため敷かれた軌間二呎六吋の軽便鉄道で、1905年12月3日に全線約二百哩が竣工した。日清満洲善後協約附属第六条で恒久の交通機関と定められ、会社は1907年4月1日の創業とともに野戦鉄道提理部から引き継いだ[26]。標準軌への改築には清国との協議が要り、1909年1月に始めた交渉で清国側は6月24日、擴軌を許さないと回答した。日本政府は8月6日、条約上の権利に基づき単独で改築すると伊集院公使を通じて通告し、清国政府は13日に協力を表明し、19日に軌道を京奉線と同様とする覚書が調印された。日本は交換条件として、9月4日の間島協約で間島の主権を清国に認めた[27]。工事は8月7日の福金嶺隧道着工に始まり、橋梁二〇五箇所、隧道二十四箇所を越えて二年三箇月後の1911年11月1日に全線が開通し、従来二日の行程は六時間に縮まった[28]。
- 満鉄の概要 1934年版 六、安奉線の改築
- [26]安奉線軽便鉄道は日露交戦中に第一軍の軍器糧秣を輸送する目的で建設された一時的輸送機関で、軌間二呎六吋の軽便式として1904年8月に臨時鉄道大隊により安東県から起工され、1905年12月3日に全線約二百哩が竣工した。1905年12月に北京で締結された日清満洲善後協約附属第六条により永久的の平和交通機関とすることとなり、1907年4月1日の満鉄創業とともに野戦鉄道提理部より引継を受けた。
- [27]会社は1909年1月より清国に対し公然と交渉を開始したが、6月24日に清国側は安奉線の工事は現在線路の改良にとどめ擴軌工事及び線路の更改を許さないと回答した。日本政府は8月6日、在清国伊集院公使をして条約上の権利に基づき自ら改築を実行すると通告させ、清国政府は13日に復牒して協力の意志を表明、19日に軌道を京奉線と同様とする等の覚書が調印された。改築問題解決の交換条件として日本は1909年9月4日調印の間島に関する協約で間島における清国の主権を容認した。
- [28]改築工事は1909年8月7日の福金嶺隧道着工に始まり、橋梁二〇五箇所、隧道二十四箇所という難工事に加え水災・悪疫の障害もあったが、予期に先立つこと十箇月、二年三箇月をもって1911年11月1日に全線の開通を見た。従来二日の行程は僅かに六時間に短縮された。
- 満鉄の概要 1934年版 三、滿鐵と後藤總裁
- [20]満鉄総裁就職情由書に記された設立委員長児玉源太郎大将の構想は、第二の日露戦争を予想し、その成敗は一に鉄道経営の巧拙にあるとして、第一に鉄道の経営、第二に炭礦開発、第三に移民、第四に牧畜諸業の施設を挙げ、なかでも移民を要務とし、鉄道経営により十年を出でずに五十万の国民を満洲へ移入できれば露国も漫に戦端を開けないとした。
- [21]後藤初代総裁は就任にあたり副総裁はじめ理事の人選を一任され、副総裁中村是公の四十一、二歳を最年長とし、理事国沢新兵衛・久保田政周・清野長太郎・犬塚信太郎・田中清次郎・久保田勝美・野々村金五郎・岡松参太郎の八氏はいずれも三十三、四歳より四十歳未満であった。
- [22]就任以来一年九箇月を経た1908年7月14日、後藤総裁は桂内閣の逓信大臣として入閣し、勅令一七九号により満鉄の監督権が逓信大臣に移管されるに及んで満鉄総裁を辞した。
- 満鉄の概要 1934年版 五、擴軌及複線工事
- [23]会社創立直後の当面の問題は命令書第二条により三箇年以内に全線を四呎八吋半の広軌式に改築することであった。引き継いだ南満洲鉄道は戦時輸送用として日本の機関車・客車をそのまま転用しうるよう応急的に改築された三呎六吋の狭軌線であり、会社は1907年5月に擴軌事業へ着手し、狭軌鉄道の運転を休止せず改築を進めるため在来の狭軌の外側に一本または二本の軌条を加えた三線式・四線式の狭広軌併用の運転法を採用した。
- [24]氷点下四十度の寒気を物ともせず昼夜兼行で工事を進め、1908年4月30日までに本線の試運転を挙行し、5月20日から29日にわたり長春方面より順次南方に狭軌車輛を送還して広軌列車に代え、5月30日に全線広軌列車の開通を見た。工事費は車輛費及び器械場費を除き八百九十二万円余である。
- [25]大連蘇家屯間の複線工事も広軌改築工事とほぼ同じく1907年5月に着手し、1909年10月27日に全部開通した。工事に要した費用の総額は千十八万円余である。
- 満鉄の概要 1934年版 六、安奉線の改築
- [26]安奉線軽便鉄道は日露交戦中に第一軍の軍器糧秣を輸送する目的で建設された一時的輸送機関で、軌間二呎六吋の軽便式として1904年8月に臨時鉄道大隊により安東県から起工され、1905年12月3日に全線約二百哩が竣工した。1905年12月に北京で締結された日清満洲善後協約附属第六条により永久的の平和交通機関とすることとなり、1907年4月1日の満鉄創業とともに野戦鉄道提理部より引継を受けた。
- [27]会社は1909年1月より清国に対し公然と交渉を開始したが、6月24日に清国側は安奉線の工事は現在線路の改良にとどめ擴軌工事及び線路の更改を許さないと回答した。日本政府は8月6日、在清国伊集院公使をして条約上の権利に基づき自ら改築を実行すると通告させ、清国政府は13日に復牒して協力の意志を表明、19日に軌道を京奉線と同様とする等の覚書が調印された。改築問題解決の交換条件として日本は1909年9月4日調印の間島に関する協約で間島における清国の主権を容認した。
- [28]改築工事は1909年8月7日の福金嶺隧道着工に始まり、橋梁二〇五箇所、隧道二十四箇所という難工事に加え水災・悪疫の障害もあったが、予期に先立つこと十箇月、二年三箇月をもって1911年11月1日に全線の開通を見た。従来二日の行程は僅かに六時間に短縮された。