南満洲鉄道 の歴史

更新:

1906年、日露講和条約でロシアから譲り受けた長春旅順口間の鉄道を営む半官半民の特殊会社として設立。初代総裁後藤新平氏、撫順炭礦と大連築港、満洲国鉄道の受託経営、1945年の解散までの沿革を執筆。

創業

1906年

創業者

後藤新平

創業地

東京市麻布区狸穴町

直近売上高(1943/3)

1,106,265千円

南満洲鉄道:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(千円純利益率(%)
1914年3月期1943年3月期
Q 1907年の開業から、なぜ炭鉱も港も学校も病院まで持ったのか
A 鉄道の運賃だけで採算が立つとは見られていなかった。先を行く東清鉄道は1903年の開業以来、年1,000万ルーブル超の欠損を続けていた。運ぶ貨物も積み出す港も沿線の住民も、自前で用意するほかない。1906年の設立命令書は撫順と煙台の炭坑採掘、鉄道附属地(線路沿いに会社が経営した市街地)の土地家屋の経営を附帯事業に挙げ、附属地内の土木・教育・衛生の施設も命じた。1907年に大連で営業を始めた会社は、のちに小学校37、大学1、医院17か所を構えた。社員は1908年の1万3217人から1943年の29万6213人になった
Q なぜ満洲の鉄道を国が直接営まず、1906年に会社にしたのか
A 政府ははじめ、鉄道を国が直に営むつもりだった。ポーツマス条約第七条が、日露両国は満洲の鉄道を商工業の目的に限って経営すると定めていた。児玉源太郎大将が構想した政府直轄の満洲鉄道庁は置けず、米国の鉄道王ハリマンとの共同経営案も外相小村寿太郎氏が退けた。残ったのは、形式は民営の会社、実体は国家という設計である。政府は鉄道と附属財産、炭坑を現物で1億円分出資し、株主を日清両国の政府と国民に限り、総裁と副総裁を自ら任命した。それでも同年9月の9万9000株の募集には、1万1467人から1億664万3418株の申込があった
Q 39年で消えた会社は、1945年のあとに何を残したのか
A 鉄道も炭鉱も附属地も満洲の土地にあり、事業は据え置かれたまま相手が替わった。1945年8月9日にソ連軍が侵攻し、15日の終戦を経て、9月22日に重役会は解散したものと扱われた。連京線以南の諸線は中ソ合弁の中国長春鉄路へ移り、残る線はソ連軍司令部の監督下で八路軍や在満の中国人が分けて動かした。鉄道工場と撫順炭鉱の機器、倉庫の資材はソ連軍によって国外へ運び出された。会社から次へ渡ったのは人である。幹部は顧問として残り、技術者は1946年4月以降に中国側へ留用され、交通部で約600名、中長鉄路側で約1,500名が残った

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1906年〜 鉄道と炭鉱の引継から附属地の経営までを担った創業期

南満洲鉄道の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1906年 国営論と日米共同経営案の不採用、半官半民の特殊会社としての設立 国が直に営むか、米国資本と分け合うか——ポーツマス条約第七条が閉ざした国営の道
  2. 1906年 募集9万9000株に対する1億664万株の応募
  3. 1906年 後藤新平の初代総裁就任
  4. 1906年 設立登記の完了
  5. 1907年 鉄道と撫順・煙台炭坑の引継と大連本社での営業開始
  6. 1907年 三呎六吋の狭軌から四呎八吋半への本線改築と、狭広軌併用による営業継続 軍用の狭軌を使い続けるか、大陸の軌間に自らを合わせるか——命令書第二条が課した三年の期限
  7. 1908年 本線と撫順・営口支線の全線広軌列車開通

勅令と命令書が定めた鉄道七線と附帯事業の範囲

南満洲鉄道の営業権は、会社が発足する前から売買と国際交渉の対象になった。日露媾和条約第六条は、長春(寛城子)旅順口間の鉄道と一切の支線、これに附属する権利・特権・財産、および鉄道の利益のために経営される一切の炭坑を、補償を受けることなく清国政府の承諾をもって日本へ移転譲渡すると定めた[1]。譲渡が固まらないうちに米国の鉄道経営者ハリマンが買収を持ちかけ、1905年10月12日付で桂太郎との予備覚書が成立したが、帰朝した外相小村寿太郎が反対して取消となった[2]。米国はその後も国務卿ノックスを通じて、満洲の諸鉄道を清国に買収させて中立の地位に置き、列強六国で共同監督にあたる案を英・独・仏・日・露へ通達したが、日露両国政府は1910年1月21日に拒絶の回答を発した[3]

  • 満鉄の概要 1934年版 二、會社の創立事情
    • [1]日露媾和条約第六条は、長春(寛城子)旅順口間の鉄道と一切の支線、附属する権利・特権・財産、および鉄道の利益のために経営される一切の炭坑を、補償を受けることなく清国政府の承諾をもって日本へ移転譲渡すると定めた。
  • 満鉄の概要 1934年版 一、滿鐵中心の外交
    • [2]米国の鉄道王ハリマンが満鉄買収を策し、1905年10月12日付で日本政府代表桂太郎との間に予備覚書が成立したが、ポーツマス条約を携えて帰朝した外相小村寿太郎が反対し、覚書は取消と定められた。
    • [3]国務卿ノックスが英・独・仏・日・露の五国に対し、満洲の諸鉄道を清国に買収させて中立の地位に置き、列強六国で共同監督にあたる案を提議したが、日露両国政府は1910年1月21日に拒絶の回答を発した。

鉄道が日本の手に残ったのち、政府は経営を国家が直接担うか会社に委ねるかを議論し、株式会社組織を採った[4]。南満洲鉄道株式会社設立の件と題する勅令第百四十二号は1906年6月7日に公布され、満洲地方で鉄道運輸業を営ませること、株式をすべて記名として日清両国政府および日清両国人に限り所有できること、日本政府が満洲の鉄道・附属財産・炭坑をもって出資に充てうることを定め、総裁一人・理事四人以上・監事三人ないし五人を置くとした[5]。7月13日、陸軍大将児玉源太郎が設立委員長を、あわせて八十名が設立委員を命じられたが、児玉大将は7月24日に薨去し、翌25日、陸軍大臣寺内正毅が設立委員長を引き継いだ[6]

  • 満鉄の概要 1934年版 二、會社の創立事情
    • [4]本鉄道の経営を国家経営とするか会社事業とするかについて議論があったが、結局、株式会社組織を採用した。
    • [5]1906年6月7日、勅令第百四十二号「南満洲鉄道株式会社設立の件」を公布。第一条で満洲地方の鉄道運輸業、第二条で株式は総て記名とし日清両国政府及び日清両国人に限り所有、第三条で日本政府が満洲の鉄道・附属財産・炭坑を出資に充当、第七条で総裁一人・理事四人以上・監事三人ないし五人を規定した。
    • [6]1906年7月13日、陸軍大将児玉源太郎が設立委員長を仰付けられ、同時に八十名の設立委員も任命された。児玉大将は7月24日に薨去し、25日に陸軍大臣寺内正毅が設立委員長を仰付けられた。

1906年8月1日、外務・大蔵・逓信の三大臣が設立委員長に命令書を交付した。第一条は大連長春間、南関嶺旅順間、大房身柳樹屯間、大石橋営口間、煙台煙台炭坑間、蘇家屯撫順間、奉天安東県間の総哩数六七七・七七の運輸業を命じ、第二条は営業開始の日から満三年以内に四呎八吋半の軌間へ改築すること、大連蘇家屯間を複線とすることを求めた[7]。第四条は鉄道の便益のための附帯事業として、撫順および煙台の炭坑採掘を含む鉱業、水運業、電気業、倉庫業、鉄道附属地における土地および家屋の経営を挙げ、第五条は用地内の土木・教育・衛生に関する施設を、第六条は用地内の居住民からの手数料徴収と費用の分賦を認めた[8]

  • 満鉄の概要 1934年版 二、會社の創立事情
    • [7]1906年8月1日、外務・大蔵・逓信大臣より命令書が交付された。第一条は大連長春間・南関嶺旅順間・大房身柳樹屯間・大石橋営口間・煙台煙台炭坑間・蘇家屯撫順間・奉天安東県間(総哩数六七七・七七)の運輸業、第二条は営業開始の日より満三箇年以内に四呎八吋半の軌間へ改築し、大連蘇家屯間を複線とすることを定めた。
    • [8]命令書第四条は附帯事業として鉱業(殊に撫順及び煙台の炭坑採掘)・水運業・電気業・倉庫業・鉄道附属地における土地及び家屋の経営等を掲げ、第五条は用地内の土木・教育・衛生等に関する施設、第六条はその経費を支弁するため用地内居住民からの手数料徴収と費用分賦を認めた。
  • 満鉄の概要 1934年版 二、會社の創立事情
    • [1]日露媾和条約第六条は、長春(寛城子)旅順口間の鉄道と一切の支線、附属する権利・特権・財産、および鉄道の利益のために経営される一切の炭坑を、補償を受けることなく清国政府の承諾をもって日本へ移転譲渡すると定めた。
    • [4]本鉄道の経営を国家経営とするか会社事業とするかについて議論があったが、結局、株式会社組織を採用した。
    • [5]1906年6月7日、勅令第百四十二号「南満洲鉄道株式会社設立の件」を公布。第一条で満洲地方の鉄道運輸業、第二条で株式は総て記名とし日清両国政府及び日清両国人に限り所有、第三条で日本政府が満洲の鉄道・附属財産・炭坑を出資に充当、第七条で総裁一人・理事四人以上・監事三人ないし五人を規定した。
    • [6]1906年7月13日、陸軍大将児玉源太郎が設立委員長を仰付けられ、同時に八十名の設立委員も任命された。児玉大将は7月24日に薨去し、25日に陸軍大臣寺内正毅が設立委員長を仰付けられた。
    • [7]1906年8月1日、外務・大蔵・逓信大臣より命令書が交付された。第一条は大連長春間・南関嶺旅順間・大房身柳樹屯間・大石橋営口間・煙台煙台炭坑間・蘇家屯撫順間・奉天安東県間(総哩数六七七・七七)の運輸業、第二条は営業開始の日より満三箇年以内に四呎八吋半の軌間へ改築し、大連蘇家屯間を複線とすることを定めた。
    • [8]命令書第四条は附帯事業として鉱業(殊に撫順及び煙台の炭坑採掘)・水運業・電気業・倉庫業・鉄道附属地における土地及び家屋の経営等を掲げ、第五条は用地内の土木・教育・衛生等に関する施設、第六条はその経費を支弁するため用地内居住民からの手数料徴収と費用分賦を認めた。
  • 満鉄の概要 1934年版 一、滿鐵中心の外交
    • [2]米国の鉄道王ハリマンが満鉄買収を策し、1905年10月12日付で日本政府代表桂太郎との間に予備覚書が成立したが、ポーツマス条約を携えて帰朝した外相小村寿太郎が反対し、覚書は取消と定められた。
    • [3]国務卿ノックスが英・独・仏・日・露の五国に対し、満洲の諸鉄道を清国に買収させて中立の地位に置き、列強六国で共同監督にあたる案を提議したが、日露両国政府は1910年1月21日に拒絶の回答を発した。

応募一億六百六十万株と大連本社での営業開始

命令書は資本総額を二億円と定め、うち一億円を日本政府の出資に充てた。政府出資は既成の鉄道とこれに附属する一切の財産、撫順および煙台の炭坑から成り、日本政府は創立後十五箇年間を限り年六分の利益配当を保証した[9]。一株の金額は当初二百円で、1915年に百円へ改められた[10]。会社は1906年9月10日に第一回株式十万株、二千万円の募集を開始し、10月5日の締切までに、重役持株の千株を除く所要高九万九千株に対して一億六百六十四万三千四百十八株、一万千四百六十七人の申込を集め、按分比例と抽籤によって分配するほかなくなった[11]。11月7日には、募集金額の十分の一にあたる一株二十円、総額二百万円の第一回払込と、政府出資財産の価格一億円の払込手続を終えた[12]

  • 満鉄の概要 1934年版 二、會社の創立事情
    • [9]命令書第七条は資本総額を二億円とし、うち一億円を帝国政府の出資と定めた。第八条により政府出資は既成の鉄道、その鉄道に附属する一切の財産、撫順及び煙台の炭坑から成る。創立後十五箇年間を限り日本政府が年六分の利益配当を保証した。
    • [10]各株式の金額は当初二百円であったが、大正四年に百円に改正された。
    • [11]1906年9月10日に第一回株式十万株(二千万円)の募集を開始し、10月5日に締め切ったところ、所要高九万九千株(千株は重役持株)に対し総申込株数一億六百六十四万三千四百十八株、総申込人一万千四百六十七人となり、按分比例および抽籤等の方法により分配した。
    • [12]1906年11月7日、十万株に対する第一回払込として募集金額の十分の一にあたる一株二十円、総額二百万円と、政府の出資財産価格一億円の払込手続を了えた。

初代総裁となった後藤新平氏は、就任を容易に承知しなかった。満鉄経営の中心は鉄道でなければならないのに会社を統理する中心点が定まらず、一方で関東都督の監督を受け、他方で外務大臣の指揮を仰ぐ三頭の体制では植民地経営の大任を果たせない、というのが後藤新平氏の言い分だった[13]。畏敬する児玉大将の訃報に接した後藤新平氏は、満鉄総裁は関東都督の下に立つと同時に都督府顧問として外務大臣の監督下に立ち、都督府行政の一切に与るという条件を付けて8月1日に承諾し、その経緯を8月22日、山県元帥・西園寺首相・林外相へ回覧した満鉄総裁就職情由書に記した[14]。後藤新平氏は台湾総督府民政長官から転じ、11月13日に総裁を仰せ付けられた[15]

  • 満鉄の概要 1934年版 三、滿鐵と後藤總裁
    • [13]後藤新平は当初、満鉄経営の中心は鉄道でなければならないのに会社統理の中心点が明らかでなく、一方に関東都督の監督を受けるとともに他方で外務大臣の指揮を仰ぐようでは満鉄総裁として植民地経営の大任を全うできないとして、三頭政治の弊を挙げ就任を肯んじなかった。
    • [14]畏敬する児玉大将の訃に遭い、後藤新平は「満鉄総裁は関東都督の下に立つと同時に都督府顧問として外務大臣監督の下に立ち都督府行政の一切を与り聴くべし」との条件で8月1日に就任を承諾した。この経緯は1906年8月22日に山県元帥・西園寺首相・林外相の回覧に供した満鉄総裁就職情由書に詳述されている。
    • [15]初代総裁後藤新平は1906年11月13日付で台湾総督府民政長官より転じて満鉄総裁に就任した。

11月26日の創立総会では、寺内委員長が監事五名を指名し、後藤新平総裁と副総裁の中村是公氏および各理事を株主に紹介した。翌27日、会社は東京市麻布区狸穴町四番地に本社を置き、寺内委員長代理の関宗喜委員と後藤新平総裁代理の中村是公氏が、設立事務所で一切の事務と財産目録の授受を終えた[16]。12月7日には設立の登記を完了し、会社は成立をみた[17]。中村是公氏は12月20日、六理事とともに満洲の状況視察と引継準備のため東京を発ち、翌年2月11日に仮事務所を開いた[18]。1907年3月には勅令が改正されて本社を大連、支社を東京に置くこととなり、会社は野戦鉄道提理部などの官憲から鉄道その他の引継を受け、大連の本社事務所で4月1日から業務を開始した[19]

  • 満鉄の概要 1934年版 二、會社の創立事情
    • [16]1906年11月26日の創立総会で寺内委員長が監事五名を指名し、後藤総裁・中村是公副総裁及び各理事を株主に紹介した。11月27日に本社を東京市麻布区狸穴町四番地に設置し、寺内委員長代理関宗喜委員と後藤総裁代理中村副総裁が設立事務所で一切の事務及び財産目録の接受を結了した。
    • [19]1907年3月に勅令が改正され、会社は本社を大連に、支社を東京に置くこととなった。会社は野戦提理部等の官憲より鉄道その他の引継を受け、大連に本社事務所を設置して1907年4月1日より業務を開始した。
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 會社の成立
    • [17]1906年12月7日、会社設立の登記を了し、ここに会社は完全に成立を見た。
    • [18]1906年12月20日、中村副総裁は六理事とともに満洲の状況視察と引継準備のため東京を出発し、翌年2月11日に初めて仮事務所を開設した。
  • 満鉄の概要 1934年版 二、會社の創立事情
    • [9]命令書第七条は資本総額を二億円とし、うち一億円を帝国政府の出資と定めた。第八条により政府出資は既成の鉄道、その鉄道に附属する一切の財産、撫順及び煙台の炭坑から成る。創立後十五箇年間を限り日本政府が年六分の利益配当を保証した。
    • [10]各株式の金額は当初二百円であったが、大正四年に百円に改正された。
    • [11]1906年9月10日に第一回株式十万株(二千万円)の募集を開始し、10月5日に締め切ったところ、所要高九万九千株(千株は重役持株)に対し総申込株数一億六百六十四万三千四百十八株、総申込人一万千四百六十七人となり、按分比例および抽籤等の方法により分配した。
    • [12]1906年11月7日、十万株に対する第一回払込として募集金額の十分の一にあたる一株二十円、総額二百万円と、政府の出資財産価格一億円の払込手続を了えた。
    • [16]1906年11月26日の創立総会で寺内委員長が監事五名を指名し、後藤総裁・中村是公副総裁及び各理事を株主に紹介した。11月27日に本社を東京市麻布区狸穴町四番地に設置し、寺内委員長代理関宗喜委員と後藤総裁代理中村副総裁が設立事務所で一切の事務及び財産目録の接受を結了した。
    • [19]1907年3月に勅令が改正され、会社は本社を大連に、支社を東京に置くこととなった。会社は野戦提理部等の官憲より鉄道その他の引継を受け、大連に本社事務所を設置して1907年4月1日より業務を開始した。
  • 満鉄の概要 1934年版 三、滿鐵と後藤總裁
    • [13]後藤新平は当初、満鉄経営の中心は鉄道でなければならないのに会社統理の中心点が明らかでなく、一方に関東都督の監督を受けるとともに他方で外務大臣の指揮を仰ぐようでは満鉄総裁として植民地経営の大任を全うできないとして、三頭政治の弊を挙げ就任を肯んじなかった。
    • [14]畏敬する児玉大将の訃に遭い、後藤新平は「満鉄総裁は関東都督の下に立つと同時に都督府顧問として外務大臣監督の下に立ち都督府行政の一切を与り聴くべし」との条件で8月1日に就任を承諾した。この経緯は1906年8月22日に山県元帥・西園寺首相・林外相の回覧に供した満鉄総裁就職情由書に詳述されている。
    • [15]初代総裁後藤新平は1906年11月13日付で台湾総督府民政長官より転じて満鉄総裁に就任した。
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 會社の成立
    • [17]1906年12月7日、会社設立の登記を了し、ここに会社は完全に成立を見た。
    • [18]1906年12月20日、中村副総裁は六理事とともに満洲の状況視察と引継準備のため東京を出発し、翌年2月11日に初めて仮事務所を開設した。

炭鉱と移民を見据えた方針と三年の期限が課した改築

後藤新平総裁が引き受けた事業の輪郭は、設立委員長の児玉源太郎大将が描いていた。就職情由書に引かれた児玉大将の構想は、第二の日露戦争を予想してその成否は鉄道経営の巧拙にかかるとし、第一に鉄道の経営、第二に炭礦開発、第三に移民、第四に牧畜諸業の施設を挙げ、なかでも移民を要務に据えた。鉄道経営によって十年のうちに五十万の国民を満洲へ移入できれば、露国も容易に戦端を開けないという筋立てであった[20]。後藤新平総裁は副総裁以下の人選を一任され、最年長の副総裁の中村是公氏が四十一、二歳、国沢新兵衛や岡松参太郎ら理事八名はいずれも三十三、四歳から四十歳未満という陣容を組んだ[21]。就任から一年九箇月を経た1908年7月14日、後藤新平総裁は桂内閣の逓信大臣として入閣し、勅令一七九号で満鉄の監督権が逓信大臣へ移ったのを見届けて総裁を辞した[22]

  • 満鉄の概要 1934年版 三、滿鐵と後藤總裁
    • [20]満鉄総裁就職情由書に記された設立委員長児玉源太郎大将の構想は、第二の日露戦争を予想し、その成敗は一に鉄道経営の巧拙にあるとして、第一に鉄道の経営、第二に炭礦開発、第三に移民、第四に牧畜諸業の施設を挙げ、なかでも移民を要務とし、鉄道経営により十年を出でずに五十万の国民を満洲へ移入できれば露国も漫に戦端を開けないとした。
    • [21]後藤初代総裁は就任にあたり副総裁はじめ理事の人選を一任され、副総裁中村是公の四十一、二歳を最年長とし、理事国沢新兵衛・久保田政周・清野長太郎・犬塚信太郎・田中清次郎・久保田勝美・野々村金五郎・岡松参太郎の八氏はいずれも三十三、四歳より四十歳未満であった。
    • [22]就任以来一年九箇月を経た1908年7月14日、後藤総裁は桂内閣の逓信大臣として入閣し、勅令一七九号により満鉄の監督権が逓信大臣に移管されるに及んで満鉄総裁を辞した。

引き継いだ線路は三呎六吋の狭軌で、戦時輸送のために日本の機関車や客車をそのまま転用できるよう応急的に改築されていた。会社は1907年5月に本線と支線の擴軌工事へ着手し、狭軌の運転を止めずに改築を進めるため、在来の軌条の外側に一本または二本を足す三線式と四線式の狭広軌併用の運転法を採った[23]。氷点下四十度の寒気のなかを昼夜兼行で工事を進めて1908年4月30日までに本線の試運転にこぎ着け、5月20日から29日にかけて長春方面から順に狭軌車輛を送還して、5月30日に全線の広軌列車開通をみた。工事費は車輛費と器械場費を除いて八百九十二万円余となった[24]。大連蘇家屯間の複線工事も同じ1907年5月に始まり、1909年10月27日に全部が開通した。総額は千十八万円余に上った[25]

  • 満鉄の概要 1934年版 五、擴軌及複線工事
    • [23]会社創立直後の当面の問題は命令書第二条により三箇年以内に全線を四呎八吋半の広軌式に改築することであった。引き継いだ南満洲鉄道は戦時輸送用として日本の機関車・客車をそのまま転用しうるよう応急的に改築された三呎六吋の狭軌線であり、会社は1907年5月に擴軌事業へ着手し、狭軌鉄道の運転を休止せず改築を進めるため在来の狭軌の外側に一本または二本の軌条を加えた三線式・四線式の狭広軌併用の運転法を採用した。
    • [24]氷点下四十度の寒気を物ともせず昼夜兼行で工事を進め、1908年4月30日までに本線の試運転を挙行し、5月20日から29日にわたり長春方面より順次南方に狭軌車輛を送還して広軌列車に代え、5月30日に全線広軌列車の開通を見た。工事費は車輛費及び器械場費を除き八百九十二万円余である。
    • [25]大連蘇家屯間の複線工事も広軌改築工事とほぼ同じく1907年5月に着手し、1909年10月27日に全部開通した。工事に要した費用の総額は千十八万円余である。

安奉線は、日露戦争中に第一軍の軍器糧秣を運ぶため敷かれた軌間二呎六吋の軽便鉄道で、1905年12月3日に全線約二百哩が竣工した。日清満洲善後協約附属第六条で恒久の交通機関と定められ、会社は1907年4月1日の創業とともに野戦鉄道提理部から引き継いだ[26]。標準軌への改築には清国との協議が要り、1909年1月に始めた交渉で清国側は6月24日、擴軌を許さないと回答した。日本政府は8月6日、条約上の権利に基づき単独で改築すると伊集院公使を通じて通告し、清国政府は13日に協力を表明し、19日に軌道を京奉線と同様とする覚書が調印された。日本は交換条件として、9月4日の間島協約で間島の主権を清国に認めた[27]。工事は8月7日の福金嶺隧道着工に始まり、橋梁二〇五箇所、隧道二十四箇所を越えて二年三箇月後の1911年11月1日に全線が開通し、従来二日の行程は六時間に縮まった[28]

  • 満鉄の概要 1934年版 六、安奉線の改築
    • [26]安奉線軽便鉄道は日露交戦中に第一軍の軍器糧秣を輸送する目的で建設された一時的輸送機関で、軌間二呎六吋の軽便式として1904年8月に臨時鉄道大隊により安東県から起工され、1905年12月3日に全線約二百哩が竣工した。1905年12月に北京で締結された日清満洲善後協約附属第六条により永久的の平和交通機関とすることとなり、1907年4月1日の満鉄創業とともに野戦鉄道提理部より引継を受けた。
    • [27]会社は1909年1月より清国に対し公然と交渉を開始したが、6月24日に清国側は安奉線の工事は現在線路の改良にとどめ擴軌工事及び線路の更改を許さないと回答した。日本政府は8月6日、在清国伊集院公使をして条約上の権利に基づき自ら改築を実行すると通告させ、清国政府は13日に復牒して協力の意志を表明、19日に軌道を京奉線と同様とする等の覚書が調印された。改築問題解決の交換条件として日本は1909年9月4日調印の間島に関する協約で間島における清国の主権を容認した。
    • [28]改築工事は1909年8月7日の福金嶺隧道着工に始まり、橋梁二〇五箇所、隧道二十四箇所という難工事に加え水災・悪疫の障害もあったが、予期に先立つこと十箇月、二年三箇月をもって1911年11月1日に全線の開通を見た。従来二日の行程は僅かに六時間に短縮された。
  • 満鉄の概要 1934年版 三、滿鐵と後藤總裁
    • [20]満鉄総裁就職情由書に記された設立委員長児玉源太郎大将の構想は、第二の日露戦争を予想し、その成敗は一に鉄道経営の巧拙にあるとして、第一に鉄道の経営、第二に炭礦開発、第三に移民、第四に牧畜諸業の施設を挙げ、なかでも移民を要務とし、鉄道経営により十年を出でずに五十万の国民を満洲へ移入できれば露国も漫に戦端を開けないとした。
    • [21]後藤初代総裁は就任にあたり副総裁はじめ理事の人選を一任され、副総裁中村是公の四十一、二歳を最年長とし、理事国沢新兵衛・久保田政周・清野長太郎・犬塚信太郎・田中清次郎・久保田勝美・野々村金五郎・岡松参太郎の八氏はいずれも三十三、四歳より四十歳未満であった。
    • [22]就任以来一年九箇月を経た1908年7月14日、後藤総裁は桂内閣の逓信大臣として入閣し、勅令一七九号により満鉄の監督権が逓信大臣に移管されるに及んで満鉄総裁を辞した。
  • 満鉄の概要 1934年版 五、擴軌及複線工事
    • [23]会社創立直後の当面の問題は命令書第二条により三箇年以内に全線を四呎八吋半の広軌式に改築することであった。引き継いだ南満洲鉄道は戦時輸送用として日本の機関車・客車をそのまま転用しうるよう応急的に改築された三呎六吋の狭軌線であり、会社は1907年5月に擴軌事業へ着手し、狭軌鉄道の運転を休止せず改築を進めるため在来の狭軌の外側に一本または二本の軌条を加えた三線式・四線式の狭広軌併用の運転法を採用した。
    • [24]氷点下四十度の寒気を物ともせず昼夜兼行で工事を進め、1908年4月30日までに本線の試運転を挙行し、5月20日から29日にわたり長春方面より順次南方に狭軌車輛を送還して広軌列車に代え、5月30日に全線広軌列車の開通を見た。工事費は車輛費及び器械場費を除き八百九十二万円余である。
    • [25]大連蘇家屯間の複線工事も広軌改築工事とほぼ同じく1907年5月に着手し、1909年10月27日に全部開通した。工事に要した費用の総額は千十八万円余である。
  • 満鉄の概要 1934年版 六、安奉線の改築
    • [26]安奉線軽便鉄道は日露交戦中に第一軍の軍器糧秣を輸送する目的で建設された一時的輸送機関で、軌間二呎六吋の軽便式として1904年8月に臨時鉄道大隊により安東県から起工され、1905年12月3日に全線約二百哩が竣工した。1905年12月に北京で締結された日清満洲善後協約附属第六条により永久的の平和交通機関とすることとなり、1907年4月1日の満鉄創業とともに野戦鉄道提理部より引継を受けた。
    • [27]会社は1909年1月より清国に対し公然と交渉を開始したが、6月24日に清国側は安奉線の工事は現在線路の改良にとどめ擴軌工事及び線路の更改を許さないと回答した。日本政府は8月6日、在清国伊集院公使をして条約上の権利に基づき自ら改築を実行すると通告させ、清国政府は13日に復牒して協力の意志を表明、19日に軌道を京奉線と同様とする等の覚書が調印された。改築問題解決の交換条件として日本は1909年9月4日調印の間島に関する協約で間島における清国の主権を容認した。
    • [28]改築工事は1909年8月7日の福金嶺隧道着工に始まり、橋梁二〇五箇所、隧道二十四箇所という難工事に加え水災・悪疫の障害もあったが、予期に先立つこと十箇月、二年三箇月をもって1911年11月1日に全線の開通を見た。従来二日の行程は僅かに六時間に短縮された。

1917年〜 理事長から社長へ、撫順の増産と大連築港に注いだ資本

南満洲鉄道の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1917年 朝鮮総督府管理の国有鉄道の受託経営と、鮮満両鉄道の一体運営 自社線だけを持つか、他者の線を預かって回すか——所有せずに経営だけを引き受けた最初の契約
  2. 1917年 総裁・副総裁の廃止と理事長の設置
  3. 1919年 理事長の廃止と社長・副社長の設置
  4. 1919年 撫順龍鳳坑での大竪坑開鑿着手
  5. 1920年 資本金の4億4000万円への増資
  6. 1920年 コークス用原料として塔連坑の経営買収
  7. 1922年 上海航路の経営を大連汽船へ移管

総裁制から理事長制、そして社長制への二度の改組

大正六年七月三十一日、会社は総裁と副総裁を廃し、理事長一人を置く体制に改めた[29]。同じ日に中村雄次郎総裁が退任し、副総裁だった國澤新兵衞氏が理事長に任命された[30]。國澤新兵衞理事長は明治三十九年十一月二十六日に理事として設立時の役員に加わり、四十一年十二月十九日に副総裁へ移り、大正二年十二月十八日にいったん退任したのち、三年七月二十日にふたたび副総裁として戻った経歴を持つ[31]。理事は百株以上を持つ株主のなかから政府が任命して任期は四年、監事は株主総会が株主のなかから選んで任期は三年と定められていた[32]。國澤新兵衞理事長は大正八年四月十二日までの一年八か月余りを務めた[33]

  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 第四章 会社の重役
    • [29]大正六年七月三十一日、総裁・副総裁を廃して理事長を置くこととした。
    • [30]中村雄次郎は大正三年七月十五日総裁任命・六年七月三十一日退任。國澤新兵衞は大正六年七月三十一日理事長任命。
    • [31]國澤新兵衞は明治三十九年十一月二十六日理事任命、四十一年十二月十九日副総裁任命、大正二年十二月十八日退任、三年七月二十日副総裁任命。
    • [32]理事は百株以上を有する株主中から政府が命じ任期は四年、監事は株主中から株主総会において選任し任期は三箇年である。
    • [33]國澤新兵衞は大正八年四月十二日退任。

大正八年四月十一日、会社は理事長を廃して社長・副社長各一人を置く体制へ移った[34]。翌十二日、野村龍太郎氏が社長に、中西清一氏が副社長に任命された[35]。野村龍太郎社長は大正二年十二月十九日に総裁へ任命されて三年七月十五日に退いており、四年九か月の間を置いて会社の首座に戻った[36]。二度目の在任は二年一か月余りで、大正十年五月三十一日に野村龍太郎社長と中西清一副社長がそろって辞任し、同じ日に早川千吉郎氏が社長、松本烝治氏が副社長に任命された[37]。松本氏は大正八年五月六日に理事として入り、二年で副社長へ上がったが、十一年三月二十四日に辞任した[38]

  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 第四章 会社の重役
    • [34]大正八年四月十一日、理事長を廃して社長・副社長各一人を置くこととした。
    • [35]野村龍太郎は大正八年四月十二日社長任命。中西清一は大正八年四月十二日副社長任命。
    • [36]野村龍太郎は大正二年十二月十九日総裁任命・三年七月十五日退任。
    • [37]野村龍太郎は大正十年五月三十一日辞任、中西清一は大正十年五月三十一日辞任、早川千吉郎は大正十年五月三十一日社長任命、松本烝治は大正十年五月三十一日副社長任命。
    • [38]松本烝治は大正八年五月六日理事任命・十年五月三十一日副社長任命・十一年三月二十四日辞任。

早川千吉郎社長が逝去した大正十一年十月十四日、理事の島安次郎氏が社長事務取扱を命じられ、十日後の十月二十四日に解かれた[39]。同じ日に川村竹治氏が社長に任命され、十三年六月二十二日に退任した[40]。後任には同日付で安廣伴一郎氏が就き、昭和二年七月十九日まで務めた[41]。安廣伴一郎社長の退任と同じ日に山本条太郎氏が社長に、松岡洋右氏が副社長に任命され、山本条太郎社長は昭和四年八月十四日に退いた[42]。大正六年から昭和四年までの会社の首座は國澤新兵衞理事長以下六人を数えるが、会計と営業に関する規定を事前に政府の認可にかけ、毎営業年度の事業計画・事業費・営業収支の予算と利益配当の割合まで政府の認可を受ける仕組みは動かなかった[43]

  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 第四章 会社の重役
    • [39]早川千吉郎は大正十一年十月十四日逝去。島安次郎は大正十一年十月十四日社長事務取扱被仰付、同年十月二十四日社長事務取扱被免。
    • [40]川村竹治は大正十一年十月二十四日社長任命・十三年六月二十二日退任。
    • [41]安廣伴一郎は大正十三年六月二十二日社長任命・昭和二年七月十九日退任。
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 第四章 会社の重役/満鉄の概要 1934年版 四、会社の組織 歴代主脳者表
    • [42]山本条太郎は昭和二年七月十九日社長任命・四年八月十四日退任。松岡洋右は昭和二年七月十九日副社長任命。
  • 満鉄の概要 1934年版 四、会社の組織
    • [43]会社の会計及び営業に関する規定は予め政府の認可を要し、毎営業年度の事業計画、事業費、営業収支の予算及利益配当の割合も政府の認可を受けなければならない。
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 第四章 会社の重役
    • [29]大正六年七月三十一日、総裁・副総裁を廃して理事長を置くこととした。
    • [30]中村雄次郎は大正三年七月十五日総裁任命・六年七月三十一日退任。國澤新兵衞は大正六年七月三十一日理事長任命。
    • [31]國澤新兵衞は明治三十九年十一月二十六日理事任命、四十一年十二月十九日副総裁任命、大正二年十二月十八日退任、三年七月二十日副総裁任命。
    • [32]理事は百株以上を有する株主中から政府が命じ任期は四年、監事は株主中から株主総会において選任し任期は三箇年である。
    • [33]國澤新兵衞は大正八年四月十二日退任。
    • [34]大正八年四月十一日、理事長を廃して社長・副社長各一人を置くこととした。
    • [35]野村龍太郎は大正八年四月十二日社長任命。中西清一は大正八年四月十二日副社長任命。
    • [36]野村龍太郎は大正二年十二月十九日総裁任命・三年七月十五日退任。
    • [37]野村龍太郎は大正十年五月三十一日辞任、中西清一は大正十年五月三十一日辞任、早川千吉郎は大正十年五月三十一日社長任命、松本烝治は大正十年五月三十一日副社長任命。
    • [38]松本烝治は大正八年五月六日理事任命・十年五月三十一日副社長任命・十一年三月二十四日辞任。
    • [39]早川千吉郎は大正十一年十月十四日逝去。島安次郎は大正十一年十月十四日社長事務取扱被仰付、同年十月二十四日社長事務取扱被免。
    • [40]川村竹治は大正十一年十月二十四日社長任命・十三年六月二十二日退任。
    • [41]安廣伴一郎は大正十三年六月二十二日社長任命・昭和二年七月十九日退任。
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 第四章 会社の重役/満鉄の概要 1934年版 四、会社の組織 歴代主脳者表
    • [42]山本条太郎は昭和二年七月十九日社長任命・四年八月十四日退任。松岡洋右は昭和二年七月十九日副社長任命。
  • 満鉄の概要 1934年版 四、会社の組織
    • [43]会社の会計及び営業に関する規定は予め政府の認可を要し、毎営業年度の事業計画、事業費、営業収支の予算及利益配当の割合も政府の認可を受けなければならない。

龍鳳坑の大竪坑と塔連坑買収、大連港へ積み上げた埠頭

会社の業務は設立命令書に基づき、鉄道(倉庫と工場を含む)・海運・港湾・鑛山・製鉄・地方経営の六つに大別される[44]。このうち鑛山の中心は撫順炭礦で、明治四十年に政府から引き継いだ千金寨・楊柏堡・老虎臺の三坑を九百二十万円の第一期計画で整え、大山坑と東郷坑の二大竪坑を開いて一日五千噸を出炭するまでになっていた[45]。現地住民の燃料が高粱稈から石炭へ移り、鞍山製鉄所の完成と各種工業の勃興が重なると、この規模では需要に応じきれなくなった[46]。会社は増掘の計画を立て、大正八年九月に龍鳳坑で大竪坑の開鑿に着手し、十一年十月に掘進作業を終えた[47]。大正九年度からは千金寨露天掘を急速に広げて古城子露天掘に連結させ、坑内掘三百万噸・露天掘三百万噸の採炭にこぎつけた[48]

  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業
    • [44]会社本来の業務は設立命令書に準拠するもので、鉄道(倉庫及び工場を含む)、海運、港湾、鑛山、製鉄及び地方経営事業に大別することができる。
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業 礦山
    • [45]政府から炭坑の引継を受けた当時は千金寨、楊柏堡、老虎臺の三坑のみで、会社は初め九百二十万円の予算で第一期計画を立て、大山坑及び東郷坑の二大竪坑の開鑿を完成し一日五千噸の出炭をなすに至った。
    • [46]住民の燃料が漸次高粱稈から石炭に移りつつあると同時に、鞍山製鉄所の完成と各種工業の勃興により、従来の状態では到底その需要に応じ得ないと考え、増掘の一大計画を立てた。
    • [47]大正八年九月龍鳳坑で大竪坑の開鑿に着手し、大正十一年十月に掘進作業を終了した。
    • [48]九年度から急速に千金寨露天掘を拡張して古城子露天掘に連結させ、総採炭額は坑内掘三百万噸、露天掘三百万噸に至った。

撫順炭は灰分と硫黄分が少なく、七千百カロリーの火力を持つ有煙炭だが、粘結力に乏しく骸炭の製出には向かない[49]。撫順礦区に続く塔連坑の炭は新屯坑・龍鳳坑と同じ粘着性で、コークス製造用に適していた[50]。会社は製鉄所その他の用途を見込み、大正九年十二月一日に東洋炭坑株式会社から塔連坑の経営一切を買収した[51]。抱え込まない炭田もあり、長春付近の石碑嶺・陶家屯の二炭田は明治四十年に露国政府から引き渡しを受けたまま手をつけずにいたが、大正七年に南満鉱業会社へ経営を委ねた[52]。販売では大正九年度から輸出炭と船舶焚料炭を積極的に売る方針を取った[53]

  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業 礦山
    • [49]撫順炭は七千百カロリーの火力を有する有煙炭で、灰分極めて少なく硫素分の含有も少ない。概して粘結力に乏しく、骸炭製出には不適当とされてきた。
    • [50]撫順礦区に接続する塔連坑の炭質は新屯坑及び龍鳳坑と炭質を同じくして粘着性に属し、コークス製造用として好適である。
    • [51]会社は製鉄所その他の用として大正九年十二月一日、東洋炭坑株式会社が経営していた塔連坑の経営一切を買収した。
    • [52]明治四十年七月に露国政府から長春付近の石碑嶺及び陶家屯炭田の引渡を受けたが経営に着手せず、大正七年に南満鉱業会社に経営させることとした。
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業 礦山 販売
    • [53]大正九年度以来努力してきた輸出炭並船舶焚料炭の積極的販売政策。

一方の海運では、会社は自ら船を持つことをやめた。大正七年に香港航路の経営を大連汽船株式会社へ移し、大正十一年七月一日には上海航路も同社の経営に委ねている[54]。大連汽船は資本金二千五百七十万円、払込一千四百四十五万円で、その全額を会社が出資した[55]。港湾には逆に資本を積み増し、第三・第四および乙・丙埠頭を築造し、寺兒溝の第一・第二桟橋と甘井子石炭桟橋を建設し、防波堤の築造と港内浚渫を重ねた[56]。港湾施設に投じた事業費の累計は昭和六年度末で約八千五百万円である[57]。大連埠頭に着いた汽船は大正十四年度の三千五百九十五隻から昭和元年度は三千八百十三隻へ、輸出貨物は五百五十万八千五百六十一噸から五百七十五万六千八十一噸へ増えた[58]

  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業 海運
    • [54]大正七年に香港航路の経営を大連汽船会社に移譲し、大正十一年七月一日上海航路も同会社に経営させることとした。
    • [55]大連汽船株式会社は資本金二千五百七十万円(払込一千四百四十五万円)で、満鉄会社はその全額を出資している。
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業 港湾
    • [56]第一第二及甲埠頭の修築、第三第四及乙、丙埠頭の築造、寺兒溝第一、第二桟橋及甘井子石炭桟橋の建設、その他防波堤の築造、港内浚渫等の諸工事を完成した。
    • [57]この港湾施設に投じた事業費総額は昭和六年度末において約八千五百万円である。
    • [58]大連埠頭の着埠汽船数は大正十四年度三、五九五、昭和元年度三、八一三。輸出貨物噸数は大正十四年度五、五〇八、五六一、昭和元年度五、七五六、〇八一。
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業
    • [44]会社本来の業務は設立命令書に準拠するもので、鉄道(倉庫及び工場を含む)、海運、港湾、鑛山、製鉄及び地方経営事業に大別することができる。
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業 礦山
    • [45]政府から炭坑の引継を受けた当時は千金寨、楊柏堡、老虎臺の三坑のみで、会社は初め九百二十万円の予算で第一期計画を立て、大山坑及び東郷坑の二大竪坑の開鑿を完成し一日五千噸の出炭をなすに至った。
    • [46]住民の燃料が漸次高粱稈から石炭に移りつつあると同時に、鞍山製鉄所の完成と各種工業の勃興により、従来の状態では到底その需要に応じ得ないと考え、増掘の一大計画を立てた。
    • [47]大正八年九月龍鳳坑で大竪坑の開鑿に着手し、大正十一年十月に掘進作業を終了した。
    • [48]九年度から急速に千金寨露天掘を拡張して古城子露天掘に連結させ、総採炭額は坑内掘三百万噸、露天掘三百万噸に至った。
    • [49]撫順炭は七千百カロリーの火力を有する有煙炭で、灰分極めて少なく硫素分の含有も少ない。概して粘結力に乏しく、骸炭製出には不適当とされてきた。
    • [50]撫順礦区に接続する塔連坑の炭質は新屯坑及び龍鳳坑と炭質を同じくして粘着性に属し、コークス製造用として好適である。
    • [51]会社は製鉄所その他の用として大正九年十二月一日、東洋炭坑株式会社が経営していた塔連坑の経営一切を買収した。
    • [52]明治四十年七月に露国政府から長春付近の石碑嶺及び陶家屯炭田の引渡を受けたが経営に着手せず、大正七年に南満鉱業会社に経営させることとした。
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業 礦山 販売
    • [53]大正九年度以来努力してきた輸出炭並船舶焚料炭の積極的販売政策。
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業 海運
    • [54]大正七年に香港航路の経営を大連汽船会社に移譲し、大正十一年七月一日上海航路も同会社に経営させることとした。
    • [55]大連汽船株式会社は資本金二千五百七十万円(払込一千四百四十五万円)で、満鉄会社はその全額を出資している。
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業 港湾
    • [56]第一第二及甲埠頭の修築、第三第四及乙、丙埠頭の築造、寺兒溝第一、第二桟橋及甘井子石炭桟橋の建設、その他防波堤の築造、港内浚渫等の諸工事を完成した。
    • [57]この港湾施設に投じた事業費総額は昭和六年度末において約八千五百万円である。
    • [58]大連埠頭の着埠汽船数は大正十四年度三、五九五、昭和元年度三、八一三。輸出貨物噸数は大正十四年度五、五〇八、五六一、昭和元年度五、七五六、〇八一。

創業年度の十七倍に達した収入と、昭和五年の急転

鉄道・港湾・炭礦へ年々投じた資本は、決算の桁を変えた。営業を始めた明治四十年度の収入は一千二百五十四万三千百十六円、益金は二百一万六千五百八十五円だった[59]。創業十年目の大正五年度には収入五千二百四十万二千四百八円、益金一千十万七千六百八円と約五倍に伸び、二十年目の昭和元年度には収入二億一千五百六十一万四千九百四十四円、益金三千四百十五万七千八百八十四円となって、創業年度に対する増加率は約十七倍に達した[60]。事業費支出も大正五年度の二億四千八百五十九万五千五百七十六円から昭和元年度の五億九千三百九十二万三千七百九十九円へ膨らんだ[61]

  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 第三編 会社の会計 第一章 概説
    • [59]創業年度たる明治四十年度は収入一二、五四三、一一六円、益金二、〇一六、五八五円であった。
    • [60]創業十年を経過した大正五年度には収入五二、四〇二、四〇八円、益金一〇、一〇七、六〇八円となり約五倍の増加を示し、二十年目の昭和元年度には収入二一五、六一四、九四四円、益金三四、一五七、八八四円となり創業年度に対する増加率は約一七倍となった。
    • [61]事業費支出は創業十年目の大正五年度が二四八、五九五、五七六円、二十年目の昭和元年度には五九三、九二三、七九九円に達した。

撫順では、掘る炭のほかに石油をとる道も探っている。油母頁岩の工業的価値については明治四十年から会社が研究を重ね、中央試験所の調査で、工業化しても採算の見込みがあるという結論を得た[62]。会社は地下採掘の原料で経済的に操業できるかを確かめるため、頁岩五百噸をスコットランドへ送り、あわせて社員を派遣して学術的な調査と海外の実地の工業計画を調べさせた[63]。採算の方法がついたことで一日四千噸の乾餾工場を建設する計画が立てられ、昭和四年末に第一期計画の工場が竣工した[64]。撫順炭礦の炭層上部にある約四百五十呎の油母頁岩層には約五十余億噸が埋蔵され、露天掘に伴う約五億噸から採油を始める計画である[65]

  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業 油母頁岩
    • [62]本岩の工業的価値については明治四十年来当会社が大いに研究を重ね、中央試験所で研究調査したところ、工業的にしても採算の見込みありとの結論を得た。
    • [63]地下採掘による原料で経済的に操業し得るか否かを調査させるため頁岩五百噸をスコットランドに送り、同時に社員を派遣して学術的調査及び海外における実地工業的企画について調査させた。
    • [64]採算の方法がついたので一日四千噸乾餾工場建設の計画が立てられ、昭和四年末に第一期計画の工場の建設を竣えた。
    • [65]撫順炭礦の炭層上部の約四百五十呎の油母頁岩層内に五十余億噸の油母頁岩が埋蔵され、まず露天掘に伴う約五億噸から採油を始める計画である。

昭和二年以降も会社の収入は年々増え、昭和四年には純益が四千五百万円を超えて従来の記録を塗り替えた[66]。この時期の資本投下は、社線の輸送能力の増進と撫順炭礦の増産設備という社内事業に集中している[67]。株主から求めた資金も増え、昭和二年度初めに三億三千七百十五万六千円だった払込済資本金は、二回の払込徴収を経て昭和六年度末に三億八千七百十五万六千円となった[68]。ところが昭和五年に入ると形勢が一転する。世界的な不況の波及、銀貨の惨落、旧東北政権の重圧、恒常的な排日貨が重なり、会社の財政は創業以来味わったことのない苦境に落ちた[69]。会社は社内全般に極度の緊縮を課し、事業投資を繰り延べ、諸経費を削った[70]

  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 第三編 会社の会計 第一章 概説
    • [66]昭和二年以降も会社収入は年々増加の一途を辿り、昭和四年の如きは純益四、五〇〇万円を超え従来のレコードを画した。
    • [67]昭和二年度以降昭和六年度までの期間における資本投下は主として社線輸送能力の増進、撫順炭礦の増産設備等社内事業に集中された。
    • [68]昭和二年度初における払込済資本金は三三七、一五六、〇〇〇円で、その後二回の払込徴収により昭和六年度末は三八七、一五六、〇〇〇円に増加した。
    • [69]昭和五年に入るや形勢一転し、続く昭和六年とともに世界的不況の波及、銀貨の惨落、旧東北政権の重圧、恒常的排日貨等の影響を受けて会社の財政は急転し、創業以来未曾有の苦境に陥った。
    • [70]会社は社内全般に亙り極度の緊縮を行い、事業投資の繰延、諸経費の節約等経営の合理化に努めた。
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 第三編 会社の会計 第一章 概説
    • [59]創業年度たる明治四十年度は収入一二、五四三、一一六円、益金二、〇一六、五八五円であった。
    • [60]創業十年を経過した大正五年度には収入五二、四〇二、四〇八円、益金一〇、一〇七、六〇八円となり約五倍の増加を示し、二十年目の昭和元年度には収入二一五、六一四、九四四円、益金三四、一五七、八八四円となり創業年度に対する増加率は約一七倍となった。
    • [61]事業費支出は創業十年目の大正五年度が二四八、五九五、五七六円、二十年目の昭和元年度には五九三、九二三、七九九円に達した。
    • [66]昭和二年以降も会社収入は年々増加の一途を辿り、昭和四年の如きは純益四、五〇〇万円を超え従来のレコードを画した。
    • [67]昭和二年度以降昭和六年度までの期間における資本投下は主として社線輸送能力の増進、撫順炭礦の増産設備等社内事業に集中された。
    • [68]昭和二年度初における払込済資本金は三三七、一五六、〇〇〇円で、その後二回の払込徴収により昭和六年度末は三八七、一五六、〇〇〇円に増加した。
    • [69]昭和五年に入るや形勢一転し、続く昭和六年とともに世界的不況の波及、銀貨の惨落、旧東北政権の重圧、恒常的排日貨等の影響を受けて会社の財政は急転し、創業以来未曾有の苦境に陥った。
    • [70]会社は社内全般に亙り極度の緊縮を行い、事業投資の繰延、諸経費の節約等経営の合理化に努めた。
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業 油母頁岩
    • [62]本岩の工業的価値については明治四十年来当会社が大いに研究を重ね、中央試験所で研究調査したところ、工業的にしても採算の見込みありとの結論を得た。
    • [63]地下採掘による原料で経済的に操業し得るか否かを調査させるため頁岩五百噸をスコットランドに送り、同時に社員を派遣して学術的調査及び海外における実地工業的企画について調査させた。
    • [64]採算の方法がついたので一日四千噸乾餾工場建設の計画が立てられ、昭和四年末に第一期計画の工場の建設を竣えた。
    • [65]撫順炭礦の炭層上部の約四百五十呎の油母頁岩層内に五十余億噸の油母頁岩が埋蔵され、まず露天掘に伴う約五億噸から採油を始める計画である。

1931年〜 満洲国鉄道の受託経営と、社内を超えた社外投資

南満洲鉄道の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1931年 社長・副社長の廃止と総裁制への復帰
  2. 1933年 満洲国国有鉄道の受託経営と、奉天への鉄路総局の設置 所有せずに運営するか、自社線に留まるか──社線の三倍の国線を預かった委託経営
  3. 1933年 奉天に鉄路総局を設置
  4. 1933年 資本金の8億円への増資
  5. 1933年 鞍山製鉄所を昭和製鋼所へ委譲
  6. 1933年 朝鮮総督府から北鮮鉄道を受託
  7. 1937年 昭和製鋼所株75%など重工業持分1億890万円の満州国政府への譲渡 五カ年計画の実行機関となるはずだった会社は、なぜ重工業から一切手を引いたのか

未曾有の苦境と、資本金八億円への増資

1929年に4,500万円を超える純益を挙げ、会社は創業以来の記録を作った。ところが翌1930年から1931年にかけて、世界的不況の波及、銀貨の惨落、旧東北政権の重圧、恒常的な排日貨が重なり、財政は急転して創業以来未曾有の苦境に陥った[71]。会社は社内全般にわたる極度の緊縮に入り、事業投資を繰り延べ、諸経費を節約した[72]。1927年度から1931年度までの資本投下は、社線の輸送能力の増進と撫順炭礦の増産設備という社内事業に集中していた[73]。二十余年かけて築いた強固な財政が、この難局を支えた[74]

  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 1937年 第三編会社の会計 第一章概説
    • [71]昭和4年に純益4,500万円を超えて従来の記録を画したが、昭和5年から6年にかけて世界的不況の波及・銀貨の惨落・旧東北政権の重圧・恒常的排日貨の影響で会社の財政は急転し、創業以来未曾有の苦境に陥った
    • [72]会社は社内全般にわたり極度の緊縮を行い、事業投資の繰延・諸経費の節約など経営の合理化に努めた
    • [73]昭和2年度以降昭和6年度までの資本投下は主として社線輸送能力の増進、撫順炭礦の増産設備等の社内事業に集中した
    • [74]過去20余年間にわたり建設された強固な財政と相俟って、よくこの難局に堪えることができた

1931年に満洲事変が起き、翌1932年に満洲国が成立すると、日満の政治的結合と経済ブロックの結成が進み、満洲の政治・経済情勢は急激な変革を来した[75]。会社は大陸政策の先駆として、日満両国の経済的発展と植民事業の誘導達成に必要な施設を引き受け、これに要する資金は巨額に上った[76]。1933年3月6日、会社は資本金を4億4,000万円から8億円へ増やし、新募集株の二分の一にあたる360万株を政府が引き受け、残る360万株を一般から募った[77]。払込済資本金は1927年度初の3億3,715万6,000円から1931年度末に3億8,715万6,000円となり、増資を経た1935年度末には5億8,420万8,000円に達した[78]

  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 1937年 第三編会社の会計 第一章概説
    • [75]昭和6年に満洲事変が起こり、翌7年に満洲国が成立し、日満の政治的結合の進行ならびに経済ブロックの結成等により満洲の政治・経済情勢は急激な変革を来した
    • [76]会社は大陸政策の先駆として日満両国の経済的発展、植民事業の誘導達成に必要なる幾多の施設・貢献を為すに至り、これに要する資金も巨額に上った
    • [78]昭和2年度初の払込済資本金は337,156,000円、昭和6年度末は387,156,000円に増加し、昭和8年度の増資を経て昭和10年度末には584,208,000円となった
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業
    • [77]昭和8年3月6日、従来の資本金4億4,000万円を8億円に増資し、新募集株の2分の1すなわち360万株を限り政府が引受け、残り360万株を一般から募集することとした
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 1937年 第三編会社の会計 第一章概説
    • [71]昭和4年に純益4,500万円を超えて従来の記録を画したが、昭和5年から6年にかけて世界的不況の波及・銀貨の惨落・旧東北政権の重圧・恒常的排日貨の影響で会社の財政は急転し、創業以来未曾有の苦境に陥った
    • [72]会社は社内全般にわたり極度の緊縮を行い、事業投資の繰延・諸経費の節約など経営の合理化に努めた
    • [73]昭和2年度以降昭和6年度までの資本投下は主として社線輸送能力の増進、撫順炭礦の増産設備等の社内事業に集中した
    • [74]過去20余年間にわたり建設された強固な財政と相俟って、よくこの難局に堪えることができた
    • [75]昭和6年に満洲事変が起こり、翌7年に満洲国が成立し、日満の政治的結合の進行ならびに経済ブロックの結成等により満洲の政治・経済情勢は急激な変革を来した
    • [76]会社は大陸政策の先駆として日満両国の経済的発展、植民事業の誘導達成に必要なる幾多の施設・貢献を為すに至り、これに要する資金も巨額に上った
    • [78]昭和2年度初の払込済資本金は337,156,000円、昭和6年度末は387,156,000円に増加し、昭和8年度の増資を経て昭和10年度末には584,208,000円となった
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業
    • [77]昭和8年3月6日、従来の資本金4億4,000万円を8億円に増資し、新募集株の2分の1すなわち360万株を限り政府が引受け、残り360万株を一般から募集することとした

奉天の鉄路総局と、社線の三倍に及ぶ国線の受託

1933年2月9日に満洲国政府が国有既成鉄道の経営を会社に委託し、会社は同年3月1日に受託の旨を発表して、あわせて奉天に鉄路総局を設けて委託経営鉄道の直接経営に当たらせた[79]。契約の対象は吉長・吉敦・吉海・四洮・洮昂・洮索・齊克・呼海・瀋海・奉山の既成諸鉄道である。満洲国政府が会社に負担する約1億3,000万金円の債務には、これら諸鉄道に属する一切の財産と収入を借款の担保に充てた[80]。会社は総局の設立と同時に社員を督励し、所管鉄道の合理的な有機的機構の樹立と経済的運用という二原則を掲げた[81]

  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・鉄路総局)
    • [79]昭和8年2月9日、満洲国政府は其の国有既成鉄道の経営を満鉄に委託し、満鉄は同年3月1日に受託の旨を発表すると同時に奉天に鉄路総局を設置、委託経営鉄道の直接経営に当たらせることとした
    • [80]満洲国政府は吉長・吉敦・吉海・四洮・洮昂・洮索・齊克・呼海・瀋海・奉山の既成諸鉄道に関し満鉄に対し負担する債務合計約1億3,000万金円を、これら諸鉄道に属する一切の財産及び収入をもって本借款の担保とし、これら諸鉄道の経営を満鉄に委託した
    • [81]満鉄は総局設立と同時に社員を督励し、所管鉄道の合理的な有機的機構の樹立と経済的運用の二原則に基き経営の衝に当たることとなった

総局の所管は、1933年12月末で約3,635.5粁に達し、社線の約3倍にあたった[82]。うち約813粁は事変後に会社が新たに敷いた線が占め[83]、鉄道のほかに港湾と水路も総局が抱えた。営口の河北埠頭は事変前まで東北軍閥が自国鉄道の貨物を一手に集めた埠頭で、桟橋3、倉庫8棟を持ち、10万瓲の収貨能力があった[84]。松花江の水運では、旧東北政権の船舶財産を運用していた東北江運処・東北航務局と、その付属機関である東北造船所・広信航業所の事務を引き継いだ[85]。満洲国の大同元年度は収入約4,700万円に対し支出3,650万円で、収入対支出比率77%を第一段として、総局はこれを50%まで下げる目標に据えた[86]

  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・鉄路総局)
    • [82]鉄路総局事業の大綱は約3,635粁(満鉄線の約3倍)に亘る満洲国鉄の経営のほか港湾・水路・附帯事業の経営にある。昭和8年12月末日現在の所管営業粁程は計3,635.5KM
    • [83]事変後、満鉄の手によって新設された約813粁(昭和8年12月現在)の新線を加えた
    • [84]河北埠頭は事変前まで東北軍閥が自国鉄道による貨物を一手に本埠頭に集貨したもので、現在、埠頭一、桟橋三、倉庫棟数八、其他野積場及び貯炭場等もあり、収貨能力十万瓲を有する
    • [85]鉄路総局は満鉄の委託経営契約により、旧東北政府の船舶財産の運用機関であった東北江運処・東北航務局ならびにその附属機関たる東北造船所・広信航業所の事務を引継ぎ経営に任じている
    • [86]大同元年度における収入対支出比率77%(収入合計約4,700万円、支出3,650万円)を第一段として、収支比率50%にまで到達せしむべく努力している

新京と鮮満国境の図們・開山屯を結ぶ京図線によって、満洲の鉄道は日本海側へ抜けた。京図線は1933年10月1日に朝鮮総督府から会社へ委管された北鮮鉄道につながり、雄基・清津の両港に通じた[87]。会社は同じ日に清津へ北鮮鉄道管理局を置き、即日業務を開始した。北鮮鉄道は延長330粁のC字形で、咸鏡線のうち輸城会寧間、清津線、会寧炭礦線、図們線から成っていた[88]。10月15日には新京・清津間の直通列車が走り出し、二十年来の懸案だった吉会鉄道が実現した[89]。終端港に選ばれた羅津では会社が築港を進め、1935年7月に雄基から雄羅隧道を通って羅津港まで延ばす予定を立てた[90]。1935年3月23日にはソ連邦政府の旧北満鉄道を接収して会社がその経営を受託し、全国線と社線の経営が一本にまとまった[91]

  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・鉄路総局)
    • [87]新京を鮮満国境の図們・開山屯につなぐ京図線は、昭和8年10月1日に朝鮮総督府より満鉄に委管された北鮮鉄道に連絡し、北鮮日本海岸の雄基・清津の両港に通ずることとなった
    • [89]二十年来の懸案であり日満連絡の最短交通路として待望された吉会鉄道が実現し、昭和8年10月15日から新京・清津間に直通列車が運転されている
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・北鮮鉄道管理局)
    • [88]満鉄は朝鮮総督の委託を受け朝鮮国有鉄道咸鏡線中の輸城会寧間・清津線・会寧炭礦線及図們線ならびに附帯業務の経営に当たることとなり、昭和8年10月1日、北鮮鉄道管理局を清津に設置、即日業務を開始した。本鉄道は延長330粁のC字形の鉄道である
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・鉄路総局/北鮮鉄道管理局)
    • [90]本鉄道の終端港として選定された羅津は目下満鉄の手によって盛んに築造中であり、昭和10年7月には現在の終点雄基より更に雄羅隧道を通じ羅津港に至る予定である
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 1937年 第三編会社の会計 第一章概説
    • [91]昭和10年3月23日、ソ連邦政府の旧北満鉄道を接収して会社がその経営を受託するに及んで、全国線と社線との経営が完全に合理化された
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・鉄路総局)
    • [79]昭和8年2月9日、満洲国政府は其の国有既成鉄道の経営を満鉄に委託し、満鉄は同年3月1日に受託の旨を発表すると同時に奉天に鉄路総局を設置、委託経営鉄道の直接経営に当たらせることとした
    • [80]満洲国政府は吉長・吉敦・吉海・四洮・洮昂・洮索・齊克・呼海・瀋海・奉山の既成諸鉄道に関し満鉄に対し負担する債務合計約1億3,000万金円を、これら諸鉄道に属する一切の財産及び収入をもって本借款の担保とし、これら諸鉄道の経営を満鉄に委託した
    • [81]満鉄は総局設立と同時に社員を督励し、所管鉄道の合理的な有機的機構の樹立と経済的運用の二原則に基き経営の衝に当たることとなった
    • [82]鉄路総局事業の大綱は約3,635粁(満鉄線の約3倍)に亘る満洲国鉄の経営のほか港湾・水路・附帯事業の経営にある。昭和8年12月末日現在の所管営業粁程は計3,635.5KM
    • [83]事変後、満鉄の手によって新設された約813粁(昭和8年12月現在)の新線を加えた
    • [84]河北埠頭は事変前まで東北軍閥が自国鉄道による貨物を一手に本埠頭に集貨したもので、現在、埠頭一、桟橋三、倉庫棟数八、其他野積場及び貯炭場等もあり、収貨能力十万瓲を有する
    • [85]鉄路総局は満鉄の委託経営契約により、旧東北政府の船舶財産の運用機関であった東北江運処・東北航務局ならびにその附属機関たる東北造船所・広信航業所の事務を引継ぎ経営に任じている
    • [86]大同元年度における収入対支出比率77%(収入合計約4,700万円、支出3,650万円)を第一段として、収支比率50%にまで到達せしむべく努力している
    • [87]新京を鮮満国境の図們・開山屯につなぐ京図線は、昭和8年10月1日に朝鮮総督府より満鉄に委管された北鮮鉄道に連絡し、北鮮日本海岸の雄基・清津の両港に通ずることとなった
    • [89]二十年来の懸案であり日満連絡の最短交通路として待望された吉会鉄道が実現し、昭和8年10月15日から新京・清津間に直通列車が運転されている
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・北鮮鉄道管理局)
    • [88]満鉄は朝鮮総督の委託を受け朝鮮国有鉄道咸鏡線中の輸城会寧間・清津線・会寧炭礦線及図們線ならびに附帯業務の経営に当たることとなり、昭和8年10月1日、北鮮鉄道管理局を清津に設置、即日業務を開始した。本鉄道は延長330粁のC字形の鉄道である
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・鉄路総局/北鮮鉄道管理局)
    • [90]本鉄道の終端港として選定された羅津は目下満鉄の手によって盛んに築造中であり、昭和10年7月には現在の終点雄基より更に雄羅隧道を通じ羅津港に至る予定である
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 1937年 第三編会社の会計 第一章概説
    • [91]昭和10年3月23日、ソ連邦政府の旧北満鉄道を接収して会社がその経営を受託するに及んで、全国線と社線との経営が完全に合理化された

満鉄王国と呼ばれた附属地行政と六十一社の関係会社

会社は政府命令書により、鉄道沿線の附属地で土木・教育・衛生に必要な施設を設ける責任を負い、あわせて居住者から手数料を徴収し費用を分賦する権能を与えられた[92]。営利事業に止まらず行政まで担ったことから、会社は満鉄王国と称された[93]。附属地の行政は14か所の地方事務所が管轄し、うち1か所は撫順の炭礦庶務課が兼ねた[94]。関東州を除く附属地の戸数は6万8,000、人口は36万3,000に達し、1932年度の一戸当たり平均負担額は14円34銭だった[95]。1933年3月末に会社が擁した施設は小学校37、中等学校10、専門学校2、大学1、図書館23[96]。沿線各地の小学校では1万7,000余の日本人児童を教えた[97]。医院は大連から哈爾濱まで17か所に置き、1932年5月には結核療養所として南満洲保養院を開いた[98]

  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営)
    • [92]会社は政府命令書により鉄道沿線附属地における土木・教育・衛生等に関し必要なる施設を為す責任を有すると同時に、附属地内の居住者に対し手数料を徴収し其他必要なる費用の分賦をなし得る権能を付与された
    • [93]会社が由来「満鉄王国」と称せられる所以は、営利的諸事業を営むに止まらず、満鉄附属地経営の行政的事業をも担当し宛然一独立国家の如き観を呈しているためである
    • [94]現在では十四ケ所(内一は炭礦庶務課)の地方事務所で各管轄区域の行政を司っている
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・市街経営)
    • [95]附属地(州外)の戸数は六万八千、人口三十六万三千(内外人共)を算する。昭和7年度における一戸当平均負担額は十四円三十四銭である
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・教育施設)
    • [96]昭和8年3月末日現在の満鉄経営の教育施設は大学一、専門学校二、中等学校一〇、小学校三七、図書館二三等である
    • [97]会社は沿線の各地(関東州を除く)に小学校を設置し、一万七千余の日本人児童を教育している
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・衛生施設)
    • [98]医院の所在地は大連・瓦房店・大石橋・営口・鞍山・遼陽・奉天・鉄嶺・開原・四平街・公主嶺・本渓湖・新京・安東・撫順・吉林及び哈爾濱の十七箇所。結核療養所は昭和5年11月起工、昭和7年5月に南満洲保養院(患者収容力百六名)を開設した

会社は満蒙の資源と産業を調べる機関を各地に構えた。地質調査所は撫順炭田の地質調査から始めて事務所を大連へ移し、鞍山ほか7鉄鉱の発見、蓋平・海城両県での菱苦土鉱の発見、各地炭田の地質調査に当たった[99]。中央試験所は1931年12月に理学試験所を合併して無機化学・有機化学・燃料・農産化学・機械研究・電気研究・土木研究の7科に分かれ、1933年3月末で外国の特許8件、日本の特許67件を保有した[100]。1932年1月には鄭家屯に産業調査所を設け、会社が出資した生畜の預託事業を監督させた[101]。公主嶺の農事試験場では農芸化学・畜産・種芸の試験と調査研究を行い、熊岳城の分場に園芸・種芸・林産・養蚕・病理昆虫の五科を置いた[102]。商工業と農牧林業に対する産業助成費は年額約150万円内外に上った[103]

  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・地質調査所)
    • [99]地質調査所は当初撫順炭田の地質調査を主とし明治40年4月事務所を撫順炭礦に置いたが後大連に移した。従来の事業中主なるものは鞍山外七鉄鉱の発見、蓋平及び海城両県下における菱苦土鉱の発見、各地炭田の地質調査及び地形測量等である
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・中央試験所)
    • [100]中央試験所は昭和6年12月に理学試験所を合併し、現在無機化学科・有機化学科・燃料科・農産化学科・機械研究科・電気研究科・土木研究科の各部門に分かれている。特許権は現在(昭和8年3月末日)外国のもの八、日本のもの六十七件に上る
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・産業調査所)
    • [101]昭和7年1月、鄭家屯に産業調査所を置き会社投資に係る生畜の預託事業の監督指導をなさしめつつある
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・農事試験場)
    • [102]農事試験場は公主嶺に本場、熊岳城に分場がある。公主嶺本場は専ら農芸化学・畜産・種芸に関する試験及び調査研究を行い、熊岳城分場は園芸・種芸・林産・養蚕・病理昆虫の五科を置いている
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・商工施設)
    • [103]満鉄が支出している商工業及農牧林業其他に対する産業助成費は年額約百五十万円内外である

会社は早くから直営事業を独立の株式会社に改め、新興の企業にも出資してきた。事変後に設立された満洲化学工業、満洲航空、満洲電信電話にも出資し、1933年12月末の関係会社は61社に及んだ[104]。この出資と国線の建設が、会社の資金の向かう先を変えた。満洲事変以後、社内事業費の増加額は4,426万7,000円にとどまったのに対し、社外投資は6億4,700万円余の激増を示し、創業以来の累計でも社外投資が社内事業費を上回った[105]。社債も同じ動きを示し、1927年度から1931年度までの5か年では4,760万円しか増えなかったが、1932年度以降の4か年では3億3,634万8,000円増えた[106]。発行限度も資本総額から払込資本金の2倍へ広げた[107]。1935年度は4,962万円の利益金を挙げたが、配当は一般株主8分、政府4分4厘3毛に止め、残りを社内資本に留保した[108]

  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(関係会社)
    • [104]会社は大正4年に大連汽船会社を分離し、瓦斯作業所・窯業工場・電気作業所等を独立の株式会社組織に改めた。満鉄本来の事業と不即不離の関係に立つ新企業にも出資し、事変の後新情勢に応じ設立された満洲化学工業・満洲航空・満洲電信電話等にもそれぞれ出資している。昭和8年12月末日現在における関係会社は実に六十一社に及んでいる
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 1937年 第三編会社の会計 第一章概説
    • [105]満洲事変以後における社内事業費の増加額は44,267,000円に過ぎないが、国線建設はじめその他の社外投資においては647,000,000円余の激増を示し、創業以来の累計投資でも社内事業投資に比し社外投資が多額である
    • [106]社債は昭和2年度初め現在額268,450,200円で、昭和6年度までの5箇年間には僅かに4,760万円の増加であるが、昭和7年度以降の4箇年間における増加額は実に336,348,000円に上っている
    • [107]将来の資金需要に備えるため、従来社債発行限度は資本総額を超過することができなかったのを、払込資本金の二倍まで拡大発行し得ることに改正せられた
    • [108]昭和10年度は巨額の募債による利息負担の加重にもかかわらず4,962万円の利益金を挙げ、償却除却額を加算すればその額7,654万円となり、払込資本金に対して13.1%の利回率となるが、配当率を一般株主八分・政府四分四厘三毛に止め、他はすべて社内資本に留保した
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営)
    • [92]会社は政府命令書により鉄道沿線附属地における土木・教育・衛生等に関し必要なる施設を為す責任を有すると同時に、附属地内の居住者に対し手数料を徴収し其他必要なる費用の分賦をなし得る権能を付与された
    • [93]会社が由来「満鉄王国」と称せられる所以は、営利的諸事業を営むに止まらず、満鉄附属地経営の行政的事業をも担当し宛然一独立国家の如き観を呈しているためである
    • [94]現在では十四ケ所(内一は炭礦庶務課)の地方事務所で各管轄区域の行政を司っている
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・市街経営)
    • [95]附属地(州外)の戸数は六万八千、人口三十六万三千(内外人共)を算する。昭和7年度における一戸当平均負担額は十四円三十四銭である
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・教育施設)
    • [96]昭和8年3月末日現在の満鉄経営の教育施設は大学一、専門学校二、中等学校一〇、小学校三七、図書館二三等である
    • [97]会社は沿線の各地(関東州を除く)に小学校を設置し、一万七千余の日本人児童を教育している
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・衛生施設)
    • [98]医院の所在地は大連・瓦房店・大石橋・営口・鞍山・遼陽・奉天・鉄嶺・開原・四平街・公主嶺・本渓湖・新京・安東・撫順・吉林及び哈爾濱の十七箇所。結核療養所は昭和5年11月起工、昭和7年5月に南満洲保養院(患者収容力百六名)を開設した
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・地質調査所)
    • [99]地質調査所は当初撫順炭田の地質調査を主とし明治40年4月事務所を撫順炭礦に置いたが後大連に移した。従来の事業中主なるものは鞍山外七鉄鉱の発見、蓋平及び海城両県下における菱苦土鉱の発見、各地炭田の地質調査及び地形測量等である
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・中央試験所)
    • [100]中央試験所は昭和6年12月に理学試験所を合併し、現在無機化学科・有機化学科・燃料科・農産化学科・機械研究科・電気研究科・土木研究科の各部門に分かれている。特許権は現在(昭和8年3月末日)外国のもの八、日本のもの六十七件に上る
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・産業調査所)
    • [101]昭和7年1月、鄭家屯に産業調査所を置き会社投資に係る生畜の預託事業の監督指導をなさしめつつある
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・農事試験場)
    • [102]農事試験場は公主嶺に本場、熊岳城に分場がある。公主嶺本場は専ら農芸化学・畜産・種芸に関する試験及び調査研究を行い、熊岳城分場は園芸・種芸・林産・養蚕・病理昆虫の五科を置いている
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・商工施設)
    • [103]満鉄が支出している商工業及農牧林業其他に対する産業助成費は年額約百五十万円内外である
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(関係会社)
    • [104]会社は大正4年に大連汽船会社を分離し、瓦斯作業所・窯業工場・電気作業所等を独立の株式会社組織に改めた。満鉄本来の事業と不即不離の関係に立つ新企業にも出資し、事変の後新情勢に応じ設立された満洲化学工業・満洲航空・満洲電信電話等にもそれぞれ出資している。昭和8年12月末日現在における関係会社は実に六十一社に及んでいる
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 1937年 第三編会社の会計 第一章概説
    • [105]満洲事変以後における社内事業費の増加額は44,267,000円に過ぎないが、国線建設はじめその他の社外投資においては647,000,000円余の激増を示し、創業以来の累計投資でも社内事業投資に比し社外投資が多額である
    • [106]社債は昭和2年度初め現在額268,450,200円で、昭和6年度までの5箇年間には僅かに4,760万円の増加であるが、昭和7年度以降の4箇年間における増加額は実に336,348,000円に上っている
    • [107]将来の資金需要に備えるため、従来社債発行限度は資本総額を超過することができなかったのを、払込資本金の二倍まで拡大発行し得ることに改正せられた
    • [108]昭和10年度は巨額の募債による利息負担の加重にもかかわらず4,962万円の利益金を挙げ、償却除却額を加算すればその額7,654万円となり、払込資本金に対して13.1%の利回率となるが、配当率を一般株主八分・政府四分四厘三毛に止め、他はすべて社内資本に留保した

1938年〜 重工業と行政権を手放し、鉄道一本の会社として終わるまで

南満洲鉄道の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1945年 終戦後の全社員の職場確守とソ連軍管理の受け入れ、全事業財産の管理・使用権の引渡し 軍も政府も消えた満洲で、8万人の従業員を抱えた会社に何が決められたか
  2. 1945年 重役会の解散

附属地行政権と重工業部門の移管、華北への進出

1937年12月、会社は治外法権の全面撤廃と同時に、創業以来社業の基本要素の一つだった附属地行政権を満洲国へ移した。土木・衛生・道路・中国人教育にかかわる行政は満洲国政府へ、日本人の教育施設は新たに設けられた学校組合とその連合会へ渡り、日本臣民の神社・教育・兵事に関する行政だけが日本国政府の手に属人的に残った[109]。移した施設は公学堂・州外公費図書館・婦人病院・保健所・上水道・消防隊・火葬場などに及び、評価額は5,500万円、投資額の28%にあたる[110]。内訳は満洲国関係が3,238万9,546円、日本政府関係が2,282万8,985円[111]。施設に随伴して満洲国政府へ1,495人、日本政府系統機関へ2,842人、合わせて4,319人の社員が転出した[112]

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [109]治外法権の撤廃は昭和十二年十二月その全面的撤廃を実施するとともに、満鉄付属地の行政権委譲が行われた。『日本臣民の神社、教育及び兵事に関する行政は日本国政府が属人的に行う』ほか、他の土木、衛生、道路、中国人教育の関係行政は一切満州国政府に、また日本人教育施設は新たに設けられた学校組合とその連合会に一任された
    • [110]移譲の対象となった機関、施設の種目は公学堂、日語学堂、州外公費図書館、婦人病院、保健所、州外道路、下水道、火葬場、消防隊、上水道等であり、これ等施設の評価額は五五〇〇万円で、投資額の二八%に当る
    • [111]満州国関係三二、三八九、五四六円 日本政府関係二二、八二八、九八五円 計五五、二一八、五三二円
    • [112]満鉄から、満州国政府に一、四九五人、日本政府系統機関に二、八四二人、計四、三一九人の社員が上記の施設に随伴して転出した

翌1938年3月、会社は重工業部門を満洲重工業開発株式会社へ引き渡した。1916年から独力で育ててきた昭和製鋼所の株式75%を筆頭に、満洲炭鉱・日満マグネシウム・満洲鉛鉱・同和自動車・満洲石油などの持分合計1億890万円を満洲国政府へ譲り、重工業の建設と経営から手を引いた[113]。産業部を構成していた基幹要員も大部分が新会社へ移り、残った要員は調査部として再出発し、社業は鉄道を中心とする交通部門の綜合経営、撫順炭礦を中心とする炭礦事業と製油、調査部を中心とする調査研究の三本立てになった[114]。総事業費に占める鉄道投資の比重は1937年の64%から1941年には80%へ上昇。満洲事変前の鉄道投資は全投資の30〜40%にとどまるのが常態で、会社は鉄道以外の分野へ広く資金を振り向けていた[115]

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [113]満鉄は、大正五年以来独力で育成に努めて来た昭和製鋼所の株式の七五%を初めとし、事変後の特殊会社投資の大部分に相当する満州炭鉱、日満マグネシウム、満州鉛鉱、同和自動車、満州石油等の持分合計一億〇八九〇万円を満州国政府に譲渡し、重工業関係の建設経営から一切手を引くこととなった
    • [114]産業部を構成していた基幹要員も大部分新設の満州重工業に移り、残部は調査部として再出発した。満鉄はこの時以来終戦に至るまで、鉄道を中心とする交通部門の綜合経営、撫順炭鑛を中心とする炭礦事業と製油、調査部(中央試験所を含む)を中心とする全東亜に跨る調査、研究、の三本立を社業の基礎とするに至った
    • [115]鉄道投資の総事業費中に占める比重が、昭和十二年の六四%から十六年の八〇%に上っている。満州事変前における鉄道投資は全投資の僅か三〇-四〇%の間にあったのが常態であった

日中事変の後、会社は天津に置いていた連絡機関を総裁直轄の北支事務局へ改め、1938年9月の職制改正で正規の機関とし、1万3,500名の社員を配置して華北各鉄道の接収と運営に当たらせた[116]。会社は30年に及ぶ大陸鉄道経営の経験と人的蓄積を根拠に中国全鉄道の経営委任を求めたが、華中は鉄道省を主体とする華中鉄道株式会社が担い、会社の関与は華北にとどまった[117]。1939年に華北交通株式会社が発足すると、派遣社員は満鉄社員の身分を保留したまま新会社へ配置され、その主力を占めた[118]。華北交通は資本金3億円(連銀券)のうち1億2,000万円を会社が引き受け、京山・京漢・膠済など5,780粁の鉄道に加えて584粁の内河水運と1万粁を超える自動車路線を運営し、塘沽の築港工事も直轄した[119]

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [116]満鉄は日中事変以前より天津に小規模な連絡機関を設置していたが、事変後はこれを拡張して暫定的に総裁直轄の北支事務局に改め、十三年九月の職制改正において正規の機関とし、一万三五〇〇名に上る社員をこの局に配置し、華北各鉄道の接収と運営に当った
    • [117]満鉄は早くから大陸鉄道一貫経営の主張を掲げ、三十年に亘る大陸鉄道経営の経験と人的蓄積を根拠として、中国全鉄道の経営の委任を受けることを期待したが、結局華中は、鉄道省を主体とする華中鉄道株式会社がその運営に当り、満鉄は華北交通に対する資本的、人的な参加を通じて、華北鉄道五、七八〇粁にその支配を及ぼすこととなった
    • [118]昭和十四年同社の創立と同時に、派遣全社員は満鉄社員の身分を保留したまま、新会社に配置され、同社の主力を形成した
    • [119]華北交通株式会社(資本金、連銀券三億円、満鉄引受一億二千万円、引受率四〇%)の経営線は、京山、京古、京包、京漢、津浦、石太、膠済、同浦の各線合計に軍管理の委任経営を加え総計五、七八〇粁。この会社は鉄道のほか五八四粁に及ぶ内河水運、一万粁以上の自動車路線の運営をも行い、かつ白河下流の塘沽に大築港工事を直轄事業として実施した
  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [109]治外法権の撤廃は昭和十二年十二月その全面的撤廃を実施するとともに、満鉄付属地の行政権委譲が行われた。『日本臣民の神社、教育及び兵事に関する行政は日本国政府が属人的に行う』ほか、他の土木、衛生、道路、中国人教育の関係行政は一切満州国政府に、また日本人教育施設は新たに設けられた学校組合とその連合会に一任された
    • [110]移譲の対象となった機関、施設の種目は公学堂、日語学堂、州外公費図書館、婦人病院、保健所、州外道路、下水道、火葬場、消防隊、上水道等であり、これ等施設の評価額は五五〇〇万円で、投資額の二八%に当る
    • [111]満州国関係三二、三八九、五四六円 日本政府関係二二、八二八、九八五円 計五五、二一八、五三二円
    • [112]満鉄から、満州国政府に一、四九五人、日本政府系統機関に二、八四二人、計四、三一九人の社員が上記の施設に随伴して転出した
    • [113]満鉄は、大正五年以来独力で育成に努めて来た昭和製鋼所の株式の七五%を初めとし、事変後の特殊会社投資の大部分に相当する満州炭鉱、日満マグネシウム、満州鉛鉱、同和自動車、満州石油等の持分合計一億〇八九〇万円を満州国政府に譲渡し、重工業関係の建設経営から一切手を引くこととなった
    • [114]産業部を構成していた基幹要員も大部分新設の満州重工業に移り、残部は調査部として再出発した。満鉄はこの時以来終戦に至るまで、鉄道を中心とする交通部門の綜合経営、撫順炭鑛を中心とする炭礦事業と製油、調査部(中央試験所を含む)を中心とする全東亜に跨る調査、研究、の三本立を社業の基礎とするに至った
    • [115]鉄道投資の総事業費中に占める比重が、昭和十二年の六四%から十六年の八〇%に上っている。満州事変前における鉄道投資は全投資の僅か三〇-四〇%の間にあったのが常態であった
    • [116]満鉄は日中事変以前より天津に小規模な連絡機関を設置していたが、事変後はこれを拡張して暫定的に総裁直轄の北支事務局に改め、十三年九月の職制改正において正規の機関とし、一万三五〇〇名に上る社員をこの局に配置し、華北各鉄道の接収と運営に当った
    • [117]満鉄は早くから大陸鉄道一貫経営の主張を掲げ、三十年に亘る大陸鉄道経営の経験と人的蓄積を根拠として、中国全鉄道の経営の委任を受けることを期待したが、結局華中は、鉄道省を主体とする華中鉄道株式会社がその運営に当り、満鉄は華北交通に対する資本的、人的な参加を通じて、華北鉄道五、七八〇粁にその支配を及ぼすこととなった
    • [118]昭和十四年同社の創立と同時に、派遣全社員は満鉄社員の身分を保留したまま、新会社に配置され、同社の主力を形成した
    • [119]華北交通株式会社(資本金、連銀券三億円、満鉄引受一億二千万円、引受率四〇%)の経営線は、京山、京古、京包、京漢、津浦、石太、膠済、同浦の各線合計に軍管理の委任経営を加え総計五、七八〇粁。この会社は鉄道のほか五八四粁に及ぶ内河水運、一万粁以上の自動車路線の運営をも行い、かつ白河下流の塘沽に大築港工事を直轄事業として実施した

輸送量八千三百万瓲の頂点と、七割四分へ落ちた収支比率

1938年10月、会社は運賃を全面的に改めた。社線と国線で異なっていた賃率を最低率の社線賃率に合わせて単一運賃率とし、遠距離逓減を強めたうえ、穀類・家畜・木材・石炭・鉄鉱の5品目には別建ての品目運賃率を設けた[120]。この5品目は1935年の実績で営業貨物の79%、収入の75%を占めており、改正で会社が負う減収は1939年度で約1,800万円と見込まれた[121]。1939年3月に大村卓一総裁が就任すると[122]、会社は運賃に続いて資本と勘定にも手を入れ、1940年1月20日に資本金を8億円から14億円へ引き上げた[123]。同年4月からは委託国有鉄道の営業収支を固有の収支と区分せず一本の勘定で扱い、満洲国が会社に負う借款の利子は契約の当初に遡って全額免除となり、代わりに会社は毎年1,500万円の報償金を満洲国政府へ納めた[124]

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [120]満鉄は、昭和十三年十月画期的な運賃改正を行った。社線、国線各運賃率を異にする不合理を是正するため、各線中最低率の社線賃率を基準とし、遠距離逓減を強化した単一運賃率を設定した。穀類、家畜、木材、石炭、鉄鉱の五品目に別個の品目運賃率を設定し、遠距離逓減の率を強化した
    • [121]右にあげた五品目は鉄道貨物の大宗をなすもので、昭和十年(一九三五年)の実績で見ると全営業貨物の七九%に当り、また収入においては七五%を占めている。従ってこの時の改正による満鉄の負担は昭和十四年度に於て約一千八百万円と推算された
    • [122]一五 大村卓一 昭和一四、三 昭和一八、七
    • [123]昭和十五年一月二十日満鉄は従来の資本金八億円を一挙に六億円の増資を行い、公称資本金一四億とした
    • [124]昭和十五年四月一日よりいわゆる経理の社線一元化の実現を見た。委託満州国々有鉄道等の営業収支は、満鉄固有の営業収支と区分せざることとし、満鉄自体の計算に於て之を行う。満鉄に対する満州国政府の諸借款は新旧とも無利子とし、既往未整理の借款利息は契約の当初に遡り之を免除す。満鉄は満州国政府に対し毎年報償金一、五〇〇万円を納付す

営業粁は1937年度末の9,655粁から1943年5月末の1万1,205粁へ約1,550粁延び、ほかに仮営業線360粁を抱えた[125]。多年の懸案だった1万粁は、1939年11月1日に浜綏線から東寧へ至る新線91.1粁が本営業を始めて突破した[126]。鉄道従業員は1937年の9万8,000人から1943年5月の21万人へ倍以上に増え[127]、貨物輸送量は1937年以来毎年記録を更新して1942年には8,316万6,000瓲と1937年実績の2倍となった[128]。旅客も輸送人員1億3,000万人、140億人粁、収入3億770万円を数え、1937年比でそれぞれ3.5倍、3.4倍、4.5倍へ伸びた[129]。1941年の関東軍特別演習では7月24日から9月10日にかけて約30万の兵力を移送し、旅客と貨物の受付を広く止めたため、7・8月の輸送は5月比で旅客が約4割、営業貨物が2割6分減った[130]

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [125]営業粁においては昭和十二年度末の九、六五五粁が、十八年五月末に一一、二〇五粁へと、約一、五五〇粁約一三%の延伸をみた。このほかにも三六〇粁の仮営業線を持っていた
    • [126]多年の懸案であった鉄路一万粁突破は、昭和十四年十一月一日浜綏線より東寧に至る新線九一・一粁の本営業開始によって達成した
    • [127]鉄道従業員は営業粁の延伸と輸送量の激増に対応して、昭和十二年の九万八千人より十八年五月の二一万人へと二倍以上の増加を示した
    • [128]輸送屯数は、昭和十二年以来毎年記録を更新し、十七年には八千三百万屯と倍以上の増加を示した。昭和十七年には、貨物輸送量は八三一六万六千瓲の記録を樹立したが、これは昭和十二年の実績の二倍に相当する
    • [129]輸送人員一億三千万人、一四〇億人粁、収入三億七七〇万円という成績は、昭和十二年の実績に比し、それぞれ三・五倍、三・四倍、四・五倍に当る
    • [130]関特演とは一九四一年(昭和十六年)独ソ開戦に伴い、その七月二十四日から九月十日にかけて行われた動員輸送の秘匿名であった。約三十万の兵力の急速対満移送が行われ、満鉄はこのため広汎に旅客貨物の制限、受付停止を行った。そのため七、八月の輸送は五月に比べて、旅客人員において約四割減、営業貨物において二割六分の減少を示した

輸送量の記録と裏腹に、収益力は落ちた。鉄道の収支比率は1908年から1938年まで50%を超えず、会社がつぶれると騒がれた1931年でさえ支出は収入の44%にとどまっていたが、74%へ跳ね上がった[131]。港湾部門は初めて赤字に転じ、会社が経営する8港湾の輸出貨物は1938年の742万瓲から1942年の441万瓲へ減った[132]。1942年度の利息負担7,000万円は、鉄道部門の利益約2億円の35%にあたる[133]。撫順炭礦は1938年に出炭1,000万瓲を記録したものの、増産を急いで炭層を覆う頁岩層の剥離が遅れ、この年を頂点に生産は900万瓲台から600万瓲台まで落ちた[134]。使用総資本は1937年の21億1,940万2,000円から1943年の42億3,188万6,000円へ倍増し、増加額21億1,200万円の8割は株金の徴収と12億800万円の社債募集で賄われた[135]

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [131]満鉄の鉄道収益力は、明治四十一年以来昭和十三年に至るまで、その収支比率は五〇%を超すことはなかった。満鉄がつぶれると騒がれた昭和六年においてさえ、鉄道支出は鉄道収入の四四%を占めているに過ぎなかった。それが七四%に激落したのである
    • [132]港湾部門が初めて赤字にてん落したことも見逃し難い。満鉄経営の八港湾(大連、旅順、安東、営口、羅津、雄基、河北、壺芦島)における輸出貨物の量は、昭和十三年の七四二万瓲より十七年の四四一万瓲までに激減した
    • [133]十七年度における利息負担七千万円は、鉄道部門の利益約二億の三五%にも当る大きさであって、これが全体としての収益力に大きな圧迫となった
    • [134]昭和十三年にはこれらの増産計画が功を奏して出炭一千万瓲の記録をうちたてることが出来た。しかしこの年をピークとして、撫順炭の生産は低下の一途をたどり、九百万瓲台から六百万瓲台にまで落ちたが、その最大の原因は増産を強行するの余り炭層を被覆している頁岩層の剥離が遅れたことにあった
    • [135]昭和十二年 二、一一九、四〇二千円、昭和十八年 四、二三一、八八六千円。この六カ年間の増加額は二一億一二〇〇万円で、その八〇%迄が株金の徴収と社債の募集(一二億八百万円)によって賄われた
  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [120]満鉄は、昭和十三年十月画期的な運賃改正を行った。社線、国線各運賃率を異にする不合理を是正するため、各線中最低率の社線賃率を基準とし、遠距離逓減を強化した単一運賃率を設定した。穀類、家畜、木材、石炭、鉄鉱の五品目に別個の品目運賃率を設定し、遠距離逓減の率を強化した
    • [121]右にあげた五品目は鉄道貨物の大宗をなすもので、昭和十年(一九三五年)の実績で見ると全営業貨物の七九%に当り、また収入においては七五%を占めている。従ってこの時の改正による満鉄の負担は昭和十四年度に於て約一千八百万円と推算された
    • [122]一五 大村卓一 昭和一四、三 昭和一八、七
    • [123]昭和十五年一月二十日満鉄は従来の資本金八億円を一挙に六億円の増資を行い、公称資本金一四億とした
    • [124]昭和十五年四月一日よりいわゆる経理の社線一元化の実現を見た。委託満州国々有鉄道等の営業収支は、満鉄固有の営業収支と区分せざることとし、満鉄自体の計算に於て之を行う。満鉄に対する満州国政府の諸借款は新旧とも無利子とし、既往未整理の借款利息は契約の当初に遡り之を免除す。満鉄は満州国政府に対し毎年報償金一、五〇〇万円を納付す
    • [125]営業粁においては昭和十二年度末の九、六五五粁が、十八年五月末に一一、二〇五粁へと、約一、五五〇粁約一三%の延伸をみた。このほかにも三六〇粁の仮営業線を持っていた
    • [126]多年の懸案であった鉄路一万粁突破は、昭和十四年十一月一日浜綏線より東寧に至る新線九一・一粁の本営業開始によって達成した
    • [127]鉄道従業員は営業粁の延伸と輸送量の激増に対応して、昭和十二年の九万八千人より十八年五月の二一万人へと二倍以上の増加を示した
    • [128]輸送屯数は、昭和十二年以来毎年記録を更新し、十七年には八千三百万屯と倍以上の増加を示した。昭和十七年には、貨物輸送量は八三一六万六千瓲の記録を樹立したが、これは昭和十二年の実績の二倍に相当する
    • [129]輸送人員一億三千万人、一四〇億人粁、収入三億七七〇万円という成績は、昭和十二年の実績に比し、それぞれ三・五倍、三・四倍、四・五倍に当る
    • [130]関特演とは一九四一年(昭和十六年)独ソ開戦に伴い、その七月二十四日から九月十日にかけて行われた動員輸送の秘匿名であった。約三十万の兵力の急速対満移送が行われ、満鉄はこのため広汎に旅客貨物の制限、受付停止を行った。そのため七、八月の輸送は五月に比べて、旅客人員において約四割減、営業貨物において二割六分の減少を示した
    • [131]満鉄の鉄道収益力は、明治四十一年以来昭和十三年に至るまで、その収支比率は五〇%を超すことはなかった。満鉄がつぶれると騒がれた昭和六年においてさえ、鉄道支出は鉄道収入の四四%を占めているに過ぎなかった。それが七四%に激落したのである
    • [132]港湾部門が初めて赤字にてん落したことも見逃し難い。満鉄経営の八港湾(大連、旅順、安東、営口、羅津、雄基、河北、壺芦島)における輸出貨物の量は、昭和十三年の七四二万瓲より十七年の四四一万瓲までに激減した
    • [133]十七年度における利息負担七千万円は、鉄道部門の利益約二億の三五%にも当る大きさであって、これが全体としての収益力に大きな圧迫となった
    • [134]昭和十三年にはこれらの増産計画が功を奏して出炭一千万瓲の記録をうちたてることが出来た。しかしこの年をピークとして、撫順炭の生産は低下の一途をたどり、九百万瓲台から六百万瓲台にまで落ちたが、その最大の原因は増産を強行するの余り炭層を被覆している頁岩層の剥離が遅れたことにあった
    • [135]昭和十二年 二、一一九、四〇二千円、昭和十八年 四、二三一、八八六千円。この六カ年間の増加額は二一億一二〇〇万円で、その八〇%迄が株金の徴収と社債の募集(一二億八百万円)によって賄われた

終戦による事業の停止と、中国長春鉄路への移管

1944年に入ると戦火が満洲へ及んだ。夏に鞍山が、冬に奉天が爆撃を受け、海上交通が途絶えて貨客の陸路転換は避けられなくなった[136]。会社は京義・安奉・奉山各線の複線工事を進め、資材を回すために大石橋・二十里台間193粁の軌条と橋梁を撤去して単線に戻し、安奉線の複線化は終戦の直前に終わった[137]。大陸中継輸送の激増で貨車が朝鮮と華北へ流出し、この年の末には使用可能な車輛が2,000両を割った[138]。炭質の悪化、給水の困難、小運送機能の低下、稀有の酷寒が重なるなかで1944年の輸送は7,900万瓲を成し遂げたが、計画の8,800万瓲には届かなかった[139]。1934年から大連・新京間を走っていた特別急行アジア号も、この年に運転を休止した[140]

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [136]昭和十九年に入って戦局は急激に悪化した。この夏には鞍山が、次いで冬には奉天が爆撃を受け、開戦以来初めて戦火が満州に波及した。海上交通は杜絶し、貨客の陸路転換は不可避となった
    • [137]京義、安奉、奉山各線の複線工事が進められ、資材転用のため本線の一部さえ軌条を撤去して単線化された。一九四四年安奉線及京義線複線工事用として五十磅軌条獲得を目的として大石橋、二十里台間一九三粁の軌条橋梁を撤去し単線とした。安奉線の複線化は終戦の直前に完成した
    • [138]大陸中継輸送の激増は貨車の対鮮、対華流出を伴い、車輛不足が激化し、この年の末には使用可能の車輛が二千両を割るに至った
    • [139]炭質の悪化、給水の困難、小運送(馬車、自動車)機能の低下、更にこの年の冬満州を襲った稀有の酷寒等の悪条件が累積して、輸送の困難は言語に絶した。それでも十九年には七、九〇〇万瓲の輸送を成就し得た。計画の八、八〇〇万瓲には達しなかった
    • [140]一九三四年(昭和九年)三月一日から大連―新京間に特別急行列車「アジア」号が運転を開始した。その後太平洋戦争の進展に伴い、一九四四年にはこの「アジア」号の運転も休止せざるをえなくなったのであった

1943年7月に小日山直登総裁が、1945年5月には山崎元幹総裁が就任した[141]。1945年1月20日の臨時株主総会で会社は10億円の増資を決議し、閉鎖指定日までに7,017万689円が払い込まれたが、終戦と閉鎖機関の指定を受けてこの払込金は出資株主へ返された[142]。1945年度に入ると本土決戦方針に応じる関東軍の兵力転用輸送が続き、一般物資の国内輸送は月300万瓲へ落ちた[143]。作戦方針が満洲内の自戦自活体制の確立へ切り替わると社員にも根こそぎ動員がかかり、数万の社員が北辺へ配置された[144]。6月に東南開発計画と地域自体防衛計画が発表され、関東軍司令部の通化移駐に満洲国と会社の首脳部が随行した[145]。8月9日午前3時のソ連軍による新京爆撃を経て、15日に終戦の詔勅が発せられた。工事の終わらなかった建設線は9線を数える[146]

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [141]一六 小日山直登 昭和一八、七 昭和二〇、四/一七 山崎元幹 昭和二〇、五 昭和二〇、九
    • [142]満鉄は昭和二十年一月二十日の臨時株主総会に於て二万株、十億円の増資を決議し、内地側一般株主の申込証拠金八一二五万円の払込取扱を日本興業銀行に委託し、閉鎖指定日までに払込まれた金額は七、〇一七万六八九円にのぼっていたが、終戦と閉鎖機関指定のため、これらの払込金は夫々出資株主に返済した
    • [143]二十年に入ると年度初めから、本土決戦方針に対応する関東軍の兵力転用輸送が行われ、これが民生、産業方面に与えた影響は深刻なものがあった。一般物資の国内輸送は月三〇〇万瓲に低下した
    • [144]策戦方針は満州内における自戦自活体制の確立に切りかえられ、従来戦力として温存されていた満鉄社員にも根こそぎ動員が実施され、数万の社員が銃も持たず北辺に配置された
    • [145]昭和二十年六月には東南開発計画と地域自体防衛計画が発表され、関東軍司令部が通化に移駐したために、満州国、満鉄の中心首脳部はすべてこれに随行した
    • [146]同年八月九日午前三時ソ連の新京爆撃があり、同時に数カ地点から地上軍の進攻を見た。かくて八月十五日には終戦の詔勅が発せられた。終戦のとき工事未了に終った建設線は九線であった

1945年8月27日、中ソ両国は中ソ友好条約と中国長春鉄道および大連湾に関する協定を結び、連京線以南の諸線は中ソ合弁の中国長春鉄路へ移った[147]。浜綏・浜州の両線はソ連軍が直接管轄し、長春の本社にはワシリエフ少将が、奉天と哈爾賓には鉄道監が駐在した[148]。日本人社員は約8万人と推算され、このうち5万人が中長鉄路と旧満鉄系機関に吸収された[149]。会社の重役会は9月22日をもって解散したものと扱われた[150]。1946年2月末には中長鉄路の陣容が整い、理事長に張嘉璈、副理事長にカルギン中将が就き、山崎元幹総裁はソ連側顧問の最高顧問となった[151]。社員は在留邦人の都市集中輸送に当たり、送還者は1946年度の101万4,394人を含めて104万6,954人に上る[152]。1947年7月、山崎元幹総裁が新京から奉山線経由で帰国した[153]

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [147]八月二十七日には中ソ両国の間に、中ソ友好条約と中国長春鉄道及び大連湾に関する協定が締結され、連京線以南の諸線は中ソ合弁の中国長春鉄路となって転身した
    • [148]当初は浜綏浜州線は直接ソ連軍の管轄、他は哈鉄局が運行に当り、南満地区は奉天のパルホメンコ少将が指導に当った。長春の満鉄本社にはワシリエフ少将が駐在、奉天と哈爾賓に鉄道監が駐在した
    • [149]この時の日本人満鉄社員は総数約八万人と推算されたが、この間五万人が中長鉄路と旧満鉄系機関に吸収された
    • [150]満鉄は、昭和二十年九月二十二日をもって重役会は解散したものと看做され
    • [151]翌二十一年二月末には中長鉄路幹部の陣容も次の如く整った。理事長 張嘉璈、副理事長 カルギン中将。この時日本側のソ連側顧問も左の如く発表された。最高顧問 山崎元幹
    • [152]このとき以降社員は、邦人の内地送還のための都市集中輸送に全力を尽した。満蒙同胞援護会の資料によれば、昭和二一年度 一、〇一四、三九四人、同二二年度 二九、一八八人、同二三年度 三、三七二人、計 一、〇四六、九五四人
    • [153]二十二年七月満鉄最後の総裁山崎元幹が、新京より奉天経由の奉山線経由で帰国の途についた
  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [136]昭和十九年に入って戦局は急激に悪化した。この夏には鞍山が、次いで冬には奉天が爆撃を受け、開戦以来初めて戦火が満州に波及した。海上交通は杜絶し、貨客の陸路転換は不可避となった
    • [137]京義、安奉、奉山各線の複線工事が進められ、資材転用のため本線の一部さえ軌条を撤去して単線化された。一九四四年安奉線及京義線複線工事用として五十磅軌条獲得を目的として大石橋、二十里台間一九三粁の軌条橋梁を撤去し単線とした。安奉線の複線化は終戦の直前に完成した
    • [138]大陸中継輸送の激増は貨車の対鮮、対華流出を伴い、車輛不足が激化し、この年の末には使用可能の車輛が二千両を割るに至った
    • [139]炭質の悪化、給水の困難、小運送(馬車、自動車)機能の低下、更にこの年の冬満州を襲った稀有の酷寒等の悪条件が累積して、輸送の困難は言語に絶した。それでも十九年には七、九〇〇万瓲の輸送を成就し得た。計画の八、八〇〇万瓲には達しなかった
    • [140]一九三四年(昭和九年)三月一日から大連―新京間に特別急行列車「アジア」号が運転を開始した。その後太平洋戦争の進展に伴い、一九四四年にはこの「アジア」号の運転も休止せざるをえなくなったのであった
    • [141]一六 小日山直登 昭和一八、七 昭和二〇、四/一七 山崎元幹 昭和二〇、五 昭和二〇、九
    • [142]満鉄は昭和二十年一月二十日の臨時株主総会に於て二万株、十億円の増資を決議し、内地側一般株主の申込証拠金八一二五万円の払込取扱を日本興業銀行に委託し、閉鎖指定日までに払込まれた金額は七、〇一七万六八九円にのぼっていたが、終戦と閉鎖機関指定のため、これらの払込金は夫々出資株主に返済した
    • [143]二十年に入ると年度初めから、本土決戦方針に対応する関東軍の兵力転用輸送が行われ、これが民生、産業方面に与えた影響は深刻なものがあった。一般物資の国内輸送は月三〇〇万瓲に低下した
    • [144]策戦方針は満州内における自戦自活体制の確立に切りかえられ、従来戦力として温存されていた満鉄社員にも根こそぎ動員が実施され、数万の社員が銃も持たず北辺に配置された
    • [145]昭和二十年六月には東南開発計画と地域自体防衛計画が発表され、関東軍司令部が通化に移駐したために、満州国、満鉄の中心首脳部はすべてこれに随行した
    • [146]同年八月九日午前三時ソ連の新京爆撃があり、同時に数カ地点から地上軍の進攻を見た。かくて八月十五日には終戦の詔勅が発せられた。終戦のとき工事未了に終った建設線は九線であった
    • [147]八月二十七日には中ソ両国の間に、中ソ友好条約と中国長春鉄道及び大連湾に関する協定が締結され、連京線以南の諸線は中ソ合弁の中国長春鉄路となって転身した
    • [148]当初は浜綏浜州線は直接ソ連軍の管轄、他は哈鉄局が運行に当り、南満地区は奉天のパルホメンコ少将が指導に当った。長春の満鉄本社にはワシリエフ少将が駐在、奉天と哈爾賓に鉄道監が駐在した
    • [149]この時の日本人満鉄社員は総数約八万人と推算されたが、この間五万人が中長鉄路と旧満鉄系機関に吸収された
    • [150]満鉄は、昭和二十年九月二十二日をもって重役会は解散したものと看做され
    • [151]翌二十一年二月末には中長鉄路幹部の陣容も次の如く整った。理事長 張嘉璈、副理事長 カルギン中将。この時日本側のソ連側顧問も左の如く発表された。最高顧問 山崎元幹
    • [152]このとき以降社員は、邦人の内地送還のための都市集中輸送に全力を尽した。満蒙同胞援護会の資料によれば、昭和二一年度 一、〇一四、三九四人、同二二年度 二九、一八八人、同二三年度 三、三七二人、計 一、〇四六、九五四人
    • [153]二十二年七月満鉄最後の総裁山崎元幹が、新京より奉天経由の奉山線経由で帰国の途についた

南満洲鉄道の沿革1906〜1945年における主な出来事を抜粋

年月総裁出来事重要度
後藤新平国営論と日米共同経営案の不採用、半官半民の特殊会社としての設立国が直に営むか、米国資本と分け合うか——ポーツマス条約第七条が閉ざした国営の道 詳細を読む★★★
後藤新平募集9万9000株に対する1億664万株の応募★★
後藤新平後藤新平の初代総裁就任★★
後藤新平設立登記の完了★★★
後藤新平勅令改正による本社の大連移転と東京支社の設置★★
後藤新平撫順炭鉱の採掘計画書に基づく経営着手★★
後藤新平鉄道と撫順・煙台炭坑の引継と大連本社での営業開始★★★
後藤新平野戦鉄道提理部からの安奉軽便鉄道の引継
後藤新平三呎六吋の狭軌から四呎八吋半への本線改築と、狭広軌併用による営業継続軍用の狭軌を使い続けるか、大陸の軌間に自らを合わせるか——命令書第二条が課した三年の期限 詳細を読む★★★
後藤新平大連上海間の定期航路開設★★
後藤新平地方経営の各要地に会社出張所を設置
中村是公本線と撫順・営口支線の全線広軌列車開通★★★
中村是公福金嶺隧道からの安奉線標準軌改築工事の起工
中村是公大連・蘇家屯間の複線全通★★
中村是公関東都督府の中央試験所を継承★★
中村是公煙台採炭所を営業坑として開坑★★
中村是公大連北沙河口の鉄道工場での全作業開始★★
中村是公大連埠頭と沿線31駅での正則の倉庫営業開始
中村是公標準軌に改築した安奉線の全線開通★★
國澤新兵衞総裁・副総裁の廃止と理事長の設置★★
國澤新兵衞朝鮮総督府管理の国有鉄道の受託経営と、鮮満両鉄道の一体運営自社線だけを持つか、他者の線を預かって回すか——所有せずに経営だけを引き受けた最初の契約 詳細を読む★★★
野村龍太郎理事長の廃止と社長・副社長の設置★★
野村龍太郎撫順龍鳳坑での大竪坑開鑿着手
野村龍太郎資本金の4億4000万円への増資★★
野村龍太郎コークス用原料として塔連坑の経営買収
川村竹治上海航路の経営を大連汽船へ移管
安廣伴一郎奉天に獣疫研究所を設立
仙石貢大連医院の独立経営への移行
内田康哉社長・副社長の廃止と総裁制への復帰★★
林博太郎満洲国国有鉄道の受託経営と、奉天への鉄路総局の設置所有せずに運営するか、自社線に留まるか──社線の三倍の国線を預かった委託経営 詳細を読む★★★
林博太郎奉天に鉄路総局を設置★★
林博太郎資本金の8億円への増資★★
林博太郎鞍山製鉄所を昭和製鋼所へ委譲★★
林博太郎朝鮮総督府から北鮮鉄道を受託★★
林博太郎特別急行アジア号の大連・新京間での運転開始★★
松岡洋右アジア号の哈爾浜までの延伸
松岡洋右南満洲電気の社債の肩替り引受
松岡洋右昭和製鋼所株75%など重工業持分1億890万円の満州国政府への譲渡五カ年計画の実行機関となるはずだった会社は、なぜ重工業から一切手を引いたのか 詳細を読む★★★
山崎元幹終戦後の全社員の職場確守とソ連軍管理の受け入れ、全事業財産の管理・使用権の引渡し軍も政府も消えた満洲で、8万人の従業員を抱えた会社に何が決められたか 詳細を読む★★★
山崎元幹重役会の解散★★★
出典・参考
  • 満鉄の概要 1934年版 二、會社の創立事情
  • 満鉄の概要 1934年版 一、滿鐵中心の外交
  • 満鉄の概要 1934年版 三、滿鐵と後藤總裁
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 會社の成立
  • 満鉄の概要 1934年版 五、擴軌及複線工事
  • 満鉄の概要 1934年版 六、安奉線の改築
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 第四章 会社の重役
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 第四章 会社の重役/満鉄の概要 1934年版 四、会社の組織 歴代主脳者表
  • 満鉄の概要 1934年版 四、会社の組織
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業 礦山
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業 礦山 販売
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業 海運
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業 港湾
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 第三編 会社の会計 第一章 概説
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業 油母頁岩
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 1937年 第三編会社の会計 第一章概説
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・鉄路総局)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・北鮮鉄道管理局)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・鉄路総局/北鮮鉄道管理局)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・市街経営)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・教育施設)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・衛生施設)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・地質調査所)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・中央試験所)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・産業調査所)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・農事試験場)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・商工施設)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(関係会社)
  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)

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